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 秋田県がんばる農山漁村応援サイトより記事を抜粋させていただきました。

 狙半内(さるはんない)自治会は、上畑(かみはた)集落や滝ノ下集落を含めた狙半内地域、各6集落から選任された人でつくられた組織です。
 主な役割は、地域にある山林などの共有財産の管理、集落への公共施設や事業の補助金、狙半内地域から出された要望の処理、また市役所に対しての相談や陳情などです。会長の奥山良治さんは自治会の理事を9年間務めた後、平成20年(2008年)に副会長に就任し、平成22年に前会長が退任したことにより会長になりました。

 会社員として過ごしてきた奥山さんは、50代の頃から退職後の生活について考え始めていました。地元で農家を営み、地域のために役に立ちたいと思うようになったそうです。
 退職後、上畑集落にある自宅で農業を始めた奥山さん。会社員の頃から構想を温めていた「やわらかく」「アクの無ない」「ねばる」「太い」ワラビづくりを目指し、10年の歳月をかけて栽培に成功しました。
 減反した田んぼや自宅の裏など、一部には桑の木も植えているワラビ畑からは、春になると一斉に沢山のワラビが生えてきます。あく抜きなしで生のままかじっても美味しいワラビは、奥山さん自慢の一品です。

 上畑集落や各イベントなどにも積極的に顔を出し、色々な仕事を引き受ける奥山さんですが、会社では生産ノルマ・コストと色々苦労させられることが多かったと言います。「おかげで今は、何をやっても苦痛に感じない。会社では組織のため、言いにくいことまで言わなければいけなかったが、今では人と腹を割って本音で話せるというのは本当に幸せだな」と奥山さんは語ってくれました。

 地域は人口が少しずつ減り、空き家が増えています。奥山さんは「この地域に一番ふさわしいものは?」と常に思い、「時代に合わせた考え方を」と、地域の良さを活かしてアピールしていきたいと考えています。

 そんな奥山さんは地域の名人! としての一面もあります。実は48歳頃から始めた民謡の名人であり、日本武道館での全国大会に秋田県代表として出場し、優勝したこともある凄腕。現在も秋田県民謡協会の公認講師をして活躍しています。

 
良治さんが長年あたためてきた狙半内史が少しずつ出来上がってきたようですので紹介します。 まだまだ歴史は続きます(制作途中です)
 


 
平      成 昭           和  明治時代 江戸時代 平安時代 大和時代
                           二七      二六                  二五    二四    二三    二二    二一    二〇    一九    一八    一六   一二     五     三 平成  一  五十九  五十八  五十七  五十五  五十四  五十三  五十一  四十九  四十八  四十七  四十六  四十五  四十四  四十二  四十  三十九  三十八  三十五  三十三  三十二  三十一  三十  二十九  二十八  二十七  二十五  二十四  二十三  二十二   二一   二〇   一八   一七   一六   一四   一三   一二   一一    九 昭和  三 大正 一二 大正 一〇 大正  九 大正  七 大正  六 大正  五 大正  四 大正  二 大正  元   四〇  三十四  二十七  二十五  二十二  二十一   二十   一七   一六   一二   八 明治  元 嘉永  四 天保  四 文政  八   一五 享保  八 享保  五 元和  元 斉明  四 大化  元 推古  元 増 田 町 狙 半 内 史 表
                           
                        二〇一二 二〇一一 二〇一〇 二〇〇九 二〇〇八 二〇〇七 二〇〇六 二〇〇四 二〇〇〇 一九九三 一九九一 一九八九 一九八四 一九八三 一九八二 一九八〇 一九七九 一九七八 一九七六 一九七四 一九七三 一九七二 一九七一 一九七〇 一九六九 一九六七 一九六五 一九六四 一九六三 一九六〇 一九五八 一九五七 一九五六 一九五五 一九五四 一九五三 一九五二 一九五〇 一九四九 一九四八 一九四七 一九四六 一九四五 一九四三 一九四二 一九四一 一九三九 一九三八 一九三七 一九三六 一九三四 一九二八 一九二三 一九二一 一九二〇 一九一八 一九一七 一九一六 一九一五 一九一三 一九一二 一九〇七 一九〇一 一八九四 一八九二 一八八九 一八八八 一八八七 一八八四 一八八三 一八七九 一八七五 一八七二 一八五一 一八三三 一八二五 一七三〇 一七二三 一七二〇 一六一五 (七世紀後半) 斉明  四 大化  元 推古  元
                       狙半内で五月 光回線開通  中村の高橋商店が一月で閉店  共助運営体がふるさとづくり大賞受賞
  総務省 
 横手市四共助組織が
 上畑橋からゆうらくまでの拡幅工事が始まる  四年連続の豪雪 三mを超える
 十二月十四日一mの積雪
大木が倒れ 滝の下集落
孤立
 共助運営体を先頭に冬期間シャトルバス運行   良治日本武道館で民謡部門優勝
 7月の豪雨で与助の下の丸木橋が十二年ぶりに流される 雪が5月中旬まで残り 農作業が遅れる 共助運営体と
マルシメのシャトルバス運行締結
  狙半内自治会
を主として湧き水 天冷水
 完成
 通院買い物支援 雪下ろし支援を行う   狙半内共助運営体設立 会長 奥山良治
 滝の下地区でドコモの携帯電話開通  湧き水が水質検査で水質基準に適合の書類受け取る  狙半内自治会で検討している小栗山 中村間の  三メェトルを超える 二月一四日  昨年を上回る豪雪 上畑の桜公園で積雪  福島第一原子力発電所事故 放射能漏れ  三月十一日 東日本大震災  県南地区豪雪被害  上畑奥山の長一氏が栽培をやめる。  狙半内地区で最後まで たばこ栽培をしていた  上畑と滝ノ下地区で非営利活動法人サルパ結成  祝日の変則運行 一日三往復に変更する  上畑線バスが赤字路線のため 火 木 土  狙半内診療所廃止 横手市議案第二十号  上畑地区の墓石が落ちたり欠けたりの被害  六月十四日発生の岩手 宮城内陸地震  上畑と小栗山にドコモ携帯電話開通  平成十八年豪雪  上畑桜公園にする 上畑山神社下  上畑会館の横に山桜八本と枝垂桜四本を植林し  元祖狙半内幻灯開始 狙半内地域センター  上畑温泉 さわらび 開店  上畑温泉 ゆうらく 開店  増田町農協と西成瀬中央農協合併  上畑地区で温泉ボウリング成功  東京で狙半内川筋会結成 狙半内出身者  増田東小学校の樹木自然観察園完成  五月二六日 日本海大地震  羽後交通のバスが冬期間も上畑まで運行開始  天下森スキ 場開設  増田東小学校として発足  上畑小学校と小栗山小学校が統合し  狙半内線 町道拡大舗装 完成  木材価格が一番高値のピークになった  狙半内川に掛る六の木造橋が流される  大雨で狙半内川が増水し 田畑が冠水と床下浸水               木材価格が秋頃から上昇する  日本専売公社東成瀬葉たばこ取扱所が解体 H誌  旧水沢線 増田線開通  無償譲渡開始  増田町西成瀬財産区の山譲渡  六月二一日 狙半内各集落に入会林野の山を個人に  ジューキ電子工業と吉野製作所が誘致された  統合増田中学校完成 実質統合完了  十一月二十日 上畑小中学校完全給食  この頃までは茅葺屋根が多かった  町営外畑牧場に放牧がはじまる  増田中学校として発足  上畑 西成瀬 増田の三中学校を統合し  町営外畑牧開設  東成瀬村地震  町営外畑牧場完成  この頃から狙半内で蚕を飼う家が少なくなる  真人発電所廃止  青年学級開設  上畑小中学校に滝ノ下 上畑 火石田地区の  一月二十日 小栗山小学校完全給食  第一回町民運動会が行われる 九月六日  増田町観光協会発足  狙半内診療所中村に設置 増田町条例第一四号  西成瀬財産区設置  関する陳情書を狙半内自治会長 高橋亀吉宛に提出  小栗山小学校普通教室費地元負担金額の借用に  吉乃鉱山休山となる  戸波 羽場地区が増田町に編入  羽後交通のバスが夏期間のみ 上畑まで運行  この頃から若勢小屋がなくなる  四月八日秋田県議会議長より不採択の通知  県議会に陳情する 一月二六日  ことに決議するとして 狙半内自治会名で  狙半内と湯ノ沢自治会が東成瀬村と合併する  増田町 西成瀬村が合併し 新増田町誕生  上畑小学校独立 現在 なまず養殖  として創業  同二九年に田子内の2名が買収し 大橋製材所  小栗山の人が東成瀬村の大橋に動力製材所を設立  真人公園が秋田観光三十景に選ばれる  パチンコ大流行 増田で十二軒あり  谷地以南 菅ノ台まで電気がついた H誌  西成瀬農業協同組合設立  増田町農業協同組合 西成瀬中央共同農業組合  滝の下 上畑 火石田に電気がついた  狙半内自治会発足  中村の高橋呉服店 高橋三郎 開店  狙半内に国有の山に入植がはじまる  滝の下 上畑 火石田に電柱 電線工事  新制中学として独立させた  六三三制実施 小学校は六年迄とし 高等科を  増田農蚕学校が増田高等学校に昇格  急に増加した  外地引揚者 復員軍人の帰還相継ぎ人口が  の主題歌リンゴの唄が大ヒットする  増田町のりんご園で撮影された映画 そよ風  B二九土崎爆撃の帰途 吉野鉱山に爆弾投下  町立増田実科高等女学校を県立増田女学校と改称  二月二一日 主食及び生活必需品の東征配給実施  出征軍人の歓送迎が盛んとなった  この頃には既に中村地域まで電気があった M史  ソリを引く人の長さは一集落を超える長さであった  この頃から狙半内地区で田子内までソリで納めた  できた H誌  田子内に日本専売公社東成瀬葉たばこ取扱所が  十月十五日 小栗山小学校独立 新築落成  この頃からリヤカァが出始める  吉野に西成瀬役場を新設する  東北地方大冷害 県内大凶作  二八日開舘式 超世界的名映画 第七天国 上映 十月二五日 増田の昭和館 映画 竣工 岩井川愛林組合が結成 H誌  小栗山小学校の文教場とする  山神社の下 小栗山小学校独立 上畑文教場を 田子内 岩井川に電灯がついた H誌  初代会長高橋宗次郎 小栗山 狙半内労働組合記録 狙半内村に狙半内労働組合設立 官公造林 四月経済恐慌起こる 失業者続出で人身売買流行 椿川愛林組合と成瀬愛林組合創設 H誌 このころ養蚕組合が西成瀬村各地につくられた 真人公園完成 西成瀬村に初めて電気がついた  発見し吉乃鉱山と改称する 大日本鉱業設立 武田恭作が吉野鉱山最大の熊ノ沢大鉱脈を  ホルスタインを岩井川牧場に放牧した H誌 狙半内の家畜商高橋亀吉 滝ノ下 が短角牛と  助成を嘆願する 凶作のため西成瀬村民が県庁に種子穀の この頃より 自転車 スキィ が入ってきた 義務教育が六年に延長された 十月 狙半内地区で赤痢が大流行 県内大洪水 成瀬川も氾濫して死者出る 荻袋簡易小学校を西成瀬尋常小学校と称す 五月二十八日 機岳和尚が遷化した 享年八十才  沢目部は西成瀬村となった 初代村長 茂木豊治 増田 亀田 八木が合併して増田村となり  佐々木泰治氏前の田んぼで茅葺屋根の学校だった 中村分校を再び小栗山に移し 上畑を分離する  移し 上畑分教室を合併する  改称と時を同じくして小栗山分校を中村に  荻袋簡易小学校と称す 安養寺小学校を荻袋真当に移転し 七月中 村分校を小栗山に移す  高橋金次郎宅の一部を借りる 現在 清  上畑に分教室を置き村内の児童を収容する 狙半内は通学が不便で中村に分校をもうけ  荻袋安養寺小学校人家の一部を借り仮校舎とす  雄勝郡第八学区と称し 同校を創設し 荻袋村 熊渕村 狙半内村 三ヶ村が連合して 各村に戸長役場が置かれる 亀田 熊渕 荻袋 吉野 湯野沢 狙半内の 町村戸長役場制により増田 八木 戸波 狙半内学校開設 中村 加瀬谷正右衛門宅 小栗山の新蔵 機岳 が四二才出家した 狙半内沢目に餓死者が多く出る 巳年のケガチで人々飢えに苦しむ 当地域で 修行をし 加瀬谷東嶺と名のる 牛道事件で捕えられ入牢 その後京都で絵画の 狙半内村親郷肝煎十一代目 加瀬谷正右衛門 狙半内村二七七石 大洪水で縫殿村一郷残らず流される 吉野 乃 鉱山開坑  横堀郷 西生保内前郷郷 西生保内堀廻郷 H誌   支郷は 田子内郷 岩崎郷 稲庭郷 山田郷 雄勝七郷 八八ヵ村 の親郷は狙半内であった 狙半内に須恵器が伝わる
                                   
が雪の重みで電線と道路閉鎖
         初日は買い物でバスが満席       水量豊富なり。水温八度五分 上畑地区で震度6弱の揺れ 秋田自動車道開通 秋田から横手 東北新幹線開業 以後木材の需要低迷で価格が下がる  八月五日午後 川沿いの柳の大木が立ったまま流れる 鳥海山 一五〇年ぶりに噴火   サントップ増田工場が誘致された  沖縄返還協定調印  万国博覧会 アメリカのアポロ十一号 月面着陸 この年県内の出稼ぎ者四万人を超す 東京オリンピック開催  増築の件で借用の陳情書を提出  会長 高橋三郎ほか代表委員8名が 小栗山小学校普通教室増築促進協議会 東成成瀬村郷土誌より 公共テレビ放送はじまる 狙半内自治会初代会長高橋亀吉 滝の下   粟 豆 とうもろこしなど 鹿野畑に主に小豆が主流で 入道 手倉 椿台まで電気がついた H誌  なったと伝えられている。 戦前は狙半内労働組合後愛林組合が 十二月八日 太平洋戦争突入  この日は招待日とする  ことがないという  東北で仙台 盛岡 秋田 以外上映した 両瀬新報より抜粋 関東大震災 東成瀬村郷土誌より  組合長に小野寺金太郎 上畑  その後半内森林労働組合ができ 公有林野等官行造林法大正9年法律第7号に基づき 国が公有地又は私有地に造林をした分収林であり 林野庁が管理を行っているものをいう  増田流失家屋八戸 死者五名  になり 崩壊して濁流で被害拡大  特に滝の下が崖崩れで家が埋り又 ダム湖 狙半内流失家屋二十戸 死者三十人 人家を借り受けて校舎とする 明治と改元する  と多くの死者がでる  中村三四人 小栗山三七人 川口一六人 滝の下二〇人 上畑三六人 火石田三七人  られている  称して村の入り口まで出迎えたと伝え 釈放の時は全村民こぞって 御帰参 と 阿部比羅夫が淳代蝦夷を征す 大化の改新 聖徳太子摂生となる