石川氏(いしかわし)

本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるために陸奥石川氏と呼ぶことが多い。

 石川有光は永承6年(1051) 
父源頼遠と共に源頼義・源義家に従って、奥州の豪族安倍氏追討に加わり、厨川に戦死した父頼遠に代わって有光が軍を指揮。康平6年(1063)、その軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫)の中から、石川を中心とした六十六郷の地を与えられた。
 石川郷に三芦城を築いてここに移り、それ以来石川氏を称した。これより25代石川昭光まで、約530年間代々の当主は三芦城を拠点とする。
 石川有光の子孫は石川荘の各村を開拓し、鎌倉時代には石川郡一円と西白河郡、東白川郡の一部にまで一族が勢力を拡げたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が奥州各地に小田原参陣の命を発したが、昭光は天栄村で起きた伊達氏への反乱鎮圧に忙殺され、出陣を断念。そのため奥州仕置で領地を没収され、三芦城を退去した。この年の8月に、石川昭光と嫡男義宗とその家臣は失意のもとに戦を避け城を退出した。昭光は甥伊達政宗を頼り、宮城県の角田城に2万1千石で迎えられ、伊達家一門筆頭として明治にいたった。その後、三芦城は廃城となった。


銅製鰐口(石都々古和気神社蔵)
銘文は「奥州石川庄泉村館之八幡宮之鰐口也 応永三十年葵卯卯月五日大旦那源持光別当重慶敬城」で、「館之八幡宮」は現在の石都々古和気神社、別当は管理者。福島県指定重要文化財(直径75センチ)



三芦城由来

当初、石川有光は石川荘の泉郷(いずみごう)の南、川辺(かわべ)にあった保源城へ住したが、水・交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。その為、南に2キロ程の中野の地に藤田城に移り住んだが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。
伝承によれば、「有光は八幡神に日夜祈りを奉げてより適した場所を探していると、蘆が三本生えるところに清水が湧き出している夢を見た。翌日、南へ向かい高台に登ると、石川郷の空に舞う鶴が、くわえていた松の小枝を落として去るのが見え、その場所を調べると夢に見たとおり蘆が三本生えており、試しに掘れば泉が湧き出すのであった。ここに城を築き、三芦城と名付け移った。」とある。



三芦城
所在地:福島県石川市石川町下泉269
城名:石川城・三芦城
築城:康平6年(1063)
築城者:石川有光
種別:山城・標高342m・比高50m

画像:余湖くんのお城のページ
三芦城は阿武隈川の支流今出川が、東から南を巡り、巨岩が重なる丘陵にあり、自然の要害となっている、愛宕山の東の峰、通称八幡山に築かれている。
主郭には現在、石都々古和気神社が祀られており、神社の北側平場が主郭で東西八十m、南北五十mあり、西側に土塁が南北に走っている。主郭の西側が二の郭でその西に幅十九m、長さ四十mの堀切があり、これを越すと西館となり、城主の隠居所と伝えられている。本城と西館には多数の郭と空堀がめぐらされている。
城跡は、南西の愛宕山と石川有光が勧請したという塩釜神社のある宮城(石川町当町)、さらに鹿ノ坂方面に広がり、中世国人領主の城館の原形を残す貴重な史跡である。


清和源氏石川氏
清和源氏は武家の名門であるという。源頼朝と足利尊氏がこの氏族からでて、それぞれ幕府を開いたことが大きく影響した。比較的信頼できる系図を集成したとされる「尊卑分脈」には、石川氏が清和源氏の一流として記載されており、記されていない伊達氏などの奥羽諸豪とは一線を画す感がある。南北朝時代に石川詮持が足利義詮の偏諱を与えられて以来。最後の当主昭光にいたるまでの十代のうちで、宗光を除いた石川氏歴代はすべて足利将軍の一字を得ている。これも奥羽の諸氏にあっては希有のことである。また、角田石川文書で明らかなように、関東足利氏の嫡流である古河公方家とは、親密な交際をしていた。伊達政宗が仙台藩の体制を整えるとき、石川氏を一門筆頭に据えた一因もここにあったのではないだろうか。
 中世の石川氏自身も、武家の名門であると意識していただろうが、平安時代末期から戦国時代末期の争乱の歴史のなかにあっては、石川氏の歩んだ道は険しく苦難の連続であった。名門であったからこそ、その血を絶やさないために奮闘し、家名を守りえたのかもしれない。


伊達家一門筆頭石川氏
伊達家臣となった昭光は天正十九年に志田郡松山で六千石を与えられ、慶長3年(1598)には伊具郡角田に移って一万石となり、元和8年(1622)の昭光死去前には一万二千石、その後阿武隈川の洪水を防いで開拓を進め、子孫は二万一千石を領した(「伊達世臣家譜」)。家格は政宗によって一門首座とされ、伊達家中の最高位を幕末まで保持した。義宗の嗣子宗敬には政宗の愛娘牟宇が嫁した。これらの厚遇は伊達氏と佐竹氏の対決時での協力、関ケ原合戦のときの上杉氏との戦い、豊臣秀次失脚にまつわる義宗の活動、大坂の陣などの功績の結果もあっただろうが、連綿として続いた武家の名門清和源氏石川氏という血統も大きく与かったのではないだろうか。しかしこれまでみてきたように、石川氏の歩んできた道は困難を極め、忍耐と努力の連続であった。