挑戦したいと思えたことが、何より嬉しかったから。
どこまでできるのかはわからないけれど、やってみようと思った。
「カメラの設置終わ――」
「ナル、温度が下がり始めました」
「どこだ」
「子供部屋です」
「スピーカーを切り替えろ」
「――いだっ」
くたくたになってベースの扉を開けた麻衣は、しかし中から聞こえたリンの言葉でハッとした。
それは滝川や、今回は力仕事を免れることができずに手伝わされた松崎もだったらしく、傾れ込むようにしてベースへと駆け込んだ。
スピーカーから硬い叩音やドンッという衝撃音、何かが弾けたようなラップ音が溢れる中、ジーンの声が混じったが、誰も気には留めない。
その視線は、モニターに釘付けだ。
こんなに騒然としているのに、住人のいない礼美の部屋はカーテンひとつ揺れてはいない。動く物がないのに音だけがする、その不気味さに生唾を飲み込んだときだった。
「……すごい……」
「なに?」
「温度だ。すごい勢いで下がっていく……ほとんど氷点下だ」
「うん、いっぱい集まってるからね」
ぽつり、と。こぼれたのは、ナルの感嘆した呟き。その視線の先には、サーモグラフィーの映像がある。ほぼ寒色のグラデーションに染まった画面では、彼の言葉が示すとおり、黒い箇所が徐々に増えていっていた。
霊のいる場所は、温度が下がるらしい。つまり、冷房のない真夏の室内で氷点下近くまで急激に温度が下がるなどという自然現象では起こりえない異常な現状は、霊がそこに現れたという確固たる証拠ということ。
それを見て感動さえしているかのようなナルの感性には、はっきりいってついていけない。これが通常なら、仕事バカと呆れているところだ。
だが、こうして目に見えて異常だと確定された現象を前にしてそんなことを思えるほど、麻衣の神経は図太くはなかった。
「すごいはしゃいでるよ。悪戯が成功したことを喜んでるみたいだけど、無邪気さは全然なくて、ホントに悪意だけの喜び方だ」
まして、このように説明する者がいては、尚だ。
何の動きもなく、生物の存在すら感じられないモニターをじっと見るジーンの瞳は、不思議な色をしている気がした。どこがどうとは説明できないのだが……強いて言い表すのなら、深い色、だろうか。
この世ならざるモノを視るその独特の雰囲気に、麻衣は完全に呑まれていた。
滝川たちも同じだったのかはわからないが、少なくとも口を開く者はなかった。
そのような中、至って通常運行だったのは、この異常現象に対して感動などというそれこそ異常な反応を見せていたナルで。
「リン、他に変化のある部屋は?」
「特にありません」
「完全に隠れているということか……やはり、ジーンを弾き飛ばした少女を見つけるか、礼美ちゃんを奴らから引き離す必要があるな」
「ラスボスとご対面するためには、まず中ボスから撃退しなきゃならんってか?」
先程までの感嘆など微塵も感じさせない声音で対策案を口にするその様子に感化でもされたのか、滝川が少しふざけた調子で言葉を発した。
それが場の空気を戻すきっかけとなったのだろう。麻衣も知らず力の入っていた肩から力が抜けたのを自覚した。
「ねえ。霊がいるのは確定したとしても、それが子供で礼美ちゃんが狙われてるってことまで確定したワケ、これで?」
そして松崎までもが、いつものように否定的な口を挟んできた。
サーモグラフィーの画面を指差し、ジーンの言葉を完全に除外した内容の問いかけ。やはり霊視能力者の言葉を信用する気がないとしか受け取れないそれに、しかしジーンは目をぱちくりさせてから弟を見て。
「断言したってことはウラがとれたんでしょ?」
「当たり前だ。何のために外へ出たと思っている」
松崎を含めた他の者への説明を求める意の確認に、尊大な口調で肯定したナルはカバンから一冊のファイルを取り出してめくりながら説明を始めた。
「昨日の時点で、この家にいる霊のものだとジーンが挙げた名前が十人分ほどあった。この家の過去の所有者を遡った結果、野木家で一人、大沼家で三人、谷口家では住人ではなく遊びに来ていた親戚の中に一人、池田家では別の家に引っ越した後で一人、最後にこの家を建てた立花家で三人死亡していることが判明した。いずれも8歳前後の子供ばかりで、ジーンが挙げた名前と一致していた。他に、住人ではなく遊びに来ていた近所の子供が池で溺れて死亡したという新聞記事にもひとつ名前があったな。年齢以外の共通点として、病弱で満足に学校にも通えなかったり、一人遊びが多かったとの目撃情報があり、同化条件のひとつが親和性にあるということもほぼ確定している」
つらつらと出てくる情報に、ぽかんとしてしまったのは麻衣だけではない。疑問を投げかけた松崎ですら、ぐぅの音も出ない様子で。
「半日ほどで、よく調べたな、そこまで……」
「人の出入りが然程激しくはない古い町でしたので割と簡単でしたが?」
こちらの心情を感心しきった様子で代弁した滝川の呟きにも、当の本人は至極当然のように返しただけだった。
自信家ナルシストが出来上がるには、それを裏づけるだけの実力が確かに備わっていたということのようだ。
疑問は解消されたと判断したのか、ナルは早々に話を進めた。
「ジーン、人形の件はどうなった?」
「隠されて逃げられました」
「……報告もまともにできないのか、おまえは。何年同じことをやってきたんだ、馬鹿者。麻衣以下に成り下がりたいのか」
「リンの言ったとおり敵認定されたらしく、礼美ちゃんにすら警戒されて人形を隠された上、近づかせてももらえませんでした!!」
馬鹿の代名詞のように名前を出され、待てやゴルァ!! と思わなかったわけではない。が、一応、年数のことを指してのことだと踏んで怒りは治めた。
そのことよりも気になり、思い出されたのは、典子の部屋へカメラ設置の許可をもらいに行ったときの様子だった。
礼美はジーンを見るなり人形をその視線から隠すようにしてベッドの陰へと逃げたのだ。
小さな子供に逃げられたという事実にか、見るからにどん底まで落ち込んだジーンを引っ張って移動し、カメラを設置するのはかなり骨が折れた。
それでもまだ落ち込んだままの彼を引きずってベースへ戻って――リンの言葉で思わず手を放してモニターに釘付けになったんだったか。
そうしたら、復活してた。
と、いうことは、つまり、ナルのあの容赦ない扱いは単なる彼個人の感情的なものではなかったということ――に、なるのか?
バイオレンスな兄弟関係の裏側を垣間見た気がして、一瞬意識があらぬ方向へ飛んでいた麻衣へと、所長の次の確認が向けられた。
「麻衣はまだノーマークか?」
「あ……うん、多分……」
「なら麻衣は礼美ちゃんについていろ。そして、できるだけ情報を引き出してこい」
「う、うん、やってみる」
「人形については、明日朝一番に典子さんに話を聞いてみる。ジーンは引き続き例の少女と床下の存在を中心に情報を探れ」
「all right」
「調べた限り、過去被害者の死因は病死や事故死などバラバラで特定はできない。全員、礼美ちゃんから目を離すな」
力強いナルの指示に、拒否を示す者は誰もいなかった。
虚仮(コケ)にされたままではいられないというプロの意地なのか。こちらが征服してやるという意気込みすら漂わせて、滝川と松崎もそれぞれに了承を返した。
やっとチームプレイらしくなってきた空気感に、けれど麻衣は全く安心は感じられなかった。
この家にいるモノの強さ、不気味さや、自分がやらねばならないことなどへの不安のほうが、ずっと強く大きくのしかかっているように思えていたから。
徐々に異変の治まっていく各種の画面を見ながら、麻衣はただ不安に押し潰されないよう必死に自分を奮い立たせていた。
耳につくセミの声とふわりと肌を撫でた風に、香奈はふと目を覚ました。
いつの間に眠っていたのだろう……覚醒した意識は、けれど未だ動きは鈍く、記憶を引き出すのに時間がかかりそうだった。
ぼんやりと天井を見つめる視界は、カーテンに遮られた光によって穏やかな明るさで占められている。
肌を撫でていく風が、とても心地好い。
――こんなにすっきりした気分で目覚めたのは、一体いつ振りだろう……
一度大きく深呼吸してから、ゆっくりと体を起こした。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
聞き慣れぬ少女の声に導かれて目を向けると、やわらかな微笑みを浮かべた少女がいた。
風でカーテンが大きく揺れた。隙間から夏の強い光が射し込む。
思わず目を細めたその視界で微笑む少女は、まるで天使のように見えて……そんな、らしくないことが頭に浮かんだ己に、自然と笑みがこぼれた。
「おはよう。お陰様で、とても清々しい目覚めだわ」
少女の存在をきっかけにして、ようやく思考が回り始めたらしい。最近のこと、ゆうべの出来事、そのすべてを鮮明に思い出した。
年下の――高校生の少女を相手に、ワインを飲みながら遅くまで愚痴をこぼしたのだ。
三軒の店のオーナーという立場に加え、生来の性格もあって、他人に愚痴や弱音を吐くことなんてほとんどありえなかったのに。ゆうべは、何の抵抗もなく、溜まりに溜まった思いのすべてを吐き出していた。
この少女が聞き上手なのか、それともある意味行きずりの赤の他人だからなのか。
どちらにしろ、今、すっきりしているという結果に変わりはない。
ただ、変化はそれだけではなくて。
心の……意識の向く先が変わっているのが、はっきりと自覚できた。すべてが邪推に向いていた視点が、180度変化しているのだ。
過去や現状の不明瞭さへの不安や苛立ちに囚われていた意識が明確に未来へ向いているのが、単に愚痴を吐き出したためだとは到底思えないけれど。決して悪い変化ではなく、むしろ本来の自分自身を取り戻せたような気さえしていて。
「ねえ……私、今日、やってみたいことがあるのだけど……」
この変化を引き出してくれた少女へと、香奈はその思いを打ち明けた。
それは己の望みを確実に叶えるための協力を、期待――したから、なのだろう。
果たして。
「わたしは、いいと思います。けれど、少し待ってください。ゆうべ、何か新しいことが判明してないかどうか聞いてきますので」
少女は笑顔で賛成と協力を口にしてくれた。
――たった一人、全面的に味方になってくれる者がいるだけで、こんなに心強いなんて……
香奈は安堵に満ちて、力強く頷いた。
「ミニーかえして! さわらないで!」
「礼美ちゃん、ミニーとお話ができるんだって?」
「だれもさわっちゃだめ!!」
「礼美ちゃん」
ゲストルームで軽く身支度を整えて廊下へ出たの耳に、こんな声が飛び込んできた。目を向ければ、人形を抱えて階段を駆け下りていく礼美を麻衣が追っていくところで。
その様子を半ば呆然と見送る典子と、鋭い眼光を向けるナルがその場に残っているのが見え、二人に近づいてみた。
「おはようございます」
「あ、おはよう……」
「ああ。、子供の相手は得意か?」
「……嫌いでも苦手でもないけれど、得意だと断言できるほどの交流経験はありません。それに……向こうに、警戒、されている可能性も……否定はできません」
状況から礼美に関してだろうと踏んで答えると、ナルは渋い顔をしたあと、納得したように溜息をひとつつく。
聡い彼は『向こう』と表現したものが礼美ではなく、その周囲にいる存在を指しているということも、その理由の見当もついたからだろう。
それ以上こちらへ何も言うことはなく、未だ呆然とした様子の典子へ目を向けて言った。
「典子さん。すみませんが、今夜礼美ちゃんが寝ついてから人形を持ってきてもらえますか」
「わかりました」
ぎこちなく頷き、去っていく典子を見届けてから、はナルへと目を向けた。すると、彼もこちらを見ていて、目が合う。
物言いたげなナルの視線は、彼の研究者としての性質を雄弁に表している。けれどそれを口にしないことが彼の紳士な性格を示していて。
――彼は、確かに、ドクター・ナナセとは違う。
研究者という存在に対する根強い疑心が、少しは解けていくのを感じ、は肩から力を抜いた。そうして、半ば確信を抱いて、口を開いた。
「所長、香奈さんのことでご相談があるのですが」
「香奈さん? とりあえず、ベースへ戻ろう」
一瞬、怪訝な顔をしたナルは、それでも聞いてくれる気はあるらしく、落ち着ける場所への移動を提案してきた。
階段を下りていく彼の後を追ってベースへ戻ると、仮眠中なのか中には滝川とジーンの姿しかなかった。
何かを言いかけた二人を視線だけで黙らせたらしいナルが、こちらへと向き直って言った。
「それで、相談とは?」
「あ、はい。香奈さんが、礼美ちゃんと、きちんと向き合ってみたいそうです。それで、ゆうべ何か新しい情報はありましたか?」
「ああ、麻衣が奇妙なことを聞いてきた。香奈さんは悪い魔女で、邪魔な自分と典子さんを殺そうとしているのだとミニーが教えてくれたと、礼美ちゃんが言ったそうだ」
「ミニー?」
「人形の名前だが、おそらく君の予想どおり、人形を器に近づいた霊だろう」
どこかで聞いた覚えがあると思っていたら、先程の光景が思い出された。
そして、納得する。麻衣から得た情報を更に深く探っていた場面に出くわしたのだ、と。
何かの内に隠れた魂を見つける術まではないので、人形を器にしているとは全く予想はしていなかったのだけれど、と。内心思っていると、ナルの厳しい眼差しが向けられた。
「礼美ちゃんを霊の支配下から奪い返すという点では賛成だが、当然、連中の抵抗はあると見ておいたほうがいい。香奈さんの身にも危険が及ぶ可能性が増すぞ」
彼の言葉は、警告というよりはこちらの覚悟を問うているように感じるもので。
は静かに瞑目し、考える。
己の力を――ラファエルの加護を、過信するつもりはない。守り切れる保証などないのは百も承知の上だ。
だが――目を開け、真っ直ぐにナルを見据えて、答えを返す。
「それでも、香奈さんの前向きな気持ちを大切にしたいと、わたしは思います」
「ん~……嬢ちゃん、ひょっとして奥さんと自分重ねてねーか?」
こちらの覚悟を見定めるかのように口を開かないナルとの僅かな見つめ合いのあと、それまで黙って話を聞いていた滝川が口を挟んできた。
問われた内容に一瞬きょとんとして――けれど、どこか腑に落ちた気持ちを感じて、却って首を傾げてしまう。
「香奈さんの、困難に立ち向かおうとされる姿勢を、応援、したいとは思ってます、けど……」
自分の思いをうまく表現できずに、それでも答えれば。
事の成り行きを見守っていただけのジーンと滝川が顔を見合わせたかと思えば、共に笑顔を浮かべて、言った。
「ナル、いいじゃない。礼美ちゃんの孤立を防げれば、除霊しやすくなるのは事実でしょ?」
「そーそー。要は、俺らがしっかり香奈さんも含めて全員守りゃあいいだけのことだろ」
「……わかった。ただし、カメラは回すからな」
「だな。何かあったとき、すぐ行けるようにしとかねえと」
二人の言葉で、ようやく許可を与えてくれたナルは、しかし最後に条件を加えた。
それは己にとっては大きなハードルだが、滝川の言い分には納得するしかない。
ぐっ、と。拳を作って覚悟を決める。
「はい、わかりました」
「頑張れよ」
「っ」
ぽん、と。頭に手を置かれ、思わずびくっと跳ねた体をそのまま退いてその場から離れた。
近づかれていることにすら気づけないほど、余裕を失っていたなんて……
己の失敗に対する思いがそのまま表情に出てしまっていたのだろう。頭に手を置いた体勢のまま滝川は、きょとんとこちらを見ていて。
「んあ? 坊ちゃんの所為で軽く男性恐怖症になっちまってたか?」
「す、すみません……」
「いや、こっちこそ不用意に触れて悪かったな。気ィつけるわ」
「ぼーさーん、掘り返さないで~……」
「掘り返さざるをえんだろ、今のは」
「うぅ~っ」
「ご、ごめんなさい……っ」
本当のことも言えず、かといってうまく訂正することもできず謝るしかない己に、ナルが呆れ果てたように溜息をこぼして助け舟を出してくれた。
「君が気にすることじゃない。馬鹿は放っておいて、香奈さんへ了承を伝えに行ってくれ。くれぐれも、気をつけるようにとも」
「はい」
調査に関して己が役に立てることはないに等しい。それでもできることはあるのだと教えてくれたから、調査に直接関わらない人物のケアと――守護ができれば、と。
せめて彼らの仕事がスムーズに進んでくれることを願って。
は、今の己にできることをするために、ベースを後にした。
「お義姉さん、おやつなら私が持っていきますよ?」
台所に立つ香奈の姿を典子が見つけたのは、午後のこと。
昨日の今日ということもありコンロの側にはいないものの、それでも台所にいることに対して少なからず驚いたのは事実。
だからこその申し出だったのだが。
「いいの。私が、行かなくちゃ……」
「……お義姉さん?」
「礼美ちゃんと……ちゃんと向き合ってみようと思っているの。もしかしたら、叱るかもしれない。でも、止めないで。その代わり、後で礼美ちゃんへのフォローを、頼めるかしら」
振り向きもせずに紡がれたのは、意外な言葉。クッキーの袋を開ける手は、微かに震えているようにさえ見えて。
気の強い義姉らしくない様子に首を傾げたとき、香奈の側に控えるように立っていたと目が合った。軽く、頭を下げられる。
何があったのかはわからないけれど、変化が起ころうとしているような気がした。
それは決して悪いものではない、と。そう思ったから。
「わかりました」
期待を抱いて、典子は静かに頷いて見せた。
礼美を守るため彼女についていろと指示されていたから、人形をナルの手から奪い返して走り去る礼美を麻衣は追いかけた。しかし、玄関から庭へ出たはずのその姿を早々に見失ってしまったではないか。
植木の陰などに隠れられたのかと、庭の隅々まで捜したが見つけられず、暑さと陽射しで体力を過剰に消耗した気分でベースへ戻れば、呆れた溜息と毒舌を向けられる始末。
そして、しゃくり上げた顎で示された先は、モニター。その中のひとつに、典子の部屋でミニーを相手に一人遊びに興じる礼美の姿が確かに映っていた。
――プライバシーに配慮して、夜明けには停めるって約束じゃなかったっけ?
ぽかんとしていると、こちらの体調を気遣った松崎に遅めの昼食を勧められ、倒れては元も子もないのでひとまず用意されていた昼食を摂ることにした。
モニターを気にしつつ、急ぎ足で食事を進めていると、礼美が人形用の椅子を用意してミニーをそれに座らせ、向かい合って座る姿が映って。
『あたし、こわい……』
スピーカーから、礼美の声がした。声の示すまま、不安そうに小さく肩を落としていたかと思うと、急に顔を上げ、口を開く。相手の声はないのに、それはまるで会話のような言葉で。
麻衣は麦茶で口の中の物を胃に流し込むと、ベースを飛び出して階段を駆け上がり典子の部屋の前へ着いた。
『礼美、おねえちゃんはいたほうがいい』
『だめだめ。だってもう、おねえちゃんはマジョのテサキになっちゃったもん。ゆうべ、あんたのいうこと信じないでワルモノにしてきたの、わすれたの? けさだって、あたしたちをひきはなそうとしたじゃない』
『それは……でも……』
『だいじょうぶ。マジョもそのテサキも、みーんなおいだしておあげるから。あたしのいうこと、ちゃーんときいてれば、あんたはまもってあげるから』
「礼美ちゃん!?」
スピーカーからは聞こえなかった、明らかに礼美ではない誰かの声が扉越しに聞こえ、その不吉さに麻衣はノックもせず扉を開け放った。
室内にはモニターに映っていたとおり、人形と向かい合って座っている礼美がいるだけで他に人間の姿も気配もない。
きょとんとこちらを見上げてくる礼美の前に膝をつき、真実を確認すべく問いかける。
「今、誰かとお話してなかった!?」
「……ミニー」
「ミニーだけ!?」
「べつのこもいるよ。あれ……いっちゃった」
礼美が指差したのは、今さっき麻衣が入ってきて開け放ったままになっている扉の方向。しかしそこにはやはり、人影は疎か生物の気配も何か動くものもなくて。
やはり、礼美は霊に憑かれている……
胃のあたりがキリキリ痛むのは食べてすぐ走ったりしたからか――と。現実逃避しかけた己を叱咤し、気を引き締める。カメラが回っているなら丁度いい、できる限りの情報を引き出さなければ、と。礼美と向き合い、笑顔を向けた。
「そ、そっかー、嫌われちゃったかなぁ。学校のお友達?」
「ううん」
「そのお友達、いつから遊びに来るようになったの?」
「わかんない」
「……ミニーも、そのお友達と仲良しなの?」
「ミニーがつれてきたの」
ようやく、引き出せたその情報は、ジーンの霊視結果と合致した。
大量の子供の霊……狙われている礼美……
SPRのメンバーは情報収集と解析は得意だが、祓う能力を持つ者がいるのかは不明。プロを自称し祓う能力があるらしい霊能者二名は、未だ実力は不明瞭で頼りにならない。
こんな状況で、本当にこの子を守り切れるのだろうか――?
どうしようもない不安に駆られたとき、ノックがして勢いよく振り返った。過剰反応だったと思い知ったのは、いたのが大きなトレイを持った香奈と、手の塞がっている彼女に代わって開いたままの扉をノックしたらしいと、そして典子だとわかってからだ。
「礼美ちゃん、おやつにしましょう」
どこか緊張感を漂わせながら、香奈がそう言って礼美の前にトレイを置いた。礼美は返事もせず、目を向けようともしない。昨日と、同じだ。
違うのは香奈のほう。昨日は礼美の態度にキレて出ていったのだが、今日は気にせず冷水筒に入った麦茶をグラスに注いでいて。
戸惑っていると、典子が礼美の少し後ろに椅子を用意して勧めてきたので、一応そちらへ移動した。典子自身は昨日と同じようにベッドに腰かけて、小さく笑って見せた。
「お水はちゃんと飲まないと、具合が悪くなっちゃうのよ」
礼美の前に麦茶の入ったグラスを置いた香奈は、続いてこちらにも同じものを差し出してきた。わけがわからないまま受け取ると、も同じようにグラスを手にしていた。それどころか、典子に香奈自身の分まである。
一緒に食べる、という意図らしいことは、何となくわかった。ので更に回されたクッキー入りの皿から一枚選んで典子へと渡す。そして礼美以外の者たちがそれを口にした。
まるで『毒入りクッキー』という礼美の主張――それは即ちミニーの主張が嘘だと教えているかのように見えて。
だから麻衣も、クッキーを口に放り込んだ。
「それじゃ、あたしもいただきまーす。ん~、おいしぃ~♪ ね、とっても美味しいよ。礼美ちゃんも食べようよ?」
びっくりした顔でこちらを見上げてくる礼美の目は、まるで信じられないものでも見るかのよう。
それは『毒入り』というミニーの言葉を信じていたが故か、それとも食べるなという忠告を無視したことになったからか。クッキーの皿を差し出してもふるふると首を振って拒否を示すだけで何も言ってはくれなかった。
頑なな礼美に、どうしたらいいのかと香奈を見ると、彼女はただ真っ直ぐに礼美だけを見ていて。
「ほしくないの? それはどうして? お腹がいっぱいだから? ちゃんとお返事してくれなきゃわからないのよ」
粘り強く問いを繰り返す香奈は、昨日とは別人のように落ち着いている。
対する礼美は変わらず、首を振るだけで口を開かない。
「礼美ちゃん。呼ばれたらちゃんとお返事をして、お話をする人の顔を見なさいと誰かから教わらなかったの?」
香奈の口調が、厳しくなった。
それでも礼美は動かない。
「礼美ちゃん、学校のお友達が話しかけてもそんな態度なの? それじゃあ、お友達ができないのは当たり前だわ。礼美ちゃんだって、自分が話しかけているのにお返事もしてくれなかったら嫌な気分になるでしょう? もう話しかけるのやめようって思わない? 今、礼美ちゃんがひとりぼっちだと感じているのなら、それは礼美ちゃんが自分でそうなるようにしたからよ」
「……ちがうもん」
「何が違うの? 礼美ちゃんが自分で、お友達になろうとしてくれた子たちに、いらないって態度で示したのは本当なんでしょう?」
「ちがうもん! 礼美、ひとりぼっちじゃないもん! 礼美をひとりぼっちにさせようとしてるのは、そっちだもん! 礼美のせいじゃない!!」
「誰がそんなことを言ったの?」
ようやく口を開いたかと思えば、はっとした表情のあと、再び口を噤んだ礼美。
相変わらずそっぽを向いたままの礼美へと、香奈が手を伸ばした。
咄嗟に止めようとした麻衣の腕を掴んで制したのは、典子だった。真剣な眼差しに口を噤んで視線を戻せば、香奈は両手で礼美の顔を包み込んで自分のほうを向かせていて。
「お話しするときはちゃんと顔を見なさいと言ったでしょう!」
「や、はなして!」
「礼美ちゃん、人の悪口を言うのがいけないことなのは、わかっているでしょう? お返事をしなかったり無視したりするのも同じくらい悪いことなのよ!」
「っ、礼美わるくないもん! ひどいことしてるのはそっちだもん! はなして!」
「大人が子供を叱るのは、悪い子のままでいないようによ! 良い子に戻って笑って毎日を過ごしてほしいから叱るのであって、ごめんなさいと謝ればそれ以上は何もしないの! 謝ってもお仕置きだと言ってひどいことをするなら悪いことなのよ!」
「――っ」
何が心に留まったのか、礼美が動きを止めて大きく目を瞠った。――刹那。
――パシンッ、と。
天井付近だろうか、ゆうべスピーカー越しに聞いた何かが弾けたような音がした。途端に礼美が怯えた表情を見せ、香奈の手を逃れようと暴れだしたではないか。
しかし香奈は礼美の顔を押さえた手を放そうとはせず、真っ直ぐに、間近で、礼美の目を据えて、言った。
「困っている人を見て喜ぶような心は、とても悪いものなのよ。だから、人に意地悪をするのも悪いことなの。そんなことをする人と一緒にいることを選ぶなら、礼美ちゃんも悪い子になるの」
――パシンッ。
「ほんの少し楽しいと思っても、すぐにつらくて苦しい気持ちでいっぱいになってしまうのよ」
――ピシッ。
「悪い人と一緒に悪いことをしてもね、心から笑って生きていくことはできないの」
――バキッ!
「香奈さん!!」
香奈の言葉に、まるで否を唱えるかのように何度も鳴り響いたラップ音。そんな異音など存在しないかのように静かに、諭すように言葉を紡ぎ続けた香奈。暴れるのも忘れて香奈の目を見るしかなかった礼美。
緊張感の支配するその時間は、一際大きくなったラップ音との悲鳴にも似た呼び声で極致に達した。
礼美ごと香奈の頭を抱えるようにして覆い被さったの髪を、壁に掛けられていた大きな絵画がかすめていき、カーペットの上で額と絵とがバラバラに散乱したのだ。
壁にかかっていた絵画が部屋の中央に向かって落下するなど、ありえないこと。
明らかな異常現象に、麻衣も典子も言葉を失くしてただ青ざめる。
驚いた表情をしていた香奈はというと、すぐに平静を取り戻したようでの腕の中から出ると、座り込み俯く礼美に目を向けて口を開いた。
「礼美ちゃんはこれから先、どうしたいの? 心から笑って生きていたくはないの? 笑って生きたいと思うのなら、どうすればいいのか……ちゃんと考えなさい」
そう言った香奈は、を伴って部屋を出ていった。
未だ緊張感の漂う沈黙に支配された室内で、最初にそれを破ったのは礼美だった。
「……ちがうもん……あのヒトのいうことなんて、みんなウソだもん……」
まるで自分に言い聞かせるかのような言葉を呟くその表情は、しかし何故か迷っているのが見て取れた。
たぶん、ミニーの言葉と香奈の言葉、どちらが正しいのかということを考えているのだろう。事実、人形を見るその表情には、僅かに怯えが混ざっているようにも見えた。
その迷いを解こうというのか、典子が内心の衝撃を抑え込んだ声で話しかける。
「そうかしら。私はお義姉さんは、何も間違ったことは言わなかったと思うけど」
「……おねえちゃん……やっぱり、おねえちゃんも、ホントにマジョのテサキになっちゃったの……? だから、そんなこというの?」
「どうして? さっきお義姉さんが言ったことは、きっと学校の先生に聞いても同じように言うことだと思うわよ」
「マジョのミカタはみんなマジョだよ! だって、あのヒトのそばにいたおねえちゃんだってマホウつかったもん! マホウでミニーのケライ、じぶんのケライにして、さっきじぶんたちのことまもらせてたもん!!」
「「 え? 」」
「礼美のともだちはミニーだもん! 礼美、ひとりぼっちじゃないもん!!」
やはりミニーの言葉を信じるほうを選んだのか、典子の言葉すら受け入れずに人形を抱えて部屋を出ていった礼美。
しかし、麻衣も、典子も、動くことはできなかった。
一度に色々なことが起きすぎて、理解の許容範囲を超えてしまい、ただ呆然としていることしかできなかったのである。
麻衣と似たような状況は、一部始終をモニターで見ていたベースでも起こっていた。
「なに、今の……どういうこと? あの子一体何者よ?」
「治癒能力で奥さん治したからな。『魔法を使う魔女の味方』ではあるだろうが」
「そっちじゃなくって、霊を自分の味方にして守らせたってほうを聞いてるのよ!」
「知らん。俺に聞くな」
プロを自称する割に実力も落ち着きもない松崎が一番に声を出し、それなりに落ち着きと洞察力のある滝川があしらいつつ、こちらへ視線で答えを求めてきた。
ナルは煩わし気に一瞥をくれる。
「室温の低下に反比例して、額には温度の上昇が見られたことからも、霊によるポルターガイストだったのは間違いない。しかし、絵画の動きはあくまでも直線で、別の力が加わった様子は一切ありませんが?」
「そういうことじゃなくって!」
「にそんな能力があるのかどうかっていうのなら、ぼくらも知りませんよ」
事実の解説など初めから聞く耳持たずに食い下がった松崎へは、ジーンがきっぱりと断言した。
それが紛れもない事実。なのに、受け入れる気などないらしく、小馬鹿にした笑みを浮かべる松崎。
「なによ、従業員の能力ぐらい把握してないわけ? 雇用者としては三流じゃない」
「彼女の肩書きは高校生でしかなく、この業界に足を踏み入れたことがないシロウトだったのは紛れもない事実です。それとも、プロとして依頼を受けて今この場に居られるお方が、あるかどうかもわからないシロウトの能力をアテになさりたいということなんでしょうか?」
「ぐ……っ」
勝てないとわかっていても挑んでくるのは、負けず嫌いなのか。
あっさり松崎を毒舌で黙らせれば、滝川も肩をすくめて。
「ま、俺らは俺らのやることをこなすしかねーよな。とりあえず、夜になったら人形を調べてみるってか?」
「そうです。ジーン、今度こそ人形に憑いているモノを視ろ」
「all right」
この場をまとめに入った滝川の言葉を受け、指示を出すことでこの話題を切り上げた。
ナルには、心当たりとして庭での出来事が思い浮かんでいたが、言うつもりなど毛頭なかったからだ。
今回の映像やデータを見る限り、人が何かの特殊能力を使った形跡はない。
心霊現象を示す良いデータが取れ、且つ、破棄せずに済んだことをを、今は素直に喜ぶことにして、ナル自身も一旦その事実を頭の片隅に追いやることにしたのだった。
「やっぱり、伝わってはくれなかったのかしら……」
階段の壁に寄りかかる香奈は、震えていた。気丈に振る舞ってはいたが、やはり危険な目に遭えば恐怖を感じるのは当然だ。
かくいうとて、未だ震えは治まっていない。あのとき、庭での己の言葉を受け入れ、助けてもくれた子の忠告がなかったらと思うと、どうしても体が震えてしまうのだ。
それでも、は香奈に寄り添い、その腕に触れて言葉をかける。
「そんなことはないと思います。礼美ちゃんだって、もう幼くはないのですから、ちゃんと考えると思いますよ。良いことと悪いことの判断は、もうちゃんとできる年齢ですから」
「そう……そうよね……そう、願うわ」
「はい」
悲観的な思考からあえて目を逸らし前を向く香奈は、やはり強いと思った。
少しうらやましくも思いながら、は彼女が望むまま側に付き添った。
香奈が自らの願いによって行動した結果は、その夜、日付が変わってから明らかになったのだった。