夕刻。東方司令部医務室。
普段なら夕焼けで赤く染まっているこの部屋も、雨は上がったとはいえ未だ低く立ち込める黒い雨雲の所為で暗い。明かりをつけていないので尚だ。
明かりをつけていない理由はふたつ。ひとつは、ここの主である軍医が昼間の事件の所為で駆り出されているため。もうひとつは……この部屋のベッドに横たわる少女を気遣ってのことだ。
少女とは、当然。彼女は『傷の男』からエルリック兄弟を守るために男と一戦交え、その時の何かが原因で意識を失った。の異変に真っ先に気付いたのはロイ。雨に濡れた所為だけとは思えないほどに体温が下がり、呼吸も脈も安定していない彼女をリザに預けて先に戻るように命じたのだ。
そしてを連れて司令部へ戻ったリザは、の呼吸と脈が安定したのを見計らって彼女にシャワーを浴びせ、新しい服に着替えさせて医務室へと運んだのだった。
医務室へ来てしばらく経ち、の容態も安定してきている。
リザは彼女の首に手を当てた。ややあって手をどけると、安堵の息を洩らす。
「……どうだ? 様子は」
馴染んだ気配と共に、そんな言葉がリザにかかった。
特に驚くこともなく、を見つめたまま答えを返す。
「脈も体温も平常に戻ったわ。もう大丈夫ね」
「そうか……ロイたちも戻ってきた。は俺が見てるから、おまえは戻れ」
声の主は上官などではない。にも拘らず向けられた命令に、しかしリザは不快感を抱くこともなく席を立つ。
「じゃあ、お願いね」
「ああ」
短い遣り取りの後、声の主へ笑顔を向けて、リザは皆がいるであろう司令室へと向かった。
「に『傷の男』の攻撃が効かなかった?」
司令室の扉を開けたリザの耳に、そんなロイの言葉が入ってきた。
言葉の意味は理解できなかった。それは室内にいた者も同じなようで、誰もリザに気付いてはいない。
とりあえず、状況把握だけを済ませ、リザは室内へ足を踏み入れた。
「大佐?」
響くブーツの音と疑問符の乗った呼びかけに、ロイ含め全員が顔をあげる。
「あ、ああ、中尉。の様子は?」
「脈も体温も平常に戻りました。十六夜君が来てくれましたので任せてきましたが」
「そうか……」
「いざよい?」
リザの報告に安堵を表す面々の中、エドワードだけが怪訝な色を見せる。エドワードの言葉でそれに気付いたらしいアルフォンスも、少し遅れてそんな雰囲気で兄と共にロイへと目を向けた。
ロイは彼らを一瞥し、一応の答えを返す。
「満月の次の日の夜ないし月のことだな」
間違ってはいないが、エルリック兄弟の疑問には全く答えてはいない。
普段のエドワードに対するロイの態度から見て、今回のこともまたからかわれているとエドワードは思っているかもしれない。
今回ロイにそのつもりはないが、そう思われたほうが都合が良かった。
十六夜については、その責任と権利はにある。十六夜が彼らに姿を見せていないのなら、それはがそう望んでいないからだ。それをロイたちが明かすわけにはいかない。特に今は――
十六夜を知る者たちは、エルリック兄弟に彼のことを隠すの気持ちが良くわかっていた。
だからリザは、脱線していた話を元に戻す。
「それよりも大佐。先程は何を?」
「ああ……私もその事実を聞かされたばかりでね」
結局答えの得られなかったエドワードが一瞬むくれたようだが、ロイに視線で促されて真顔に戻り、もう一度説明する。
「『傷の男』の使う錬金術――奴が言うところの『人体破壊』が、には効かなかったんだ」
「具体的には、どういうことなんだ?」
「何ていうか……『人体破壊』でオレの機械鎧壊そうとした時みたいになってたんだよ。反発しあってるような……両方弾かれてた」
生体の構築式を用いては無機物を分解することはできない。無理に実行すれば反発するか、最悪術者に跳ね返る。
それが等価交換を原則とする錬金術の原理。
その原理によって反発しあった。それの意味するものは――
「じゃあ、何か? 姫さんは人間じゃないってことか?」
沈黙が支配していた場にハボックの声が静かに響く。
彼の言葉は誰もが考え、そして言いたくはなかったもの。
の体は確かに生身のモノだ。それは国家資格試験の際、身体検査で既に証明されている。何より『傷の男』が手を当てた部位は頭部。機械鎧などつけられる場所ではない。
無機物でもなく有機物でもない。ぬくもりを持ち血液が循環する、五感を有するそれは限りなく人間の体に近しくて、けれど全く異なる構成のモノ。
合成獣すら分解した『傷の男』の人体――否。『生体破壊』を拒絶したという事実は、まるでそのことの証明のようで……
「馬鹿なことを……」
呟かれたロイの言葉は否定を示すもの。しかしそれに含まれる感情は、完全に否定しきれてはいない曖昧なモノ。
一度目を閉じたロイは、何かを思案するというよりは疑惑を断ち切ろうとしているように見える。
ややあって、ロイは強い意志を秘めた黒曜石の瞳を晒し、組んだ両の手を強く握り締めて。
「は私の娘だ。それ以外の何者でもない」
自分自身に言い聞かせ、決意を堅固にするように。
ロイが告げた言葉を、誰も否定はしなかった。
そうであってほしい――と。その場にいた誰もが、強く……願っていたから……
体の機能が全て正常に戻ったことを知っているかのように、闇に沈んでいた意識が体へと戻る。
しかし目を開けた先も暗闇に支配されていて。
「……あれ?」
「起きたか。気分はどうだ?」
思わず呟いた言葉に、よく知った声が問い掛けてきた。
起き上がって声の主を探してみても……闇の中、動く影すら見つけられない。
「十六夜……だよね? どこ?」
「今、明かりをつける」
言うが早いか、周囲は光に満たされた。
暗闇に慣れた目には少し辛い。目が光に馴染んで、ようやく自分のいる場所を理解した。
「医務室……わたし、そんなに長い間寝てたの?」
「今は夕刻だ。長いと言えば長いな」
ベッドを仕切るカーテンの向こうから十六夜が姿を現す。道理で見つけられないわけだ。
は十六夜の姿を確認した後、自分の手に目を落として力を入れてみる。
握って、開いて。幾度か繰り返し、きちんと動くことに安堵の息をつく。
「どういう状態になっていたか、聞くか?」
十六夜の問いに顔をあげて……首を横に振る。
「いいよ。こうして無事にいるってことは、仮説が立証されたってことでしょ?」
十六夜は何も言わない。
も答えを求めて訊いたのではないので、別にそのことは気にしない。
「理由はわからないけど、『保険』があるってことだよね? 気兼ねなく無茶できていいんじゃない?」
「おい……おまえが平気でも、見てるこっちの心臓に悪い。無茶は止せ」
「あはは。でもさ、わたしの望みを叶えるには都合がいいと思うけどな。前へ、進めるよ?」
「……」
いつも通りに話していた。話していた、つもりだった。
だが、十六夜に向けていた笑顔を維持するのが辛くなって、隠すように俯いたに十六夜の声がかかる。
それでもは言葉を続けた。
「考えようによってはさ、望みが叶うって保障……あるみたいだし?」
「」
「そのために、今まで頑張って……きたんだし……」
「!」
十六夜の静かな声が、思いの他強く響いて……でも、未だは俯いたまま。
「怖いならそう言えばいい。泣きたいのなら、我慢せずに泣け」
弱さを曝け出すことを許されても、はかぶりを振って拒否する。
十六夜は、溜息と共に言葉を紡ぐ。
「。おまえは前へ進むと決めたのだろう? だったら今のうちに弱音を吐いておけ。ここは……甘えてもいい、帰るべき場所……なのだろう?」
ようやく顔を上げたの目に、十六夜の印象的な琥珀の瞳が映り込む。
彼の名の由来ともなっている月を思わせるその瞳の中に、今にも泣き出しそうな顔の自分を見つけて。
は、十六夜を抱きしめる。
「弱い自分はここに置いて行け。真っ直ぐ前へ進むためにな」
顔を埋めた暖かな体と、優しく力強い言葉に。
止められなくなった涙が……溢れた。
「……怖かった……っ」
口からこぼれ出た本心。
そう……今も怖い。
錬金術だけではなく、この世の全ては等価交換で成り立っている。
死を拒絶する自分の体……そんな世の理に反することが、ただで起こっているはずがない。必ず何かが代価として失われていく。
何が持っていかれるのかわからない以上、もう今日のような無茶ができるはずもない。
最悪、誰かの命を喰らって自分だけが生き残ることだって、十二分にありえるのだから。
――だから。
「怖かった……エド君やロイ兄が殺されるかもしれないって、知ったとき……すごく――怖かった……ッ」
怖いのは失うこと。
自分が死ぬよりも大切な者たちが死ぬことのほうが……置いていくよりも置いていかれることのほうが、ずっと……怖いのだ。
でも――これは、忘れてはならない痛み。自分の体に起こりうることを正しく理解し、受け入れるためには必要なこと。背負って……そして彼らを巻き込まないために……
それでも囚われてはならない恐怖を乗り越えるために、今はただ、自分を包んでくれているぬくもりに、はすがり付いていた。
医務室の前。薄く開いた扉から中を窺う人影がふたつ。
共に同じ青い軍服に身を包んだ彼らは、の様子を見に来たロイとリザ。
中へ入ろうと扉を少し開いた丁度その時、中からと十六夜の会話が聞こえてきて。入るタイミングを逃し、結果盗み聞きしてしまったのだ。
嗚咽だけが響く医務室への扉を、ロイは音を立てないようにそっと閉めた。
「――私の娘は、強いな……」
不意に、ロイは呟くように言った。
「強くて……そして、脆い」
「……大佐?」
ロイの意図が読めずに問いかけるリザに目を向けることなく、ロイは廊下の窓の外へと視線を移す。
「私は……あの子がいつでも帰ってこれる場所に――安らげる場所でありたいと、そう……思う」
厚い雲間からようやく見えはじめた夕暮れの光に照らされたロイの横顔に、リザは彼の決意を見た気がして、そっと目を閉じた。
「――はい……」
昼間の事件のため、夜を迎えても東方司令部には煌々と明かりが灯り、日中と変わらぬ人数が事後処理や今後の対策のために奔走していた。
エルリック兄弟も未だここにいる。一応念のため、今夜一晩は司令部の仮眠室で過ごすようにとロイから通達されたからだ。
普段とは違い、人の気配が絶えない夜の司令部。それでも全く人気のない場所は必ず存在するもので。
夜半過ぎ。
十六夜のおかげで己の抱える闇を何とか乗り越えたは、国家資格取得者の義務としてタッカー邸でのことと昼間の『傷の男』のことに関する報告書を作成し終え、荷物を取りにロイと共に一時家に戻ろうと日中でも人気のない廊下を歩いていた。
が進む廊下に人工の明かりはない。あるのは窓から注ぐ月光だけ。
それでも慣れ親しんだこの場所なら充分で、迷うこともなく歩みを進めていたは不意に足を止めた。
――前方に人の気配。
丁度柱の影にいるらしく、視認することはできないが……確かに誰かが、いる。
ロイではない。彼との待ち合わせ場所はまだ先だし、この非常時に隠れて人を驚かすような真似をする人でもない。ロイが自分の肩書きの持つ重要性を誰よりもよく理解していることを、は知っている。
普段の司令官がサボりの常習犯とはいえ、重大事件発生の最中にサボりかますような人材も東方司令部にはいない、と思う。
エルリック兄弟も明日朝イチの列車で発つとのことだからもう休んでいるだろうし、まして『傷の男』が司令部内まで乗り込んでくる可能性も――極めて低いだろう。
考えても答えが出るわけもなく、結局足音を消してそっと近付くと言う選択肢を選んだ。
影の中におぼろげに輪郭が見える位置まで近付いた時、それまで月を覆っていた薄雲が晴れて今まで以上の月光が注ぎ込む。
その、月明かりに照らされて浮かび上がったのは……淡く輝く金の髪。
金髪だけなら司令部にも沢山いるのだが、と然して身長の変わらぬ者など今は一人しかいない。
シャワーを浴びたのかいつものように三つ編みにはしていないし、トレードマークともいえる朱の外套も羽織っていないが、その人物は間違いなく……
「――エド、君……?」
こちらに気付いていなかったのか、呼びかけに対し勢いよく顔を上げたのは、紛れもなくエドワードだった。
「……?」
「どうしたの? こんな所で……」
「……おまえこそ……」
エドワードの言葉には眉をひそめた。
言葉……というよりは、声に。いつもとは違う覇気のない声。弱々しくさえ思える。それに……顔色が悪く見えるのは、果たして月光の所為なのだろうか。
「わたしは報告書、書いてて……初めてっていうのもあるのかなぁ……難しいと言うか、量が多くなっちゃってこんな時間までかかっちゃった。エド君……大丈夫?」
訝しむような顔を『つくって』見てくるエドワードも、には何かを隠そうとしているようにしか見えない。
「何がだよ」
ぶっきらぼうに言葉を返す様も然り。
押しても引いても素直になんかならないのがエドワード・エルリックという人物だろうが、はとりあえず『押す』ほうで攻めてみることにした。
「何か無理してない? すっごく辛そうなんだけど」
言って、エドワードに向けて伸ばした手はあっさり払われてしまう。
「なんでもねえ……――ッ!」
「エド君!?」
そのままを押しのけて去ろうとしたエドワードは低く息を詰め、前のめりに倒れかけた。咄嗟に手を伸ばしたを支えにして床と仲良くなることは免れたが、それでも膝をついたまま右肩を抑えるエドワードには慌てた。
「ちょっ、クリス先生まだいたかな……呼んでくるから、待ってて!」
「……ッ、いい! 呼ぶな!」
「でも……!」
「呼んでも、役に立たねえから、いいんだよ!!」
エドワードの意地っ張りさはそれなりに知っていたので、強引にでも軍医を呼びにいこうとしたのだが、彼の最後の言葉に動きを止めた。
「――……なんで?」
エドワードは、答えない。
理由を言わないなら無理にでも軍医を呼びにいくと心に決めたに気付いたかは定かではないが、エドワードが口を開く。ここまできたら、今更と思ったのかもしれない。
「……幻肢痛だよ……」
彼の口から洩れた言葉に、は目を瞠る。
幻肢痛――脊髄に蓄積された痛みの記憶によって、失ったはずの手足に痛みを感じる現象。
エドワードは、自分の不調は幻肢痛の所為だと言った。血の気の失せた顔に脂汗をにじませて右肩を抑える様は、確かに痛みに耐えているようで。
「右腕が、痛いの?」
答えずにただ右肩を押さえる手に力を入れるエドワード。彼の、手袋をしていない生身の手は、もう白くなるほどに力を入れている。
「だからこんなトコ、ふらふらしてたの? アル君に気付かれないために?」
「…………るせーよ……」
俯き、目を合わせようともせずに呟かれた言葉は、彼にとって肯定を示すもの。
どこまでも意地を張り続けるエドワードに、は嘆息する。
「ばか……エド君、自分に厳し過ぎだよ」
「いいんだよ……前へ進むためには、甘えてなんかいられない……」
このエドワードの言葉は、の怒りに触れた。
は考えるよりも先にエドワードの頬を両手でつまんで引っ張った。
「それがバカだって言ってるの! 人に『頼る』のと『依存』するのは違うでしょ! 一人で何でもかんでも抱え込んだら溺れるだけなんだからね! たまには誰かに抱えてる重荷を下ろしてもらわなきゃ、それこそ前へなんて進めなくなるんだよ……」
つい数時間前の自分と今のエドワードは全く同じだ。全てを一人で抱え込もうとして、けれど抱えきれずに潰れかけている。
同じだからこそ放っておけるはずもなく、同時に腹立たしくもあった。
エドワードが背負っているものをは知らない。でも……それでも頼ってほしかった。
そして、今のエドワードは幻肢痛の原因を乗り越えようとしていないことに、何より腹が立っていた。
前へ進むと言いながらエドワードは過去に囚われている。幻肢痛なんて、そのことの何よりの証だ。なのにエドワードは自分が後ろを向いていることに気付いていないのだ。
幻肢痛を乗り越えようとはせずに、ただ時と共に痛みが過ぎ去るのを待っているだけ。
それがにはわかって……腹立たしくて、そして痛々しくて。
はエドワードの頬から手を離すと、今度は彼の背に手をまわして抱き寄せた。
「な……っ!?」
「……もう、いいよ……ここにアル君はいないし、わたしのこともいないって思っていいから……」
自分の体を押し返そうとするエドワードの体を、は半ば強引に抑えつけた。
片腕だろうと彼が万全の体調だったのなら、の束縛から逃れるのは簡単だったのだろうが。今のエドワードはの力でも易々と抑えつけることができる。
こんな弱々しい彼を目の当たりにして、どうして放っておけようか。
「だから……今だけ、全部忘れちゃって……頭の中さ、空っぽにしてゆっくり休もう?」
抵抗する気配のなくなったエドワードの背を、軽く数度叩いたあと優しくさする。
母親が泣いている子供にするようなその仕草は、普段のエドワードなら「子供扱いするな!」と怒るモト。だが、今は余程余裕がなかったのか怒鳴ることもなく、かえって残っていた左腕をの背にまわしてきて。
小さな吐息が、彼の口から洩れたのがわかって……
は、ずっとエドワードの背をさすり続けた。
見上げれば、星々に抱かれた明るい満月。
昼の嵐の名残ももはやどこにもなく、地上にある全てのモノを優しく照らす月影の中、二人の子供は全く同じことをその心に刻む。
――例えどんなに重荷を背負おうと、望む未来のために前へ進む、と……
第1話 うごきはじめるうんめい・完