丸森町
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金山城 |
金山城跡本丸石垣。 |
【所在地】 |
丸森町金山坂町
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【別称】 |
金山要害 |
【築城年】 |
永禄年間(1558-70) |
【築城者】 |
井戸川将監、中島宗求 |
【城主変遷】 |
相馬氏[井戸川氏、佐藤氏、中村氏](1566-84)−伊達氏[中島氏](1584-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
公園、山林 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏要害の一。初めは相馬氏家臣井戸川将監によって永禄年間(1558-70)に築城されたという。
伊具地方は、戦国時代以降伊達、相馬両氏の境界として激戦が繰り返されていた。その発端は、伊達稙宗が隠居城である丸山城で永禄八年(1565)に死去した後、稙宗を庇護していた女婿の小高城主相馬顕胤が遺領をそのまま自家の勢力下に収め、金山城に井戸川将監、次いで佐藤為信、中村清忠を配したためであった。
天正四年(1576)以降、伊達輝宗は伊具地方奪回を図り毎年のように兵を送り、同九年(1581)の合戦では嫡男政宗が初陣を飾っている。そして輝宗隠居後に伊達氏の名跡を継いだ政宗により、天正十二年(1584)ついにに伊具郡諸城の奪還が果たされ、当地方はその合戦で最も功のあった中島伊勢守宗求に2千石を以て与えられた。
天正十六年(1588)宗求は相馬氏に対する備えとして城地の整備、拡張を行い、金山城は藩政時代以降も城に準ずる要害として存続した。そして中島氏は江戸時代を通じて所替なく、14代にわたって伊達領南部、相馬氏への備えとして金山要害を拝領した。
本丸は標高約117mの丘陵最高所に置かれ、東西約十五間、南北約三十三間の規模を持つ。本丸南面および大手口である東面、搦手口である西面にはそれぞれ石垣が組まれ一部が現存している。中島氏の居館はこの本丸に築かれ、北側には二層の櫓が築かれていた。本丸の周囲には腰郭が巡り二の丸と呼ばれていた。南東部に埋門、桝形が築かれ、また北西部にも石垣で築かれた埋門があり、つづら折を下りさらに埋門を過ぎると北麓の家中屋敷に至る。屋敷地の石垣が現在も道路両側に残り、武家屋敷の面影が偲ばれる。
実家から近いので何度か脚を運んでいますが、最近はとんとご無沙汰ですね…。石垣に孕みが生じ、ブルーシートが被せられていた時が最後の訪問だったかな?
現在は公園として整備されているので、かなり訪問し易い城館跡だと思いますが、真夏はかなり吸血されます。 |
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楯山城 |
楯山城跡遠望(Googleストリートビューより加工)。 |
【所在地】 |
丸森町舘矢間館山大門
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【別称】 |
大楯城 |
【築城年】 |
長元三年(1030)頃か |
【築城者】 |
平永衡か |
【城主変遷】 |
(平氏…源氏…武石氏…)細目氏…伊達氏…相馬氏…伊達氏[中島氏]… |
【廃城年】 |
天正十二年(1584)以降 |
【現状】 |
愛宕神社、山林 |
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平安時代には安倍一族の陣地であったという伝承があり、また長元三年(1030)頃に伊具十郎平永衡が築いたともいわれる。
永承六年(1051)の前九年合戦の後、源義家家臣左衛門尉忠安が居住したとされ、康平五年(1062)義家がこの地を訪れたという伝承が残る。鎌倉時代以降は亘理氏の祖である武石氏の居城となったともいわれるがはっきりとしない。
戦国時代伊具郡は伊達氏勢力下となり、楯山城にはその一族である田手宗求、細目修理亮らが居城した。その後天文の乱の結果丸山城に移った伊達稙宗の隠居料となったが、永禄八年(1565)に稙宗が死去すると、その遺領は稙宗を庇護した小高城主相馬顕胤によって勢力下に収めてられてしまう。それが元となり、比較的平穏であった伊達、相馬両氏の間は険悪となり、以後伊具郡では両氏の激しい争奪戦が繰り返された。天正四年(1576)以降毎年の様に兵を起こした伊達勢は、ついに同十二年(1584)伊具郡の奪還に成功、その後楯山城は使用されなくなったものか荒廃したという。
なお、城主細目修理亮が天文十五年(1546)に伊達氏に滅ぼされて以降荒廃した、とも伝わっている。
丸森市街地から阿武隈急行線丸森駅に向かう西側、その名も館山が楯山城跡です。道路わきに案内板が建っていますが、こちらの写真はあるのやらないのやら…。主郭部には愛宕神社がある様ですが、実はそこまで上っていません(^-^;
当時は仕事のついでで訪問していたもので、麓にある解説板で満足していたんですよねー(ある意味非常に真面目だった訳です)。なお多くの資料では名前が大楯城となっていますが、わたしは頑ななまでに楯山城としています。何故そこまで頑ななのか…、その理由は忘れましたが(笑)、確か解説板が楯山城だったような…? |
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鳥屋館 |
鳥屋嶺神社。 |
【所在地】 |
丸森町除北
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【別称】 |
丸森所 |
【築城年】 |
慶長六年(1601)か |
【築城者】 |
大條実頼か |
【城主変遷】 |
伊達氏[大條氏、佐々氏](1601-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
鳥屋嶺神社、宅地、耕作地、山林 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏所の一。慶長六年(1601)大條薩摩守実頼によって築かれたものか。
戦国時代、伊具郡は伊達、相馬両氏の勢力の接点となり激しい合戦が繰り返されたが、天正十二年(1584)以降は伊達氏の支配下に落ち着き、丸山城、金山城がその支配の拠点となった。しかし慶長六年(1601)、大條薩摩守実頼が当地を拝領し丸山城へ入るが、同年中にこの鳥屋館へと移住する。その後の天和二年(1682)、大條氏に替わって佐々伊賀守が拝領して以降は佐々氏代々が明治維新まで居住した。
なお近世仙台藩伊達氏の支城体制では、丸森は城、要害に準ずる所拝領であった。しかし元和六年(1693)、佐々伊織の陣代として只野良重が丸森要害を賜ったとする記録があり、一時期要害拝領となっている。これは鳥屋館(丸森所)が要害として扱われたものか、それとも江戸時代初期まで要害拝領であった丸山城が再び利用されたものであるかは不明である。
丸山城北麓、阿武隈川の河岸段丘上に築かれた連郭式の平山城で、丘陵東端に本丸、その西側に二の丸が置かれている。現在本丸はフェンスに囲まれた草地、二の丸は山林となっており遺構は判然としないが、郭を隔てる空堀が確認出来る。なお二の丸西側には延喜式内社の鳥屋嶺神社が鎮座している。
鳥屋嶺神社境内から二の丸、本丸までは公園風に造成され、本丸東側から阿武隈川の堤防へと至ります。前述の通り本丸はフェンスに囲まれており侵入は憚られ、東側が土塁状に見えましたが確認出来ず…。「仙台領内古城・館」には案内標柱が建つと記載されていますが、特にそちらも確認出来ませんでした。空堀遺構などは見応えがありましたので、案内板などを設置すればなかなかの公園になる気がしましたが、逆に林となっている二の丸の遺構が破壊されないためにはこのままの方が良いのかな…とも思いました。林だと虫嫌いのわたしは侵入出来ないんですけどね(^-^; |
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丸山城 |
丸山城本丸跡の伊達稙宗墓碑及び愛宕神社。 |
【所在地】 |
丸森町渕ノ上
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【別称】 |
丸森城、丸山(丸森)要害 |
【築城年】 |
天文十七年(1548) |
【築城者】 |
伊達稙宗 |
【城主変遷】 |
伊達氏[伊達氏](1548-65)−相馬氏(1565-83)−伊達氏[黒木氏、高野氏、大條氏](1583-1601)… |
【廃城年】 |
慶長六年(1601)以降 |
【現状】 |
愛宕神社、耕作地、山林 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一か。
伊達郡西山城を本拠とし、政略結婚によって陸奥、出羽国南部に大きく勢力を拡大した伊達稙宗は、天文年間(1532-55)初頭に三男実元の越後国守護職上杉氏への入嗣を決定し、更なる勢力拡大を図った。しかしその政策に対し、嫡男晴宗は伊達氏自身の勢力弱体化を招くとして対立、有力家臣の後ろ盾を得て稙宗を西山城へ幽閉し、これが南奥羽全体を巻き込んだ大乱、いわゆる天文の乱の幕開けであった。
当初は他家へ入嗣した男子や女婿の後援を受け稙宗方が優勢だったが、徐々に晴宗方への同調者が増えたため形勢は逆転、足利将軍家の仲裁もあってついに晴宗方優勢のまま乱は終息し、和睦の条件として稙宗は晴宗へ家督を相続し隠居することとなった。そしてその隠居城として、天文十七年(1548)に築かれたのがこの丸山城であった。
その後稙宗は、永禄八年(1565)に没するまでの十七年間を丸山城で過ごしたが、その死後に丸山城は新たな対立の火種となった。稙宗は晴宗より伊具郡内5箇村を隠居料として与えられ、女婿であった宇多郡小高城主相馬顕胤の庇護を受けていたが、稙宗死後その遺領を相馬氏がそのまま勢力下に収めたのである。それが元となり伊達、相馬両氏の関係は険悪となり、伊具郡はその争奪戦の舞台となった。
特に晴宗より伊達氏家督を相続した輝宗は、生涯相馬氏との合戦に明け暮れたと言って良いほどで、天正四年(1576)以降毎年の様に兵を起こしている。丸山城は城将として相馬氏家臣大河内外記が守備していたが、同十一年(1583)落城、そして翌年にはほぼ伊具郡内の諸城が制圧され伊達氏の手中へと帰している。
伊具郡奪還を果たした伊達氏は、天正十六年(1588)元相馬氏家臣で宇多郡黒木城主であった黒木宗元に丸山城を与えた。しかし翌年さらに宇多郡新地城、駒ヶ嶺城の攻略に成功すると、宗元を駒ヶ嶺城へ所替し、丸山城には高野壱岐守兼高が入城した。さらに慶長六年(1601)大條薩摩守実頼が拝領するが、同年中に大條氏が北麓の鳥屋館へ移住するに及び空城、廃城となり、その後主郭部に愛宕神社、伊達稙宗墓碑が建立された。
なお、近世仙台藩伊達氏の支城体制では、丸森は初期に要害拝領、その後所拝領となっており、その時期は高野氏が丸森要害から刈田郡平沢要害へ所替となって以降とされる。即ち、慶長六年(1601)までのごく短期間は丸山城が要害として存続したが、高野氏に替わって丸森へ入封した大條氏は所拝領であるため鳥屋館へ移住したものであろうか。また天和二年(1682)以降明治維新まで丸森所は佐々氏が拝領したが、元禄六年(1693)佐々伊織の陣代として只野良重が丸森要害を賜ったとする記録があり、一時期置かれたその丸森要害は丸山城、鳥屋館何れを指すものであろうか。
標高65mの丘陵上に築かれ、東西500m、南北250mの規模を持つ。本丸は丘陵頂部に置かれ、愛宕神社や先に述べた伊達稙宗の墓碑が建てられている。本丸の東側には二の丸、三の丸があり、それぞれ空掘によって隔てられて、周囲には数段の平場が見られる。
丸森町市街地から113号国道を金山方面に進み、内川を渡った南側にある丘陵が城跡です。国道沿に登城口への案内表示があります。大手口は北側にあるようですが、この東側の登城口しかよくわかりません…。途中まで車で登れ、そこからものの数分で本丸に至ります。
実家亘理町からも近い丸森町なので度々訪問しておりますが、最後の訪問時期は酷かった…藪蚊がぶんぶんで容赦なくカメラを構えるわたしに襲いかかります。夕立の来そうな天候だったので長居は出来ませんでしたが、それでも10数箇所喰われました…。その時は奥さんの車で訪問したので、虫除けなどの城攻めセットがなかったんですよねー。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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