仙台市青葉区
旧宮城郡宮城町(〜S62) - 旧広瀬村(〜S30) |
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葛岡城 |
葛岡城水堀跡。 |
【所在地】 |
仙台市青葉区郷六舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
馬場氏か |
【城主変遷】 |
国分氏[馬場氏]…伊達氏[馬場氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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築城年代、築城者は不明、城主として国分氏家臣(一族とも)馬場筑前入道清説(清設とも)の名が伝わる。なお、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦(上杉氏による最上領侵攻)の際、最上氏救援に向かった伊達氏国分衆の中に馬場右衛門の名が見える。
現在は宅地とその周囲の耕作地となっており、広瀬川に面した南西側3分の1ほどが失われたと見られている。画像左の宅地を主郭とし、主郭北辺西半及び東辺南半の土塁が確認出来、後者土塁上に標柱が建てられている。北辺土塁の外側には幅約10mの堀が水田として残り、この水田は宅地を取り囲むように北東で直角に曲がり、東辺南端で竪堀となって広瀬川へと落ちる。主郭の北西には堀を挟んで副郭があり、現在は氏神を祀る小祠があり、畑地として利用されている。副郭北西、画像正面右の茶色の民家脇にも低い土塁が残存している。なお副郭は堀に沿って北東辺まで続いていた可能性があり、また字館の地名は副郭を越えて北西約200m付近までを含んでいるため、さらに広大な規模を持つ城館であったとも考えられる。
訪問した際に周囲を見て、わたしでも直ぐに判るほど明確な土塁、堀跡が残っています。主郭の土塁は現在は一部を残すのみですが、往時は四周を土塁、堀で囲まれた造りであったろうと想像が出来ます。また、現在は盛り土をされて宅地(画像の茶色の家)や駐車場(白い車のあるところ)となっている堀の外側ですが、副郭の土塁を撮影させて頂いた際にお話を伺ったところ、以前は主郭より一段低い一面の耕作地だったとのことでした。
正直なところ当初はそれほどの期待もせず、行ってみたら標柱の根元が朽ちて木に立て掛けられている様な扱いの城館でしたが(一応真っ直ぐにして来ました…笑)、遺構はなかなか楽しめました。 |
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熊ヶ根城 |
熊ヶ根城跡土塁。 |
【所在地】 |
仙台市青葉区熊ヶ根町二番
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【別称】 |
古館 |
【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
六丁目氏か |
【城主変遷】 |
国分氏[六丁目氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地、宅地 |
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築城年代、築城者は不明、城主として国分氏家臣、国分盛重十二騎の一といわれる六丁目氏の名が伝わる。城跡北西に隣接する興禅寺は、元和二年(1616)六丁目氏の開基と伝わっており、熊ヶ根城廃城後に旧城主によって建立されたものと考えられている。なお六丁目氏に関しての詳細は不明である。
城跡は南に広瀬川を、東に青下川を望んだ段丘上に所在し、北には谷が入り込んでいるため、西を除く三方を崖に取り囲まれた舌状台地先端に築かれている。推定される規模は、民家となっている台地先端を東端とし、西端を現存する土塁までと考えると、東西、南北共に100mほどと考えられている。遺構としては前述の土塁が残るのみだが、南西から北東に掛けて約50mほど延び、北東角で南東へ直角に向きを変えて約15mほど続いている。土塁の外側、北西面に隣接する興禅寺との間には空堀があったが、現在は民家への通路と姿を変えている。
なお城跡中央を関山街道が貫いており、この街道が中世起源のものであると推定した場合、非常に重要な位置にあった城であることが判り、国分家中での六丁目氏の地位の高さが伺える。
標柱が建てられているのは知っていたので、まあ標柱ハンティングが出来れば良いか〜程度の気持ちで訪問しましたが、なかなか見事な土塁が残っていました。遺構の残り具合などは大したこと無いですが、上画像の右奥、土塁が切れる辺りから下を覗き込むと、青下川の流れからはなかなかの高さがあります。城内側から見て1.5〜2mほどの土塁が現存していれば、川側からの比高差は10mほどにもなるでしょうか。周囲が宅地となっているため見られる範囲は限られますが、往時はなかなかの要害だったのかな〜と想像出来ます。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第四巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「仙台市史
特別編7 城館」(仙台市2006) |
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