第 1 話
2・嵐の訪れ

 ――予感でなければ、よかったのに……


 事後処理に追われる駅を後にし、東方司令部へと戻ったのは四名。マスタング父子とエルリック兄弟。
 例によって司令官執務室には不穏……というか、非常に微妙な空気が満ちていた。
 とりあえず部屋の主、ロイ・マスタング大佐はご立腹なのだが、その理由は……
「鋼の……いつまで笑っている気かね、君は」
 一人掛けソファーの背もたれにしがみつくようにして必死に笑いを殺そうとしているエドワード。
 駅の構内で腹筋を痛めるほど馬鹿笑いを続けたエドワードは、とりあえず笑いを治めることに成功して司令部まで移動したのだが、執務室の机についたロイを見た途端、思い出したのかまた笑い出したのだった。
 ――ちなみに写真は、笑い続けるエドワードの手から奪い取り、ロイがその場で灰にした。
「だ、だってよ……くくっ」
 ようやく顔をあげたエドワードの目にはうっすらと涙まで浮かんでいて。けれどそれを珍しいなと思う余裕すらロイの中には残っておらず、この事態を引き起こし、尚且つすました顔で傍観しているへと厳しい眼差しを送ることしかできなかった。
 司令官という立場上それなりに威厳を持ち、相手に戦慄を与えることができるロイの視線もには通用しないようで。
「少しは笑われる側の気持ち、わかった? ロイ兄」
 目を細め、にやりと笑ってこんなことを言う始末。
 数時間前のことに対する報復だとようやく悟ったロイは、早々にこの場を治めるべく立ち上がった。本棚から一冊のファイルを抜き取り目当てのものを引き出す。
「二年前、人語を使う合成獣(キメラ)の練成に成功して国家資格を取った人物が市内に住んでいる――鋼の! これで今回の借りは返したからな!」
「お、おう……」
 外套を羽織り足早に執務室を出て行くロイに、三人は少し慌て気味にその場を後にした。


「何でおまえまでついて来るんだよ」
 車の中、向かいに座るに向けてエドワードはぼやいた。
 後部車にいるのは三人。エルリック兄弟とのみ。ロイは再び発作を起こされるのを避けるためか、自らハンドルを握っている。
 そのことも相俟(あいま)ってエドワードはすっかりいつもの調子に戻っていた。――いつも通り、不機嫌そうに。
 しかしも慣れたもので、けろりとしたまま答える。
「タッカーさんとは顔見知りだからね」
「そうなんだ?」
 小首を傾げつつ言ったアルフォンスを見て、彼の疑問を正確に読み取りは付け足す。
「一年くらい前だったかな? 合成獣っていうのがどういうものなのか気になってね、ロイ兄に連れて行ってもらったの。それ以来週一くらいで遊びに行ってるんだ」
「遊びにって……おまえ……」
 何をどうやって遊ぶのだ、と。呆れて項垂れるエドワードにはくすくす笑って「行けばわかるよ」と言った。
 答える気など欠片もないその様子に、それ以上の詮索を諦めたエドワードは全く別の……前々から疑問に思っていたことを口にした。
「なぁ……何でおまえ毎回毎回事件現場に来るんだよ。いくら大佐の養女とはいえ一般人だろ?」
 それはアルフォンスも気になっていたこと。
 彼も一般人ではあるが、大概兄が事件の当事者になっているので去ることのほうがままならない状況。
 だが、は完全に無関係。自分から首を突っ込まない限りは事件現場にいることは有り得ないのだ。
 ロイが甘いのか、が野次馬根性旺盛なのか。前者は火を見るより明らかだが、後者は……アルフォンスは違うと思っていた。
 現場に来ていても、は決してロイたちの邪魔になるようなことはしないのだ。することといえば……エドワードをからかうことくらい。
 そこまで考えて、アルフォンスの思考は一時停止する。
 ある、ひとつの可能性に辿り着いて。
 アルフォンスの思惑を知るはずもないはにっこり笑った。そして、答えは。
「わたしが事件現場に足を運んでるんじゃなくて、エド君たちが来るたびに事件に巻き込まれてるからそう思うだけだよ」
「……どういう意味だよ?」
「わたしは、エド君たちに会いに行ってるだけ、って意味」
 にっこり笑ってあっさりきっぱり。
 爆弾と取れなくもない発言をさらりと言われて、兄と弟は顔を見合わせ全く同じことを思ったという。
 曰く、今のはどう受け取ればイイノデショウカ?
 ぎこちない動きで視線を戻してみれば、エドワードのすぐ前にの笑顔があった。更に視線をずらせば彼女のしなやかな腕が、まるで逃げ道を塞ぐようにエドワードの顔の横につかれている。――もっとも、狭い車内では逃げ場所などありはしないのだが。
 ロイあたりがよくしていそうな、異性を壁際に追い詰める――そんな姿勢……
「……な……なんで……?」
 引きつった顔で、エドワードは問う。
 通常、男でも女でもそれなりに知った仲である程度好感を持つ異性から、このような状態に持ち込まれれば赤くなるものであろうに。何故かエドワードの顔は、蒼い。
 そんな彼の様子を楽しげに眺めて、はすっと顔を近付けた。
 硬直しているエドワードの耳に口を寄せて。
「気にしてるでしょ? 不可抗力とはいえ、わたしをこの世界に引き込むきっかけを作ってしまったこと」
 囁かれたその言葉に、エドワードは目を瞠る。
 アルフォンスも驚いて、元の座席に腰を落ち着けたへと目を向けた。
「だからね。元気な姿、見せておこうかなって思って……ね?」
 真っ直ぐに、二人を見据えて言ったは……笑っていた。今までのからかうようなものではなく、やわらかい……暖かく優しさに満ちた、笑み。
 それは、どこか母親を思わせるほどに深い笑顔で。
 自分の心が見透かされていたことと、その笑顔に。エドワードは顔が火照るのを隠すように、丁度停まった車から一人足早に降りてしまう。
「別に……ッ、気にしてなんかいねーよ!!」
 捨て台詞。
 光の中へ消える朱の外套を見送って、アルフォンスは声を出した。
「よくわかったね、……」
「うん。何だかんだ言っても結局、エド君わたしに構ってくれるからね。でも……」
 一度言葉を切って、も車の外へと出て行く。アルフォンスも後に続いて出てきたのを見て、は再び口を開いた。
「それでも確信があったわけじゃない……八割方は希望的観測だったの。だからね、すごく嬉しい」
 茂みから現れた大きな犬に圧し掛かられ奇妙な悲鳴を上げているエドワードのほうへ視線を向けたまま、は穏やかな笑顔で話す。
「ねえ、アル君。わたしね、この世界に来れて良かったって思ってる。みんなに会えたこと、きっと今までで一番大切な宝物だよ」
……」
「ありがとう。エド君もアル君もわたしのこと受け入れてくれて……わたし、今すごく幸せだよ!」
 アルフォンスを見上げて、は言った。
 それは心からの感謝の言葉。満ち足りた彼女の笑顔が、偽りのないことを如実に表している。
 伝えるべきことを全て伝え、犬に潰されてわめいている兄のもとへ駆けていく背に、アルフォンスは呟いた。
「お礼を言うのは、ボクたちのほうだよ……」
 自分の意志とは関係なく故郷から離れさせられて、その原因であるはずのエドワードを恨んでもいい立場なのに。は、恨み言どころか愚痴をこぼしたことすらない。
 それがエドワードにとって、どれほど救いとなっているか。
 アルフォンスには痛いほどわかっていたから。
「ありがとう、……兄さんを……ボクたちを受け入れてくれて……」
 相手に届けることのない感謝の言葉を、風に溶かした。


 豪邸と呼ぶには質素な外観だが相応な面積のあるタッカー邸の庭で、は芝生に突っ伏していた。上がった呼吸を整えている彼女の傍らには、一頭の大型犬と一人の幼い少女がいる。
「おねーちゃーん、もう終わり~?」
「……ごめ……ギブアップだよ、ニーナ……」
 少女の問いにはよろよろと片手だけ挙げて答えた。
 茶色の長い髪をおさげにしたこの少女は、タッカー氏の一人娘のニーナ。先程エドワードを潰していた白い体躯の大型犬はニーナの愛犬、アレキサンダーだ。
 時刻は、ロイが司令部に戻りエルリック兄弟が資料室にこもって数時間後。明るく鮮やかだった青空に朱が混ざり始める時間帯。
 エドワードたちと共にここへ来たは、今の今まで目的を果たしていた。――すなわち、ニーナたちと遊んでいたということ。そして体力切れでへばっているところだった。
 やっと呼吸が正常に戻り、ころりと仰向けになる。
「ニーナもアレキサンダーもタフだよね~、ホントに……」
「お姉ちゃんが体力ないんだよ」
「うぅ~……」
 毎度の遣り取り。外で遊ぶ時は必ずが真っ先にバテてしまうのだ。
 こちらに来てからの二年間、毎日基礎体力作りはしているし、一年前からはこうしてニーナたちとも定期的に遊んだりもしているのに。どうにも体力と腕力だけは身につけることができずにいた。
「……体質的なコトだから仕方ないとは思うけど……やっぱり、ちょっと悔しいかなぁ……」
 向こうにいたときに運動と呼べるものを一切していなかった所為かもしれない。……もっとも、できなかった、といったほうが正しいのだが。
 過ぎてしまったことはもうどうにもならない。
 は溜息とともに思考を中断し、ニーナへ向き直った。
「最近どう? お父さんと遊んでる?」
 問われたことにニーナは表情を曇らせ、ふるふると首を振った。
「研究室にこもってばかりいるよ」
「そっか……」
 つい先日国家資格試験が終わったところだ。ということは査定が近々あるはずだから、その研究だろう。
「やっぱり、お母さんがいない分、淋しい?」
 二年前実家に帰ってしまったというニーナの母。自分の両親のことすらわからないには、ニーナの母の気持ちなど知る由もないのだが、何か……納得がいかないというか、疑問が残るというか。
 夫としてのタッカーはどうかわからないが、父親としての彼は申し分ないと思うし、ニーナも我が侭を言っていい時と悪い時の区別がつけられるほどに良い子だ。少なくともの目には二人は理想的な父子に見える。
 その二人を置いていったニーナの母には、やはり疑問を抱かずにはいられなかった。
 ただ、見たこともない人間を憎めるほど器用でもなければ、そんな非建設的なことをする気もないので、こうして自分にできることをしているのだ。
 ――ニーナの抱える『淋しさ』は、自分もよく知るものだったから。
 ニーナは小さく頷いた後、にぱっと笑って見せた。
「でも平気だよ。アレキサンダーいるし、お姉ちゃんも遊んでくれるから!」
 は目を瞠った。
「お父さんとアレキサンダーも好きだし、お姉ちゃんもおんなじくらい好き!」
 何とも、まあ……子供の素直さには、聞いてるほうが照れてしまうものだが、同時に救われるのも確かで。
 は起き上がってニーナの体を抱きしめた。
「……ありがとう、ニーナ……わたしもニーナたちのこと大好きだよ」
 小さな手で精一杯抱き返してくる子供を一度強く抱きしめて、はニーナに笑いかける。
「ね、ニーナ。お兄ちゃんたちとも遊んでみたくない?」
「……いいの?」
 の提案に顔を輝かせつつも伺いを立てる辺りがニーナらしくて、笑い声がこぼれてしまう。その様子に小首を傾げたニーナの頭を軽く叩くように撫でて答える。
「いいの、いいの。どうせもうすぐ迎えが来るだろうし。それに家の中にこもって本ばかり読んでるのって体に良くないしね。言うなれば、お兄ちゃんたちのためってコトよ♪」
 悪戯を仕掛ける子供のように笑って言ったことも、そのまま受け止めたニーナは満面の笑顔を見せて賛同したのだった。


「アールー君!」
「わっ!?」
 間近で聞こえた声に気付いて顔をあげてみれば、すぐ目の前にの顔があってアルフォンスは思わず声を上げて後退ってしまった。
「え、な、び、びっくりした……」
 言葉も上手く出てこないくらいに驚いた。今はないはずの心臓の音すら聞こえそうだ。
 そんな彼の様子に声を掛けた当人も驚いたように固まっていて。
「そこまで驚かれるとは思わなかったよ。すごい集中力だね……」
 半ば呆れ気味に、そう言った。
 何とか自分を落ち着かせて、落としてしまった本を拾いながらアルフォンスは立ち上がる。
「ああ……うん……ボクも兄さんも集中しちゃうと周りが見えなくなるから。よく図書館で閉館に気付かずに閉じ込められちゃったりしてたね」
「それは、また……何というか…………丁度よかったかな?」
「……え?」
 視線を泳がせた後、にやりと笑って呟いたが小悪魔に見えて。嫌な予感を覚えつつアルフォンスは問う。
「な、何が?」
「ん? もうすぐ迎えも来ると思うしさ、それまで一緒に遊ばない?」
「一緒にって……あ」
 の言葉に首を傾げた時、彼女の後ろからひょっこり顔を覗かせる少女がいて。
「……ニーナ……?」
「そ♪」
 笑顔で頷くの陰で、じっと自分を見上げる幼い少女に、何故か穏やかな気持ちが広がって。アルフォンスは膝を折ってニーナと目線を合わせ、彼女に片手を差し出す。
「ニーナ? 一緒に遊ぼうか?」
 その言葉に。それまで期待と不安に彩られていた顔を満面の笑顔に変え、ニーナはアルフォンスの手を取った。
 アルフォンスは小さな手を握ると、そのまま彼女の体を持ち上げ自分の肩に座らせる。
「わあ~、すごいすごい!」
「しっかり掴まっててね」
 肩車に大はしゃぎするニーナを優しい瞳で見ていると目が合う。
 車の中でも見た、慈悲と慈愛に満ちた……母親の瞳。
 あの時も思ったのだが、すごく意外だと思う。普段は悪戯好きで年上だとは思えないほどに子供っぽいのに、時折見せる瞳がどこか悟りを秘めているようで……どちらにしても年相応には見えない彼女の存在が、不思議でたまらなかった。
「アル君? どうかした?」
「――え? あ、え~と……アレキサンダーは?」
 不思議そうな声に呼ばれて我に返り、半ば胸中を隠すように先程まで彼女の傍らにいた犬の行方を訊ねる。
「きっと、小さいお兄ちゃんを探しに行ったんだよ」
「よっぽど、あのミニサイズが気に入ったんだねぇ……」
 返ってきたふたつの答えにアルフォンスは項垂れる。
「それ……本人の前で言ったら、すごく怒ると思うよ……」
「知ってるよ。今まで何度言ったと思ってるの?」
 言われてみればその通りだ。今日も駅で出会い頭に言っていたし。
……何で兄さんが怒るのわかってて言うの?」
「あの反応が面白いから♪」
 ビシッと親指立てて言われても困るというもの。
 返す言葉も見つからずに、アレキサンダーとエドワードを探して歩くの後をついて行きながら、はやはり謎だ、と。そう再認識したアルフォンスの耳に、5時を告げる柱時計の音とエドワードの情けない叫び声が届いた。


「よぉ、大将、姫さん。迎えに来たぜ」
 そう言ってハボックが資料室に顔を出したのは、エドワードも巻き込んで遊び始めてから数十分後のこと。完全にエドワードがアレキサンダーに敗れ去った直後だった。
「ハボック少尉がお迎え役? やっぱり、他のみんなは忙しいんだ?」
「おう。エドたちのおかげで事件は早々に解決したけどよ、その暴れてくれた分の事後処理がな」
「あ~……アレはすごかったねえ……」
 言って二人で当人のほうを見れば、未だアレキサンダーに潰されたままタッカーから明日の訪問許可をもらっている姿が視界におさまる。その後、弟の手を借りて犬の下から這い出てきたその姿は、炭水車と一等客車を水道管で繋いで列車強盗を一網打尽にした人物には、まるで見えないのだが。
「じゃあ、やっぱり食事は延期かぁ……」
「いや、行けるぜ」
「へ?」
 事件発生時点で予測済みだったとはいえエドワードの存在で多少の希望を持たされていたので、少し残念そうに呟いた言葉にあっさり否定が返ってきては目を丸くする。
「何で? 今日って残業か、最悪泊まりじゃないの?」
「俺らはな。大佐はもう終業してるぜ。昼間、鬼のような速さで仕事片付けてたからな」
「うわぁ……普段、その半分でいいからやってくれれば、わたしもリザ姉も『大佐狩り』しなくてすむのにね」
「……やっぱ、姫さんでも大佐がサボる理由は知らないか」
「わたしが来る前からのことを聞かれても困るかなぁ……」
 ふらふらと歩くエドワードに合わせてゆっくり玄関に向かっていたハボックが、扉の前で何かに気付いて振り返る。どうやらタッカーへの伝言を預かっていたようだ。
 気付いているのか、いないのか。先に外へ出るエルリック兄弟を見送り、はその場に立ち止まる。ハボックを待つ短い時間、はいつかの出来事を思い出していた。
 先程のハボックへの返答は、嘘だった。
 本当は知っている。ロイが仕事をサボる、その理由を。
 まあ、半分は本当にただの怠慢なのだが、残りの本当の理由……それは――自分が軽々しく口にしていいものではなかった。それは重々承知していたし、自身、言いたくはなかったから。
「……お母さんは子供を守るもの……だから、ね……」
「ん? 何か言ったか?」
 伝言を言い渡し自分の側に来ていたハボックへ、は笑みを見せる。
「なぁーんにも。それより早く帰りたいかな、運転手さん?」
「へいへい」
 冗談めかして言い、は後部車へ乗り込んだ。少し遅れて、車は市街地を軍の宿泊施設へ向けて走り出した。
 その車内で、気を抜いたら今にも眠りに落ちてしまいそうなエドワードと、そんな兄を半ば支えるように座るアルフォンスに、は声を掛けた。
「エド君、アル君。明日は9時でいい?」
「――は?」
「え……? 9時って……」
 既に半分寝てるのか、間の抜けた答えを返す兄の代わりにアルフォンスが疑問をきちんと形にする。は逆にきょとんとして答えた。
「迎えだよ。多分、司令部のみんな忙しいと思うからわたしが行くよ。歩きになるケドね」
「……いらねー……」
 半分寝ている状態でも嫌そうに返すエドワードに、の眉がぴくりと跳ねる。
「へぇ~……車でたった一往復しただけで道、覚えられたんだぁ? 流石最年少国家錬金術師。天才は違うねぇ……」
「ぐ……」
 嫌味に飾られた指摘を受けてエドワードは言葉を失う。
 行きはと話していて外など見ていなかったし、今から覚えようにも街は既に夜の顔。そもそも彼女の言うように、歩きならまだしも車で送迎されたその道を覚えるのは至難の業だったりする。いくら馴染んだ街だったとしても、だ。
 タッカー邸へ行くにはに頼るしかない、ということ。
 それがわかっても折れようとしない兄に内心溜息をついて、アルフォンスが助け舟を出した。
は明日、空いてるの?」
「うん。買い物行くぐらいだし。場所もタッカーさん家方面だしね」
「それじゃあ、がいいならお願いするよ。――ね? 兄さん」
「……………………好きにしろ」
 そっぽを向いて極々小さな声で。
 それでも了承を得られたことには満足げに微笑んで、二人を施設まで見送った。



 約束通り、国家資格取得祝いの外食を父子で楽しんだ翌日。支給された研究費を早速引き出してから施設へ向かい、エルリック兄弟をタッカー邸へ案内したその足で、は一人買い物へと向かった。
 思えば、これが初めてのことだ。
 少し意味合いは違うかもしれないが、自分の力で入手した金銭を使うというのは。
 一人での買い物は向こうにいたときは当然のこと、こちらでも幾度かあったがその全ては親の金でのものだった。
 でも……今回はどうしても『自分の』金銭を使いたかった。ロイからもらったものでは……意味を成さないと思うから。
 あらかじめ目星をつけておいた店で目的を果たし、旅での必需品を買い揃えて。その荷物を一度家に置いて来てから、はタッカー邸へ向かった。
 ささやかな企みの準備も整い、浮かれ気分で歩いていたを、突然不安が襲った。
 理由(ワケ)もなく不安になる、心が掻き乱される感覚。これは――胸騒ぎ。こちらに来てから幾度となく体験した、嫌な予感――……
 何故、どうして、何が。
 疑問が矢継ぎ早に浮かぶが、不安のほうが強すぎて思考が上手く働かない。
 いても立っても居られなくて、はタッカー邸へ急いだ。
 長く続く塀の切れ目、門に近付いた時、中からニーナの楽しげな笑い声が聞こえた。
「……ッ、ニーナ!!」
 思わず叫んだその声に、ニーナと遊んでいたエルリック兄弟が驚いて振り返るのが見えたが、それに構っている余裕はなかった。
 何かに突き動かされるようにニーナの体を抱きしめる。
「……お姉ちゃん? どうしたの?」
「…………?」
 不思議そうな、いつもの声。変わらぬ温かな体。
 彼らの疑問に対する解を持たぬまま、はただニーナの肩に顔を埋め、小さな体を強く抱きしめていた。

 予感でなければよかったのに。
 あの時もそう思った。
 東部で起きた爆弾テロ事件。多くあった偽物の中でようやく見つけた本物の予告状。それを確認し未遂に終わらせるためにロイが現場へ向かった後、伝わってきた爆発の振動を感じた時に。
 予感でなければいいのに。
 今もそう思っている。
 消えない不安。続く胸騒ぎ。その理由がわからず、どうしていいのかも考えられなくて。
 予感でなければいい、何も起きなければいい。
 ただの願望に全てをかけて祈ることしかできてはいなかった。そんなに、声が掛かる。
「おまえはまた、過ちを繰り返すのか?」
 厳しい声、問い。
「何のための『予感』だと思っている? 目を閉じ耳を塞ぎ、己の取るべき道をまた見逃すつもりか?」
「――ッ!」
 一切の甘えを許さぬ言葉。けれど、優しさの含まれた……のための言葉。
「またひとつ『後悔』を増やすのか?」
「……嫌だ。そんなの」
「なら、さっさと己のすべきことを為せ。馬鹿が」
 吐き捨てるように言われた言葉は、確かにの背を押した。
 強く頷いて、は家を出てタッカー邸へ向かった。

「もっとも、もう手遅れだろうがな……」

 誰の耳にも届かぬ呟きを吸い込んだ空が涙を落とし始めた頃、はタッカー邸に辿り着いた。
 呼び鈴もそこそこに中へ入りニーナを捜し歩く。
 見つからぬまま通りかかった研究室から声がした。捜し人の行方を告げる……怒りに満ちた、声。
「やりやがったなこの野郎!! 二年前はてめぇの妻を!! そして今度は、娘と犬を使って合成獣を練成しやがった!!」
 胸騒ぎが、消える。
 エドワードの怒声に導かれるように、ふらりと研究室へ足を踏み入れた。
っ!?」
「そうだよな。動物実験にも限界があるからな。人間を使えば楽だよなぁ、ああ!?」
 アルフォンスの声もエドワードの声も耳をすり抜けていく。
 目に映るのは不思議な生き物。アレキサンダーと同じ白い体躯。ニーナと同じ茶色の長い鬣と尾。犬とは違う五本に長く分かれた足の指。――合成獣。
 それが、を見上げた。
「は……何を怒ることがある? 医学に代表されるように、人類の進歩は無数の人体実験の賜物だろう? 君も科学者なら……」
「ふざけんな!! こんなことが許されると思ってるのか!? こんな……人の命を弄ぶようなことが!!」
 青い瞳にを映し出す。
 一切の汚れも濁りもない、どこまでもどこまでも澄んだ空の青。
「人の命!? はは!! そう、人の命ね! 鋼の錬金術師!! 君のその手足と弟!! それも君が言う『人の命を弄んだ』結果だろう!?」
 尾がふわりと浮いて左右に揺れる。
「は、ははは、同じだよ。君も私も!!」
「違う!」
「違わないさ! 目の前に可能性があったから試した!」
「違う!」
「例えそれが禁忌であると知っていても、試さずにはいられなかった! ――ごふっ!!」
 口が開いて、人間のものと同じ歯列が顔を覗かせた。そして……
「お、ねえ、ちゃん」
 エドワードの悲痛な叫びと、タッカーを殴る鈍い音が響く中、それでも掻き消えることもなく合成獣の声が耳に届いた。
 ニーナの……人間のものとは全く違う、低く割れた……声が……
 自分の中で、何かが壊れた音を、聞いた気がした。
 ゆっくりと合成獣に背を向け、タッカーのほうを見る。アルフォンスに止められたエドワードの手から解放され、立つ力もなく座り込むタッカーの姿が目に映った。
「はは……綺麗事だけでやっていけるかよ……」
 タッカーの口から洩れた言葉は父親のものでも、錬金術師のものでもなかった。
 善悪の境を見失った、弱者の言い訳。
「タッ……」
「タッカーさん」
 アルフォンスの声に被さるように、の声が響いた。
 その呼びかけに、エドワードたちもを見、そして驚愕をその顔に刻んで固まった。

 ――ってさ、人形みたいだよね――

 ふと、脳裏に蘇った言葉。昔、偶然聞いたクラスメイトが自分に対して言っていた陰口。
 何故今、それが思い出されたのか。何故エドワードたちが驚愕しているのか。その理由は――容易に想像できた。
「あなたにとって『家族』とは何だったんですか?」
 出てきたのは抑揚のない、冷たい声。
 その声が物語る、今のの姿。
 完全なる無表情、抑揚のない声。それはまるで、等身大のからくり人形――……
 かつてクラスメイトがを嘲罵して言った揶揄には、彼女自身自覚があったし、認めてもいた。
 今だって……
 は再び合成獣へと向き直る。
「エド君、アル君。ロイ兄への連絡、任せていい?」
「あ……ああ。でも、おまえは?」
 膝をつき、合成獣の体をそっと抱きしめた。
 ニーナやアレキサンダーと変わらぬ暖かな体温。頬を、首筋をくすぐる鬣。
 自分を慕ってくれていた幼い少女と、よく懐いてくれていた大きな犬。その成れの果てを見ても……こうしてその腕に抱いても。
 涙すら、出てはこない。
 何も、何も感じない心。
 どうすればいいのか、何をすべきか、もう考えることもできなかったけれど。
「……ニーナたちの、側にいる……」
 ただ、こうしていたかった。

 予感でなければよかったのに。
 ただの気のせいであって欲しかった。
 それとも予感の示すものが、もっとちゃんとわかっていたなら……
 この哀しい未来を変えることが、できたのだろうか?

 答えなど出るはずのない問答を心の中で繰り返しても、その手にあるのは、間に合わなかったという現実だけ……