館林市
トップさくらとおしろ群馬県館林市館林城
館林城
定番の館林城復元土橋門。
定番の館林城復元土橋門。
【所在地】 館林市城町
【別称】 立林城、尾曳城
【築城年】 文明三年(1471)頃、天文元年(1532)、弘治二年(1556)など諸説
【築城者】 赤井照光、赤井照康など諸説
【城主変遷】 舞木氏、足利氏[赤井氏](1532頃-1561)−上杉氏[足利長尾氏、広田氏](1561-84)−北条氏[南条氏](1584-89)−榊原氏(3代・1590-1643)−天領−松平(大給)氏(2代・1644-61)−館林徳川氏(2代・1661-83)−天領−松平(越智)氏(2代・1707-28)−太田氏(代・1728-34)−天領−太田氏(1代・1740-46)−松平(越智)氏(3代・1746-1836)−井上氏(1代・1836-45)−秋元氏(2代・1845-69)
【廃城年】 明治六年(1873)
【現状】 館林市役所ほか公共施設、公園
 築城年代、築城者は諸説あり明確でないが、文明三年(1471)古河公方足利氏と関東管領上杉氏とが争った享徳の乱で、足利氏に与した高師久が赤井文六(文屋六郎)、文三(文屋三郎)の居城立林(館林)城に籠もり、上杉氏によって攻略されたというのが資料上の初見である。
 また江戸時代に書かれた書物では、天文元年(1532)赤井山城守照光による築城とするものがある。それによれば照光は初め
青柳城を本拠としたが、享禄元年(1528)支城大袋城へと移り、更に同三年(1530)より新城の築城に着手、天文元年に完成した館林城へと居城を移したとしている。館林城の別称として伝わる尾曳城の名は、照光が築城した際、霊狐の導きにより城地を選定し、狐が尾を曳いて縄張を教えたという伝説からである。一方、青柳城にあった赤井照康(勝光)が弘治二年(1556)に築城し居城を移したとする伝承もある。
 何れの伝承も築城者の名は赤井氏が占めており、その一族の何者かが築城したのは間違いないであろう。

 赤井氏の出自も諸説あり、藤原北家小黒麻呂の後裔、秀郷流藤原氏佐貫氏の一族、河内源氏などと伝わるが何れも疑わしく、文屋康秀の後裔で、初め文屋姓を称していたと考えられている。
 現在の館林市周辺に当たる邑楽郡佐貫荘は、秀郷流藤原氏である佐貫氏の所領であったが、室町時代にはその庶流である舞木氏の支配下となっていた。赤井氏はその被官であり、永享十年(1438)の永享の乱では、舞木持広の配下に赤井若狭守の名が見られる。しかしその後舞木氏の勢力が弱まり、代わって赤井氏が佐貫荘を掌握したと見られる。
 前述の享徳の乱に於ける館林城落城(この館林城は大袋城を指しているともいわれる)後も、赤井氏は館林城を本拠とし、小泉城主冨岡氏らと協調して古河公方に与し、上杉氏に与した武蔵国忍城主成田氏らとしばしば合戦に及んだ。古河公方足利氏と関東管領上杉氏の和睦が成立して永享の乱が終結すると、それまで協調していた扇谷上杉、山内上杉両氏の間で長享の乱が起こり、この内紛で上杉氏の勢力は衰退、それを機に小田原城主北条氏の勢力が北関東へと拡大する。そして扇谷上杉氏が河越夜戦に敗れて滅亡、山内上杉氏がさらに北条氏の圧迫を受ける中、赤井氏や山内上杉氏家臣の多くが北条氏に服属していった。
 度重なる家臣の離反により関東支配を放棄せざるを得なくなった山内上杉憲政は、天文二十一年(1552)春日山城主長尾景虎を頼って越後国へと逃れた。景虎は永禄三年(1560)秩序回復を図る憲政を奉じて関東へと侵攻、翌年には上杉氏の名跡と管領職を譲渡され、上杉政虎(後に輝虎、不識庵謙信)と改名して北条氏と抗争を重ねた。そして永禄五年(1562)、館林城は上杉勢の攻撃により落城し、城主赤井照景は忍城へと逐われた後消息不明となり、遂に赤井氏は滅亡した。

 上杉氏の勢力下となった館林城は足利長尾景長が城主となるが、永禄九年(1566)武田晴信(徳栄軒信玄)が箕輪城を攻略するに及び、上野国東部の由良、冨岡、長尾氏らは古河公方に従う形で北条氏の傘下となる。館林城主を継いでいた長尾顕長(景長養子、由良成繁三男)も北条氏の支配下に加わるが、武田氏はさらに駿河国へ侵攻し甲相同盟は破棄され、それにより上杉、北条両氏は急速に接近、永禄十三年(1570)越相講和が妥結された。この講和を機に、輝虎は館林城を武蔵国
羽生城主広田直繁に与えたが、直後に直繁はいかなる理由か不明ながら自害(謀殺とも)し、顕長が城主として復帰、翌年の北條氏康死去によって越相同盟が崩れた後も自然に存続することとなった。
 天正十二年(1584)、顕長は兄の金山城主由良国繁と共に小田原城へと誘い出され、不用意にも出向いた2人は北条氏によって抑留される。その上で北条氏兵を起こし、金山、館林両城を明け渡すよう囲んだが、城兵の必死の防戦により落城は免れた。その後両将は解放され帰城したが、その条件に両城の明け渡しがあったものと見られ、国繁は
桐生城へと移り、顕長は北條勢を迎えて抵抗した末に足利へと移住した。

 北条氏勢力下となった館林城には、城主として北條氏規が任ぜられ、南条因幡守が城代として在城した。そして天正十八年(1589)、豊臣秀吉の小田原征伐が行われると、館林城は石田三成率いる1万9千の軍勢に囲まれる。三成は城を囲む城沼に木材を投じて二筋の攻撃路を作り、夜明けを待って一斉に城へ突入しようと計画するも、翌朝には道は水底に沈んで跡形もなくなっていたという。そこで降将北條氏勝に城兵の降伏を勧めさせ、ついに城明け渡しとなった。なおこの攻撃路が沈んだのも、城に祀られる稲荷明神の加護であったと言い伝えられている。

 小田原城征伐終了後、関東地方は徳川家康に与えられ、利根川を押さえる奥羽地方への要衝であった館林城には徳川四天王の一と称される榊原康政が10万石を以て封ぜられた。
 以後江戸時代を通じて館林藩8家17代の府城となり、秋元礼朝の代で明治維新を迎えた。なお寛文元年(1661)には、4代将軍徳川家綱の弟綱吉が25万石を以て入城し、館林藩の全盛時代を迎えている。しかし、延宝八年(1680)綱吉の5代将軍就任に伴い城主となった子の徳松が天和三年(1683)に夭折すると、綱吉の命で一時館林城は徹底的に破却されている。

 城沼に突き出した台地上に築かれた城館で、東から南側を囲む城沼を自然の外堀としている。現在の子ども科学館付近が本丸であり、往時は南東に櫓門が開き、東には二重櫓が建てられていた。この櫓の位置には、綱吉在城時代には三重天守が建てられていたという。本丸南には八幡郭が続き、本丸、八幡郭の西に現在市役所のある二の丸、文化会館のある三の丸が続いていた。本丸北側には尾曳(稲荷)郭、外郭、その外側にさらに総郭、加法師郭が続く広大な構えであったが、明治七年(1874)の大火でほとんどの建造物が焼失、また近年の開発で大部分の堀が失われてしまった。

 現在は三の丸北西に設けられていた土橋門と、それに続く土塀が復元されています。土橋門内には三の丸土塁及び蔀土塁が残っており、井戸も復元されています。なお土橋門は通用門として使用されていたそうで、正門は北東にあった渡櫓門の千貫門だったそうです。
 北関東への出張の際、位置的に館林市周辺は訪問し易いのですが、さすがに仕事の合間なので市内に残る遺構を見て廻ろう!という訳には参りません(>_<; 毎回どうしても定番の土橋門付近を見ただけで撤収となってしまうんですが、館林市史に市内の城館と併せて館林城跡の遺構も詳しく記載されているので、次回機会があれば綿密に下調べをした上で訪問したいと考えております。
 なお上記の説明文…過去に記載していたものを若干手直ししましたが、根本的に当時の関東情勢に疎いモノで、何ともレヨレヨした感じのままでございます。扇谷、山内上杉両氏や古河、堀越公方、上杉、北条、武田諸氏や在地の諸勢力の動きなどがもー訳ワカラン!となってしまうので、改めて勉強した上で修正したいと思っております…いつか(^-^;

【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「館林市史 特別編第4巻 館林城を中近世の遺跡」(館林市2010)

ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com