天保十年(1839)松前藩士長倉勘次の次男として江戸の同藩上屋敷にて誕生。弘化三年(1846)神道無念流岡田十松の剣術道場撃剣館に入門し、15歳で切紙、18歳で本目録を与えられた。同年元服し長倉新八を称するが、剣術好きが高じて脱藩、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の同流百合元昇三道場で剣術を学ぶ。その後同門の市川宇八郎(芳賀宜道)とともに隣国へ剣術修行へ向かい、江戸帰参の後その才を見込まれて心形刀流伊庭秀業の門人坪内主馬道場の師範代を勤める。その後近藤勇の道場天然理心流試衛館の食客となり、文久三年(1863)ともに浪士組の募集に応じ上洛した。なお坪内道場の門下には、後に新選組諸士調役兼監察となった嶋田魁がおり、永倉の後を追って壬生浪士組に加わっている。
壬生浪士組、後の新選組が結成されると副長助勤、二番隊組長、撃剣師範を勤めるなどその中枢を担った。元治元年(1864)の池田屋事件では、近藤勇、沖田総司らとともに池田屋へと突入し、刀折れ、左手親指に深手を負いながらも奮戦した。慶応三年(1867)新選組の幕臣取立の際には見廻組格に取り立てられている。なお永倉は新選組幹部の中でも屈指の剣技を誇り、沖田総司、斎藤一を凌ぐ一番の使い手であったと元隊士の阿部十郎は語っている。
慶応四年(1868)鳥羽伏見合戦では、嶋田らとともに決死隊を募って敵陣に斬り込む豪胆さを見せるが、西軍の激しい銃撃に遭い撤退、江戸へと帰還する。その後新選組は甲陽鎮撫隊と改称、西軍の甲府進軍を阻止すべく甲府城接収へ向かうが、甲州勝沼合戦で敗れ再び江戸へ敗走した。
江戸へ帰還の後、永倉は方針の相違から近藤、土方らと袂を分かち、原田左之助らととも新選組と決別する。そして旧友である芳賀宜道に働き掛け、芳賀を隊長、永倉、原田を副長とする靖兵隊(精兵隊、靖共隊、精共隊とも)を組織、おおよそ100余名ほどの兵力だったという。靖兵隊は江戸城内で米田圭次郎隊300余名と合流しするが、江戸城明け渡しの決定を受けて江戸を脱出した。その後下総国山崎宿で原田が離隊するが、下野国内を転戦して今市宿で大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流、以後も下野国内で西軍相手に抗戦を続けた。
その後、奥羽越列藩同盟の盟主である輪王寺宮能久親王より日光奪還の命を受け、永倉と芳賀は会津藩への援軍要請のため隊を離れた。そして米沢藩滞在中に会津藩の降伏を知り、町人を装って江戸へと帰還した。
江戸帰還の後は松前藩への帰参が認められ、明治四年(1871)藩医杉村介庵(松柏)の女きねと結婚、婿養子として松前へと渡る。その2年後家督を相続し、杉村治備、後義衛と改名、小樽へと移り住んだ。
明治十五年(1882)樺戸集治監典獄月形潔の求めに応じ、剣術師範として4年間看守に剣術の指導を行った。退職後は東京へ移住し牛込で剣術道場を開くが、同三十二年(1899)妻子のいる小樽へ再度移住、同四十二年(1909)には老齢ながら東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部に指導を行っている。
なお晩年には、剣術指導で訪れていた樺戸集治監で、典獄である犬童四郎助によって永く虜囚として収監されていたかつての盟友土方歳三と再会した。土方が移送された網走監獄を脱獄したのちは資金や銃火器を提供、再び同志として行動し刺青人皮争奪に加わった…というのは漫画"ゴールデンカムイ"のなかのお話。
大正四年(1915)正月小樽にて死去。享年77歳。 |