![晩生内1号チャシ跡標柱。](photo/kt_uu_osokinai1.jpg)
晩生内1号チャシ跡標柱。 |
【所在地】 |
樺戸郡浦臼町ヲソキナイ
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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娘が札幌で一人暮らしを始めてから半年、彼女の生活も落ち着いたということもあり、娘を北海道へ送り込んだ本来の目的の一つである”三毛別羆事件復元地"訪問を目的に渡航しましたが大雪予報のため断念(←ヘタレ)。第2候補であった月形樺戸博物館見学に行きました。
昼頃到着し、じっくりと3時間ほど見学に費やしてしまった我々、帰路も考えるとあとはそれ程離れていない空知集治監跡に立ち寄って帰るか…と思ったら、出口近くにあった周辺地図に"チャシ跡"、"坂本龍馬家墓所"の表示。こりゃ行かねばのうってことで訪問したのがこちらでした。前置き長い。
訪問したと申しましても、実際は画像の標柱を撮影しただけ。奥に進むと二重の堀跡が確認出来るとの情報だったんですが、雪を踏んで進むだけの装備ではなかったもので、遺構の確認はまた次回のお楽しみでございます。と言うか…、博物館で見た地図にはチャシ跡は1箇所しか描かれていなかったんですが、すぐ近くにあと3基あるって話ですからねー。技の1号があるってことは力の2号もあるって訳で、そちらも併せて再訪したいと思います。
なお、江戸時代初頭石狩川流域は石狩アイヌ(イシカルンクル、イシカラウンクル、イシカリの者の意)の勢力下にあり、その首長ハウカセが本拠地としたのが当地一帯であったという。ハウカセは石狩川流域からオタルナイ(小樽)からマシケ(増毛)に至る日本海沿岸部にも勢力を伸ばし、姉が嫁いだ雨竜アイヌとも協力関係を結ぶなど、道東の勢力メナシクル(東の衆)、胆振から日高の勢力シュムクル(西の衆)と並ぶ勢力であった。
寛文九年(1669)の寛文蝦夷蜂起、所謂シャクシャインの戦いの折には、ハウカセは一貫して中立の姿勢を崩さず、乱終結後松前藩がアイヌに対する制裁措置として交易途絶をちらつかせて屈服を求めた際もそれを一蹴するなど、気骨溢れる名将であったという。 |