――どうして、こんなことになってしまったの……
床に広がる赤黒い水溜まり。むせ返るほどの鉄錆の臭い。人の形を失い散らばる肉塊。濁り虚ろとなったいくつもの瞳。
狂喜を孕んでぬらりと輝く眼。張りつけられた笑み。耳障りな笑い声。
――こわい……だれか……
鈍く光を反射する刃――血塗られた鋭い、牙。
動かない体。出ることのない声。――向かいくる、『死』……
――いや……死にたく、ない……っ、誰か、助けて……っ!!
《 ―― 主ッ !! 》
赤黒い闇を、突然まばゆい光が切り裂いた。
あまりに急な変化に思考が追いつかない。目の前に満ちていた『死』の光景が消えたことに気づくまでに、一体どれほどの時間を要したのか。
《 大丈夫でございますか、主? 》
気遣わしげな声が頭の中に優しく届き、ほとんど停止していた思考の活動を促す。
視界に映るのは、うっすらと射し込む光に照らされた古びた天井。うるさいぐらい耳につくのは、身の内から響く己の鼓動と――荒く繰り返されている口呼吸。
ピクリと反応した指の感覚――思いどおりに動かせることを確認するためにも、震え力の入りにくい右腕を無理矢理持ち上げ、目の前まで移動させる。
視界に入った己の右手の甲には、人の身にあるはずのないモノがあった。
それは、青く澄んだ美しい真球の石――
「ラファ、エル……」
《 はい、ラファエルですわ、主。大丈夫でございますか? 》
かすれた声で呼びかけると、応えるように石が煌き、そして頭の中に声が届く。
『ラファエルの瞳』――彼の世界で神の力を宿す魔石といわれ千年もの間、争いの種、また道具となってきた、対を成す石の片割れ。
あの、地獄のような光景の中から、己を救い出してくれた――存在……
深い海のように、高い空のように。美しい、果てのない青……見つめていると、負の感情が吸い取られていくように感じ、乱れていた心と呼吸とが落ち着いていく。
意識して大きく息を吐き出し、『瞳』を額に当てて双眸を閉ざして。
「起こしてくれてありがとう、ラファエル……もう、大丈夫よ」
《 礼には及びませんわ。わたくしはあなたを守るための存在ですもの。いつでも、最後まで、わたくしが共におります。どうかご安心くださいませ、我が主 》
「……ありがとう……」
パシュッと軽い音がして、額に当たる固い感触が消えた。目を開け確認した右手には、先程まで石が埋め込まれていた痕跡など一切ありはしない。ごく普通の、人間の手があるだけだった。
布団の上に右腕を投げ出して、一呼吸。重い体を動かし、ゆっくりと起き上がる。
カーテンから漏れる薄明かりに浮かび上がっているのは、引っ越してきてまだ日の浅い自室。学校側が奨学生のために用意している古いアパートの一室は決して広いとはいえないが、養護施設で育った自分にとっては充分すぎるものだ。
中央にある小さなテーブルの上に置かれた時計の針は、8時を差している。
学校は、徒歩圏内。急げば遅刻を免れることは可能、だけど……
「ごはん……食べなきゃ…………食べたく、ないけど……」
食欲がなくてもせめてシリアルだけでも胃に入れておかなければ、貧血を起こすのは必至。
それ以前の問題として、今のこの重い体では、急ぐという行為自体が実行不能なのだ。
乱れた呼吸と鼓動による肉体的な消耗に加え、ひどい恐怖心が鎮まったばかりの精神状態は虚無に陥っており、何かをしようと思う気力を取り戻せるまで、まだしばらくの時を要するから。
事実、起き上がりはしたものの、座り込んだままの体に動く兆候は全くない。
……悪夢を見た時点で遅刻することは決定づけられた未来であり、今の自分にはそれが許されている。
状況や環境を言い訳にする思考は、単なる現実逃避であり、甘えだ。
頭では――理性では、それを理解していても……心は、なかなか強くはなれない。
それが、自分という人間の現実。
だからこそ、不思議でならない。
「……ラファエル……あなたは、どうしてわたしのところへ来たの? わたし、あなたの主になれるような器じゃないわ……」
《 そのようなことはございません。主の心はとても美しいですわ 》
『瞳』の操者として分不相応な者は、精神が破壊されてしまうのが理。無事に『瞳』を受け入れられている時点で資格があることは証明されており、ラファエル自身も認めてくれている。
けれど、己自身は、それを、認められない。
――『瞳』に関する理が働かないのは、今いるこの世界が『瞳』の属する世界とは異なるからなのではないか、と……
世界の理すら疑うような己の心が清いはずがない――
ピクリ、と。動いた指の感覚に、深く沈み込んでいた思考の海から現実へと意識が浮上する。緩慢な動きで頭を振り、今まで何度考えたかわからない否定的思考を追い払う。
考えたところで、目の前にある現実は何も変わりはしないのだ。今、自分がすべきことは、無駄な思考に没頭することではなく、学校へ行くために動き始めること。
自分で自分を認められなくても、認めてくれる存在を支えに立ち上がることはできる。
認めてくれたその想いに応えることこそ、生かされた者の果たすべき義務だと……そう、思うから。
深呼吸をひとつ。学校へ行くという目的に思いを集中させることによって、ようやくは布団から抜け出すことに成功した。
「……っ」
「リン、大丈夫?」
「すみません。少し休ませてください」
左足首に走った激痛に息を詰める。
体の反射反応を意志の力で抑え込むなど、ほとんど不可能なこと。密着した状態で硬直してしまえば、余程の鈍感ではない限り相手に伝わるのは道理。まして、それなりにつきあいの長い人物が相手では、誤魔化せるはずもなく。
素直に音を上げたリンは、支えてくれているジーンに一言断わって校門に寄りかかった。
意図せず長く吐き出された息は、果たして痛みをやり過ごすためか、それとも嘆息か。
――全く、余計な怪我を負ってしまったものだ、と。
そう思った時点で、後者なのだろう。
本格的に調査が始まって間もない時分だというのに、この怪我ではリタイヤは必至。メカニックとしての役目は疎か、未成年でありながら上司に当たる双子の監視役という最も重要な務めを早々に中断せざるをえないというのが、何よりの痛手だ。
これが単純に自分のミスや、心霊・超常現象による怪我なら、まだ諦めもできよう。しかし、無関係な子供の悪戯の結果では、治まりがつかない。
やはり、日本になど来るべきでは――
「……あの……どうかしたんですか?」
苛立つ思いのままの思考に没頭していたリンは、唐突に聞こえた少女の声で現実に意識を戻された。顔を上げれば、現状を招いた子供と同じ服装・年頃の一人の少女。
この学校の生徒であるのは、まとう服装が告げている。しかし、明らかに遅刻であるにも拘らず急ぐ様子は見られない。
――と。こちらの様子を確認したのだろう。顔色を変えた少女が小走りに近づいてきたではないか。
「怪我をしたんですか!?」
「病院に行くところだ。君は――」
あしらおうとしたのだろう。対応に出たナルが、言葉を切った。
リンも、己に向かって伸ばされた手を、先程同様払うつもりでいた。怪我を負わされた上に、遅刻を正当化する言い訳に利用されるなど冗談ではない。
確かにそう思ったはずだったのに。
怒りにも似た嫌悪感は驚愕に塗り替えられ、予定していた行動はキャンセルされた。
伸ばされた少女の手は、リンに触れるには遠い位置で停止し、手とリンとの間に淡い光が生まれ、リンの体を包み込んだから。
「……頭を、打っていますね……そちらは病院できちんと検査してもらってください。切れた額は止血しておきます。あとは……左足首ですね」
一体何が起きているというのか。
理解が追いつかないこちらに構う様子もなく、目を閉じた少女は呟くように言葉を紡いでいく。そして、一度光を消すと、その場に膝をついて屈み、リンの左足首に左手をかざした。
先程よりも強い光が、患部を球状に包み込む。ひどく清らかであたたかな気の流れとともに、リンは痛みが引いていくのを感じた。
既存の知識には当てはまらない、ヒーリング能力。現象も然ることながら、その威力も圧倒的なそれに、ナルもリンも言葉が出ない。
ただ見守ることしかできない二人とは違い、ジーンは少女の傍らに同じように膝をついて屈むと、興奮した様子で話しかけた。
「ねえ君、ひょっとして去年の冬、長野の山の中の道路で轢き逃げの現場を目撃しなかった!?」
「――え…………ええ、はい……見ました、けど……?」
集中を妨げられたからか、それとも記憶を探っていたからか。僅かな沈黙を経て答えを返した少女は、気圧されたように身を引いた。
少女の反応など眼中にない様子で、ジーンは見る間に満面の笑顔になり――
「やっと見つけた!!」
「ひっ……いやああああっ!!」
がばっと、少女に抱きついた。――刹那。悲鳴とともに光に包まれた少女。光に押され、弾かれ、ジーンの体は強制的に少女から引き離されて地面に転がった。
一瞬の出来事だった。
状況を正しく認識し、把握するより先に、少女は逃げるように校舎のほうへと走り去っていった。
「今のは、PK、か?」
半ば呆然とし驚きを隠せない様子でナルが呟いた。少女が走り去った方向を見ていた彼は、次いで吹き飛ばされた片割れへと目を向ける。
頭でも打ったのだろうか。仰向けに倒れたまま微動だにしないジーンは、けれど満面の笑みを浮かべたままで。
なんて器用な……と。呆れたリンの前で、盛大な嘆息を落としたナルが、顔を向けてきた。
「リン、一人で歩けそうか?」
「ええ、痛みは大分なくなっていますので。完治には至っていないようですが、塀を支えにすれば歩けると思います」
「なら、なんとか自力で歩いてくれ。僕はこの馬鹿を運ぶ」
「はい」
呆然としていても仕方がないとでもいいたげに指示を出す上司に、リンは同意を以って追従する。……あのときとは、違って。
日本に来ることは、はっきりいって乗り気ではなかった。双子の両親に頼み込まれなければ、おそらく了承したりはしなかっただろう。
名目は、日本における心霊研究の現状と心霊現象の調査だが、その実は――単身日本で調査していたときに事故に遭ったジーンを救った恩人を捜すための来日。
手がかりは、『治癒能力者』であり、ジーンと年の近い『少女』だということしかない上、そもそも事故によって朦朧としていたジーンの情報ということで、リンは全く信じていなかったから。
情報が信用できるほど確かだとしても、途方もない時間がかかるのは目に見えている。
そのような状況で、己が嫌悪感を抱いている国に行きたいなどと、誰が思うのか。
それが分室を置いて初めての依頼で――事故現場には程遠く完全に予想外の場所で――見つかった……その上、件の治癒能力を我が身で体験することになろうとは……
良いとも悪いとも判断のつかない予感めいたものを感じながら校舎を一瞥し、リンは病院へ向かって歩きだした。
転げるように校舎に逃げ込んだは、昇降口で力尽きたように座り込んでしまった。
心は恐怖に満ちて悲鳴を上げている。もっと先まで逃げたいと叫んでいる。――けれど、体がひどく震えて力が入らないのだ。
《 主、落ち着いてくださいませ。大丈夫でございます。わたくしがおりますわ 》
頭にしみ入るラファエルの声、出現したままの『瞳』……それらが、恐怖一色だった心に僅かに冷静さを――思考力を呼び戻す。
走ってきたからではない呼吸の乱れを自覚し、治めようと自らの呼吸に意識を傾ける。
右手を胸元に当て、より強く呼吸の乱れを感じ取る。左手を更にその上に重ねて、『瞳』を覆い隠す。
――ここは、自室ではない……いつ誰が来るともしれない場所だ……早く、『瞳』をしまわなければ……
心の中でラファエルに礼を告げ、『瞳』をしまう。軽い音とともに固い感触が消えても、左手を下ろすことはできなかった。
呼吸の乱れはまだ治まらず、体も未だ震えたままだ。
それはぶり返された恐怖だけによるのではない。突きつけられた現実に対する失望のためでもある。
いくら悪夢を見てから然程時間が経っていないとはいえ、『瞳』の力を発動してまで拒絶するほどに恐怖をぶり返してしまうなんて……悪夢の元になった事件から十年以上経った今でも、何も変われていない証拠だ。
一体、いつまでこの闇に囚われなければならないのだろう――と。
じわりと目頭が熱くなった――刹那。
「大丈夫?」
「っ、やっ!」
「ごめんなさい、落ち着いて、大丈夫。私よ、保健室の養護教諭」
肩に触れられ、反射的に手で払った。
怒ることも驚くこともなくすぐさま手を引いたその人物の言葉に従い、恐怖に追いやられている冷静さを引き寄せようとした。意識して息を吐き出しながら、声をかけてきた相手を見る。
白衣をまとったふくよかな体型の女性……見覚えは、ある。彼女が言ったとおり、保健室で、何度も世話になっている相手だ。
「せ、んせ……」
「大丈夫? 立てる? とりあえず保健室へ行きましょう? 今の状態じゃ授業を受けるどころか、職員室にも行けないでしょう?」
見知った相手の、女性。事実を受け入れ肩から少しは力が抜けたのがわかったのか、養護教諭は次の行動を示して手を差し伸べてきた。
考える間も与えないかのように次の行動を示してきたのは、その力が低下していることを知っているから。遅刻について何も言及しないのも、原因を察しているからだろう。
深呼吸を幾度か繰り返し、乱れている呼吸と鼓動を落ち着かせる。そうして、まだ少し震えの残る体を叱咤して、忍耐強く待っていてくれた養護教諭の手を取り、は何とか立ち上がった。
――あの日は、冬の僅かな晴れ間……小春日和の一日だった。
子供の限られた移動力では頻繁に訪れることが難しい位置にあった、一昨年にできたばかりのダム湖。進学先は諸々の事情から県外であるのは確定していたため、滅多に来れなくなるだろうと思って足を伸ばした、その帰り道の出来事。
けたたましいブレーキ音のあとに衝撃音まで聞こえて、事故が起きたことはすぐにわかった。だが、肝心の事故車は見当たらない。一本道であっても山中はカーブが多いため、山肌の陰になっている場所なのだろうと、音のしたほうへは急いだ。
カーブを曲がり先が見通せる位置に来て、ようやく倒れ伏している人影が見えた。
そして、目を、瞠る。
事故の跡が生々しく残る一台の車が、スピードを上げて真っ直ぐに倒れ伏す人影へと向かっていっていたから。
止めを刺す気だと理解した瞬間、は『瞳』を発動させていた。
倒れ伏す人物を守るために作り上げたシールドによって、車は再び傷を負った。それでも止まることなく動き、真っ直ぐ自分に向かってきた車という凶器――運転者の狂気に、一瞬身動きができなくなる。轢かれるすんでのところでラファエルがその翼で飛びかわしてくれて事無きを得、車はそのまま逃走したようだった。
それを確認する余裕を奪ったのは、呼び起こされた恐怖。囚われずに済んだのは、轢き逃げされた人物の存在があったから。
――けれど。
傍らに降り立ち翼をしまって確認した被害者の状態はあまりにもひどくて、血まみれの記憶が、悪夢が、フラッシュバックしてしまった。
それでも、目の前にいる人物はまだ生きているという現実が、人の手――現代医療では助けられないという事実が、を動かした。
年の近い少年だったらしい被害者の傍らに座り込み、その手を握って、ヒーリングを施した。命にかかわる大きな傷から優先的に癒していった。
程なくして、が来た方向から一台の車が通りかかり、運転手の男性が救急車を呼んだりという一般的な処置の全てを引き受けてくれた。は救急車や警察が来る前に現場を離れ、その後一切この件には関わらなかった。
後日、通りかかった車に搭載されていたドライブレコーダーの映像から、轢き逃げ犯は逮捕されたとニュースで知った。
ニュースを見たあと『瞳』のサーチ能力を使って、被害者の少年の様子を一度だけ確認した。包帯だらけではあったがちゃんと生きていて、家族の人たちとだろうか、笑っている姿を見て、心底安堵したのだった。
犯人は捕まり、被害者も無事で、事件は解決した。ただの通りすがりである己が関わる理由もなく、受験などの日々の生活に追われるうちに、この出来事自体をすっかり忘れてしまっていた。
あの出来事にが関わっていることを知っているのは、轢き逃げ犯と、通りかかった車の運転手の男性――だけだと思うが……あのとき、意識がかろうじて残っていたとしたら、被害者の少年もということになる。
つまり、今朝のあの少年は、あのときの轢き逃げされた被害者、ということなのだろうか……
「あ、!!」
放課後。何とか二時限目からは授業に出れたものの、今朝の少年の言葉から過去の記憶を回想していただけで終わってしまったは、帰るため教室から出たところで名を呼ばれて顔を上げた。
クラスは違えど同じアパートに住む縁から親しくなった谷山麻衣が、涙目で駆け寄ってくるのが視界におさまる。
「麻衣ちゃん……? ――と……」
駆けてきた勢いのまま抱きつかれたが、勢い余ってよろめきはしたものの今朝のような拒絶反応は出さずに済んだ。時間が空いて大分落ち着けたこともあるが、麻衣がスキンシップを好む傾向にあることを知っていたため前もって心構えができたことが大きな要因だろう。
安堵の息をこぼすと転ばずに済んだことに対してだと受け取ったのか、麻衣は体を離して小さく謝罪を口にした。苦笑を返して、彼女の背後――ゆったりと歩いてくる人物へ目を向けた。
放課後を迎えたばかりの校内において、私服をまとい悠々と闊歩する少年。その所作に加え、整った顔立ちでありながら無表情なこと、そしてダークカラーの衣服に身を包んでいることが相俟って、近寄り難い印象を受ける。
それだけではなく……何だろう……違和感のようなものを感じる気がする……
よくわからない感覚を持て余していると、会話をするのに充分な距離で足を止めた少年と目が合い、彼のほうから話しかけてきた。
「丁度よかった。君に頼みたいことがあって捜していたんだ」
「あ……今朝、の……?」
違和感に気を取られていたが、少年の言葉で初対面ではないことに気づく。人の顔――特に男性の顔は見ないようにする癖があるため、すぐにはわからなかった。
同じ理由で、件の轢き逃げの被害者が今朝の少年と同一人物なのか確信が持てずにいるのだが。
それはさておき。
確認のように呟いた言葉に少年が首肯を示すとほぼ同時、麻衣が驚愕に声を上げる。
「え!? 、こいつと知り合いなの!?」
「え、ええ、まあ……今朝わたし遅刻しちゃったの。そのとき、正門の所で病院へ行くところだという彼らに会ったの」
「う……っ」
「とりあえず、場所を変えよう」
概要を以って疑問に答えると、何故か麻衣は言葉を詰まらせ視線を泳がせた。
何やらあまり良くない心当たりがあるような反応だが、本人に言う気がないものを聞く気はない。それ以前に、少年の言葉で周囲にいる生徒たちの注目が集まっていることに気づき、彼の提案に従うことを優先した。
少年のあとについて歩き、ひとまず校舎を出た。
人けがなくなったところで、は気になることを問いかけてみた。
「あの……今朝の人の容態は……」
「左足の捻挫。頭のほうは今のところ異常はないが、大事をとって今夜一晩入院だ」
「……もう一人、は……?」
「あの馬鹿は自業自得だから気にしなくていい」
癒しが中途になってしまった男性は案の上の結果。気になったのは、むしろ己が吹き飛ばしてしまった少年のほうだ。
反射反応だったため、力加減など調節するような余裕は微塵もなかった。
姿が見えないのは、もしや打ち所でも悪かったのでは――と。そう思っての問いかけに、少年はバッサリと辛辣な言葉で切り捨ててきた。……少なくとも大事はない、と受け取っていいのだろうか。
対応に困ったとき、ざりっと音を立てて足を止めた麻衣が半ば少年との間に割り込むようにして体を反転させ、勢いよく前を行く少年を指差して、言った。
「ちょっと聞いてよ! たかがカメラ一台にウン千万とかおかしくない!? わざとじゃないのに、壊れたカメラの弁償が嫌なら怪我した助手の代わりしろって言うんだよこいつ!? 横暴だと思わない!?」
怒り、苛立ちといった強い負の感情を向けてくる麻衣に、意図せず足が後ろへ下がる。
同意を求めているのはわかるが、残念ながらには同意できる点が見つからない。
それよりも、少年に対して感じている違和感のようなものと同じ感覚を、麻衣の言葉に対して抱いたことのほうに気を取られてしまった。
違和感、というか……どこかで聞いた覚えがあるような……?
「えーっと……カメラに限らず、プロ仕様のような専門的なものは値が張るのが相場だから、おかしいことはないと思うけど……」
「問題はそこじゃなくって!!」
「助手代理?」
「そう!」
「期限は?」
「知らん!」
「……旧校舎を調査する間だ」
「そんなに!?」
「怪我をした彼の代わりを果たすのだから当然だろう」
「人道的、道徳的に反するような仕事でないのなら、それだけの金額の代わりの労働を僅かな期間で済ませてくれるのは、むしろ良心的じゃないかしら」
「そんな!? の裏切り者ぉー!!」
肩にしがみつかれて叫ばれているのに、それすら遠くに感じるほど思考に沈んでいく。
――旧校舎の調査、壊れたカメラの弁償、怪我をした助手の代理――轢き逃げされた少年――谷山、麻衣――
やはり、覚えがある……何かが、引っかかる。
麻衣から少年へと視線を移す。
濡れ羽色の髪、闇色の瞳、端正な顔立ち――けれど、黒衣ではない少年……そう……違和感を覚えたのは黒衣ではないからだ。だが、何故そう思うのか。
「君のほうが物分かりはいいな。僕は渋谷一也という。君の名前を聞いても?」
「です……旧校舎の調査と仰いましたが、お仕事は何を……」
「ゴーストハント。校長の依頼を受けた『渋谷サイキック・リサーチ』の所長だ」
渋谷一也と名乗った少年の答えに、一拍置いて目を瞠った。
すべてが、繋がった。思い出した。思い、出せた。ようやく。
『渋谷一也』ではなく、『ナル』……『SPR』の『オリヴァー・デイヴィス博士』――だ。
なんてことだろう……【07-GHOST】の世界にあるはずの『ラファエルの瞳』を宿した己が生きてきた世界が、まさか【ゴーストハント】の世界だったなんて……っ。
―― 似て非なる、けれどどこかで必ず繋がっている世界 ――
かつてラファエルが言った言葉が脳裏に甦った。
その意味を十年越しで理解できたは、思わず両手で顔を覆って項垂れた。