【07-GHOST】と【ゴーストハント】……ここではない世界で平穏に生きていたときに大好きだった物語。
突然、目の前に現れたラファエルによって、今いる世界に連れてこられたのは、もう十年以上前になる。
3歳から生き直すことになった上、その歩みは平穏とはいえないものだった。目の前に突きつけられた問題を抱えることに手一杯で、【ゴーストハント】の原作内容を覚えていられるだけの余裕すらなく、疾(と)うの昔に忘れてしまっていた。
だから、気づけなかった。
あのとき助けた少年がジーンだったなんて……進学先に選んだ学校が始まりの物語の舞台だったなんて……親しくなった『谷山麻衣』が【ゴーストハント】の主人公と同一人物だなんて――夢にも思わなかったのだ。
ジーンが『学者バカ』と揶揄するサイ研究者であるナルの前で、治癒能力だけではなく『瞳』の力の片鱗まで見せてしまった。【07-GHOST】と同じ過ちを繰り返させないためには、最も秘さなければならない相手だったのに……
どれだけ後悔しても、もう遅い。「捜していた」と彼は言ったのだから。
興味を持たれてしまったのは確実……誤魔化せるような状況ではない上に、彼の興味を削ぐような知恵も知識も持ち合わせてはいない。
――どうしよう……どうしたらいいの……っ!?
捜していた規格外の威力を持つ治癒能力者の少女・。
正確には、捜そうとしていた――だ。名前すらわからない人物を捜す手間と目的を考え、名前とクラスの判明している谷山麻衣をリンの代わりの労働力として確保するほうを優先したから。
その選択が功を奏し、捜すまでもなく見つかったのは幸運だった。
それに――感情的で主観的にしか物事を見れない麻衣と違い、冷静で客観的に考えられる力は調査員としての素質を期待できるものだ。別の目的で捜していたが、調査の手伝いを頼む価値は麻衣以上にある。そう考えるなら――既に労働力として確保している麻衣と顔見知りという事実は、実に好都合だ、と。
そんなことを考えていたのだが。
急に、の様子が変わった。
話の流れで問われるままに仕事と肩書きを告げると、一拍の時を置いて目を瞠り、次いで顔を両手で覆って項垂れだのだ。
目を瞠るという反応は理解できる。驚いたときに無意識に出るものだから、何かに驚いたのだろう。しかし、項垂れた理由がわからない。
16歳という若さで所長という肩書きであることには大抵の人間が驚くが、項垂れる理由があるとは思えない。『ゴーストハント』の意味を正しく理解したとしても然り。
あと考えられる可能性は……まさかとは思うが、『渋谷サイキック・リサーチ』=『SPR』=『Society for Psychical Research』――イギリス心霊調査協会の日本支部だと気づいた、か……こちらの素性まで気づいたとは到底思えないが、彼女は能力者だ。PK‐LTと似て非なる能力を有しているが故に、専門研究機関を――モルモットにされることを恐れていると考えるなら、項垂れた理由にはなる。
――だが。
「さん」
「っ」
背後から呼びかけると、大袈裟なほどびくりと肩を震わせて体ごと振り返った。こちらを見るヘーゼルの瞳には、明らかな怯えと警戒が映し出されている。
場所は、旧校舎と塀の間に停めてあるバンの近く。麻衣を伴って旧校舎内へと入り、仕事内容を指示して彼女を中に残して一人戻ってのことだ。
――そのような目をするくらいなら……真実、研究者を恐れているのなら、何故素直にこちらの指示に従い待ってなどいたのか、と。
矛盾している行動の意図がまるで読めず、ナルは軽く眉をひそめる。
「顔色がすぐれないようだが、あの能力を使った影響か?」
「…………ご用件は、なんですか?」
「体調に問題がないのなら、リン――今朝の彼の足をもう一度治癒してもらえないかと。君のお陰で痛みは引いているようだが、状態は芳しくなくしばらく立てないそうだ。少しでも回復が早まってくれると助かるのだが、どうだろう?」
会話の途中で項垂れたことを訝しんだ麻衣に対して、はただの目眩だと言って誤魔化した。元々顔色が良いとはいえない状態だったからか、単純な麻衣はあっさり信じた模様。
朝の出会った経緯については、麻衣が己が関わった心当たりの所為で余計なことに気を回す余裕がなかったことが大きな要因だとは思うが、それでも治癒能力について一切におわせることすらなく疑問を抱かせる隙がないほど自然な形での説明があってこその見事な誤魔化しだった。
これらの事実から特殊能力について公言していないと判断したが故に後回しにしていた本題を告げたのだが……から答えが返ることはなく、ただじっと見つめてきた。
公言しないことと隠すことはほとんど同義に思えるが、その割には躊躇うことなく能力を行使してみせた。
日本には権威のある研究機関が存在しないと思って油断していたのか……権威がなくとも研究機関自体は皆無ではないし、何よりマスコミなどの厄介な『人の目』はどこにでも転がっている。噂など広がりでもしたら、もう手の打ちようもないだろうに。
現に今、その行為によって、己という研究者と対峙することになっている――のに、真偽を探るような眼差しを向けてくる……それもまた、矛盾した行動だ。
互いに観察しあうこと、しばし。
「……あの人は、どこに?」
「この近くの病院。名前は林と書いてリンだ」
「もう一人、は……?」
「……あの馬鹿は何の問題もない。たんこぶひとつできたくらいだ。もうすぐここへ来るはずだから気にしなくていい」
彼女の口から出たのは、確認のための問いかけ。
リンはともかく、ジーンのことには自然と溜息がこぼれた。先程も同じ事を聞かれたことから、吹き飛ばしてしまったことを気にしているのだろう、と。詳しい容態を告げると、あからさまにホッとした様子。
……単なるお人好しで、警戒していたのはジーンを、か……? ――否。
再びこちらを向いたは、明らかにまた緊張していた。そのまま、応とも否とも答えることなく、ただ一礼だけして踵を返す。旧校舎の陰からグラウンド側へと出る一瞬、足を止めてふと正門側へと顔を向けた彼女は、すぐに裏門から出ていった。
歩いていった方向は、朝彼女が来た方向でも正門側でもない。なら、遠回りでもジーンを避けて病院へ向かったと見ていいだろう。仮に違っていたとしても、それはそれで構わなかった。強制できることではないし、そのための労働力は既に確保してあるのだから。
ただ、気になるのは、あの態度の変化と矛盾した行動の数々。
研究者の性だろうか。理由を解明したい――と。
「ナールー、正門の所で待ってたけど、あの子見つからなかったよー」
刺激された探究心は、現れた兄の情けない声で嘆息に取って代わられた。
一卵性双生児故に同じ整った顔立ちで、一般的に『性格の良い』兄は、よく人に好かれている。
だが、弟であるナルから見れば、お節介で鬱陶しいだけだ。その上、今は自分の感情が優先され、完全に客観性を失っている状態。今朝のの本気の拒絶で少しは冷静なるかと思ったが、全く懲りていないのがその証拠だ。
そんな兄に彼女の情報をくれてやる気など起きるはずもない。下手をすると、それによって今後の関わりが完全に絶たれてしまうことになりかねないのだから。
だからナルは、手にしたコードの束を情けない表情をしたままのジーンの顔目がけて投げつけた。
「だったら、さっさと仕事に戻れ!」
「いだっ!? ナルひどくない!? 落ち込んでるお兄ちゃんを少しは慰めようとか思ってくれないの!?」
「思わん。リンが欠けた分、人手が足りないのは事実なんだ。遊びたいなら仕事を終わらせてからにしろ」
「遊びじゃないよ!! あの子見つけられたらリンだってすぐ復帰できるでしょ!?」
「見つけられなかったんだから、仕事を優先するのは当然だろう。分室設置を希望したのはどこの誰だ?」
「……ぼくです」
「だったら、つべこべ言わずに機材を運べ」
「うぅ~……りょーかい……」
ようやく大人しくなったジーンに、再び嘆息を落とす。
仕事へと頭を切り替えつつ、その片隅ではどのようにとの関わりを維持できるかを考え始めながら、ナルは旧校舎へと向かった。
「失礼します」
「……あなたは、今朝の……」
予想もしなかった来訪者に、リンは目を瞠った。
驚き停止した頭では状況がまるで読めず、病室の扉を閉め深々と頭を下げるあの治癒能力者の少女の姿を呆然と見つめるしかできない。
「何故、あなたがここに……?」
「足の治療をさせていただきに来ました。少しばかりお時間をいただけますか?」
頭に浮かんだ疑問を呟くと、目的を告げることでその答えとされた。その言葉によって、ようやく思考が回り始める。
――いくら今朝治療が中断してしまったとはいえ、人が良すぎではないのか。病院へ行ったことは明らかなのだ。通りすがりの赤の他人の、医師の手で充分事足りる怪我に、わざわざ病室を訪ねる手間をかける理由が理解できない。
生理的な反発が素直に物事を捉えることを拒み、邪推を促す。体は近づく少女を避けるように動き、拒絶を示す眼差しで睨みつけてしまう。
明らかに悪意的な反応を示しているにも拘らず、少女は怯むどころか怪訝を表すこともなく、足も止まらなくて。
とうとう、リンはその言葉を口にした。
「私は日本人が嫌いです」
「はあ……それはあなた個人の感情ですから、他人がどうこういえる問題ではありません。わたしが日本人であるが故に治療を拒みたいということでしたら、残念ながら、自分の利益のために利用するだけだとでも思って無理にでも納得していただきたく思います。あなたの足の治療は、あなたの上司である所長さんからの依頼なものですから」
端的な拒絶の言葉に、けれど少女はきょとんと目を瞬いただけ。全く気に障った様子もない姿は、言われたことをまるで理解できていないようにすら見える。
しかし返された言葉は、言外の心情まで理解しているもので。
そして、こちらに拒否権はないのだ――と。淡々と告げてきた。
ここに至って、ようやく冷静さが戻ってきた。己と、少女を繋ぐ双子という接点を、やっと思い出せたのだ。
状況は呑み込めたが、それでもやはり、かなり人が良すぎるように思う。ジーンがしでかしたことと、そのときの彼女の反応から考えれば、拒否していてもいいようなものだ。
なのに、素直にナルの依頼を受け、ここまで来るとは……どこか矛盾を感じる。
理解が追いつかず返す言葉も出てこない様子を、諦めか了承とでも受け取ったのか。
ベッドに腰かけているリンの前の床に膝をついて屈んだ少女は、テーピングによってしっかりと固定されている左足首に左手をかざした。
そして、現れる。朝と同じ現象。
発生した淡い光が患部を包み込む。じわり、と。熱を感じた。それは熱いというほどの激しさはなく、ただしみ込んでくるようなやわらかなあたたかさだった。
その肉体の感覚――五感とは別の感覚が捉えたのは、どこまでも澄んだ清らかな気の流れ……
まるで少女の心そのものを表しているかのようなその気は、リンに己の邪推を恥じる思いを起こさせ、同時に少女への素直な疑問を口にさせた。
「何故、何も言わないのです? 面と向かって嫌いだと言った私に対して、何故怒りや不快感を抱かずにいられるのですか?」
向けられた問いかけに、少女は答えない。顔を上げるどころか微動だにしないあたり、集中していて聞こえていないのかもしれない。
そう思ったときだった。少女から答えが返ったのは。
「……わかるから、です」
「私の何がわかると――」
「いえ、あなたの事情がではありません。そういうことではなくて……理性では抑えることのできない感情があるということを、わたし自身、嫌というほど身にしみている、ということです」
端的な答えにカッとなった頭は、続いた否定ですぐに冷えた。
残ったのは、未だ解けぬ疑問と怪訝さ。
顔を上げようともせず足の治療を続ける少女へ視線を固定していると、ややあって、ぽつりぽつりと少女から言葉が落とされた。
「わたしは……人間が――男性が、怖いです……皆が皆、歪んだ妄執を抱くわけでもなく、ましてそのために簡単に他人の命を奪えるほど狂った人間ばかりではないのだと……頭では理解していても、恐怖を感じる心を抑えることが……できません……あのとき見た、地獄のような光景を……忘れる、ことが……できません、から……」
「……誰か、親しい人を殺害されたのですか?」
「――……両親、を……」
語られたのは、凄惨さをにおわせる過去。……道理で、能力を使ってまでジーンを拒絶したわけだ、と。
かける言葉などあるはずもなく、ただ矛盾を感じていた行動の意図を察し納得したリンの前で、治療を終えたらしい少女が立ち上がる。
真っ直ぐにこちらを向いたのは、日本人には珍しいヘーゼルの瞳。
「ですから、わたしには、あなたを批難する資格などありはしないのです」
深い悲しみと痛みと、抑え込まれた怯えとを瞳に映しながらも、真っ直ぐにリンを見つめてくる少女の姿は、凛としていて、しっかりと地に足をつけて立っているように見えた。
まぶしくすら感じ目を細めたとき、少女は瞑目して。
「治療は終わりました。病院で診ていただいている以上、急激に完治することは不都合が多いと思いましたので、患部の治癒力を高めるだけに留めてあります。退院後、二・三日で完治するでしょう」
「そのようなことまで可能なのですか?」
「はい。それでは、お大事に」
「あ……」
最低限の説明だけして一礼し扉へと向かう少女に、リンは一度開いた口を閉ざす。
気づかなかったのか、それとももう気にかけるだけの余裕もなかったのか。振り返ることなく少女は扉を開けて――
「あらあらぁ、ちゃんでねぇのかい?」
廊下から聞こえてきた老婆の声で足を止めた。
知り合いか、若しくは行く手を阻む形で話している人物がいるのか。タイミングから判断するに前者の可能性が高いだろう。
その答えは、完全に動きを止めていた少女が深呼吸のあとに選んだ行動によって明らかになる。
「こんにちは、美代子さん」
「おぉ、こんなところでどうしたね? 具合でも悪いんけ?」
「いえ、お見舞いです。美代子さんは定期健診ですか?」
「おぉ、大分良くなったってお医者さんに言われただぁよ。ちゃんみてぇな若い娘さんと話す機会が増えたからでねぇかってな」
「お役に立てたのなら嬉しいです。健康で長生きできるのが一番ですものね。お帰りなのでしたら、ご自宅までお送りしますよ」
「おぉ、有難いねぇ」
案の定。
世間話を始めた少女と老婆の姿を確認しようと何とはなしに移動したリンは、それを目撃して動けなくなった。
――笑顔で老婆へと差し伸べられた少女の手は、確かに震えていたのだ。
閉ざされた扉の先にその姿が消えても、まだ動けなくて。
時間の経過すらわからない間思考ごと停止していたリンがまず起こした行動は、嘆息だった。
彼女は、なんと強いのだろう。凄惨な経験により心に深い傷を負いながらも、懸命に乗り越えようとしている。通りすがりでしかない他人の傷を癒そうとするのも、おそらくはそのため。完全に他者を拒絶してもおかしくはない状況で、恐怖心を抑え込んででも自ら他者と関わろうとしている――自分の弱さに、正面から向き合っているのだ。
それに対して、自ら経験したことでもないことで抱く嫌悪感や反発心を放置し、感謝を伝えることも名を訊ねることもできない己のなんと弱いことか。
身を屈め、固定された左足首に触れる。
痛みは、完全に消えている。固定され思うように動かせないことに違和感を覚えるほどには平常と変わりなく思える。
だが、まだ完治はしていない。未だに残る、包まれるようなぬくもりが、『患部の治癒力を高めている』状態なのだと示しているようで。
再び嘆息を落とし、扉へと目を向けた。
という名らしい少女……もう一度会える機会があったのなら、せめて礼ぐらいはきちんと伝えよう。
リンは、密かにそう決意した。
ナルとの出会いによって、【ゴーストハント】の世界の最初の物語の時間にいると知ってから、丸一日。彼に頼まれたのはリンの足の治療だけで、その後は関わってくる気配すらなく、平穏な日常を過ごせていた。
てっきり、麻衣を使って呼び出されるか、麻衣に泣きつかれるか、若しくはジーンが捜しにくるのではないかとかなり警戒していたので、少し拍子抜けしているのが正直なところ。
とはいえ、経過したのはまだたったの一日だ。調査が続いている以上、気は抜けない。これ以上、彼らに関わるべきでは――ないのだから。
……もし、ただの原作の一ファンであれたのなら、喜んで関わりを持っただろう。彼らの活躍を間近で見られるチャンスを棒に振るなどファンの名折れだろうし。
けれど――『今』は……もう、ファンとは名乗れない立場だ。
既にほとんど忘れてしまった『原作』という名の未来……同じ世界に生きるが故に『キャラクター』ではなくなってしまった彼らに対して抱くのは、好意ではなく――不安と恐怖……
背負ってしまったいくつもの重荷が明確な境界線となって、彼らと関わることを拒んでいる気がするのだ。
そう……己は完全なイレギュラー。本来は在るはずのない存在。故に、関わるべきではない――そう結論を出したはずなのに……
「……どうして、ここにいるのかしら、わたし……」
土曜日の放課後。それも夕刻に近い時間。
帰宅し、着替えて図書館へ行ったあとのこと。半透明な青いファイルを一冊手に持って、は裏門に寄りかかっていた。
忘却の彼方へと去ってしまった『原作』の詳細。リンの足を治療したあとに会った知人の老婆が話してくれた昔話が、原作の一端を――最初の事件だけが唯一、心霊現象ではなかったはずだということを、思い出させてくれた。
老婆の話と、思い出された原作の一端とが気になって、図書館まで行って調べてしまったのは事実。
そうして見つけた、裏づけとなる資料――
気になっていたことは事実だと証明されたのだから、そこで終わればいいのだ。別に誰に何を求められたわけでもなく、初めから自己満足でしかないことなのだから。
なのに、何故――それらをコピーし、ファイルにまとめたりなどしてしまったのか……
所長であり研究者は、ナル。そのナルが最も信頼する霊媒であるジーンが生きて側にいるのだから、旧校舎に悪霊の類がいないことは初めからわかっているはずで。当然、本当の原因にも見当がついていて、既にその方向で調査している可能性だって高い。
ならば、これは本当に余計なことであって、徒(いたず)らに関わりを持つ行為でしかない。
「……やっぱり、帰りましょう……」
己は、関わり合いになるべきではない。その必要など、初めから存在しないのだ。何故なら――元々『原作』には登場しない存在だから。
己が関わらずとも事件が解決するのは確実だ。ジーンの存在によって原作どおりにはならなくても、早まるだけで未解決になることはありえないだろう。
――己は、関わり合いになるべき存在では、ない。
言い聞かせるように同じ言葉を心の中で呟き、門から背を離した。
家路へ就こうと足を踏み出した――刹那。
「――え?」
悲鳴が耳朶を打ち、直後に何かが落下し崩れたような音が聞こえた。
何を考えるでもなく、その音に引き寄せられるように家路へ向かうはずの足は裏門の内側へと方向を変えていた。
ぐるりと視線を巡らせるが、特に変わったものは見当たらない。――と、旧校舎西側を覆うシートが風もないのに動いているのに気づく。その動きは、内側から何かがシートを押しているような感じで。その何かは、二階から下へと移動した――つまり、何かが二階から落下した?
じり、と。胸のあたりに嫌な感覚がして、『瞳』を発動しシートの中を『見た』。
「う、そ……っ」
脳内に映し出されたのは――鉄パイプや木材に埋もれて横たわる着物をまとう少女の姿。その映像が、またひとつ原作の一端を引き寄せた。
そう……確かに、そんなことがあった。原真砂子が二階から転落する、と……
けれど――
は『瞳』をしまうと旧校舎へ駆けだした。何枚かのシートで覆われた旧校舎の、そのシートの隙間から内側へと入り込む。
信じられなかった……否、『瞳』の能力を疑っているわけではない。――信じたく、なかったから……自分の目で、確かめずには、いられなかったのだ。
――なのに。
「――あ……っ」
シートと旧校舎の間の僅かな空間にあった光景は、『瞳』によって見た映像と全く同じで。――否。同じ空間にいることで更にわかったのは、鼻をつく血の臭い。
先程シートを押して落下したと思われる裂けたベニヤ板が、無防備に投げ出された真砂子の腕に刺さっていた。他にも、鉄パイプに血がつき、地面をも濡らしていて。
フラッシュバックする、血溜まりの記憶――と――原作の、紙面の、一場面……
救急車に乗せられる直前のストレッチャー上の真砂子には、しっかりと意識があって、流血した様子も描かれてはいなかった、はずだ。
だが、今、目の前で横たわる少女は、呻き声ひとつ洩らすことはなく、その双眸は固く閉ざされたままで、明らかに意識はない状態。
――どう、いう、こと……? 『原作』では……序盤の物語では、大怪我をするような人物はいなかったはずなのに……
まさか――死ぬはずのジーンが生きていることの、代償……?
『物語』に登場する『霊媒』は一人でいいと、世界が補正をかけた……?
――つまりは、ジーンを助けた己が招いた事態?
辿り着いた結論が、記憶を鮮明に引き出し目の前に映しだす。
己を庇い立ちはだかる背は、だが一瞬のうちに、無残に崩れ落ちる。伸ばした小さな手は届くことはなく、床に鮮血の池が広がっていく。
「……い、や……っ、だめ……っ」
その、赤い池に浮かぶ人影が、現実にいる少女の姿と――重なって。
「死んじゃだめ……っ、お願い死なないで……っ!!」
あのときは届かなかった手で、今はしっかりと死に向かう少女の手を握り締めて。
は、ただ一心に、治癒能力を解放した。