栗原市
旧栗原郡若柳町(〜H17) |
トップ>さくらとおしろ>宮城県>栗原市>大林館
大林館 |
大林館跡付近。 |
【所在地】 |
栗原市若柳字大林中斎
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
二階堂維清 |
【城主変遷】 |
葛西氏[二階堂氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
宅地、耕作地 |
|
大林館主始祖として二階堂治部少輔維清の名があり、天正十八年(1590)孫の3代維昭の代に没落したと伝えられているため、創建は戦国時代頃であろうか。
二階堂氏は鎌倉時代、和田義盛家臣として三迫に封を得て当地に至り、その後葛西氏家臣として存続している。一族は三迫川流域に勢力を有し、沢辺館主として二階堂(沢辺)刑部常信、また元亀三年(1572)には梨崎館主として二階堂維房の名が見える。
廃線となったくりはら田園鉄道線、旧大岡小学校前駅と旧大岡駅の中間に位置し、旧軌道の南側に隣接していた。周囲と比べると若干の高台ではあるものの完全な平地館であり、往時は東西約180m、南北約80mの規模であったという。鉄道敷設前の大正末期頃までは、北側全面に高さ2mほどの土塁と、その外側に小舟を浮かべられるほどの池があったとされる。現在も西側に高さ2mほどの土塁、幅3mほどの水堀跡が見られるといい、往時の名残が窺える。
館跡は現在宅地となっているため遠巻きに周囲を歩きましたが、前述の土塁も確認することが出来ませんでした。旧若柳町の史跡指定も受けていた様ですが、特に解説板などの設置もなし…。訪問時はくりでんのおなごり乗車がメインだったため、次回は是非直接お宅訪問して遺構を拝ませて頂きたいものです。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>栗原市>田子谷館
田子谷館 |
田子谷館跡標柱。 |
【所在地】 |
栗原市若柳有賀字小館
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
戦国時代 |
【築城者】 |
菅原氏か |
【城主変遷】 |
大崎氏[菅原氏](1533-49)…葛西氏[渋谷氏]…伊達氏[守谷氏] |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
耕作地、山林、宅地 |
|
天文二年(1533)大崎氏家臣菅原太郎明長が有賀城より移り住み、同十八年(1549)御田鳥城へ移るまで居住したとされる。その後一時葛西氏家臣渋谷備前守重家が居住し、慶長年間(1596-1615)以降には伊達氏家臣守谷伊賀守貞成が居住したという。
高さ約30m、東西約220m、南北約80mの丘陵上に所在し、東西に並ぶ小館、大館と呼ばれる二つの平場が主要部分と考えられる。丘陵中央の頂部に置かれた直径約40mほどの円形平場、小館が本丸に相当し、西に隣接する直径約70mほどの円形平場が大館と呼ばれる二の丸となる。なお小館の東側にも空堀を挟んで平場が延びており、城館の一部であったものと考えられている。
その名も有賀字小館に所在しており、民家脇、主郭部入口脇に標柱が建てられています。
訪問時、福島ナンバーの乗用車に乗りぼろぼろのジーンズをまとった、心根は優しそうだが行動の怪しい人物(あくまで個人の予想)を見て警戒したものか、道路脇でお話しされていたお父さん二人が声を掛けて下さいました。そのお父さんがおっしゃるには、前述の民家は集落内の渋谷氏の本家(ご自身は分家筋)だったが現在は他の方がお住いになっている、館跡へは現在も道が続いており登城可能といったお話しでした。しかしだいぶ周囲も薄暗くなっていたので、今回は残念ですが遺構の確認までは至りませんでした。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>栗原市>新井山館
新井山館 |
新井山館跡遠望。 |
【所在地】 |
栗原市若柳字川南上堤
|
【別称】 |
若柳城、新山城 |
【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
源義家、千葉豊後守か |
【城主変遷】 |
源氏…葛西氏[千葉氏、畠山氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
山林、水道施設、八幡神社 |
|
古くは源義家の陣所であったとされ、その後葛西氏家臣千葉豊後守が居住したという。天正十六年(1588)気仙郡で葛西氏家臣浜田氏が叛乱を起こした際、鎮定軍の中に三迫新山城主畠山左馬允の名が見られるが、千葉氏との関連は不明であるという。
なお、この山は一夜にして出現したという伝説があり、その伝説から新井山と名付けられたという。
若柳の街並から西へ約1kmほど、迫川南岸の丘陵に築かれている、東西約150m、南北約130mほどの規模を持つ山城。高さ約30mほどの丘陵頂部、現在八幡神社や水道貯水池となっている東西約50m、南北約30mほどの平場が主郭部であり、その周囲は数段の土壇が取り巻いている。八幡神社裏手の北面には二重の大きな空堀が切られ、これが最大の遺構である。大手は南面の坂にあり、そこに数多くの人形を並べて敵を欺いたという故事から人形坂と伝承されている。また搦手は迫川へ臨む北面断崖の片隅に見られるといい、有事の際には水の手に繋がる重要な間道であったと推定されている。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>栗原市>福岡館
福岡館 |
福岡館跡付近。 |
【所在地】 |
栗原市若柳字福岡谷地畑
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
戦国時代か |
【築城者】 |
佐藤氏、高玉氏か |
【城主変遷】 |
佐藤氏…大崎氏[高玉氏]…(葛西氏[岩渕氏])… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
住宅地 |
|
築城年代、築城者は不明、館主として佐藤主水の名が伝わっている。また弘治二年(1556)大崎氏家臣高玉茂兵衛が有賀城より移り住んだともいわれる。さらに天正十六年(1588)、気仙郡で葛西氏家臣浜田氏が叛乱を起こした際、その鎮定軍の中に福岡邑住人岩渕刑部の名が見えており、この地に居住していたものとも考えられる。
廃線となったくりはら田園鉄道線、旧谷地畑駅北側一帯が館跡とされている。しかしその周囲は現在住宅地となっており、遺構は遺っていない。周囲は全くの平地なので、集落内に巡らされた用排水路には往時の堀の名残が見られるかもしれない。東西二十間、南北三十間の規模であったという。
「宮城県遺跡地図」に拠れば谷地畑駅の北側の様なんですが、周囲は住宅地となっているので迂闊に歩き回ることも出来ず、遺構は確認出来ませんでした。現在は谷地畑駅も無くなり、特に標柱なども建てられてはいないので位置も判り辛くなりましたね。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>栗原市>武鑓城
武鑓城 |
武鑓城跡。 |
【所在地】 |
栗原市若柳武鎗字町館
|
【別称】 |
武鎗所 |
【築城年】 |
戦国時代か |
【築城者】 |
武鎗氏 |
【城主変遷】 |
葛西氏[武鎗氏]…伊達氏[宮内氏ら]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
山林、耕作地 |
|
戦国時代に武鎗典厩重信が居城とし、葛西氏3代に仕えたという。武鎗重信は初め奈良坂又三郎を称したと見られ、別名として典膳、隼人助、剃髪した後は典歴入道、厩入道などと号した。
天正七年(1579)鶴丸城主富沢直綱が葛西氏に叛して磐井郡流庄へと侵攻、いわゆる富沢兵乱が起こると、重信は主家の防壁として奮戦し大いに功を挙げている。なおこの合戦で一族の武鎗左衛門は直綱に同心し、討死を遂げている。
天正十八年(1590)小田原城征伐不参を理由に主家葛西氏、隣接する大崎氏は改易となり、その所領は木村吉清に与えられることとなった。しかし吉清の苛政に大崎、葛西氏旧臣は反発、旧領全体を巻き込む大規模な一揆が勃発する。重信は弟儀信とともに一揆勢に加わるが、翌年伊達政宗の謀略により桃生郡深谷で殺害された。66歳であったという。
江戸時代、仙台藩領となった武鎗は城、要害に準ずる所拝領となり、宮内氏らが居住した。しかし宮内氏が所替となった後、在郷拝領へと形態が変わっている。
武鎗集落の北側丘陵上に所在し、旧有賀小学校裏山の東館と、谷を挟んだ安養寺裏山の西館に分かれている。東館は東西約400m、南北約150mの規模で、高さ約50mの丘陵頂部、現在耕作地として利用されている東西100m、南北約80mの平場が主郭部となる。主郭部東側の貯水槽脇に登路が付いており、標柱が建てられていたが現在は朽ちて倒れている。貯水槽から東へ僅かの場所に馬場と称される箇所があり、鳥居をくぐって進むと数段の壇、そして頂部に僅かな平場と小祠が祀られている。また主郭部西側に二の丸と見られる平場、そしてその南西、現在ゲートボール場、テニスコートとなっている小学校跡地が三の丸と見られ、藩政時代はここに居館が置かれたものであろうか。丘陵北側には東西に走る空堀を隔て、水堀が巡っていた。
また西館は東館の西側約100mに位置し、高さ約30mの丘陵上に東西約50m、南北約30mの平場とそれを取り巻く土壇が確認出来るという。
仕事で若柳を訪れた際、それ以前に友人O野寺のお父上から伺っていた情報で訪問したのが最初です。父上は武鎗出身とのことで、学校の上の山だと説明を受けた記憶がありますが、その当時既に学校はなくなっていたのでちょっと迷ったのを憶えています(^-^;
初訪問時には元気に屹立していた標柱も再訪時には倒れ、わたしも歳を取ったものだよ…と思いましたが、場所は憶えているモンですねぇ。O野寺の父上もだいぶご高齢なので、今度仙台に行く時はお土産持参で武鑓城について聞いておこうっと。 |
|
|
【参考文献】「仙台領内古城・館 第二巻」(宝文堂1973)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com |