「ごちそうさまでした」
朝食を終えたは、使った小皿とマグカップとスプーンを持って流し台へと向かう。
今朝のメニューは、冷や奴とスープパスタ。
冷や奴は当然のように小皿に載せていた。となると、マグカップに入っていたものがスープパスタということになるのだが……まさしくそのとおり。
早ゆでタイプのマカロニと、小さく切った野菜、缶詰のツナを、チキンブイヨンなどの顆粒出汁を入れた水とともにマグカップに入れてラップをし、電子レンジで3分ほど加熱したあと、塩、胡椒で味を調えれば出来上がりというお手軽レシピで作ったものだったから。
一人暮らしの一食分を簡単に作れるこの調理方法は、入院した際に親切な看護師が教えてくれたものだ。彼女自身もこれを料理本から知ったらしく、その本の情報をもレシピとともに記してくれていたのだが……
料理本は、基本的にレシピとともに完成品の写真も載っているもの。肉を見ること自体がタブーな己には、見たくても見ることのできない代物なのだ。
――と、思い込んでいたことが明らかにされた。
マグカップ調理の本はB6サイズと小型のためレイアウトに限りがあるのか、左ページに写真、右ページにレシピというパターンと、上半分にレシピ、下半分が写真というパターンの二とおりしかないと教えてくれたのだ。
目次で肉料理系のページは避け、別紙などで写真を隠せば、レシピを知ることはできるということ。
元いた世界での記憶では大型の料理本しか見た覚えはなく、写真を隠してレシピだけ見ることのできるようなレイアウトのものは記憶の中では存在しないため考えもしなかった事実だ。
――否。その事実に甘えていただけ、だったのだろう……
闇から脱すると決めた今、甘えという鎖をも断ち切らなければ先へは進めない、と。
図書館へ足を運び、見つけたその本を思い切って開くことができたのは進歩だろう。
看護師が教えてくれたもの以外のレシピを書き写し、更には食材別の調理本やスープのみのレシピ本なども見つけ慎重に中身を覗いてメモを取ってくることができたお陰で、自炊レベルは格段に上がり食生活も大分豊かになった気がする。
それは体調が証明しているだろう。
貧血と栄養失調で入院する羽目に陥ったあの日から、早三ヶ月。標準体重にはまだ届いていないものの健康状態に問題はなく、かなり良好といっていいほどには回復していたから。
あっという間に洗い物を終え、ざっと仕度を整えて室内を見渡す。戸締りなどは既に済んだ部屋で普段と違う部分があるといえば、大きめのカバンがひとつあることだろう。
それは、着替えなどが入った宿泊セットだった。
調査がある時のみという条件でSPRでアルバイト契約を結んだ己のもとに、ジーンから連絡が来たのは三日ほど前のこと。丁度、夏休みに入った今日から調査を開始するということで用意しておいたものだ。
やっとというべきか、いよいよというべきか。
緊張と、僅かばかりの期待を胸に手を伸ばしたのは――カバンではなく、その上のアームカバー。
暑さが増し半袖やノースリーブなどで出歩く人がほとんどとなる中、手の甲から肘の上までをすっぽりと覆う日焼け防止のそれを着けている女性の姿もよく見かけるようになった。
日焼けなど気にしたこともない己がこれを購入した理由など、ひとつしかない。
アームカバーを着けた右手の甲を見下ろし、口を開く。
「……ラファエル……前にも言ったとおり、余程のことがない限り人前での発動は控えてね」
《わかっておりますわ。わたくしの存在故に、主の身を危険に晒すわけにはまいりませんもの》
「ええ……でも、万が一のときは――頼りにしているわ」
《もちろんでございます。わたくしの心は、主とともに》
呼びかけに応え出現したはずの『ラファエルの瞳』は、狙いどおりアームカバーに隠されて外から見えることはなかった。
そう……万が一に備え、『瞳』の存在を隠す目的で購入したのだ。
元々の能力――それこそ、前の世界から持って生まれた能力は、治癒能力だけだ。今の己には他にも特殊な能力が備わっているが、それらはすべて『ラファエルの瞳』によるもの。故に、使用する時には『瞳』が出現してしまう。
アルバイトの目的は、己を捕らえる闇を――障害を克服することであって、調査自体はあくまでついでの手段でしかない。向こうもそれは承知の上で、治癒能力以外の特殊能力を求めることはないと約束してくれている。
彼の世界と同じ過ちを繰り返させないために――彼らを、巻き込まないためにも。
『瞳』を、使用するつもりは、ない。
けれど――
既に忘れ果てた原作という名の未来……おぼろげに残る記憶では、今回からはすべて『悪霊』と呼べる存在が関わっている事件ばかりだったはずだ。
それは、即ち、危険の中に身を置くということを意味する。
何が起こるかは、わからない。イレギュラーたる己と、そしてジーンが存在しているのだから、尚のこと。
万が一『瞳』を使わざるをえない事態になったときのための――保険、なのだ。
双眸を閉ざし、深呼吸。
前もって取れる対策は、すべて準備したはずだ。
ここからが、本当の戦いとなる。真の自由を勝ち取るための、自分との戦い――……
ぐっと胸元で拳を握り締め、決意を胸に刻みつける。拳とともに目を開け、荷物に手を伸ばす。
もう一度戸締りを確認し、己にとって安全地帯である家を出たは、戦地へ向けて力強く一歩を踏み出した。
その日、谷山麻衣はわくわくとした気分で朝の目覚めを迎えていた。
それは単に夏休みに入ったからという理由ではない。
たたりの噂のあった旧校舎の調査に来ていた『渋谷サイキック・リサーチ』――通称『SPR』で、ひょんなことからアルバイトをすることになって早三ヶ月。仕事の選り好みの激しい所長の故に事務所での雑用しかすることのないある意味退屈でしかない日々を経て、ようやく請けた仕事の調査がまさに今日から始まるからだ。
怖いのは正直あまり好きではないのだが、今は楽しみという思いのほうが勝っていた。
だって結局、旧校舎での事故にはちゃんとした原因があった上、己が体験した異常も地盤沈下が大本の原因であり何ひとつ不思議なことではなかったのだから。まあ、ポルターガイストとかいう、勝手に物が動いたり誰もいないのに大きな音がしたりすることはあったが、それも原因は幽霊ではなく人間――無意識による超能力だということだったし。……不思議といえば不思議な現象ではあったけれど。
本物の心霊現象が本当に存在するのならば、この目で見てみたい。
それで苦しんでいる人がいるということを考えると非常に不謹慎ではあるが、期待してしまうのが人間というものではなかろうか。
そんなわけで。
手早く朝食を済ませ用意しておいた荷物を持って足取り軽く部屋を出た麻衣は、アパートのすぐ近くで見覚えのある後ろ姿を見つけた。
肩から斜めがけしている大きめのバッグの所為で折れてしまいそうな印象を強めているあの細身のシルエットは――間違いない。
「!」
「あ、おはよう、麻衣ちゃん」
「おはよう!」
呼びかけるとすぐに振り返ったのは、案の定。同じアパートに住む同学年の。
透き通るような白い肌。肩口で揃えられた髪はゆるく波打ち、横髪の一部を三つ編みにして後ろでまとめる髪型がよく似合っており、どこかの御令嬢といった印象を受ける。
ワンピースやふわふわのスカートが似合いそうではあるのだが、今日はパンツルックだ。それはそれで似合っており、カジュアルなデニムを着こなす姿はまるでモデルのように見えた。
……同じような境遇にあるはずなのに、このオシャレさは何だろう……? 服の選び方か、それともやはり素材――明らかに美少女と呼べる彼女と、十人並みな己という差なのだろうか。
羨望の眼差しで眺めていた麻衣は、改めてその荷物の大きさに目を留めた。
「も出かけるの? 泊まりで? 遠出?」
「え――ええ……」
夏休みだ。どこへ出かけたとしても不思議はない。己と同じ孤児という立場から考えると遊びに行くとは思えないから、夏休みの間だけ泊まり込みでアルバイトだったりするのかもしれない。
そんな予測を立てて聞いてみたのだが、何故かはきょとんとして、小首を傾げている。――その仕草がまた何とも愛らしいことこの上ない。さぞかしモテそうだが、今のところそんな話は聞いたことがなかった。
考えが完全に逸れた麻衣は疑問を放置し、思いつくままを提案してみた。
「駅方面なら一緒に行かない?」
「ええ。……麻衣ちゃん、楽しそうね」
「えへへ~、ちょっとね」
承諾を得られ心のままに笑顔になると、も小さく笑ってくれた。
元々わくわくしていたところに、美少女と並んで歩けるなんてちょっとした自慢のようで、そりゃあ嬉しいことこの上ない。だがそれをそのまま伝えるのもどうかと思ったので言葉は濁したけれど。そのくらいの常識力は持ち合わせているし。
その代わり、気になっていたことを聞いてみる。
「そういえば、入院したって聞いたけど大丈夫?」
旧校舎の調査の時、依頼を受けた霊能者の一人である原真砂子が二階から転落して大怪我をした。丁度その場に居合わせたが超能力の一種を使って癒したお陰で大事に至らずに済んだのだが、引き換えるように倒れてしまって彼女もともに救急車で運ばれていったのは見送っていた。
その後、調査中は様々なことが起きててんやわんやだったし、真砂子もナルも何も言わなかったから聞きそびれた上、とはクラスも登下校時間も違うのか会うことがなくて確かめることができずにいたのだ。
入院した、と聞いたのは噂のような形でだったため余計に気になってはいたのだが、果たして。
「あー……貧血と軽い栄養失調だから気にしないで」
「栄養失調!? なんで!?」
「その……わたし、お肉ダメでしょ? 本来お肉から摂るべき栄養を他の食品で補わなきゃいけないんだけど……うっかり、不足させちゃって……」
「うわー……食べられないものがあるって大変なんだねー……」
「あ、でも、いざとなったら豆乳がいいとは教えてもらったから、もう大丈夫だと思うわ」
「そっかー」
現代日本において栄養失調で入院なんてことがあるとは思わなかったが、理由を聞けば納得だ。
己が知らないだけで、様々な病気で苦しんでいる人は沢山いるということを、改めて知らされた気分だ。
人それぞれに背負うべきものがあるということなのだろう。己が孤児となったように、自分の力ではどうすることもできない重荷が。
当人が気にしていないものをあまり重く受け止めすぎても却って気を遣わせてしまうだけ、と。
表面に表すことなく軽く流す。
「お魚は平気なの?」
「ええ、食べられるけれど……」
「けど?」
「さばけないから、買うとしたら切り身か缶詰になるわね」
「あははー、あたしも魚はさばけないなー。それに一人暮らしだと量的にもそうなるよねー」
「あまり贅沢もできないから、スーパーのタイムセールとか割引シールばかり目当てにしちゃったり……」
「そうそう!」
同じ境遇ゆえのあるある話で盛り上がりつつ歩けば、あっという間に最寄り駅が見えてきた。
もう少しと話していたい気もするので残念な気持ちが湧いてきたが、駅の出入口に立つ人物を見た途端にそんな思いはどこかへ行ってしまった。
眉目秀麗な少年がこちらへと笑顔を向けて手を振った瞬間に、麻衣の心臓は跳ね上がって一気に顔が火照ったからだ。
己はそれほどミーハーではない自覚はある。テレビに映るアイドルや俳優にも然して興味は湧かないし、顔がいいというだけで色めき騒ぐ学友たちの感性は、はっきりいって理解できなかった。
事実、旧校舎を調査する一環として噂話を集めるために転校生を装って現れたSPR所長に対しても警戒心しか湧かなかったし。やはり大事なのは見た目より中身だと、彼と相対して改めて思ったくらいだった。
そんな己が、所長と同じ顔をした少年――ジーンこと渋谷仁に対してこのような反応を示したのは、内に秘めた恋心の故に他ならない。
淡い恋心を抱く相手が、己を待っていてくれて、己を見て笑いかけてくれる。それで舞い上がらない女が果たしているだろうか。
しかも、待ち合わせをして、一緒に電車に乗って出かけるのだ。そんなもの、デート以外の何だというのだろう。
……とはいっても、まだ告白していない以上恋仲ではない上、行き先は依頼人の家であってあくまでも仕事なのだが。
それでも、少しでもデートの気分が味わえるというだけで幸福を感じてしまうのが、恋する乙女の心情ってものだろう。
実はこれが、仕事であるにも拘らずわくわくしていた理由のひとつだった。
ちなみに、双子の弟でありながら所長であるナルこと渋谷一也は、メカニックのリンとともに、調査で使う機材を積み込んだバンでの移動とのこと。
仕事の効率という面から考えるなら、一応乗ることは可能なのだから全員車で移動したほうが断然お得だとは思う。けれど、恋心優先でいうなら、僅かな時間だけでも二人っきりになれる今回の移動は万々歳だった。
――の、だけれど。
「おはよう、二人とも」
「「 おはよう、ジーン 」」
「時間ぴったりだね。さ、行こう」
「ええ」
「――って、も!?」
ジーンは、の存在に疑問を表すことはなく、むしろ二人一組の扱いで挨拶を向け先を促した。そしてもそれを当然のように受け入れ、駅構内へ足を向けて彼のあとに続いて歩を進めて――ここに至って、ようやく麻衣は驚きに声を上げた。
何だ、この状況は。何かがおかしいぞ。
状況が読めずにぐるぐるするこちらを、やはりは不思議そうな表情で見たあとジーンへと視線を向けて。釣られて麻衣もジーンを見た。
ジーンはといえば、然も今気づいたとばかりに、ぽむっと手を打って。
「あ、彼女もアルバイトに雇ったんだよ。調査がある時のみの臨時調査員って契約で、旧校舎の調査の時に」
「~~っ、なんで教えてくれなかったの!?」
「……どうして教えてなかったの?」
「モチロン麻衣を驚かせたかったから♪」
予想外の事実に対して、まず湧いてきたのは怒り。非難にも似た問いをにぶつけるも、彼女はそれをジーンへパスし、そしてジーンは待ってましたとばかりに輝く笑顔で種明かしをしてくれやがった。
顔合わせのときに改めて紹介する気でいたというのならまだしも、単なる悪戯心で隠していただけだったとは……折角デート気分が味わえると思っていたのに、さっきまでのわくわく感を返せ――と。
殴りたい衝動に駆られ握り拳を震わせていると、ジーンから不自然に顔を背けたの姿が視界に映った。
麻衣にとっては腹立たしいだけのジーンの笑顔だが、端から見れば美形の笑顔だ。学友たちと同じような感性を持つ人間にとっては眼福物であり、もし恋心があるのなら、まぶしすぎるものだろう。
顔を背けたということは、まさか後者か――と。強力なライバル出現に危機感を抱いたのは、ほんの一瞬だった。
理由は、簡単。の顔色が赤ではなく蒼白だったからだ。
麻衣はじとり、とジーンを睨めつけ、言った。
「ジーン。痴漢って誤解、解いたんじゃないの?」
「えっ!? ちゃんと謝ったよ!? 解けてるはずだよ!?」
「じゃあなんでこんなに顔色悪くなってるのさ。明らかにジーンを見て、こうなったよね?」
「ええっ!? ちょっ、ホント!?」
麻衣の言葉でやっと気づいたらしいジーンがへと近づいた。すると、あからさまにびくっと肩を震わせ、彼女は後退ってジーンを避ける始末。
ナルは、が怯えているように見えたと言っていた。確かにこの反応ではそう見えて当然だ。誤解は解けても、一度心に刻まれた恐怖はなかなか消えないということなのかもしれない。
とりあえず、がライバルになる心配だけはなさそうだと胸を撫で下ろし、二人の間に体を滑り込ませる。
「はい、ジーンは少し落ち着いてー、不用意にに近づかないー」
「麻衣ひどい!? 麻衣までぼくを変質者扱い!?」
「女の子の心にトラウマ植えつけたジーンの自業自得でしょ」
「そうなんだけどっ、それはそうなんだけど!!」
「あ、あのっ、ごめんなさいっ、ケンカしないで……っ」
「でも……」
「それよりも今は電車の時間……乗り遅れたら大変だと思うのだけど……」
「あ、そうだった! ナルに何言われるかわかったもんじゃない! はい、これ切符」
「はぅ!? 嫌味毒舌オンパレード!?」
怖がらせるだけなら彼女のことは諦めて、己を見てほしい。むしろ頼ってほしい――と。
そんな思惑もありつつを背に庇ったそれは功を奏したかに思われた。
しかしすぐに仲裁に入ってきた彼女に反論しかけた麻衣は、続いた理由を聞いて、それまでの思いなど全部見事に吹き飛んでしまったではないか。
脳裏に浮かぶは、人を小馬鹿にした態度の所長の姿と、その口から飛んでくる嫌味や毒舌の矢の数々。
それはもう条件反射だった。
差し出された切符を受け取った麻衣は、所長からの余計な叱責を回避すべく改札口へ向けて一目散に駆けだしたのだ。
だから、気づけなかった。
「……ぼく、また何か地雷踏んじゃった?」
「…………克服、するために来ているのだから……あなたは、あなたのままで、いて……」
「わかった。でも無理はしないで、限界だと思ったら、いつでも抜けていいからね」
「……ありがとう……」
己のあとを二人がついて来ていないことにも、神妙で意味深長な会話が交わされていたことにも――単なる誤解などでは説明がつかない深い溝が二人の間にあったということにも……全く、気づくことはなかったのである。
やっと見つけた命の恩人である治癒能力者の少女、と、臨時調査員としての契約を結んでから、三ヶ月。
会って話したいと思う気持ちを抑え込んで過ごしたその期間は、彼女にとっても落ち着きを取り戻す良い機会となったようだ――と。笑顔で挨拶を返してくれた姿を見て、ジーンは密かに喜んだ。
――けれど、それはほんの束の間の出来事だった。
何も特別なことをした覚えはないのに、急に怯えた様子で避けられてしまったのだ。
己の何かが彼女の恐怖心を煽っていると弟に言われたときは、正直言って半信半疑だった。それを証明する事実を突きつけられてショックを受けずにいられるほど能天気でもなく、取り乱した結果、麻衣にまで変質者扱いされて、内心かなり落ち込んでいた。
しかも、一体何が悪かったのか。明確な答えを知るはずのからも教えてはもらえず不明のまま、けれど彼女の言い分ももっともで引き下がるしかなかったジーンは諦めて自らを落ち着かせ彼女の様子を観察することにした。
そうしてわかったことは、確かに彼女は人に対して恐れを抱いているということだ。
それを如実に表している行動の最たるものは、目を合わせようとしないことだろう。
同性である麻衣と話すときでさえ、さり気なく視線は別の所へ向いていた。けれど相手の様子はきちんと見ているようで、スキンシップに対して常に身構えて過剰な拒絶反応を出さないよう気を配っているのだ。
それが異性である己に対してだと、更に顕著になる。一定の距離以上に近づこうとしただけで緊張を露わにするのだ。
自ら近づくのなら心構えができるからか、まだ平気なようだが、近づかれることに対してはひどく敏感だった。
彼女のトラウマとなった事件については、詳しく調べてはいない。だからリンが聞いた以上のことは知らないが、両親を目の前で殺されただけではなく、おそらく彼女自身も殺されかけたのだろう。
だからこそ、心に深く恐怖が刻み込まれて、警戒してしまうのだろう。
――本当に、己は何ひとつ、彼女のことを知ろうとも、見ようともしていなかったのだ……
己の不甲斐なさを改めて思い知り、ジーンはこっそり嘆息する。
だが、もう同じ失敗はしない。
失いかけた未来を彼女が取り戻してくれたように、今度は闇の中を歩む彼女を光へと引き上げる手伝いをすると決めたのだ。
真砂子が言っていたように、心の底から笑ってくれるときが早く訪れてくれるよう、できることをする。
決意を新たにしたジーンは、向かいの席で一見楽しげに会話している二人の少女をさり気なく観察し続けた。
依頼人宅である森下邸があったのは、郊外の閑静な住宅街――ではなく、そこから山際に外れた場所にある格式あるお屋敷街といった地区の一角だった。
高台の外れに建つそれは、周囲の景観に見事に溶け込んでいて、正しくお屋敷と呼ぶに相応しい佇まいの古い洋館だ。映画やドラマの撮影で使用されてもおかしくはない、ロマンチックともいえる建物だった。
……奇妙な現象に遭遇したり、おかしなモノを視ずに済むならば、だが。
それを如実に表現したのは、ジーンと麻衣。
「「 ……すごい…… 」」
二人は駅から乗ってきたタクシーを見送りもせず、降り立ったその場で建物を見上げて呟いたのだ。
同じ感嘆を表す言葉だが、そこに含まれる感情――意味合いの全く異なる呟き。
ジーンは大きく目を見開いて冷や汗すら浮かべ、麻衣はただ単純に建物の美しさに目を奪われ半ばぽかんと。
それは、視える者と、視えない者との差――だった。
電車組と時間が合うよう調整したのだろう。タクシーが到着するその目前で、先に門の内へと入っていったバンから降りていたナルが、その呟きに目を向けてきた。
しかし、迎えに出てきた依頼人、森下典子の手前、ジーンはただ曖昧に笑顔を返しただけで何も言わなかった。そして、何故か麻衣も曖昧な反応で。
それらを家の古さに驚いたものだと解釈した典子が案内のため背を向けた隙に、ジーンは唇の動きだけで「あとで」と短く告げた。ナルは何も言わず小さく頷いてから典子に続いて家の中へと入っていき、未だぽかんとしたまま建物を見上げていた麻衣がその動きに釣られ慌てて足を進める。
流石は双子という慣れた様子の一瞬の遣り取りを感心げに眺めていたは、最後尾で白いドアをくぐった。
吹き抜けの広い玄関ホールとなっていた中の様子は、正しく撮影スタジオのようで。モデルやアイドルの写真集の撮影に使われたらとても好い雰囲気が出そうだと思えるほど、そこは明るく、そして美しい内装だった。
それだけに、奇怪な出来事が起こればホラー映画のような雰囲気に染まってしまうのだろう。人間は、心の在り方次第で物の見え方が変わってしまう生き物だから。
ただ、今回はそんな心の持ち方でどうにかできるような問題ではないということだ。
視える者にはわかる、この家の現状……ジーンの言うとおり、すごいの一言で片づけてしまえるほどの見事な幽霊屋敷なのだから。
階段の踊り場や手すりの陰、廊下の奥などから、興味深げに、あるいは警戒するように見ている子供たちが少なくとも十人はいるのが、にもわかった。
彼らが死霊であることは、霊媒であるジーン以外の人間が無反応であること――特に典子が説明や紹介をしないどころか気づいてすらいない様子でいるという点からもわかるが、それ以上に生者の体を透かし抜けて唐突に消え、また現れたりしていることで一目瞭然だった。
この世界に来る以前には、幽霊などという存在を実際に見た覚えなど一度たりともありはしない。それがこのように鮮明に捉えることができるようになったのは、『瞳』の能力に他ならない。『ミカエルの瞳』の主であったテイトも、『ラファエルの瞳』の主であったオウカも、死神や霊魂を普通に視ることができていたことから見ても間違いはないだろう。
彼らとの違いがあるとすれば――死神であったフラウと同じように視ることも可能だという点だろうか。
即ち――何本もの鎖が体から生えているかのように伸びている状態で、視えるのだ。
鎖で繋がれた状態といえば『囚人』というイメージになりそうなものだが、彼らの姿を表現する言葉としては生易しすぎる。
鎖はどれも太くて重そうなものばかりの上、見ているだけで重苦しい気持ちになる色をしている。
それが、子供の小さな体に直接繋がっているのだ。胸から、背から。腕や足からも。
皮膚が引きつれ、溶け込み、同化して。
何本も、何本も。体から鎖が垂れ下がり、その先は床下へと消えているのだから。
あまりにも痛々しい、その姿に。
通りすがるように近づいてきた一人の子供に、は右手を伸ばして――
「――ええっ!? なんでいるの!?」
突然聞こえた麻衣の叫びが、意識を現実に引き戻した。反射的に右手を胸元に引き戻し、声のした方向へ振り向く。――気づけば、他の者の姿はもうどこにもなく、玄関ホールには一人しかいなかった。
傍から見れば奇妙な行動でしかないものを誰にも見られずに済んだ事実に対する安堵は、ほんの僅かなものでしかない。
むしろ、彼らの存在を一瞬とはいえ完全に忘れていた己自身に、は愕然とした。
――こんな調子では、すぐに『瞳』の存在が、その力が、バレてしまう……
きょとんと見上げてくる無邪気な子供の、光のない眼が、胸をえぐる。けれど、ぐっと拳を握り締めて彼らから目を逸らした。
その視界に、ある一室から出てくる典子の姿が映る。
行き先がわかったことで逃げ出すようにそちらへ向かい、怪訝な表情を浮かべた典子に軽く会釈して通り過ぎる。そして僅かに開いていた扉をそっと開けて身を滑り込ませた――刹那。
「お、あのどえらい治癒能力者の嬢ちゃんまでいるのか」
「っ」
聞き覚えのない男の声と、明らかに己を指す『治癒能力者』という単語に。びくっと、派手に体が跳ねた。
自己嫌悪に陥っていた状態での不意打ち。顔を上げることすらできずに固まってしまう。
思考力すら停止していたその背に、ぽんぽんと軽い衝撃が来る。ただそれに誘われるままに目を向けた先にいたのは――ジーンで。笑って、いて……
励まそうとしてくれているというのは、わかる。少なくとも理性では理解できている。
けれど、今は――恐怖心を呼び起こされるだけでしかなくて。
心が訴えるままに、体は彼から離れていく。麻衣の――同性のいる方向へとじりじり退いていって……できた空間に麻衣が入り込んで。
「ジーン。に不用意に近づかないでって言わなかった?」
「だから麻衣! 変質者扱いしないでってば!!」
「なんだ坊ちゃん。まだ謝ってねーのか?」
「謝りましたよ!」
「誤解だったって頭でわかっても、一度植えつけられた恐怖心はそう簡単に消えないってことでしょ。自業自得ね」
「うぅ~……っ」
再び繰り返された遣り取りに、何故か訳知りのような先程の男の声と、更に知らない女性の声も加わって。ジーンは反論の言葉もなく顔を覆って項垂れた模様。
意識と視界の隅で状況を把握しつつ、は深呼吸を幾度か繰り返す。
――こんなに簡単に恐怖に陥るくせに、自らそのような事態を引き起こしかねない行動を取りかけるなんて……自覚と覚悟が足りない証拠か……
恐怖を抑え込もうとすると、反比例するように自己嫌悪が大きくなった。ぐっと拳を握り締めることでそれ以上考えないようにし、改めて室内へと目を向ける。
応接間らしき室内にあるソファに、離れて腰かける一組の若い男女。長めの茶髪を後ろで一括りにした軽薄そうな男と、OLというよりはホステスのような派手な装いできつい印象を受ける女性――それは、知っているけれど初対面の相手……【ゴーストハント】の登場人物の内の二人だった。
「……初め、まして……?」
「いや、初めてじゃねえんだけどな。真砂子ちゃんが怪我したあの旧校舎の調査の時に俺らもいたんだよ」
努めて平静を装い挨拶すると、男――滝川法生が苦笑いしつつ説明してくれた。
旧校舎での出来事は未だに記憶が曖昧なままだが、確かにナルたち以外にも誰かがいたような気がする。とはいえ、きちんと顔を合わせて見たのは今このときが初めてなのだから、間違ってはいないだろう。
同じことを考えたらしい滝川が改めてこちらに向き直って、言った。
「まあ、まともに顔合わせてもいねーから無理ねえか。俺は滝川法生っつって、元高野山にいた坊主だ。ここには奥さんからの依頼で来たんだよ」
「ぼーさんでいいよ、」
「アタシは松崎綾子。旦那さんの秘書とかいう人からの依頼で来たの。巫女よ」
「自称ね、自称」
「そこ! 聞こえてるわよ!」
「えーっと……です……」
自己紹介とともに現在に至る経緯も簡潔に説明した二人。途中に入った麻衣の茶々のような補足説明が、彼らへの信用度を物語っていた。
だが、それはとて同じこと。
最早、紙の上のキャラクターではなく、生きた人間として目の前に存在している彼ら。イレギュラーの存在するこの世界で生きる彼らが、物語どおりの性格――心を持っているという保証などどこにもありはしない。
まして、一点の曇りもない心を持ちえる人間など存在せず、それ故に人の心ほど移ろい易いものはないのだ。
そのような不確かな存在相手に容易に気を許せるようなら、今、闇に囚われてなどいるはずもない。
故に、にとって彼らはまだ信用に値する相手ではなく、最低限の礼儀として名乗るだけに留めた。
丁度その直後に、人数分のアイスティーの入ったグラスを持って典子が戻ってきた。お陰で注目は依頼へと向かい、全員の気持ちが仕事モードに切り替わったようだった。
典子とともに姿を見せた二人の人物。アンティークドールを抱えた愛らしい少女は姪の礼美で、気の強そうなキャリアウーマンといった印象を受ける女性は義姉の香奈。家主である兄は海外出張中で、現在この家にいるのは三人だけなのだと、アイスティーを配りながら典子は説明した。
給仕を終えた典子を含めた全員が席に着いて、真っ先に口を開いたのはナル。滝川たちの存在は無視するかのように、必要な情報を聞き出していく。
それに対する二人の態度はといえば、全く気にした様子もなくアイスティーに口をつけ、話を聞いているのかいないのかわからない始末。
かくいうも、話はほとんど聞いていなかった。
視界の隅にある、こちらを監視するように見ている子供たちの存在が気になって仕方がなかったからだ。
鎖の存在を視えないようにすることはできるので、現在はただ礼美と変わらない姿に映っている。しかし、彼らの姿そのものを視えないようにすることは――できないから。
どうしても、気になった。特に、敵意などの負の感情をもって向けられる視線には、無意識に反応してしまうから。身を守るために、相手の動向を把握しようと動いてしまうから。
子供たちと、目が合った。
もう二度と光を宿すことのない虚ろな眼が、胸に痛みを走らせる。
膝の上で強く拳を握り締めた右手の上に左手を重ね、意識して子供たちから目を逸らした。
そうして視線が向いたのは、アームカバーと左手の下に隠した、右手の甲。
『瞳』の存在は、隠さなければならない。故に、使うのは万が一の事態のときだけ。
そう決めて、ここに来たはずなのに……
――本当に、『瞳』を使わずにいられるのだろうか……?
肥大していく不安と疑問、そして胸の痛みを持て余しながら、は移動を始めたナルたちのあとを追って応接間を後にした。