新潟市秋葉区
トップさくらとおしろ新潟県新潟市秋葉区新津城
新津城
新津城跡標柱。
新津城跡標柱。
【所在地】 新潟市秋葉区(旧新津市)山谷町
【別称】  
【築城年】 鎌倉時代、天正元年(1573)
【築城者】 新津(金津)信資
【城主変遷】 金津氏[新津氏]…長尾(上杉)氏[新津氏]…
【廃城年】 慶長三年(1598)
【現状】 新津自動車学校、市街地
 築城年代、築城者は明確でないが、天正元年(1573)新津丹波守勝資が築城したとされる。しかし『中条文書』延元元年(建武三・1336)の記述に“金津保新津城”の名が見られることから、起源は11世紀半ばから後半、金津三郎越前守信資が新津氏を称して分家した頃と考えられている。


 新津氏は前述の通り清和源氏平賀氏流金津氏の支流であり、越後国の豪族城氏麾下に新津四郎の名が見える。その後越後国守護代長尾氏に属し、永正三年(1506)長尾為景に従う二十八将の中に新津越前守の名が見える。戦国時代には新津氏13代勝邦の女婿、丹波守勝資(実父山吉政久)が活躍、上杉氏重臣の勇将として川中島合戦のほか新発田の乱、小田原征伐、朝鮮出兵などほとんどの合戦に従軍している。なお本家金津氏の金津義舊は上杉謙信の養育係として知られる。
 慶長三年(1598)新津氏が主家上杉氏の会津若松城移封に従ったため新津城は廃城、勝資より文禄二年(1593)に家督を譲られた丹波守秀資(秀祐)は安田上総介能元の同心として二本松城へ入城した。なお秀資もまた養子であり、陸奥国安積郡一帯を領した安積伊東氏の一族、赤津弾正の次子で、関ヶ原合戦の前哨戦となる白河対陣にその名が見える。
 新津氏は上杉氏の出羽国米沢城移封後もそれに従い、以降江戸時代を通じて米沢藩士として存続し、慶応四年(明治元・1868)戊辰戦争の際に24代新津続宗が越後国長岡城攻防戦で戦死している。


 新津城は土塁を巡らせた一辺約90mの方形館で、周囲を幅約8mの堀に囲まれていたという。館跡は近年まで堀形の水田が巡らされた一段高い畑地として確認出来たというが、現在は新津自動車学校の敷地となり破壊されている。


 新津自動車学校西側に標柱が建てられていますが目立ちません(笑) 「日本城郭大系」には教習所北東角に土塁と堀の一部が名残を留めるとありますが、何も確認出来なかったのはやっぱりわたしの目が節穴なのだろうか?新津は会津からも行きやすいのでまた確認に行ってみます。
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東島城
東島城跡標柱…考えずに感じて下さい。
東島城跡標柱…考えずに感じて下さい。
【所在地】 新潟市秋葉区(旧新津市)東島
【別称】  
【築城年】 室町時代か
【築城者】 新津氏か
【城主変遷】 金津氏[新津氏]…長尾(上杉)氏[新津氏]
【廃城年】 慶長三年(1598)か
【現状】 新津カントリークラブ
 築城年代、築城者は明確でないが、北西約2.8kmには新津城、そして北西約1.8kmには程島館が直線上に並んでおり、何れも中世に当地に勢力を有した新津氏に関連したものと考えられている。新津城は新津氏の平時の居館、程島館はその家老の館そして東島城の控えと考えられており、東島城は有事の際の詰城であったと考えられている。また城下には五泉、安田方面への旧道が通じており、街道を監視する任も果たしていたと考えられている。


 東西約450m、南北約300m、標高約107mの規模を持つ、通称要害山、城山と呼ばれる山城で、付近には城ヶ平、城見山、城ノ腰といった字名があったいう。城跡北側はゴルフ場建設に伴い破壊されたが、山頂には土塁、空堀の遺る本丸、それに続く二の丸が確認出来るという。


 休みの日にふらっと旧新津市の城館でも見に行くか…と自宅を出発しましたが、どうせ急ぐこともないから〜と職場の新しいチラシを持って行ったのが失敗…。新潟駅前のとある業者に訪問したら話し込んでしまい、出る頃は既に夕闇に包まれておりました(^-^; せめて1箇所くらいはと東島城に立ち寄りましたが、何とか標柱が確認出来るくらいの暗さになっており、登城は次回のお楽しみとなってしまいました〜。
 登城口からはそれほどの距離ではない様なので、今度旧新津市内のほかの城館と併せて再訪して参ります。

【参考文献】「日本城郭大系7 新潟・富山・石川」(新人物往来社1980)

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