昼間から雫をこぼしていた空は時間と共にその激しさを増し、日没を迎えてより一層暗く、重くなっていた。
滝のように雨が降り注ぎ、雷が僅かな間辺りを照らす。
人の心も重く沈みそうなそんな夜、イーストシティにある一軒の邸宅の前には普段はいない憲兵が立っていた。
時間も天候も人が出歩くには向いていないため、彼ら以外の人影は周囲にはない――はずだった。しかし、あるはずのない人影がひとつ。
「む……タッカー氏に用事か?」
降りしきる雨の中、傘もささずに近付く男に気付き、一人の憲兵が声を掛けた。
「一般人は立ち入り禁止になっている。用件があれば……」
「通る」
口上を遮り、たった一言。男は言った。
ゴキッと指が鳴る。
――全ては一瞬。
雷が周囲を照らすと同時、それとは違う光が発生し、男の行く手を阻むものは消え失せた。
明かりの灯らない邸宅内を男は進む。一階には家主の姿はなく、二階へと上がった。気配を探りつつ進んでいた男の目に光が映る。
稲妻ではない、人工的な光。先程己が発生させたものと同じ、練成によって生じる化学反応。
その光が洩れ出す部屋が前方にあった。
そこへと真っ直ぐに足を進める。徐々に光も強くなり、話し声も聞こえてきた。
「……無駄だよ……一度合成された獣を元に戻すことは、例え国家錬金術師といえど今の技術では不可能なんだ」
力ない声は家主であるショウ・タッカーのものだろう。
他に誰か……錬金術師がいるようだ。
「まして……」
部屋に溢れていた光が大きな音と共に弾け飛ぶ。
「きゃあああ!!」
ほぼ同時に聞こえてきた少女の悲鳴と、壁を揺らす大きな音。
ややあって訪れた静寂に、タッカーの蔑みを帯びた声が静かに小さく響く。
「国家資格すら持たない君では、できるはずもない……」
稲光が室内に満ち雷鳴が去って後、雨音だけしか聞こえなくなってから男は己の目的を果たすために室内に足を踏み入れた。
「ショウ・タッカーだな?」
「誰だ君は」
男の問いにタッカーは問い返してきた。
否定しないのが肯定の証。男も確認の意での問いだったので、それで充分だった。
「私に何の用だ。軍の者……ではないな。どうやって入ってきた! 表に憲兵がいたはずだ……」
警戒を露に投げかけられる質疑に答えぬまま、男はタッカーの眼前まで進み、
「神の道に背きし錬金術師、滅ぶべし!!」
憲兵にしたように、抵抗も見せないタッカーの額に右手を添えた。――と、練成反応の光がタッカーと男の手を取り巻いて……タッカーはただの肉塊へと変わり果てた。
重力に従い崩れ落ちたタッカーであったモノは、大量の血液を周囲に撒き散らした。床を這った一筋がその場にいた生き物の足に触れる。
犬のようなその生き物は、肉塊へと鼻を近付けて――
「…………さん。おとうさん」
言葉を、発した。
涙を流し幾度も「お父さん」とタッカーを呼び続けるその生き物がなんなのか、男は理解した。
それはかつてタッカーの子供であったモノ。タッカーが受けた二つ名の示す通り人間と動物、ふたつの異なる命を綴り合わせて作り出された合成獣。そして……
男は更に視線を巡らせ、壁際に伏して倒れている少女を見つけた。
恐らくあの少女がこの合成獣を元に戻そうと試みたのだろうことを――先程のタッカーの台詞から推測できた。
「……哀れな」
男は一度目を閉じる。
「この姿になってしまっては、元に戻る方法はない」
目を開き、合成獣の頭に手を置く。
「せめて安らかに逝くがよい」
男の祈りを含んだ死の宣告が、雨音の中を縫って、消えた。
日付が変わる頃、エドワードはベッドの上に座っていた。
休んだほうがいいのはわかっているのだが、昼間の出来事が頭の中を占めていて脳が睡眠を拒否していたのだ。
父親の実験材料にされてしまった幼い少女と大きな犬。どうにもならないとわかっていても、どうにかしたくて……元に戻せないか、その方法を考え続けていた。だが、同時にタッカーの言葉も蘇ってきて、今自分が合成獣を元の人間に戻すための理論を必死になって組み立てている、この錬金術とはなんなのか。錬金術師とはどうあるべきなのか。それらに考えが至り……答えの出ないまま、ぐるぐると同じことを考えていた。
そして、もうひとつ。
タッカー邸で最後に見たが、脳裏に焼きついて離れなかった。
タッカーに向けて冷たく言葉を放った彼女の顔は、怒りに満ちていたわけでもなければ悲しみに歪んでいたわけでもなかった。
何の感情もそこにはない――無表情。それもリザがいつもしているようなポーカーフェイスではなく、完全に感情というものが欠落した状態。
――それはまるで、血の通わぬ人形のような……
今まで幾度となく至った思いを振り払うように、エドワードは強くかぶりを振った。
考えるたびに不安と……罪悪感が募って仕方がなかったのだ。
あの悪戯好きでよく笑う少女がもし完全に感情を失くしてしまっていたら……もう二度と笑わなくなってしまったら……
そんな不安と、そしてそれが現実になった場合の責任は自分にある、と。
そんなことを考え続けて、エドワードは出口のない迷路を彷徨い続けた。
別の場所、別の時間。
エドワードと同じ想いを抱いて迷路を彷徨い、彼より先に出口を見出す男が一人いた。
それはタッカー邸での出来事。晴れていたなら疾うに太陽が顔を出しているであろう時間のこと――……
報告を受けた時は、まさかと思った。
そんな馬鹿な、と。ありえない、と……そう、思っていた。――否。そう思いたかったのだと、その光景を目の当たりにして自覚させられた。
昨日訪れたタッカー邸二階の一室。大きな窓の外は相変わらずの雨で、僅かな明かりが申し訳程度に入り込んでいる。
そんな状況でも室内の異様さはわかった。
部屋のほぼ中央に赤黒い液体が広がり、その傍らに少女が一人、力なく座っている。膝の上に今はもう動くことのない、室内に広がるものと同じ液体に濡れた合成獣の頭を乗せ、虚ろな瞳をそれに向けて動かないその姿は、まるで人形――……
むせ返るような濃厚な鉄の臭いが液体の正体を物語る中、ロイは言いようのない不安に駆られてふらりと彼女に近付く。少女のすぐ傍らで膝をついた。ピチャリ、と。床を濡らす水が跳ね、青い軍服を赤黒く染めていく。
「……」
娘の名を呼んだ声は、自分でも驚くほど細く震えていた。
きゅっ、と一度口を噤み、の肩に手を置いて。
「。しっかりするんだ! 私がわかるか!? !!」
強く……強く、願いを込めて呼びかけた。
どうか、反応を返してくれ、と。壊れていないでくれ……と……
俯いたままだったが微かに反応を見せた。ゆっくりと顔を上げ、光を宿さぬ瞳にロイを捕えて。
「……ロ、イ……にぃ――……」
小さな、消え入りそうな声で。それでもロイを、呼んだ。
反応があった。ただそれだけで、酷く安堵する。
まだ予断を許さないが、それでも最悪の結果には陥っていないから。可能性は……希望は、残っているから。
「大丈夫かね、」
なるべくいつも通りの声で問う。しかしはそれには答えず、再び合成獣へと視線を落とした。そして、大量の血液で固まりかけている合成獣の長い鬣を梳くようにゆっくりと撫で始めた。
何度も、何度も。優しく、いとおしむように。
どのくらいそうしていたのか、不意に笑い声が室内を踊った。くつくつと喉を鳴らして、が笑っていた。
「――……?」
不安が、再び膨らむ。
常軌を逸した、異様な光景。
もう……壊れてしまったというのだろうか。
もう一度、自分のほうを向かせようとロイが手を伸ばしかけた時、ふっと笑い声は途絶えて。
「命って、あっけないよね」
そう、呟いた。
「今、ここにこうして在るのに……ずっと、変わらないって……在り続けるって、そう思えるのに……こんなに簡単に壊れちゃう」
ゆっくりと天井を仰いだ、その顔は……笑って、いた。どこか自嘲的な――笑み。
「そんなこと、わかってたのにね。ずっと昔から、知っていたことなのに……」
ロイへと目を向けたとき、から笑みは消えていた。
「痛いの……すごく、痛いよぉ……」
今にも泣きそうなほど歪んだ顔で。けれど泣いてはいない彼女を、ロイは強く抱きしめた。
「もう、いい……ッ、もういいから、我慢しないで泣きなさいっ!」
そうしなければ……泣かせてやらなければ、彼女が壊れてしまうような気がして。
「……ふ……」
ただ、強く抱きしめていた体が小さく震え、吐息が洩れた。そして、は緩慢な動きでロイの首に腕を回して、強くしがみついてきた。
嗚咽が静かに静かにその場を満たしていく。
もう、大丈夫だ、と。確信を抱き、ロイは泣きすがる娘の体を抱き上げた。彼女の膝から合成獣の骸が崩れ落ち、不快な音を立てる。
「……った……」
その音に重なるように、耳元でくぐもった声が現れた。
「……?」
「何も、できなかった……わたし、ここに、いたのに……手の届く、距離に、いた……のに……」
目を細めてロイは、後悔と自責の言葉を紡ぐ娘の頭をあやすように撫でた。
いつも彼女から香る、甘く、どこか懐かしさを含んだ匂いは今、濃厚な血臭に掻き消されて感じ取ることは出来ない。そのことに、酷く胸が痛んだ。
「、君は頭が良い」
こんな彼女を、見たくはなかった。血に染まった姿など……
国家資格を取ると彼女が決めた時から、いつかこんな日が来ることはわかっていたことだったのに。
ここまでを大切に――愛しく思っていた自分に気付き、心の中で自嘲する。
「本当はわかっているのだろう? あの子たちが合成獣にされてしまったことも、彼らが殺されたのも君の所為ではない。君は、きちんと理解しているはずだ。これは誰の所為でもない、と。そして、君が今どうすべきかということも……」
自分には自分の進むべき道がある。彼女にも彼女の望みがある。それはわかっている。わかっている、はずなのに……
閉じ込めてしまいたい。誰も、何も彼女を傷付けないように……悲しめないように。大切に、大切に守ってやりたい。
そう――強く、思ってしまった。
ロイは、しゃくりあげるの背を軽く叩いた。
「…………乗り越え、られるな?」
ややあって、僅かに頭を上下させたのを確認し、ロイは微笑んで優しく囁く。
「良い子だ」
強くしがみついてくるの体を、優しく抱きしめる。
それは束縛するためではなく、支えとなるために。
醜い独占欲は必要ない。ただ、彼女の望むままに在ればそれで良い。
一時の衝動と迷いを完全に捨て去り、ロイはこの血臭満ちる惨状からを遠ざけようと踵を返した。その時……
「おーおー、すっかり父親が板についてんじゃねーのか? ロイ」
場違いな明るい声が響いた。
いつ来たのか、眼鏡をかけヒゲを生やした男が、筋肉質の大柄な男と共に入り口に立っていた。
「茶化すな、ヒューズ」
「そう言われてもな~。あの女好きなおまえが、真面目に父親やってるなんて可笑しくてよ」
酷い言われようである。まぁ、親友故の軽口だろうが。
笑みをはいて言ったのはマース・ヒューズ中佐。その後ろに控えている大柄な男は、アレックス・ルイ・アームストロング少佐だ。
二人共中央勤務の軍人で、昨日の事件の報告を受け、タッカーを裁判にかけるために引き取りに来たのだ。だが実際はこの有様で。
「しかしよぉ、俺たちゃ検死するためにわざわざ中央から出向いてきたんじゃねえんだがな」
などと愚痴を洩らしつつロイの横を通り過ぎて、ふたつの遺体を覗き見る。
「うええ……こりゃまた、すげーな。外の憲兵も同じ死に方を?」
ヒューズの言葉にぴくりとの肩が揺れる。
できれば聞かせたくはないのだが、ロイは父親であると同時に東方司令部の司令官だ。当然この事件の責任者でもあり、現場にいる以上仕事を優先させなくてはならない。
何より自身しがみついたまま放してくれないので、どうしようもないのだが。
「ああ、そうだ。まるで内側から破壊されたようにバラバラだよ」
「ふ……ん」
仕方なく答え、そのまま廊下へと移動する。そこへ丁度リザがやって来て、ロイの様子を見て心得たように言った。
「大佐、は私が預かりましょうか?」
「ああ、頼む」
渡りに船とロイはその申し出を受けた。
も、リザには自分と同じくらい心許しているので大丈夫だろうと、そう思ったのだが……
「……」
会話は聞こえていただろうに、一向に力は緩まなくて。名を呼んで軽く肩を叩いてみてもそれは変わらず、かえって力を込められてしまう。
リザと顔を見合わせ、どうしたものかと思ったその時。
「……降ろして、ロイ兄……」
小さな、けれど確かな囁きがロイの耳を掠めた。
「……?」
「もう……大丈夫、だから……」
そうは言うが、言葉とは裏腹にしがみつく腕の力が抜ける気配は全くない。それでもロイは彼女の望みどおり、下へと降ろす。
床に足がついて、ようやくはロイから離れた。
一度大きく深呼吸して、そうして開かれた目は少し赤くなっていた。
「心配かけてごめんなさい」
そう言って頭を下げたからは『人形』を思わせる要素は何ひとつ感じられず、いつも通りの様子で。ロイは胸を撫で下ろす。
「……もう、大丈夫かね?」
「――うん」
「んじゃ、早速で悪いけどよ、嬢ちゃんはここで何があったか知ってるのか?」
ロイの問いに笑顔を見せる。それを待っていたように、ヒューズが軍人としての顔で訊いてきた。
も己の為すべきことを心得ているらしく、真剣な面持ちになった。ただ、その首は横に振られたが。
「ニーナたち、どうにかしたくて錬金術を使ったんだけど……その……何でか、弾かれちゃって……」
「弾かれた?」
「うん。それで壁に思いっきり背中というか頭というか打ち付けられて気絶しちゃったから……気がついた時には、もう……」
辛そうに眉根を寄せて俯いたの頭を、軽く叩くように撫でてやる。顔を上げた彼女に苦笑を向けて。
「無茶なことをしたな」
「うっ……ゴメンナサイ」
軽い調子で咎めた。
自分でもどれだけ危険なことをしたのかわかっているようで、はすぐさま謝ってくる。この素直さが実に好ましい。
そして、この素直で明るい少女がリバウンドなどで傷付かずに済んだことを、心から喜ぶ自分がいることにロイは更に苦笑する。
「……じゃあ、嬢ちゃんは犯人を見なかったんだな?」
「はい」
「それは良かったですな」
「ああ。気絶していたからか、もしくは『奴』が嬢ちゃんも国家資格持ってることを知らなかったのか。殺されずに済んだのはそんなとこだろ」
「――ッ、どういうことだ!?」
口調は軽く、けれど言葉は重く。ヒューズの口から出た言葉に、ロイは眉間にしわ寄せて厳しく問う。
見るからに焦りを露にした親友を宥めるように一息ついてから、ヒューズは眼鏡の奥の瞳をすがめて答えた。
「この事件の犯人は恐らく、例の国家錬金術師殺しだ」
「……それは、最近噂になっているヤツか?」
「ああ、そうだ。俺たちは『傷の男(スカー)』と呼んでいる。素性は一切不明でな」
「素性どころか武器(エモノ)も目的も不明にして神出鬼没。ただ額に大きな傷があるらしいということくらいしか情報がないのです」
「今年に入ってから中央で五人。国内だと十人はやられてる。……ここだけの話、つい五日前にグランのじじいもやられてるんだ」
「『鉄血の錬金術師』グラン准将がか!? 軍隊格闘の達人だぞ!?」
つらつらと並べられていく情報を全て頭に入れていたロイは、ヒューズが洩らした内情に思わず声を大きくしてしまう。
本当に、が生き残っていたのは奇跡に近い。
そう思わざるを得ないほどの情報だった。
「信じられんかもしれんが、それくらいやばい奴がこの街をうろついてるってことだ。悪いことは言わん。護衛を増やしてしばらく大人しくしててくれ。――これは親友としての頼みでもある」
真摯なヒューズの言葉も、半分以上ロイの耳には入っていなかった。
「まずいな……」
「――エド君……」
同じことを考えていたらしく、マスタング父子の呟きが重なる。
わかっていないヒューズが怪訝に訊いてくるのを無視し、ロイは指示を出す。
「エルリック兄弟がまだ宿にいるか確認しろ。至急だ!」
「あ、大佐。私が司令部を出るときに会いました。そのまま大通りのほうへ歩いていったのまでは見ています」
憲兵が動くより先に情報をもたらしたリザが口を閉ざすか否かの間。
――リイィィィィ――――――――ィン……
鈴のような笛のような不思議な音がタッカー邸に……否、外にまで響き渡った。
音の源は、。彼女が吹き鳴らす透明なガラス製の笛の音だ。
大きな音量であるにも拘らず不思議と不快感を与えぬ澄んだその音が余韻を残す中、は唐突に走り出す。
「待ちなさい、! 君はここにいるんだ! !!」
「――誰か、彼女を捕まえて!!」
の意図に気付いたロイが叫ぶが、その制止をは受け入れなかった。経験上、止まらないだろうことを予測したリザの指示が間をおかずにの背を追う。
数人の憲兵がを捕らえようと動くが――とて二年間遊んでいたわけではない。迫る憲兵を軽やかな動きで全て避けつつ、隠し持っていた練成陣付のナイフを数本窓へと投げる。ナイフが窓ガラスに触れると同時、練成の光が窓を包み、は障害の消えた二階の窓から躊躇うことなく飛び出した。
「!!」
ロイの声が響くと同時。雨の降りしきる外へと踊り出たの体を、黒い影が攫っていった……
後に残ったのは数個の、ガラス玉に内包されたナイフと、床に散らばる幾つものビー玉だけ。
一連の動作の鮮やかさに一瞬皆が呆然とし、真っ先に我に返ったロイは声を張り上げた。
「車を出せ! 手のあいている者は全員大通り方面だ!!」
未だ降りしきる雨の中、タッカー邸は慌しく一気に緊迫した空気に包まれた。