『お前は、もういらないのだ。オウカ』
やめて……聞きたくない……
『どうして、私たち、生まれてきてしまったの?』
知りたくない、そんなこと……っ。
お願い、そんな言葉を聞かせないで……っ。
――わたしは、ただ……
枕側を半ばまで起こしたベッドに体を預け、はぼんやりと白い天井を眺めていた。
時刻は、日曜日の午後。
どこまでが現実で、どこからが悪夢だったのか。その判断すらつけられなくなっている原真砂子の転落事故から、気づいたときには一夜が明けていた。
救急車に、乗せられた気はする。真砂子と一緒に。……彼女のついでに、乗せられたようなものだと、そう思う……のに、ちゃんと主治医のいるかかりつけの病院にいたことはちょっとした驚きであったが、安心できた事実だった。
とはいえ、状況は芳しくない。
先程出された昼食は、半分も食べることができなかった。食欲自体がないことに加え、胃がぐるぐるとしているように感じ、あれ以上食べれば吐いていたことは確実だと断言できるような状態なのだ。
今現在も、時折襲ってくる吐き気と格闘中だという体調の悪さ――だけが問題なのではなく。
つい、と。視線をずらす。己のすぐ傍らには、点滴の袋が吊り下げられており、それから伸びたチューブは、ベッドの上に力なく投げ出された己の左腕に刺さった針に繋がっているのが一目でわかる。
動けなかったのは、夢だけではなく現実でもだったらしく、その原因は貧血と栄養失調状態で治癒能力を使用したために体力切れを起こしたことだったようだ。
本来であれば、治癒能力の使用で動けなくなるようなことはありえないことだ。
つまり、それほどまでに体調が悪化していたことに気づけていなかった――即ち、自己管理ができていないことが、何よりの問題だった。
高校入学前、施設にいた頃は、悪夢を見る回数はかなり減っていて、通常の生活を送れる状態を保てていた。
だからこそ、一人暮らしができると判断されたというのに。僅か一ヶ月足らずでこの様とは……知らず、高を括っていたのだろうか。
悪夢を見たあの日から、食欲がない自覚はあったのに。温かいココアに食パンを浸して食べるだけ、とか……栄養については一切考えず、喉を通りやすくてカロリーのあるものをという判断基準で選んできた甘えの結果――ということなのだろう。
問診によってその食事事情を知った数人の看護師が、『食べやすくて栄養満点☆お手軽レシピ』と銘打った手描きの料理メモまで用意してくれて、一日に必要な栄養素の摂取量を記した一覧表とともにいただいてしまったり。
有難い反面、情けなくも感じて。食事用の簡易テーブルの上にあるそれらを視界におさめ、深々と溜息を吐いた。
主治医の診断は、生活環境の変化によるストレスの表れだろうとのこと。一過性のものである可能性を見込んでの経過観察ということで、ひとまず現状維持は許されたけれど。
もしも、このまま改善が見られないならば――……
「……っ」
ゆるく頭を振って、浮かんだ否定的な思考を追い払う。
いつまでも囚われたままでいたくはないから、ここへ来たのだ。ならば、できなかったときのことなど考えるべきではない。
目を向けるべきは、手にしたい未来――理想とする、目標。
そこに向かっていくために、今すべきことにこそ、力を注ぐべきなのだ。
他のことに回せる余力がないことは、今のこの状態が証明しているのだから。
――だからこそ、やはり、もうこれ以上、彼らに関わるべきでは、ない……
決意に双眸を閉ざし、深呼吸。心が静まり、そっと目を開けたとき、ノック音が届き、ゆるりと首を向けて応える。
「はい、どうぞ」
「失礼致しますわ」
「……っ」
聞こえた声に、その喋り方に、ぎくりと体が強張った。視界に現れたその姿に、更に息を呑む。
関わらないと決めたばかりだというのに……訪問者は、着物姿の少女――原真砂子だった。
まさか、わざわざ訪ねてくるなんて……否。ジーンとて何ヶ月もの時間をかけてでも捜し出したのだ。科が違うとはいえ同じ病院内にいるのなら、訪ねてきても不思議はないだろう。
そんな簡単なことすら考えられないほど余裕というものが存在しないのだと、改めて突きつけられて。無意識に止めていた息を、大きく吐き出した。
――目を向けるべきは、未来……既に起きてしまった過去は変えられない。ならば、今考えるべきは、この関わりをどう絶つかだ。
自分に言い聞かせるように思考を回転させながら、深呼吸を繰り返す。
少しの間をおいて心を落ち着かせてから、改めて彼女に目を向けて――先手を打たれた。
「お加減は、いかがですか?」
「そ、れは……あなたの、ほうこそ……どこか、おかしなところが残ったりはしていませんか?」
「……ええ。あなたのお陰で、打ち身と擦り傷程度だと診断されましたわ。骨や脳、神経にも異常はないそうです。着物についていた血の量から輸血はされましたけれど、それ以外に大きな処置は必要ありませんでしたわ」
「よかった……」
着物の柄は、昨日のものとは当然違うけれど、きちんと着付けられているということは大きな異常がない証だとは思ったが、念のために問い返してみれば案の定。
見た目で判断したことも、やはりはっきりと、しかも具体的に肯定されれば安堵するもので。
けれど、すぐに別の不安が頭をよぎる。
怪我は大したことがないにも拘らず、輸血が必要だと判断せざるをえないほどの着物についたその血の言い訳はどうしたのだろう――と。
もし、ありのままを説明されていたとしたら……不都合がないわけではないが、まだ大丈夫だ。治癒能力だけならば、何とでもなるだろう。
秘さなければならないのは、『ラファエルの瞳』――彼の世界で人間たちが『衛星兵器』と呼んだ力なのだから。
知らず拳を作った、そのとき。沈んだ声音が室内に現れ、は顔を上げた。
「ですが、そのためにあなたを苦しめることになってしまって、なんとお詫び申し上げればよいのか……」
「――え……あっ、いえ! 違います! 無関係です! 不摂生による自業自得ですこれは!」
「そう、なんですの?」
「そうなんです! ほら、これが証拠です」
点滴の存在で勘違いされたのだろうか。心底申し訳なさそうな表情で今にも頭を下げかねない様子の真砂子がいて。
慌てて否定し、件のレシピと一覧表とを彼女に見せる。
渡したそれらをじっくりと見てから戻してきた真砂子は、まだどこか納得がいかない様子に見えて。どうしようかとが考え始めるより先に、彼女は笑みを浮かべて見せた。
「それでは、お詫びではなくお礼を申し上げますわ。あたくしは原真砂子と申します。助けていただき、本当にありがとうございました」
真っ直ぐに向けられたやわらかな微笑みと伝えられた感謝の言葉に、けれどは表情を曇らせ、俯く。
感謝されるようなことではない……そんな資格など、己にあるわけがない。
本来ならば彼女はあんな大怪我を負う必要などなかったのだ。それがあんな事態に陥ってしまったのは、未来を変えてしまった己が招いたこと。その尻拭いをしたにすぎないのだから。
けれど――
今回のことは、己がこの世界における異物なのだと見せつけられたように思えてならない。
存在しないはずの己がいることで生じる歪みが、どこかで必ず誰かの身にしわ寄せとなって現れるのだ――と。
だとするならば、真砂子を助けたこともまた、どこかで誰かが命を落とすことで贖われることになる。
そんなことが繰り返されていくだけなのだとしたら――何のためにこの世界に連れてこられたのだろう。
死を拒み生きることを望んだこと自体が罪で、生きることを許す代わりに償いとして苦しみ続けることを義務づけられたとでもいうのだろうか。
それが、もし、本当に真実だとするならば――……
「あの……あなたの能力についてでしたら、公言はしておりませんので、ご安心くださいませ」
触れられた肩がびくりと跳ね、反射的に顔を上げた。心配を刻んだ顔が己を覗き込んでいて――言われた言葉を、現状を、認識する。
……また、悪い癖が出てしまっていたらしい。
ゆるゆると首を振って、頭の中を切り替える。今、すべきことに、集中する。
そうして、改めて真砂子に向き直って、応えた。
「いえ、お礼を言われるようなことでは、ありません。むしろ、こちらこそお気遣いいただいて本当にありがとうございます。――わたしは、といいます」
名乗るべきか、一瞬迷った。この先の関係を絶つ気なら名乗る必要はないから。
しかし、相手が先に名乗ったのなら、こちらも名乗るのが礼儀だろう、と。
名を告げると、真砂子は人形のように整った顔をほころばせた。
「敬語は必要ございませんわ。さん、とお呼びしても?」
「え――あ、はい……お好きに、どうぞ」
「あたくしのことは、どうぞ真砂子、とお呼びくださいませ」
原作のイメージとは違う気安い様子に、きょとんとしてしまった。そして明らかに好意的な雰囲気にほだされそうになる。
これ以上関わるべきではないと、関わりを絶つのだと決めたはずなのに。
心が、揺れる……欲が、出てしまう……
「――あ……」
名前を、呼んでしまえば。関わりは、深くなる。ただの通りすがりではなくなり、関係を絶つことが困難になってしまう。
だから、呼ぶべきでは、ない――のに……
断わる、口実すら、頭には浮かんでこなくて。
声を、封じるだけで精一杯だった、そこへ――
――コンコン。
「っ、はい!」
「失礼しまーす」
「――っ」
響いたノックが天の助けだと思えたのは、ほんの刹那の間。
聞こえた軽い調子の少年の声で瞬時に緊張が走り、無意識に息を詰めた。
姿を現したのは、案の定。ジーン――だけではなかった。ナルにリンまで……SPRの正規メンバー全員が揃っているではないか。
――どうして、彼らがここに……? ――愚問だ。何ヶ月もの時間を費やしてでも捜し出すほどに己に執着していた様子だったジーンが目的も果たさず諦めるはずがない。ナルとて根っからの研究者故、謎を謎のまま放置するわけがあろうものか。
「……さん?」
怪訝な真砂子の呼びかけも、耳には入らない。
見ていながら認識できていない視界の中で、眉根を寄せたナルが手を持ち上げて――
――パンッ。
「っ」
叩き鳴らした大きな音に、びくっと体が跳ねる。その反動からか、ヒュッと音を立てて空気が喉を通った。口から肺へと入った空気は、次には再び口から吐き出されて――ようやく、息苦しさを認識する。
「ナル? いきなり何して……」
「わからないなら黙ってろ」
「横暴!」
意識を、沈み込んでいた泥沼の思考から、現実の己の呼吸へと移す。
口から息を長く吐き出し、出し切ってから思い切り吸い込む。そして、また吐き切る。
幾度か深呼吸を繰り返すことで体中に酸素が行き巡り、正しく思考が回り始めた。
これらの状況が意味すること……即ち、先程、己は無意識に呼吸を止めていたと見られることと、おそらくそれを察したナルが手を叩き鳴らすことで思考を中断させ呼吸を戻してくれたのだろうということを。
ようやく認識できたは、最後に深く嘆息することで深呼吸を終わらせた。
「お二人とも、体調はいかがですか?」
「輸血以外の大きな処置は必要のない状態で、既に退院しておりますわ。ご心配とご迷惑をおかけしました」
「わたし、は……ただの貧血と、軽い栄養失調なだけです……」
こちらの状態が整ったのを見計らって、ナルが話しかけてきた。
真砂子に続いて答えた言葉に、彼の視線は簡易テーブルへ向く。真砂子と同じように料理レシピの存在で納得したのか、ひとつ頷いて。
「そうですか。少々お話を伺う分には問題はありませんね?」
「……何を、でしょう」
「まず、あの資料のことです。何故、怪談やたたりの噂のあった旧校舎で地盤沈下という現実的な原因に思い至ったのか、その経緯をお聞かせ願いたい」
「え? あの資料ってナルが頼んでた物じゃなかったの?」
「それは麻衣が勝手に言いだしたことであって、僕は肯定していない」
「じゃあ、何頼んだわけ?」
「おまえは本当に馬鹿だな。リンがここまで松葉杖もなく一人で歩いてきたことを見ても気づいてないのか」
「ナルはどうしてそんなに嫌味ばっかり口にするかな!!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
「唯我独尊冷血漢!!」
「うるさいっ!!」
「ぶっ!?」
――来た、と。身構えていた体から、徐々に力が抜けていく。
口を挟んだジーンとの間で始まった会話があっという間に兄弟喧嘩へと発展し、ナルが手にしていたカバンで兄の顔面を殴りつけたことであっさりと終了するまでを、ただぽかんと眺めてしまう。
原作では描かれることのなかった双子の遣り取りを初めて目の当たりにし、ただ驚いたのだ。――こんなにバイオレンスな兄弟関係だったとは、と。
麻衣と似ているけれど彼女よりは物静かなイメージとして記憶していたジーンは、しかし現実には麻衣と同じように子供っぽさが前面に出ている。
そして、ただ静かに淡々と核心に迫って事件を解決していく大人びたイメージだったナルも、ジーンを相手にしているときは年相応の少年に見えた。
何よりも、二人ともとても生き生きとしているように見えて。
の心に、何かが生まれる。
それは決して悪いものではなく――微かな光……希望……そのような、何かのようで。
その正体をはっきり認識する前に、現実では物事が進行し始めてしまった。
「ナル、彼女たちが驚いています」
「それは病室で騒ぐなどという常識も弁えていない愚行を犯したこの馬鹿に言え」
呆れたリンの指摘に対してナルの口から出てきたのは、何とも辛辣な言葉で。……そういえば吹き飛ばしてしまったジーンの容態を尋ねた時も、こんな調子だったような……
これが彼らの通常なのか、リンはただ呆れ切った様子で溜息をつくだけだった。
蹲る兄を冷ややかな眼差しで見下ろしていたナルはといえば、何事もなかったかのようにこちらに向き直って話を戻してきた。
「それで、あの資料はどうして集められたんですか?」
「あ……えーと……リンさんの足を治療させていただいたあと、その病院で知り合いのご年配の方にお会いしまして……あの辺りは昔、湿地だったというお話をお聞きして、気になったので確かめてみただけなんですが……」
「……ああ、丁度私の病室を出たときに、老女と親しげに話されていたのは見ましたね」
「…………余計なことをして、すみませんでした」
「余計だなんて、そんなことな――ぐえっ」
事実だけを簡潔に告げると、リンがその証明をしてくれた。それでもどこか納得がいかないのか、観察するようなナルの視線に耐えかねて俯き、謝罪を口にした。
『原作』については、言えるはずもないことで。真実を説明できないことも含めての謝罪――だったのだが。
視界の隅で、蹲っていたジーンが勢いよく立ち上がり、びくっと肩が跳ねた。力強く一歩を踏み出した彼の足は、けれど二歩目は先へ進むことなく。おかしな声がしたと思ったら再びしゃがみ込んで咳き込んでしまった。
思わず顔を上げると、着物の背の向こうにあるリンと目が合った。ただ静かにこちらを見ていた彼に、小さく頭を下げる。――人が……男性が怖いと告白したことを覚えていてくれて、ジーンを止めてくれたのだ。その心遣いが、素直に有難かったから。
「謝る必要はない。お陰で大分手間も省けて、この件に片がつく目処がついた。情報提供に感謝する。――ありがとう」
「いえ……」
リンは小さく首を振り、こちらの意図は察してくれた模様。
それらの遣り取りに一瞬怪訝な表情をしたものの、その件には触れずナルは感謝を伝えてきた。
けれど――やはり、感謝を受ける謂れはないとしか思えなかった。ただの自己満足にすぎない代物だったのだから。
それでも、彼は世辞や社交辞令を言うような人物とは思えないことから考えるに、調べようと思っていた矢先とかだったのかもしれない。邪魔にならなかったのなら、それでいいか――とは、思うことができた。
悪い癖――泥沼の思考にはまらずに済んだことに、ホッと肩の力を抜いた。――が。
「今回の件を終わらせるにあたり、ひとつ実験に協力していただきたい。原さん、明日、校長室へ来ていただけますか? その証人として明後日、旧校舎へも」
「わかりましたわ、お伺い致します」
実験、という言葉で、また体が強張った。――けれど。
旧校舎の中には入っていないし関わっていないといって差し支えない状況の上、ジーンを吹き飛ばした『瞳』の力を彼は恐らくPKと判断しているのだろうから。
案の定、参加を要請した相手は真砂子のみで。
は、こっそり胸を撫で下ろす。――それが、悪かったのだろうか。
「ねえ! ウチでバイトしない?」
安堵が、そのまま気の緩みに繋がってしまったのかもしれない。つい顔を上げて見てしまったことを、はただただ後悔した。
再び勢いよく立ち上がってそうのたまったジーンは輝くほどの無邪気な笑顔をしていて――その陰に、忌まわしい記憶がフラッシュバックしてしまったから。
記憶とともに蘇る恐怖心に顔が歪む。息苦しさに、胸元の服を強く掴む。
「君のヒーリング能力はホントにすごいと思うけど、使うたびに体調崩してたら大変でしょ? 負担のかからない使い方ができるように訓練したほうがいいと思うんだ。ぼくたちなら、それ教えてあげられるよ。だから、ウチでバイトしてよ?」
人懐っこいジーンの笑顔に、返り血を浴びて尚、無邪気に微笑む男の顔が重なって――これ以上、見ていたくはないのに……目が、離せない……息が、苦しい……
どうすることもできずにいるの視界が、不意に淡い桜柄で遮られた。笑顔がなくなったことで忌まわしい記憶の幻影も消え、息が、ようやく吐き出せた。
呼吸に意識を傾けることで、更に幻影を生む記憶から目を背ける。
吐いて、吸って、吐いて。息苦しさが緩和してきた頃、やっと周囲の状況も把握する。
視界を遮った桜柄の正体は、真砂子のまとう着物だった。……何故だろう。何も知らないはずなのに、まるで己を庇うような位置に彼女はさり気なく立ってくれていた。
それが偶然なのか意図した行動なのかを知る余裕すらなく、未だ残る恐怖心に囚われないよう、ただ、今すべきことに思考を集中させる。
今、すべきこと――それは、彼らとの関係を、ここで断ち切ること。
「わたし、は……モルモットになる気は、ありません……っ」
「なっ!? そんなこと!」
「ジーン、うるさい」
「だって、ナル!?」
「ここは病室だと、さっきも言ったはずだ。本気で常識やマナーを落としてきたのかおまえは」
「っ」
「職業柄、超常現象や特殊能力に興味があるのは事実だが、外道扱いは流石に不愉快だ。何故そう思う?」
何故かと問われれば、研究者という存在が【07-GHOST】のドクター・ナナセとイコールで結ばれてしまっているから、だろう。
自分の知的好奇心を満足させることを第一とし、そのためならば利用できるすべてを利用し、いかなる手段をも用いてみせたドクター・ナナセ。
女帝であろうと研究対象と定めたならば洗脳して意のままに操り『瞳』の力を使用させて研究し続けた。それによって命が削られ研究が長く続けられないと知るや、王女のクローンを造り出し、王女本人の命を使い切ったあとはクローンを洗脳して王女の代わりとさせた。
戦争によって研究成果を見せられるならば、王女となったクローンがどれだけ傷だらけになろうと意に介することもなく、更なる研究のための人形として扱い続けた。
そして、自分の思いどおりにならないならば、スポンサーたる皇帝だろうと、自らが造り出したクローンだろうと、あっさり切り捨てた――まさに、外道そのものだった男。
そのイメージが、強く、強く、心に根づいてしまっているからだ。
死の恐怖と同じだ。それがすべてではないと理性では思えても、心はそれを受け入れられない。『ラファエルの瞳』を宿す者として同じ過ちを繰り返させないために、研究者はすべて疑え――と、弱さを正当化するような言い訳を叫ぶのだ。
「……っ」
だが、そのようなことを言えるはずもない。
同じ過ちを繰り返さないための最も有効な手段は、その力を秘すること。それを、こんな形で明かすなど本末転倒、愚の骨頂だ。
ならば、どう答えればいいのか……懸命に考える、そのストレスがまた呼吸を乱し、胸元を掴んだままの手に自然と力が入る。
「……体調を崩されたことと能力の使用に関連性はないと、先程お聞きしましたわ」
「なら、そう言えばいいだけだ。わざわざ誤解を招くような言い方をする理由にはならないだろう」
助け舟のつもりだったのか、口を挟んだ真砂子をもナルはバッサリと切り捨てた。
その声音には抑え切れない不快感や苛立ちが表れていて、余程彼の癇に障ったらしいことがわかる。
……負の感情を向けられるのは、苦手だ。ともすれば恐怖心が触発されてしまうから。
けれど――今は、耐えなければ。不快な人間だと……価値のない存在だと思ってくれれば、向こうから関係を断ち切ってくれるだろうから。
二度と関わり合いになる気が起きなくなるくらいの言葉を選べば――
「っ」
チリッ、と。胸が痛んだ。
まるで己の決意を咎めるかのようなそれを無視し、今し方思い付いたとおりの言葉を紡ぎだす。
「わたしには、自分の能力を一切、記録に残すわけにはいかない理由が、あり……っ、心霊現象の調査において、治癒能力は、必須ではない、はずです……っ。体力や腕力もなく、足手まといで役立たずな人間を、雇うメリットなんて……っ、研究目的、以外に……っ、あるんですか……っ?」
「そんな!? 役立たずなワケな――」
「やめなさい、ジーン」
「ぐっ!? ――もう! さっきからリンはなんなの!? 首絞まって苦しいんだけど!!」
「少しは落ち着いて状況をよく見なさい。感謝を伝えるべき恩人を苦しませてどうするのです」
「なんにもしてないじゃないか!? 近寄ることさえできてないのに何をどうやって苦しめてるって言うのさ!?」
「騒ぐなと何度言わせる気だ!」
「い゛だっ!?」
苦肉の策だった回答に、真っ先に反応したのはジーン。
冷静なリンの注意にも聞く耳持たない様子で、むしろ逆ギレまでしたジーンに、ナルの怒声が飛ぶ。真砂子の陰で起きたそれら一連の出来事は、音と会話からこれまでと同様のことが繰り返されただけのことだと、余裕のない状態でも容易に推測できた。
初めて見たときはただ驚くだけだったその遣り取りも、今は己の目的を果たすため警戒しつつ様子を探るのみ。――だが。
「さん、ナースコールしたほうがよろしいですか?」
仕切りの役割を担っていた真砂子が身を屈めてこちらを覗き込み、気遣わしげに問いかけてきた。
ただでさえ恐怖心を呼び起こされていたのに加え、慣れないことをする緊張やストレスがまた呼吸を乱し、喘ぐしかない状態に陥っていたからだろう。
それでも、まだ大丈夫。現実を認識できているうちは、己で治められるから。
緩く頭を振って、否定を示した。
「――え……? なんで?」
「おまえの所為だとリンが言っただろうが」
「だからなんで!?」
「おまえの頭には記憶回路は存在しないのか? 彼女はおまえを警戒し、且つ怯えてもいたと言ったはずだぞ。病室に現れたおまえの姿を見るなり呼吸を忘れるほどにな」
「いきなりナルが手叩いたアレ!? あのとき息止めてたの彼女!?」
「にも拘らず不用意に近づこうとするから、リンが止めていたんだろう」
「うっかり抱きついちゃったの、本気で痴漢行為だと思われてるってこと!?」
「……そのような破廉恥なことをなさったんですの?」
「命の恩人をやっと見つけ出せて嬉しかっただけでやましい気持ちはなかったよ、ぼく!?」
「彼女が日本人だということを考慮する客観性すら残っていないんだな、本気で」
「スキンシップ自体アウト!?」
「それ以前の問題だと思いますわ」
「ええ」
「他に何が!?」
「「 恐らく彼女はPTSDです 」わ 」
「心的外傷後ストレス障害、か……道理で心療内科病棟にいるわけだ」
「あ……!」
「原さんは、いつからそれを?」
「救急車の中で隊員の方がそう仰っておりましたのを聞いたのですわ。ですから渋谷仁さんの何が恐怖心を引き起こさせているのかまでは存じません」
「リン?」
「……お話しても、よろしいですか?」
呼吸に意識を傾けたまま、聞くともなしに聞いていた彼らの会話。思考力が低下していく中でも己に問いが向けられたことは何とか認識し――頷く。
「目の前でご両親を殺害されて以後、すべての人間――特に男性に対して恐怖心を抱くことを抑えられなくなったと、お聞きしました」
「なるほどな……肉類が食べられないと麻衣から聞いたが、それも原因はアレルギーなどの体質的な問題ではなく、精神障害のひとつか?」
ゆっくり、ゆっくり……息を大きく吐いて、吐き切ってから大きく吸い込む……小刻みに吸ってはいけない――と。
心の中で己に言い聞かせ呼吸を導いていた耳に、また質問が届いた。
肉……肉類は食べるどころか見ることさえできない。忌まわしい記憶をフラッシュバックさせてしまう要因だから。買い物も、精肉コーナーを避けて通らざるをえないのが実情で――いつまでこの闇に囚われなければならないのだろう……
頷き、そのまま深く俯く。
「……ごめん。松崎さんの言ったとおりだ。自分の気持ちばっかりで、君のこと何ひとつわかろうしてなかった……お礼がしたかったのに、逆に傷つけてただけだったなんて……本当に、ごめん」
ジーンの謝罪が、胸に突き刺さる。
……謝らないで、ほしい……悪いのは、余裕のない己のほうなのに。謝られたりしたら、その己の欠陥を突きつけられ責められているようにしか思えなくなってしまう……
――死ぬべき運命を拒み、捻じ曲げたその罪の償いとして闇に囚われ続けよ、と。
そう、言われているようにしか、思え――
「様々な事情を抱えているのはわかったが、わざわざ挑発的な物言いで試すような真似をしてまで、自ら苦しむ道を選ぼうとしている理由は何だ?」
思考を遮るように唐突に向けられた静かな問いかけ。一拍の時を置いて、はゆっくりと顔を上げた。
そこには、無表情でこちらを見下ろしているナルがいて――目が、合う。
「……試す……? わたし、が……?」
「無自覚なのか? デメリットを受け入れる用意がこちらにあるのなら、アルバイトの話を受け入れても構わないと言っているように僕には聞こえたが?」
感情を読み取ることすらできない静かな瞳に感化され、思考は凪いだ湖面のように静まった。穏やかな湖面に投げ込まれた石によって波紋が描かれるように、ナルの言葉によって、様々なものが引き出される。
現状と、ここに至るまでの経緯、決意が、まず思い出された。
彼らとの関係を断ち切るために、わざと嫌われるような言葉を選んだはずだ。それなのに真逆の意図を感じさせたなんて……彼の勘違い――でないならば……
あのときの、胸の痛み……抑え込んだはずの己の願望が、表れたとでもいうのだろうか。
「そんな、こと……」
あるわけが、ない……否、許されるわけがないことだ。
この世界において異物である己は、歪みを生む源だと――ジーンを助けたしわ寄せが真砂子に行ったことで証明されたようなものだ。これ以上関われば、更に彼らを巻き込み不幸をもたらすことになる――
『お前は、もういらないのだ』
『どうして、私たち、生まれてきてしまったの?』
「――っ」
不意に脳内に響いた声に、目を瞠り、頭を抱えた。
聞きたくない、考えたくないと反射的に思ったまま頭を振って――気づいた。
あえて見ないようにしていた己の本心を自覚し、目を見開く。
「ナル!」
「黙ってろ」
「だって彼女泣いて――」
「彼女の邪魔をするなと言っているんだ」
「……彼女の?」
彼らを巻き込みたくないなんて、ただの詭弁だ……本当は、ただそれをこの目で見たくないだけだ。予想したとおりのことが起こって、一度でも受け入れてくれた人たちに拒絶されたくないだけなのだ。
――他人を不幸にするだけの存在だというのが真実なのだと、突きつけられたくないからこそ、関係を断ち切ろうとしていただけだったのだ……
それは、つまり、裏を返せば受け入れられたいということ。存在を認めてほしいということに他ならない。――ナルの、言ったとおりだったということだ。
こんな身勝手で欠陥だらけの人間が、受け入れられるわけがないのに……それでも望んでしまうのは、己が貪欲なだけか……それとも――
「今、何を思った? 君の本心は何を願っている?」
「……わたし、は……」
ナルの静かな声が、またひとつ波紋を生む。新しいものから順に引き出されていた心は、とうとうこの世界へ来る前の感情にまで至った。
好きだったもの、憧れたもの……何物にも縛られることなく未来を夢見ていた頃の――……
「……自由で、いたい……」
今とは違いすぎる希望に満ちた明るい心……どこから変わってしまったのかなんて明白すぎる。ラファエルに救われることになった、あのとき以外にあるわけがない。
すべての夢や希望を断ち切る死を目前にして願ったのは、生きたいというただひとつのこと。それが叶えられるのと引き替えるように――まるで願わなかった故に元の世界に置き去りにしてしまったように――逃れようもない闇に囚われて自由を失ってしまった。
あのとき以来、願いはただひとつとなった。
「闇に、囚われたままでいたくない……何物にも、縛られず、自由に……っ、生きたい……っ」
「さん……」
未来を夢見ることのできるような心を取り戻し、ただ『自由』に生きたい――と。
そう願い、足掻いてきたこの十数年。一体、どれだけ変われたというのだろう。回数が減ったとはいえ未だに悪夢を見て恐怖に囚われるし、小さなきっかけでも忌まわしい記憶がフラッシュバックする。他人を、怖いと思う心は、消えてはくれない。
何も、変われてはいない……やはり、無駄なことなのだろうか……
――闇に囚われた状態でしか、この世界で生きることは許されていないのだろうか……
「わかった。明後日以降、体調のいい日に一度事務所へ来てくれ」
「……ナル?」
「能力に関する研究や実験への協力義務は生じない。万一調査記録に君の能力に関するデータが含まれたのなら、その箇所のデータは破棄する。雇用は調査のある時のみの臨時アルバイト――それなら他のリハビリ治療と併用できるので問題はないだろう。それらを明記した雇用契約書を用意しておく。他にも条件があるなら追加しよう」
また、泥沼の思考に戻ってしまったのを引き上げてくれたのは、やはりナルの淡々とした言葉だった。
涙で歪む視界には、変わることのない無表情が一枚の小さな紙片を差し出している。それは『渋谷サイキック・リサーチ』の住所と連絡先が記されている名刺のようなものだった。
泥沼から引き上げられはしたものの、思考は急な展開についていけない。彼の――意図が、読めない。
「……ど、して……?」
「それが君の望みなのだろう? 恐怖心を克服するために、それを引き起こすジーンの側にあえているという荒療治に臨みたい、と」
「ぼく限定!?」
「うるさい。少なくとも僕とリンに対しては姿を見ただけで呼吸が止まるような拒絶反応は出ていないのだからそうなるだろうが」
「うぅ……っ、三日前の自分を殴りに行きたい……」
「勝手に逝ってこい」
「……メリット、ないのに……どうして……?」
聞きたかった答えが得られなかったので再度問いかけると、改めてこちらを見たナルが、呆れ切った様子で溜息を落として、言った。
「君が提示したデメリットは、僕にとっては損失と呼べるほどのものじゃない。勘違いしているようだから言っておくが、僕は超常現象の研究には興味があっても、特殊能力を研究・解明することには意義を見出せない。今回のように調査上必要なら、証明できる最低限の実験ぐらいはするが、それ以上を求める気は元よりない。役立たず発言についても否定させてもらう。仕事は何も肉体労働だけじゃない。麻衣はそれしか使い道はないが……君が集めてくれた資料は非常に役に立ったし、客観的に物事を捉える力は調査員の素質を期待できるに充分なものだ。そして、君がないと言っているメリットだが、こちらから見ればあるんだ」
「何、が……?」
「謝礼」
「――え……?」
「あのとき奪われるはずだったジーンの未来と、この先自由に生きていける君の未来――この馬鹿の命を拾ってくれた謝礼としては、充分に釣り合いがとれているだろう?」
流石は科学者というべきか。デメリットの否定、メリットの可能性と確固たるメリットを順序立てて説明してくれたナル。
思考力が低下している今の己には有難いことだが、それでもやはりすぐには呑み込めなくて。呆然としていると立ち直ったらしいジーンがちょっと困ったように笑って見せた。
「そう、だね……お礼は相手に喜んでもらえるもので、受けたものと釣り合いがとれている価値がなきゃ意味がないよね。……うん。そういえば、まだちゃんと言ってなかったよね。ぼくは渋谷仁っていいます。ぼくを助けてくれて本当にありがとうございました!」
「私も……無礼な発言をしたにも拘らず、治療していただき有難うございました」
「渋谷さん、ご依頼がありましたのなら、あたくしにもご連絡くださいませ。あたくしも今回救っていただいたお礼はしたいと思っておりました。男性が特に怖いということですので、事情を知る同性が一人でもいることで何かお役に立てることがあるかもしれませんから」
「……そう、ですね……わかりました」
ナル同様に偽名を名乗ったジーンに続いてリンも礼を告げてきて、更に真砂子までもが流れに加わってきて――己がSPRで働くことが既に決定事項のようになってしまっているではないか。
けれど、何故だろう。断わる理由が、もうないように思えているのは。
厳密にはあるはずなのに、それに重要度を感じていないのは、やはり己のメリットを優先させようとする自己中心的で身勝手な証だろうか。
自己嫌悪が心に広がろうとしたとき、真砂子が布団の上に力なく投げ出されていた己の手に触れながら綺麗な微笑みを向けてきて。
「お礼でもありますけれど、純粋にさんを応援したいと思いましたの。傷つけられてもご自分の強い意志で立ち上がられて、真っ直ぐ前へ進もうとなさっているその生き方に深く感銘を受けましたから。あなたのその綺麗でお強い心から陰りが取り除かれて、曇りのない笑顔を拝見できる日が早く訪れることを願いますわ」
……何故、ラファエル以外にも、己の心を『綺麗』だと言ってくれる人がいるのだろう。その上『強い』とまで……そんなこと、あるわけがないのに。本当に強いなら十年以上も闇に囚われているはずがない、のに……何がそんな勘違いをさせるのだろうか。
わからない、けれど……今は、ただ嬉しくて。この先拒絶されるかもしれない恐怖よりも、受け入れられた喜びのほうが勝っていて――そして、気づいた。
存在を認められずに生きることほど、つらいことはない。ラファエル以外にも、支えてくれた人たちは確かにいたのに、認められなかったのは己だ。
――己を闇に縛りつけ囚われの身としていたのは、他ならぬ己自身だったのだ。
つまり、真に自由を望むのならば、まずはこの呪縛から断ち切らなければならないということ。それは、彼らの想いに応えることで可能となるはずだ。
彼らが認めてくれた己をそのまま認め受け入れればいい。それが――己を認めてくれる存在を支えに立ち上がるということの、本当の、正しい方法だったのだ……
ずっと、ずっと、間違えていた。ラファエルの想いにも応えているつもりで裏切り続けていたことを自覚して心の中で謝り、は真砂子の手に己のそれを重ねた。
「あり、がとう……真砂子ちゃん……っ、渋谷さんたちも……ありがとう、ございます……っ、これから、よろしく、お願いします……っ」
流れる涙を拭うこともできず、ただ感謝を胸に頭を下げた。
後日、正式に契約を取り交わし、はSPRの臨時調査員として、己を捕らえる闇から抜け出すための第一歩を、彼らとともに踏み出したのだった。