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POETRY
book.4

エッセイ #2  ■祭と音楽を撮る
■祭りと音楽を撮る

 今年の夏、上伊那地方の祭りへ出かけてみた。古くから脈々と続いてきた夏祭りではなく、割と最近始められた祭りのようだった。着いた時はまだ始まる前で、音楽も、人も少なかったが、踊り手や、祭りの見物客でごったがえしており、少しずつ熱気が高まってくるのが分かる。夏の暑さと、祭りの熱気が、街のメーンストリートに充満し、祭りが動き出すのを待ちわびているようだった。

 夏祭りに限らず、祭りというものは、実にたくさんの人々によって成り立っている。踊り手はもちろん、祭りの実行委員会の、いわゆる裏方と呼ばれる人達、街路を使っての祭りが安全に執り行われるための警備の人達、そして、祭りを見る人達。これらの人達がいなければ、祭りは成立しない。

 祭りというと、とかく踊り手など、メインで動く人達に注目が集まる。音楽に合わせ、恥ずかしいとか、できないとか、人を尻込みさせる感情を捨て、自分の思うままに体を動かす。そんなとき、ファインダー越しに見える人達の顔は、素朴で、活力にあふれ、楽の感情に満ち満ちている。なかなか撮ることのできる表情ではない。そんな表情を見せられるのは、音楽があるからこそであろう。どんな祭りにも、音楽というものは付き物だ。音楽がつくる大きなうねりに乗って、踊る人々を撮るとき、カメラマンは音楽に聴き入ることはできない。ひたすらファインダーを覗きながら、シャッターを押すべき瞬間を待ち受ける。そんなときの音楽は、自分の感情に働きかけるうねりではなく、シャッターチャンスを知らせる重要な情報源となる。踊り手を撮っていると、いつの間にか、踊り手によって具現化された音楽を撮っている香のような錯覚に陥るときがある。すると、単なる情報源としてしかとらえていなかった音楽のうねりに乗って写真を撮っている自分に気付く。シャッターを切る回数が増え、得も言われぬ快感の中で撮影が続いていく。

 これが、音楽に集中してしまうと、不快感に変わる。カメラマンは絶えず冷静にファインダーを覗き、ある瞬間に自分を込める作業に集中する。しかし、その集中が撮影ではなく、音楽に向いてしまうと、カメラマンではなくなる。私の場合、和太鼓の演奏を聴いていると、そういった状態に陥る。非常に単純な作業で出される音の連続に飲み込まれ、その音を「聴く」ことに集中してしまい、「撮影」する事を忘れてしまう。やはり、音楽、音の影響力は大きいと思う。

 しかし、祭りを撮影していておもしろいのは、踊り手よりもむしろ観客の方であろう。観客がいなければ、どんなに時間や金をかけたとしても、祭りは成立しない。見てくれる人があってこそ、祭りは成立するのである。これは、写真でも、音楽でも同じではないか。演じる人と観客。展示する人と見る人。演奏する人と聴く人。やはり、何かをするということは、その行為を受け取る人がいなければ成立しないのかもしれない。

 行為を受け取る人。観客であり、来場者であり、聴衆である人々を、蔑ろにして何かをするということは、自己満足でしかない。もちろん、写真を撮ることや音楽を演奏することの始まりは、自己満足であり、終わりもまた自己満足なのだろうが、それに執着してしまっては、あまりにも発展性がないではないか。

 私は、音楽も好きだ。自分で演奏することはしないが、いろいろな音楽を聴くのが好きだ。そんな音楽が聞こえてくるような、被写体となっている踊り手が動き出すような、そんな写真を撮ってみたい。観客としての目で見て、踊り手としての動きを持って、写真を撮ることができたら、目の前の高い壁に、傷のひとつもつけられるかもしれない。いつかきっと・・・。

1999.10


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