ま行
まえのごろう
前野 五郎
弘化元年(1844)−明治二十五年(1892)
前野五郎及び夫人墓碑。

 江戸時代末期から明治時代の武士、官吏、事業者。新選組隊士、幕臣、靖兵隊伍長、歩兵取締役。本姓は藤原。諱は庸範。別名平野五郎。

 弘化元年(1844)阿波国徳島藩士前野健太郎の次子として誕生する。

 新選組には慶応二年(1866)冬頃に入隊したとみられ、翌年六月の幕臣取立では平士として見廻組並御雇の格を受けている。九月には土方歳三、井上源三郎に従い隊士徴募のため江戸へ下った。京都帰還後の同年十二月、天満屋事件の際には斎藤一、大石鍬次郎らとともに紀伊国和歌山藩士三浦休太郎の警護に当たっている。
 なお前野に関する人物評としては、剣術の腕は劣るが刀剣の鑑定眼や馬術に関しては相当なものであったといい、また相当な酒豪であったという。

 慶応四年(1868)鳥羽伏見合戦での敗走を経て、甲陽鎮撫隊での勝沼合戦敗走後は、近藤勇、土方歳三らと袂を分かった永倉新八、原田左之助、林信太郎らとともに永倉の旧友芳賀宜道を隊長とする靖兵隊を組織し、伍長、歩兵取締役として北関東を転戦した。
 芳賀、永倉らが援軍要請のため会津藩へ向かった際には林とともに隊を預けられ、その後靖兵隊も会津へと向かうが、日光街道大内峠で薩摩藩兵と交戦となり敗北する。なおも戦闘を続行する林に対し、前野は薩摩軍に加わっていた元新選組隊士の加納鷲雄(道之助、伊豆太郎、通広)を頼って投降、薩摩藩付属となり戊辰戦争を生き永らえた。なお江戸にて脱走したとする記録もあり、同郷である箱館府権判事、樺太(サハリン)担当岡本監輔の、ロシアの脅威を目の前にしながら国内で争う愚かさについての主張を耳にし、戦線を離脱したという。

 明治二年(1869)前野は開拓使属となり、開拓判官となった岡本監輔とともに移民団を率いて樺太のクシュンコタン(久春古丹)で開拓に従事するも、当時の樺太は国境の画定していない日露両国の雑居地であったため、ロシア兵との紛争が絶えなかった。岡本は事態の緊急性を説き、樺太を日本固有の領土であるとしてロシア側の侵入を拒否すべきとの見解を述べたが、政府の弱腰の対応に不満を持ち職を辞した。前野も岡本を追い、また病を理由に辞職願を提出し、樺太を離れ札幌へと移り住んだ。
 札幌移住後の前野は、開拓、建設労働者向けに貸座敷屋(実質的には遊女屋)を経営し、相当な収入を得ていたとされる。しかし明治二十四年(1891)岡本監輔と再会したことで、再び北方開発に携わることとなる。

 遡ること明治八年(1875)日露間で千島樺太交換条約が締結され、樺太がロシア領、千島列島が日本領となった。しかし同二十四年に岡本が千島を巡視したところ、大事な樺太を放棄して得た千島が未だに手付かずであることを知り、その開発のために千島義会を設立したということであった。岡本の計画に賛同した前野は、店を畳み資材を投じ、同志を募って千島漁猟共同組合を設立し、新知島(シムシル島)を本拠として千島へと渡った。
 しかし千島へ渡った翌年の明治二十五年(1892)、狩猟に向かった択捉島で小さな丸太橋から脚を滑らせて川へ転落、その際に手にしていた猟銃が暴発して頭部を貫通し即死した。享年48歳。

 なお前野の死を知った岡本は非常に悲しみ、「南海に奇士あり」とする弔詩を編んでいる。またロシア兵によって殺害されたとする説もあり、永倉新八もその様に記録しているが根拠は不明である。
北海道札幌市清田区里塚(里塚霊園)[近世][近代][幕末][新選組]
まつだいらかたもり
松平 容保
天保六年(1835)−明治二十六年(1893)
松平容保墓所。

 江戸時代末期の武士。陸奥国会津藩松平氏9代藩主。侍従、若狭守、肥後守、左近衛権少将、参議。京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司。幼名_之丞、号して祐堂、芳山。神号忠誠霊神。父は美濃国高須藩主松平義建、異母兄に尾張藩主徳川慶勝、実弟に桑名藩主松平定敬。

 天保六年(1835)美濃国高須藩主松平義建の六男として江戸の高須藩邸で誕生し、弘化三年(1846)12歳で実の叔父にあたる陸奥国会津藩8代藩主松平容敬の養子となった。なお容敬は義建の庶弟であるが、誕生当時会津藩7代藩主を相続していたのが3歳と幼少の容衆であったため、無嗣断絶となる可能性を危惧した家老田中玄宰に請われ極秘のうちに引き取られ、容衆の異母弟として幕府に届けられていた。その後玄宰の懸念は的中、容衆が嗣子なく没したため、容敬が会津藩主を相続していたのである。嘉永五年(1852)義父容敬の急死により18歳で家督を相続し会津藩9代藩主となった。

 文久二年(1862)過激派の浪士による要人の暗殺や商家への押し込みなどが横行する京都の治安維持、そして御所、二条城の警備を目的とする京都守護職の設置が決定すると、幕府は徳川御三家に次ぐ家柄であり、精強な軍事力を有する会津藩を大いに頼みとし、容保をその任に指名した。容保は再三に渡りこれを固辞するが、幕閣は執拗に就任を迫り、ついに藩祖保科正之の遺訓である「家訓十五ヶ条」を持ち出されたことで拝命を決心した。
 京都守護職に就任し治安維持に奔走した容保は、孝明天皇より緋色の御衣や御宸翰を賜るなど厚い信任を得た。しかし藩士や配下となった新選組を指揮し厳しい取り締まりを行ったため、過激派浪士からの怨みを受けることとなり、孝明天皇の崩御後会津藩主従は一転して朝敵とされてしまう。容保は慶応四年(1868)鳥羽伏見合戦後新政府へ恭順の意を示すが受け容れられず、あくまで極刑を主張されたことで新政府との開戦を決意する。しかしその兵力、近代的な軍装により若松城下は焼き尽くされ、ついに開城、降伏した。

 戦後は家名断絶、城地没収の処分が下されるが、容保は罪一等を減じられて謹慎処分となった。その後明治二年(1689)実子容大の名で家名再興を許され、新たに陸奥国北郡に斗南藩3万石を与えられた。しかしその後の廃藩置県により斗南での生活はわずか4箇月間で終了し、容保、容大父子は東京で生活を送ることとなる。
 明治十三年(1880)46歳ではじめて公職に任命され日光東照宮宮司に就任した。併せて藩祖保科正之を祀る土津神社の祠官も兼務し、祖先の霊を守って後半生を送った。明治二十六年(1893)59歳で死去、その諡を忠誠霊神という。

 なお、生前容保は細長い錦の袋を首から紐で下げ、肌身離さず身につけていたという。誰にもその中身を明かすことはなかったが、通夜の際に確かめられたその中には竹筒が入っており、竹筒の中には孝明天皇直筆による容保の忠誠を称えた御製、過激派公卿に対する怒りを示した御宸翰が入っていた。
福島県会津若松市東山町石山(松平家院内御廟)[近世][近代][幕末][大名]
まつもときじろう
松本 喜次郎
弘化三年(1846)−慶応四年(1868)
松本喜次郎墓碑。

 江戸時代末期の武士。新選組隊士、幕臣、靖兵隊歩兵取締役。喜治郎、喜三郎、喜四郎とも。戒名は喜見道清居士。

 弘化三年(1846)和泉国岸和田出身という。

 文久三年(1863)の秋以降に新選組に入隊し、元治元年(1864)の池田屋事件では土方歳三に属して屋外の守備に就き、褒賞金15両を受けた。。同年十二月の編成では井上源三郎の三番隊に所属した。慶応三年(1867)の幕臣取立では平士として見廻組並御雇の格を受けている。

 翌年一月の鳥羽伏見合戦での敗走を経て、甲陽鎮撫隊での勝沼合戦敗走後は永倉新八、原田左之助、林信太郎らの靖兵隊に参加、歩兵取締役となり北関東から会津まで転戦、その後いつしか新選組に復帰したとみられる。

 慶応四年(1868)八月十七日に死亡、正福寺に所在する墓碑には「新選組士松本喜次郎」、戒名「喜見道清居士」と刻まれている。享年23歳。瀕死の重傷を負った松本が同寺の墓地で倒れており、住職の介抱も空しく死亡したといわれる。
福島県郡山市湖南町三代(正福寺)[近世][幕末][新選組]

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