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POETRY
book.4

エッセイ #1  ■伝えるということ
■伝えるということ

 『自分』をあらわし、不特定多数の第三者に『何らか』を伝える。

 単純に表現する手法というものを考えれば、今、この日本で、世界で、まさに星の数ほどあるのではないだろうか。とりあえずそれらは、音楽であったり、写真であったり、絵画であったり、文章であったりするわけだが、それらの手法を用いて、『自分』の感情や考え方、感動や喜怒哀楽を表現するということでは同じ位置にある。ただ、それらの手法のどれを用いるかは、表現する人の好みや興味の方向に左右され、表現する人がどれだけその手法に対して努力できるかという点で、『自分』というものをどこまで出せるかが決まってくるように思う。

 様々な表現の手法があるとはいえ、それらに共通しているものは、不特定多数の第三者を対象としているということである。誰かが、その人の表現手法によって、自らの躯の中にある『何らか』を、表現したものを見聞きする第三者に伝えることを目的としているはずである。そして、その目的のもと『何らか』を表現するからこそ、人は表現者となれるのである。

 とある創作団体を旗揚げしてから、もう9年になろうとしている。その間7回の作品展を開催し、1999年1月には、第8回めを数える。毎回出品しながら、満足のできる作品が出展できていたわけではない。時には自分で満足のいかないままに、時には開催に間に合わせることを最優先に、とりあえず出展するだけの時もあった。今思えば、そんな時は決まって何を伝えたくて、それをどう表現すればいいのか解らずに、ただ悩み続け、鬱々と作品づくりをしていたように思う。

 表現するものは個性である。

 そう思い続け、様々な表現手法を試み、活動を始め10年近くになるが、自分の表現手法として選んだのは、写真と言葉であった。

 言葉で表現するといってもたいしたことはしていない。単に白い名刺程度の大きさの紙に向かって座り、酒(かつてはバーボンだったが、最近は日本酒。つまるところ俺も日本人)を片手に思い浮かんだ言葉を書き留めていく。書き留めたものをそのまま「しおり」として誰かにあげてしまう。書き留めた言葉は自分の手元には残らない。もらってくれた人だけが持っている。俺の言葉はその人だけに伝わっていく。それで良いと思っていた。が、ある人にその話をしたら、以外にも怒られてしまった。「あなたが書いて伝えた言葉なのだから、責任を持つべきである。」と。俺が発した言葉を、誰かが持っている。その言葉を俺は忘れてはいけないというのである。なるほど、確かにそうである。例えば、誰かが死んだとき、枕元においてある小説(別に漫画でも良いのだが)の間に、俺が書いたしおりが挟んである。そのしおりに書いてある言葉で、彼もしくは彼女は死を選んだ。そういわれても俺には責任はとれない。幸いそんな話はまだ無いし、これからも無いものと願いたいが。つまり、自分がある瞬間何かを思い描き、そして書き留めたということは、自分というものを表現したということであり、誰かがそれを受け止めたのなら、表現者もそれを持ち続けなければならない。それが表現者の責任のように思う。

 写真で表現するということは、かつて私にとっては苦痛以外の何者でもなかった。なぜ未だに写真という表現手法を捨てきれずにいるのか不思議なくらい、悩みながら撮り続けてきた。が、伝えたいことは未だに変わらない。普段気にとめないようなところに、実はとても不思議なものが隠れているということ。そして、何かを追い求めるということは、楽しいものであること。そんなことを自分の写真で伝えたくて、悩み続け、表現できずに年月を重ねる。そんな感じで続けてきた。しかし、学生という時間が終わりを告げ、社会人という時間が始まった頃から、ある問題が発生した。「写真を撮る時間がない。」それまでは、とにかく悩み続けるほど写真を撮る時間は増えていったのだが、悩むどころか、写真を撮る時間すらないのである。撮りたい、撮りたい、撮れない、撮りたい・・・・・。そんなストレスが溜まり、久しぶりに写真を撮りに山へ入ったときには、信じられないペースでシャッターを切っていた。出来上がった写真は、過去の悩みを吹き飛ばした。これだ。これが出したかったんだ。そう思ったとき、表現することの基本姿勢が解ったような気がする。表現されたものには、表現者の感情がそのまま出ることが多い。自分が楽しさを表現したいのなら、自分が表現することを楽しまなくてはいけない。楽しさを、どうすれば表現できるのか、悩み続けていれば、自ずと悩みを表現することになる。こんな当たり前のことに、そのときやっと気がついた。それからというもの、悩み始めたら写真は撮らないようにしている。どうしようもなく撮りたくなったときに、楽しみながら撮るようにしている。そして、俺の撮った写真を見た人から「これ何?」と聞かれるのが、楽しくて、うれしくて仕方がない。

 あいかわらず、写真を撮りながら、時にはこうして文章を書いたりして、自分のそのとき考えたことを表現している。しかし、最近思うのは、表現の方法はやはり一つではなく、自分が写真で表現したくてもできないものを言葉で表現する。言葉で表現できないものを写真にする。どちらをメインとするかではなく、自分というものをどこまで適切に表現し、不特定多数の第三者にどう伝えるかということに対して、表現する者達はもっと貪欲にならなくてはいけないのではないかと思う。

 こうして書いたことについて、人によれば、戯言だと思うかもしれない。「気取ってんじゃねぇよ」と思うかもしれない。でも、いいじゃないか。これが俺の表現の仕方なんだから。

1998.12


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