吉見百穴で古代遺跡探検
2024年1月
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東松山駅 東口 |
埼玉県のほぼ中央に位置する比企郡吉見町には、横穴墓群と呼ばれる、丘陵の斜面に穴を掘って造られた古代の墓地があるんですが、今日はちょっとそこを探検してこようと思っているんです。目的地へのアプローチは、ここ東武鉄道東上線の東松山駅から。 |
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駅前の交差点を右折 |
駅前から路線バスを利用すれば、短時間で目的地まで運んでくれるのではありますが、少し時間は掛かっても、現地まではやっぱり歩いて行くのが一番。ぶらぶらと散歩しながら行こうと思います。
東松山駅の東口に出たら、先ずは左方向へ。頭上を覆うペデストリアンデッキに沿って歩いて行くと間もなく、信号機付きの交差点があるのでこれを右折します。 |
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県道249号線 |
この通りは県道249号線。駅前からこの少し先の、東松山駅入口交差点まで、全長僅か400m足らずの県道なんです。そしてこの県道沿いに進んで行くと、間もなく左手に大きくてきれいな池のある公園を見つけました。ちょっとだけ寄っていくことに。 |
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下沼公園 |
ここは下沼公園。澄んだ水が張られた池の畔にはサクラの木をはじめ、季節の花々が栽培されているらしいんだけど、如何せん今は真冬。花らしい花は咲いていません。ベンチに座って静かな池でも眺めながら、ゆっくり癒されていこうかなとも思ったけど、まだ散歩は始まったばかり。取り敢えず池の畔をひと回りして、先へと進む事にします。 |
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突き当りを右折 |
東松山駅前から通り沿いに歩く事、およそ1.5km。通りは突き当りのT字路になりました。ここは右方向へ。 |
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正面の丘陵は松山城跡 |
右折したそのすぐ先にある橋は、市野川橋。そして橋の向こう側に控える丘陵は、武蔵松山城跡。調べたところこの城は、後北条氏の家臣、上田氏の居城だったのですが、16世紀末に上田氏が滅亡し、その後の1601年に廃城となったのでした。 |
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市野川 |
橋の下を流れる川は荒川水系の市野川。この川を境に、埼玉県東松山市から埼玉県比企郡吉見町へと移ります。橋上から見下ろす風景は、ご覧の様に中々のどか。 |
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橋を渡ったら左折 |
市野川橋を渡り切ったら、左方向へと分かれる道に入って、そのまま川沿いに進みましょう。 |
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フェンスの向こうには何がある? |
間もなく右手に古く錆びた鉄製のゲートと、それに繋がるフェンスが見えて来ます。立ち入り厳禁アピールを感じさせる、廃墟感漂うこのロケーション。長いフェンスに囲われた向こう側は、前述の松山城があった丘なんですが、それにしてもここは一体何なんだろう・・・ |
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朽ち果てたフェンス越しに覗いてみると・・・ |
錆付いた鉄の門扉の間から覗いてみると、岸壁に彫られた多数の四角い穴を確認できます。一見、西洋の古城の様な建造物ですが、実はこれ岩窟ホテルと呼ばれた、ここ吉見町の嘗ての観光名物だったんです。 |
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岩窟ホテル |
その昔、地元の農家のある男性が、明治の末から大正の末までの20年余りを費やし、ノミなどの道具を使って手作業だけで、一人でこの建造物を造り上げたのでした。そしてその様子を何時も眺めていた近所の人達から、「アイツ今日もまた岩窟彫ってるよ」と言われていた事が、後に訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったんです。
やがてここは、前述の通り地元の観光名物となり、当初は其々の部屋の中まで見物できた様なのですが、経年の風化で朽ち果ててしまい、崩れ落ちる危険もあるために、現在ではご覧の様に閉鎖されて、立ち入り厳禁となったと言う訳でした。 |
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岩室観音堂 |
岩窟ホテルのすぐその先には、代々の松山城主も信仰したと言われる岩室観音堂があります。 |
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お堂の中へ |
現存するこの建物は、江戸時代の17世紀中頃に再建されたもの。崖を背にして長い柱などで高層の建物の床を支える、懸造(かけづくり)と呼ばれる、京都の清水寺などと同様の建築様式で建てられています。 |
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慎重にはしご段を上る |
建物の上層部分へと上ってみましょう。画像では分かり難いけど、このはしご段けっこう急で登り辛いんです。手摺を伝って慎重に。 |
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上層部に上って来ました |
因みにこの場所から西へおよそ700m、徒歩で10分ほどの場所に、真言宗智山派の龍性院という寺院があって、岩室観音堂はその龍性院の境内の外に建立されたお堂、つまり境外仏堂という事になるんです。 |
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洞穴の石仏 |
ところでこのお堂、松山城へと続く丘の岩壁を上手く利用して建てられているので、更にそんな地形を利用して、岩壁の洞穴2箇所には、88体の石仏がこの様に安置されています。 |
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四国霊場と同じです |
そしてこの石仏は、四国八十八箇所の仏像に倣ったものなので、ここを参拝すれば、四国遍路と同じご利益があるってワケなんです。 |
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胎内くぐり |
更にお堂裏手の岩壁の一角には、胎内くぐりもありました。この画像左側の岩に刻まれた石段を登って、画像の右側へと廻って下りて来ると、安産をはじめ色々な願い事を叶えてくれるんだって。 |
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ハート型の穴をくぐる |
石段を登り切った先の、岩の中心部に出来たハート形の穴。これが母親の胎内って事なんですね。 |
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Y字路を左へ |
岩室観音堂を過ぎると間もなく、行く手は左右2方向に分かれます。「吉見百穴」への指導標に従い、ここは左の道へ。およそ200m程前方では、丘の岩壁に多数の穴が開ているのが確認できます。 |
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吉見百穴 |
間もなく吉見百穴(よしみひゃくあな)に到着。管理棟の窓口で、入場料金大人300円を支払い中へ。冒頭でも記したように、ここは横穴墓群と呼ばれる古代の墓地なんです。 |
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よしみんがお出迎え |
管理棟の受付を通過すると、吉見町のPR大使、よしみんがお出迎え。イチゴは吉見町の特産物で、埼玉県内でもトップクラスの生産量なんですが、そのイチゴの妖精がよしみんなんだって。おでこの模様はイチゴの種じゃなくって、この百穴のイメージらしい。 |
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休憩室兼資料展示室 |
管理棟内には、休憩室兼資料展示室が設けられているので、古代遺跡探検の前に、先ずは予備知識を仕込んでおきましょう。 |
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横穴墓群は古代の墓地 |
それじゃぁ、いよいよ探検開始であります。
この吉見百穴は、6世紀末頃から7世紀後半にかけて造られたと考えられている横穴墓群。
・・・ってことは聖徳太子とか、大化の改新の頃の時代なんです。そして、本格的に発掘調査が始まったのは明治時代の中頃から。その墓穴の数は100穴どころか219穴。元は237基の墓穴が発見・発掘されていたそうなんだけど、幾つかは壊れてしまって、現在のこの数になったのでした。因みに発掘当初これらの穴は墓穴ではなくて、古代人の住居ではないかとも考えられていたんです。 |
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墓穴の数は219個 |
吉見町にはこの吉見百穴の他、黒岩横穴墓群と呼ばれる、同じ様な古代の墓地もあったりするのですが、調査状況や管理状態は、こちらの吉見百穴の方が遥かに整っています。
ではでは、ちょっと墓穴の中を覗いてみましょう。 |
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玄室内を覗いてみると |
玄室と呼ばれる墓穴内の空間には、棺を安置するための棺座というものが設けられています。そしてこの棺座の数は玄室内に一つのみだったり、または複数造られているものもあったりで、この事から一つの墓穴の玄室内に、複数の遺体が埋葬されていた事が分かります。 |
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棺が安置されていた棺座 |
これ等の横穴墓に葬られていたのは、この辺りの地域を治めていた有力者やその家族だったのではないかと考えられています。また発掘調査時には、勾玉や土器、太刀など数多くの副葬品が出土しています。
ところで何故この地に、こういった大規模な横穴墓群が造られたんでしょうか? |
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掘削時の加工痕 |
施設の説明資料によると、この地域一帯には凝灰質砂岩という加工や掘削のしやすい岩盤が広がっていて、この土地が墓穴を掘るのに適した場所であるという事を、当時の人達が発見し理解したからなんです。
この画像は、墓穴が掘られた時の岩盤の一部。施設内に展示されているものなんですが、当時は斧やのみ等を使って、手作業で墓穴を掘ったので、その傷痕が岩の表面に確認できます。 |
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吉見百穴ヒカリゴケ発生地 |
この横穴墓群のうち、ほんの一部の墓穴内には、とても珍しいヒカリゴケと呼ばれる苔が自生しているんです。一般的にこの植物は、日本国内では中部地方より北側で、標高の高い山地などに分布するとされているため、この場所の様な平地に自生する事はとても珍しく、東京都の皇居に隣接した旧江戸城跡のヒカリゴケ生育地(非公開)などと共に、国の天然記念物に指定されています。 |
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横穴墓内のヒカリゴケ |
主に暗くて湿った場所で自生するこの苔、なぜヒカリゴケと呼ばれるかというと、外から入って来る僅かな光を、レンズ状の細胞が受け止めて反射する事で、黄緑色に淡く光って見えるからなんです。 |
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地下軍需工場跡 |
吉見百穴には、このヒカリゴケの他にも必見のものがあります。それが、太平洋戦争末期の昭和19年末から20年の初めに造られた、この地下軍需工場跡。折しもこの時期、戦況は悪化の一途を辿り、アメリカ軍の本土空襲も激化して行きます。 |
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現在は立ち入り禁止です |
当時、日本軍の軍用機を開発・製造する国内最大メーカーであった、中島飛行機の多くの工場も、アメリカ軍の戦略爆撃によって破壊され、その生産能力が著しく低下したため、爆撃の被害が及ばない地下に代替の工場を造る事が計画され、そんな訳で掘削に適した吉見町のこの丘陵地帯に白羽の矢が立ったのでした。
その軍需工場跡の中に入って、奥までゆっくり見て廻りたかったんですが、残念ながら現在は崩落の危険もある事から、ご覧の様に立ち入り影禁止になっていました。 |
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中を覗くとこんな感じです |
やむなく、鉄柵の間にスマホカメラのレンズを押し付けて撮影したのがこの画像。
最初に寄って来た資料展示室の説明資料によると、この巨大なトンネルを掘削して、昼夜を問わない突貫工事に携わったのは、国内から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者の人達。そしてそのお陰もあって、軍用機の部品製造がなんとか始められるまでにはなったのですが、軍需工場として本格的に稼働する前に終戦を迎えたのでした。 |
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軍需工場内 (平成19年9月撮影) |
洞窟内が立ち入り禁止で、内部の様子がイマイチ伝わらないので、以前まだ内部に立ち入る事が出来た頃、ここを訪れた時に撮影した写真を貼り付けておくことにしました。
内部は幅4m、高さ2.2mのトンネルが、幅約190m、奥行95mの範囲で、碁盤の目の様に掘削されている、巨大な地下軍需工場だったんです。 |
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頂上へ |
直径1mほどの墓穴が整然と並ぶ丘には、傾斜が45度ほどの斜面を、観覧しながら巡回できるように石段が設けられていて、それは頂上へと続いています。
こりゃぁ登らないワケにはいかないって事で、高さおよそ50m程の登山開始。 |
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見晴らし台 |
丘陵の頂上近くまで登って来ました。実は頂上よりもほんの少しだけ下の場所に設けられた、この見晴らし台の方が眺望抜群なんです。 |
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雪を頂く浅間山 |
見晴らし台からは東松山の街並みの向こうに、奥多摩や秩父の山々、そして富士山も眺められます。真冬で晴天の今日、この澄んだ空気の中、北西方向の遥か向こうには雪を頂いた大きな山が。あれは上州と信州を跨ぐ名山、活火山の浅間山です。 |
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市野川橋 |
今日の遺跡探検のミッションも、これで完了しました。そろそろこの辺で、スタート&ゴール地の東松山駅へと戻る事にしましょう。
前方に見えて来た橋は、来る時にも渡って来た市野川橋。 |
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百穴を望む |
市野川橋の橋上から振り返って眺めると、吉見百穴の全容を望むことが出来ました。 |
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レンガ造りのステーションビル |
吉見百穴をあとにして、往路をそのまま戻ることおよそ2km。古代遺跡の探検を終えて、東松山駅のレンガ造りのステーションビル前に無事帰還です。 |
★交通 |
東武鉄道東上本線 東松山駅下車 |
★歩行距離 |
約 5.0 km |
周辺地図
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