鏡の前、そこに映る己を見ながら髪を後ろでひとつに括り、もう一度くしを入れて整える。そして真新しい白いコートを羽織って、おかしなところがないか確かめた。
全てに納得がいくと、足元の大きめなトランクに手を伸ばしかけて、途中でやめる。代わりに、惜しみない光の注ぐ窓へと歩み寄った。
窓を開け放つと、朝の清々しい外気が流れ込んでくる。雨上がりというのも良い相乗効果だ。
草木に残る水滴に陽の光が反射していて、実に綺麗だった。
まるで、自分の旅立ちを祝福してくれているようだ――と。そう思うのは、都合が良すぎるだろうか。
くすっと、笑みをこぼして窓を閉めると、今度こそトランクと――それとは別に綺麗にラッピングされた大小ふたつの包みを手にして、は医務室を出た。
一歩廊下へ出れば、静かな中にも慌しい空気が漂っているのを肌で感じる。
そのくらいに馴染んだ場所、通い慣れた道順。
そのひとつひとつを噛み締めながら進んでいく。
淋しくは、ない。むしろ嬉しいくらいだ。二年間自分を育んでくれたこの場所は、欲しいと願っていたモノを与えてくれた。そして……
辿り着いた目的地。その扉をノックし、中からの応答を待って開け放つ。
正面にある、一面のガラスから射し込む光に満ちる室内。窓を背に置かれた机には良く知る男が、その机の前には見馴れた顔触れがあった。
「支度は整ったのかい?」
真っ先に声を掛けてくれたのは、机につく人物。がここに来て一番初めに受け入れてくれた人。黒髪の好青年、養父ロイ・マスタング。
「ばっちし!」
Vサイン付きで返すと、他の者の笑顔が深くなる。優しく暖かなその雰囲気につられるように笑った後、は表情を改めて姿勢を正すと深々と腰を折った。
「わたし、・マスタングは本日エルリック兄弟と共にここを発ちます。皆さん、二年間お世話になりました」
ゆっくりと顔を上げると、期待を裏切らず目を丸くした面々がいて。思わず声を立てて笑った。
その様子に呪縛が解けたようにハボックが後頭部を掻いて。
「なァ~んか、今生の別れっぽいんスけど?」
「そんなつもりはないよ~? 一応けじめとして言っただけだもの」
「ということは、また戻ってくるってことですよね?」
「もち!」
ハボックに続いてのフュリーの問いにも笑顔で即答。
いつも通りの変わらぬ軽い遣り取りに、不安の色を見せていた彼らに安堵が浮かぶ。
全員から不安が消えたのを見計らって、はロイのもとへ行く。そして手にした包みの内大きいほうをロイに、小さいほうをリザに手渡した。
二人は不思議そうに手渡された包みを眺める。
「……これは?」
「ん? お礼かな」
「――って、俺らにはないんスか? 姫さん」
ロイとリザにだけ渡したプレゼント。不満そうに声を掛けてきたのはハボックだが、他の者たちも似たり寄ったりで、は苦笑するしかない。
「ごめんね~、ないんだ。これは父の日と母の日のプレゼントだから」
ずっと前から決めていた――否。憧れていたこと。
『初給料で親にプレゼントを買う』――これを実行したのだ。
実の親では為し得なかったことをしてくれた二人に、ありったけの感謝を込めて。給料とは少し違うけど、それでも親ではない人から、自分の働きによって得た金銭だから。
の言葉に、ロイはともかくリザのほうは驚きを隠せない模様。それ以上にハボックたちも驚いていて。
「……『母』……?」
誰の口からともなくこぼれた言葉。
皆の視線がリザに集中して、それからに向く。
それがなんだか面白くて、でもくすぐったいような照れくさいような感じがして、曖昧に笑う。
「ロイ兄はわたしの父親になってくれた。わたしを本当の子供のように愛してくれた。わたしにとってロイ兄は最高の父親なの。それと同時に、わたしにはリザ姉は母親だった。だから……ね」
目を閉じれば、すぐに思い浮かべられるここで暮らした二年間のこと。
ロイもリザも惜しみなく与えてくれた優しさも厳しさも力強さも……全てが欲しかったもの。愛してくれる人――庇護してくれる存在。
恋人でも友人でもなく、親という最も近しい理解者。
突然の告白に、言われた二人は顔を見合わせて、そして同時に微笑んだ。
「ありがとう、」
「光栄だね」
親が子に向けるそのままの笑みを返してくれたことが嬉しくて、は二人に抱きついた。
「気を付けて行っておいで」
「……うん」
「いつでも帰ってきていいからね」
「うん!」
そう、淋しいことなどあるわけがない。
笑顔で見送ってくれる人がいる。帰ってきてもいいと言ってくれる人がいる。
見送って、そして迎えてくれる人のいる喜びを教え、与えてくれたのはここだから。
「ヒューズ、後は頼んだぞ」
「おう」
ヒューズの後に続いて扉をくぐる前、は室内を振り返って満面の笑顔で言った。
「――いってきます!」
様々な人の行き交う駅のホーム。
エドワードは列車の窓から、早朝でもそれなりに人の多いホームを眺めるということもなく目を向けていた。
目を向けてはいても見てはいない。自分の隣、座席の大半を陣取る護衛役のアームストロングの存在も気にならないほどにぼーっと……ただ、ひとつのことを考えていた。
それは昨晩のこと。
幻肢痛に苛まれて、それをアルフォンスに悟られないように仮眠室を抜け出した。誰にも癒せるものではないことは知っていたし、誰かに頼ることを……弱っている自分を見せることを、プライドが許さなくて。人気のない場所をふらふらしていた時に、に出会った。
余程調子が悪かったのか、隠していたことも全て見抜かれてしまい、挙句抱きしめられて、そのぬくもりについ縋りついて……涙を流してしまったのだ。
けれど、その先の記憶がなかった。
気が付いた時はもう朝で、仮眠室の抜け出す前に使っていたベッドの中にいた。
――あれは、ただの夢だったのだろうか。
それはそれで問題があるが、むしろ夢であってくれ、と。そう思うのに、何かが引っかかる。
そんなことを延々と考えていたのだが、ふと目の前の窓を叩く手に気付いた。
「ヒューズ中佐!」
「よ」
片手を軽く挙げている見知った男に、エドワードはアームストロングの手も借りて窓を開ける。
「司令部の奴ら、やっぱり忙しくて来れないってよ。代わりに俺が見送りだ」
見送りなど別に欲しいとは思わない。むしろ東方司令部の面々が来なくて良かったとさえ思う。どうせ、来たら来たで嫌味を言われるか、からかわれるかのどちらかだから。
だから来たのがヒューズであることに、エドワードは少なからず安堵する。
その安堵感からか、つい気になっていたことを口にしてしまった。
「あ、中佐。その……は……」
そこまで言って、その先の言葉が思い浮かばなかった。そもそも聞いたとてどうなることでもない。
僅かに唸った後「何でもない」と言ったエドワードに、ヒューズはにやりと笑った。
「お、なんだなんだ? 嬢ちゃんが気になるのか? とうとう豆も色気づいたか?」
「だあ――――――!! そんなんじゃねえ!! ってか豆って言うな!!!」
「おー、そうだ。ロイから伝言を預かって来たんだった」
「大佐から?」
どうせ大したことではないんだろうなと思いつつ先を促せば。
「『事後処理が面倒だから、私の管轄内で死ぬことは許さん』……以上」
案の定。
見送りに来ようが来まいが結果は変わらないらしい。
エドワードは血管が切れそうになりながら、伝言を返す。
「『了解。絶対てめーより先に死にませんクソ大佐』って伝えといて」
「あっはっは! 憎まれっ子世にはばかるってな! おめーもロイの野郎も長生きすんぜ! ……っと、あと少佐に」
人好きのする笑みを浮かべた後、ヒューズはアームストロングに視線を移した。
「何でありますか」
「『くれぐれもよろしく頼む』と」
「はっ。十二分に心得ております」
自分の頭上で交わされる意味深長な会話。その内容は己のことではないのはわかるが、一体何のことなのかはわからず首をひねる。
しかし『頭上』と言うところが癇に障ったが、それで暴れては本当に幼い子供と変わりないので何とか鎮めた。
丁度良いタイミングで、ホームに発車を告げる笛の音が鳴り響いた。
「じゃ、道中気を付けてな。中央に寄ることがあったら声掛けろや」
敬礼を交わし、そして列車は走り出した。
ホームが視界から消えて代わりに広大な緑が見えた頃、エドワードは窓を閉め座席に落ち着いた。
「我輩は機械鎧の整備師とやらを見るのは初めてだ」
見計らっていたようなアームストロングの言葉に、簡単に説明する。
「正確には外科医で技師装具師で機械鎧調整師かな。昔からの馴染みで、安くしてくれるしいい仕事するよ」
「その整備師のいるリゼンブールとはどんな所だ?」
「すっげー田舎。なんもないよ。つーか、東部の内乱の所為で何もなくなっちゃったんだけどね。軍がもっとしっかりしてりゃ、賑やかな町になってただろうなぁ」
半ば嫌味で言った言葉は、ずばりぐっさりアームストロングの心に刺さったようで。
「耳が痛いな」
「そりゃいい。もっと言ってやろうか」
暗くなって呟くように言葉を洩らした彼に追い討ちを掛けてやる。
少佐苛めでストレス解消したエドワードは、もうのことで悩んではいなかった。久々に話す故郷のこともあるのかもしれない。
「……本当、静かなところでさ。何もないけど、都会にはないものがいっぱいある。それがオレたち兄弟の故郷、リゼンブール」
窓の外にある景色を眺めながら故郷に思いを馳せていたが、ふとあることが気になりアームストロングを仰ぎ見る。
「ところで、アルはちゃんとこの汽車に乗せてくれたんだろうな」
「ふっふ――。ぬかりはないぞ」
妙に自信ありげなその様子に嫌な予感を覚えなくもない。
案の定なのか、彼の口から出てきたのは『家畜車両』という言葉。
「一人じゃ淋しかろうと思ってな!」
「てめぇ、オレの弟を何だと思ってんだ!!」
「むぅッ、何が不満なのだ! 広くて安くて賑やかで、至れり尽せりではないか!」
「ふざけんな――――――――――っ!!!」
「あはははは、賑やかだね~。見つけやすくていいけど!」
突然耳に入り込んできた聞き慣れた声に、はたと動きを止める。一気に頭に昇っていた血はもとに戻ったが、代わりに真っ白になって。ただ条件反射で振り返れば、そこには予想に違わず一人の少女が立っていて。
「……な……」
「遅かったですな、殿」
「そう? これでも割と早く見つけたと思うんだけどな」
「な、なな……っ」
「で、夕べは良く眠れた? エド君」
エドワードの正面の席に腰を下ろす黒髪の少女は、紛れもなく・マスタングで。
「なんでがここにいるんだ――――――っ!!?」
「エド君、他の人の迷惑になるから少しは静かにしようね。それと、人を指差すのはやめましょう」
思わず指差して叫んでしまったエドワードは、冷静なの突っ込みで我に返り渋々手を下ろす。代わって浮上するのは、先ほどの彼女の言葉。
まさか、と思いつつ目を見開くように凝視する前で、は持ってきた大きなトランクを開けて中からひとつの封書を取り出した。
「はい、これ」
「なんだよ?」
渡されたそれは軍仕様の、いわゆる命令書等に使用されるもので。再び嫌な予感を覚えつつ封を切る。
拝命証と似た感じの紙が顔を出し、開かれた中に現れた文字は……
【 鋼の。
私が教えられることは大体伝い終え、は旅に出ることにしたらしいのだが何分経験不足でな。一人で送り出すにはいささか不安が残るのだ。
そこで、一応経験豊富な君たちに預けることにした。
色々教えてやってくれたまえ。ああ、あまり危険な目には遭わせないようにな。
ちなみに、断ると言うのなら軍法会議が待っているのでそのつもりで。以上。
焔 】