「はぁ~……」
丁度目についた中庭のベンチにへたりこんで、は盛大な溜息をこぼした。
アルバイトとして、初めて参加した夏の調査。初めて、自ら関わることを選び取り、沢山のことを教えられ、実践することもできて、大きく前進できた――と。
そう思っていたのに……突きつけられたのは、何も変わっていないと示す無情な数値。
――いつになったら、トラウマを克服できるのだろう……
ただ流されるだけだった十数年の生き方に別れを告げ、ようやく現状を変えようと自発的に動き始めて、はや半年。前へ進めたと感じていたのは錯覚にすぎなかった。
こんな調子で、本当に、変わることなどできるのだろうか――と。
嘆きと失望に囚われ、視界の色も暗く褪せた。
陽射しは暖かくても風は冷たく、まして陽が陰れば寒さが際立つのは秋ともなれば当然のこと。
寒さに身を震わせてやっと、視界を覆う暗さが己の引き起こした幻覚ではないと気づいた、刹那。
「……さん?」
聞き覚えのある声が降り注ぎ、暗さの正体が人影だと告げる。
視界が暗くなったのは、確かに現実。けれど、そうと認識できないくらいには、後ろ向きの思考に沈んでしまうという悪癖が出ていたのも事実。
やはり、何ひとつ変われてはいない――と、再度心を捕らえようとした悪癖を、ゆるく頭を振ることで払いのけて、溜息をひとつ。
「真砂子ちゃ――ん?」
顔を上げて声の主を見上げて――は目を瞬かせた。
色づいた桜の葉が風で散らされていく秋の光景にも見慣れた頃、『渋谷サイキック・リサーチ』の次の調査先が決まった。
始まりは事務所に来た少女たち。都内にあるひとつの高校に通うという少女たちが、数名一グループとなり立て続けに三件も相談に来たのだ。
内容自体は、どれもどこかで聞いたことのある怪談話のようなものばかりで、所長であるナルはにべもなく断わった。しかし、他人に同情しやすい傾向にある麻衣と、何となく妙な感覚を拾ったジーンが示し合わせて、こっそり連絡先を聞いておいたのだ。
とはいえ、いくら霊媒として実績と信用のあるジーンの言葉でも、何となく程度では動いてくれないのがナルの厄介なところ。
そのナルの気を引くことに成功した勇者は、なんと『ぼーさん』の通称で呼んでいる滝川法生だった。
高野山で修業した僧侶を名乗っていた滝川の本業が、実はスタジオミュージシャンだったという驚きの事実が発覚したことは、まあ、さておき。
彼が所属するバンドの追っかけをしてくれるファンの中に、都内の高校に通う少女がいるのだが、その子から相談を受けたとのこと。それが今までの単なる怪談話とは違い、明確な実害の出ている怪奇現象だったのだ。それも、一歩間違えれば死に繋がりかねないレベルの実害が、全く同一状況で起きているという怪異。
他にもいろいろ起きているというその現場が、件の三件の相談者と同じ学校であるという事実に、やっとナルが動きを見せたその時。ベストタイミングというべきか、当の学校の校長が依頼に訪れたことが決定打となったという次第だ。
急遽といってもいいような決まり方をしたのが、週末のこと。
翌日の月曜日の午後。怪奇現象が多発しているという現状をひとまず把握するため、関係者からの聞き取りにと件の高校――私立湯浅高校へと向かったのは、『SPR』メンバーであるナルとジーンと麻衣、そして別件で依頼を受けていた滝川の計四名だ。
所長であるナルを先頭に校門をくぐった――刹那。
「ぅわーお……」
ジーンは思わず妙な呟きをこぼして足を止め、ゆっくりと周囲を見回した。
目の前にある建物は、古いというほど古くもなく、かといって新しくもない、ごく一般的な日本の学校の造りをしている。敷地も狭すぎず広すぎず。グラウンドでは授業中らしい生徒がソフトボールをしているが、見事に少女ばかりなのはここが女子高だからだ。
妙な声を出してしまったのは、別に同年代の異性に囲まれる状況への歓喜からなどでは、もちろんない。
「なに? どしたの、ジーン?」
「何か視えたんか?」
「あー……」
松崎ならそちらの方面に勘違いして揶揄してきそうな場面だが、麻衣と滝川は声に含まれるものをある程度は正しい方向に拾ってくれた模様。足を止めて振り返ったその顔には少しの緊張と、あまり変なことは言ってくれるなという色が浮かんでいる。
期待を裏切る申し訳なさのせいではないのだが、ジーンは言葉を濁して、再度周囲を――『視た』。けれど。
「ううん、今は何も視えない」
「んじゃ、なんだ?」
「視えないんだけど……妙な感じはしてる……あちこちに」
「おまえさんが視えないのに気配だけ感知できる状況たぁ、てこずる案件な予感バリバリな発言じゃねーかよ……」
「あ、ははー、だよねー」
「「 笑いごとじゃない!! 」」
視えるのではなく、ただ感じる妙な気配は、週末に事務所に来た少女たちに対して感じたものと同じだった。
やはり、怪異と呼べる異常現象は起きていると裏づける感覚を正直に告げると、麻衣と滝川は揃って嫌そうな顔をしてツッコミを入れてきた。
一人離れた所で傍観を決め込んでいたナルの口から嘆息がこぼれる。
「とにかく、情報収集が先だ。行くぞ」
言うなりさっさと歩き出したナルのあとを、三人は慌てて追った。
来客用玄関から事務員の案内で、まずは校長室へ。待っていた依頼人である三上昇校長から挨拶と概要を聞いたあと、生活指導を担当するという吉野という男性教員に伴われて今回のベースとなる小会議室へ向かう。
その間、ジーンは無言を貫いた。顔は笑顔だった自覚はある。それは霊障で体調を崩していたからではなく、現実に意識を繋ぎ止めておくために作っていた仮面だったからだ。
校舎に入ったことで、例の妙な気配がより一層はっきりと感じられるようになった。しかし、森下邸のように辺り一面に満ちているというわけではない。強く感じる場所とあまり感じない場所とがある気がするのだ。
現時点で言えることは、その気配がよくない性質のものだということだけであり、そのよくない気配を追いすぎてトランスに入ってしまわないようにという自衛に徹していた結果が無言の笑顔だったのだ。
「あの……実は、私も相談したいことが……」
それでも、どこか引っ張られるような気がしていて。ベースに着くなりそう切り出した吉野が語る声も、膜一枚隔てているかのように遠く感じる。
夜になると窓ガラスを叩くような小さな音がする。カーテンを開けて確認しても何もなく、音も止む。しかし翌日にはまた音がして、無視すると朝まで続く。ある夜、妻がカーテンを開けたその窓の上の隅に、今しも叩こうと軽く握られた白い手が――
「っ」
吉野の言葉を聞くうちに体の感覚が遠のき、一瞬、語られた光景が見えて。
はっ、と。我に返り、体を、現実を思い出す。
気づけば、滝川から護符を受け取った吉野が一礼して退室していくところで。
「……いきなりかよ」
「――――――――――あれ?」
静かに閉じられた引き戸。ぼやくような滝川のつぶやき。カチコチと時を刻む時計の音。
現実感が鮮明さを取り戻していて、あまりのギャップに思わず首を傾げる。
場違いな声になってしまったのだろう。全員が怪訝な視線を向けてきた。
「どうした?」
「えーと……あれ?」
「おーい、大丈夫か~?」
「笑顔が崩れたってことは、体調悪いわけじゃないんだよね?」
「あー、うん、それは大丈夫なんだけど……」
「けど?」
「……なんだろう?」
「「 おいっ!! 」」
うまく言葉にできずに首をひねっていると、本日二度目のツッコミが入る。
滝川と麻衣って意外と息が合っていて、その様子は年の離れた兄妹のようで見ているとほっこりするんだよねー、と。
横道に逸れた思考が息抜きとなったジーンは、再度、冷静に思い返してみた。
何が起きたのかを説明することはできる。けれど、何故そうなったのかがわからないから、口外することがためらわれたのだ。
それは今も変わらない。
己は、霊媒だ。霊という常人の目には映らぬ存在を視る能力を持つほか、一時的に霊に体を貸すことで、霊媒ではない者にもその存在を、思いを、事情を示すことができる。
霊と意思疎通ができ、その記憶――過去を視ることも可能だ。
だが、それはあくまで霊という存在に限定された能力なのだ。
たとえばナルの持つ、物質を媒体にしてそれにまつわる人の記憶や出来事を視るサイコメトリーという能力が、あくまでも現存する物質に限定されているのと同じこと。
――生きた人間の記憶を覗き、心に思い描いたものを視、過去や未来を知ることなど、己にもナルにもできない領分なのだ。
森下邸で、そのような経験をしたことはあった。だがあれは己の能力ではないことは確かだ。何故なら、霊媒でもなく霊視能力もない者も、そもそもそのような特殊な能力を有さない依頼人ですら経験したことだからだ。
つまり、あれはの能力ということ。本人に自覚があるのかが怪しいこともあり確認はしていないが、夜にも同じ現象を体験したことを考えれば間違いはないだろう。
だが、今、この場にはいない。そして己にも先程の体験を説明できる能力はない。
強いていうなら、急に妙な気配が遠のいたことと関連がある可能性が高いということくらい、か……
「……問題の席を見てみたいな」
「あ、じゃ、あたしが案内したげるー」
推測はあくまで推測。疑問を解消するためにも、まずは情報収集――と。
週末に事務所に来た三組にはあらかじめ連絡して順番にベースに来てもらい、改めて聞き取りを行ったが、吉野の時のような妙なことは起こらず、目新しい情報もなく。
そのあとに来たのが、滝川が相談を受けたという追っかけ少女・高橋優子と友人たちのグループ。
その席に座った者が次々と事故に遭うというので、呪われていると噂が立った。その自己というのが、例外なく電車のドアに腕を挟まれて引きずられるというもの。
事故に遭った当人の話を聞いても異常であることは明らかで――けれど、やはり吉野の時のような現象に遭うことはなく。
内心首をひねりつつも、ジーンは周囲を注意深く視ながら、呪われた席のある教室へ向かう皆のあとをついていった。
最後尾で、問題の教室へと足を踏み入れた――刹那。
周囲が暗くなった。――否、白と黒が逆転した写真の陰画のような光景に変わり、誰もいなくなったのだ。
黒一色の背景に、細い白線で描き出された教室。現実味のない世界の一角、窓際の最後尾にある机を覆うように、蒼白いのにひどく昏い光が揺らめいている。
――鬼火、だ……
頭に浮かんだ言葉は、経験や知識に基づくものではなく、インスピレーション。
言葉と同時に、もともと線画であった光景がさらに広がった。床や天井、壁などすべてが消えて骨組みだけが残ったかのように透けて見えるようになったのだ。
学校全体が見渡せる状態になってわかったのは、この『鬼火』があちこちにあるということ。
それらは、各々の場所に留まって動くことはなく、まるで獲物が来るのを待ち構えているかのように思えて――納得した。
学校に足を踏み入れてから感じていた妙な気配と、それを強く感じたりあまり感じなかったりしていた理由がコレなんだ、と――
「ジーンっ!!」
強く名を呼ばれ、はっとする。
色が戻り現実感のはっきりとした視界いっぱいに、心配を刻んだ麻衣の顔があって。ジーンは幾度かまばたきを繰り返した。
「大丈夫!? 何回も呼んだのに全然反応しなかったよ!?」
「あー……うん……大丈夫……」
「ホントに!? 顔色悪いよ?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
心から気遣ってくれるのが真っ直ぐに伝わってきて、嬉しくてでもくすぐったくて。
そのまま笑顔に表して礼を告げれば、少しは安心してくれた模様。けれどまだ不審の色を見せる麻衣に「あとで」とそっと耳打ちすると、やっと相談者の存在を思い出したようで。掴んでいた腕を放して、ぱっと距離を取った。
いろんな意味で自由になったジーンは、深呼吸をひとつ。改めて教室内を見回す。
麻衣と滝川、高橋優子ら相談者数名――そして、ナル。心配だったり不思議そうだったりと様々ながら、全員の視線を集めてしまっている現状を再確認し、苦笑するしかない。
特に、件の机に片手を置いて非難の眼差しを向けてくる弟には、他に何ができようか。あとで絶対に嫌味が来る。
深々と諦めの溜息がこぼれたのをきっかけに、ナルは机へと視線を戻した。
「今はここには?」
「いないよ、誰も。こないだまでいた子は、今、病院」
「机の位置は変わっていない?」
「うん、ずっとそこ」
「担任の様子がおかしいとも聞きましたが?」
「そーなの! 準備室に幽霊が出るから学校来るのやだって! 以前はそんなものいないって言ってたくせに! ……入院しちゃったけど。病室にも出るとかって、もうノイローゼみたいだって」
「準備室とは?」
「美術準備室。そこを控え室代わりに使ってたの」
「そこにまつわる怪談話のようなものを聞いたことは?」
「ううん、ないよ。ねえ?」
「うん」
「そう」
現時点で得られる情報はこれで全部と判断したナルが相談者たちと別れ廊下に出たのに続いて、麻衣たちもベースへ向けて足を進める。
放課後で部活動の始まっている時間帯とはいえ、廊下が無人になることは少ないのだろう。それでも調査基地となっている小会議室付近に用のある生徒はいないようで、無人となったのを見計らって滝川が口火を切った。
「んで、ジン坊。今度こそ何か視えたんか?」
「あー、うん、まあ……」
「ってコトはやっぱり今回も気のせいレベルじゃない本物ってコト!?」
「うーん……それは……」
「詳細はベースに戻ってからにしろ。それより、もう少し能力を制御できないのか。引きずられてどうするんだ」
「調査に来てて何がいるのかってアンテナ張ってたんだから仕方ないじゃないか!? ちゃんと仕事してるのになんで怒られなきゃいけないのさ!?」
「暴走されたら迷惑をこうむるのは僕とリンだからな」
「ナルに言われたくない!!」
「うるさい!!」
「へぶっ!?」
「……相変わらず、デンジャラスな兄弟関係で」
「うん、そろそろあたしも慣れてきたよ」
案の定。向けられた嫌味を黙って聞いていられるほど大人じゃないジーンは、反論の結果やはりいつもの如く反撃を顔面に喰らう羽目になった。
無造作に振り上げた拳による裏手パンチとか……この歩く凶器がっ、と。
痛みで声に出せない悪態をひっそり心で呟くジーンに、もはや呆れを通り越して達観に入った他人事そのものな会話が降り注ぎ追い打ちをかける始末。
いじけモードに入りかけたとき、両腕を麻衣と滝川がそれぞれに引っ張って立ち上がらせられ、そのままベースまでの僅かな距離を半ば引きずられるようにして連れていかれる。
あ、ホントに誰も味方がいない――と。
「あ……あの、お話が……」
いじけモードスイッチは、ベースで待っていた二人の男性教員の声によって仕事モードスイッチへと強制的に切り替えられることとなったのである。
一人は車のミラーに幽霊が見えると言い、もう一人は姿の見えない誰かにあとを尾けられていると訴えた。
その二人のうちのどちらかか、はたまた両方かは判断できないが、またあの妙な気配を感じたのだ。今回はそれが『鬼火』とわかっていたからか、防御のコツをつかめたからか、吉野の時のように引きずられずには済んだ。
けれど、彼らが帰ったあとも、生徒が何人も相談に訪れて。
「どーなっとんじゃこの学校はー―――――――――っ!!!」
窓の外に茜色の空が広がる頃にようやくひと段落つけたとき、滝川の悲鳴にも似た叫びがベース内にこだました。
全く同じ気持ちのジーンは、長机の上に散乱する相談内容を記したメモの一枚をつまみ上げ、ぼんやりと眺める。なんか、半日にも満たない間だけで妙に疲れている。
「こんだけの量、誰が除霊するってんだよ。俺か? 俺なのか? もーいっそ泣かせてーっ」
「あはは……ごめんね、あたしただのバイトで」
「そーいや、もう一人のバイトはどーしたよ? リンがここに来てねえのは周辺の聞き込みだって聞いたが、、事務所で見たことねえよな?」
「は調査がある時だけの臨時のアルバイトなんだって。はい、コーヒー」
「お、サンキュ。にしたって、こういう事務的な仕事こそあの嬢ちゃん向きじゃねーの?」
「あたしが役立たずってか!?」
「こんだけ数が多いんだ、人手もあったほうが楽だったろーが」
「そりゃ、まあ、そーだけど……ジーン、コーヒー入ったよ。ナルも」
「ん、ありがとう」
校長が用意しておいてくれたらしいお茶セットを使って人数分のインスタントコーヒーを淹れる麻衣と滝川の会話を聞くともなしに聞いていたジーンは、差し出されたカップを受け取り、口をつける。砂糖とインスタントクリームの入った甘めのコーヒーは、疲れた体に心地よくしみわたる。
ふと、長机に置かれたナルの分のカップが目に入る。中の液体は黒一色で。
麻衣もこちらの好みを大分把握したようだ、と。小さく笑みがこぼれた。
「ここまで多いなんて思わなかったからじゃないの?」
「それでも、調査することは決定してたんだから、予備調査から仕事のうちじゃねーの?」
「そんなこと、あたし知らないよー」
半ばぼんやりとコーヒーを楽しんでいたジーンのほうを、麻衣と滝川が揃って見てきて。しばしきょとんと見返したあと、二人が話していた内容をやっと思い出して、ふにゃんと気の抜けた笑みを向けた。
「アルバイトより健康管理を優先してもらうのは当然じゃない?」
「健康管理、って……まさかまた栄養失調とか貧血とかで入院してるの!?」
「近いけど違うよー。定期健診なんだってさ」
「そーりゃまた……あの外見だと、医者から体重増やせとか言われてそうだな、今頃」
「みたいだよ、毎回」
「な、なんてうらやましい……っ、一度でいいから言われてみたい、そんなこと……っ」
「言っていいなら、いくらでも言ってあげるよ?」
「麻衣じゃ子豚ちゃんになるだけだもんな~? 俺らにゃ言われたくねーってか?」
「うるさい!! ぼーさんセクハラで訴えるよ!?」
「俺だけかよ!?」
いつものといえるほど見慣れてきたほのぼのとできるやりとりを、ジーンはコーヒー片手に笑顔で眺めていた。
しかし、それもナルによって打ち消されてしまう。
それまで考え込んでいるようで実はこちらの会話に耳をそばだてていたナルが、深々とあからさまな溜息をつき、本題を口にした。
たったそれだけのことで、雰囲気は一瞬で仕事モードへと切り替わったから。
「そんなことより、ジーン。何を視たんだ」
「あー……多分、『鬼火』」
「「 鬼火? 」」
「蒼白い光なのにひどく昏く感じる揺らめくものがあの机に重なって見えて、『鬼火』って言葉が頭に浮かんだから……そう呼ばれるものなんだと思うけど……」
「悪霊などではないと?」
「うん。人の形はしてなかったし、人の感情というか、この世に留まるほどの思いというか未練というか、そういうものも感じなかった。ただの悪意の塊って思ったほうがいい気がする。その場に留まって獲物が来るのを待ち構えているって印象のそれが、学校中あちこちにあるのが視えたよ」
「つまり、はじめにおまえさんが視えないのに気配だけ感じるって言ってたヤツの正体が、その鬼火ってことか?」
「うん。吉野先生が出てった途端、気配が消えて、でも理由がわからなくて、不思議で仕方なかったんだ」
「つまり、彼の身に起きていることも鬼火と呼ぶ存在によるものだと?」
「ぼくは、そう思う。それが何かって言われてもぼくにはわからないし、この相談者全員がそうとは思えないけど」
「ああ、例の狐憑きという子は、明らかに医者の領分だ」
「そーなの!?」
麻衣の大声に本気を感じ取り、ジーンはきょとんと、ナルは不快そうに眉を寄せる。
見れば滝川も怪訝な表情をしていて、ナルは再びあからさまに嘆息した。
「はじめから彼女たちにはそう言って断わっただろう。何を今更そこまで驚く必要があるんだ」
「だってジーンがここでは明らかに異常現象が起きてるって言ったじゃん!」
「全員がそうとは思えないとも言っただろう」
「まあ、確かに気のせいレベルの枯れ尾花が多そうな気はしてるけど、俺がそう思ったノックの先生が本物となると、狐憑きなんて完全にこっちの領分だと思ってたんだが?」
「憑き物というのは、一般的に精神障害の一種として処理されることが多いし、実際、精神科の医者にかかると治ることが多い。事実、いわゆる二重人格と呼ばれる解離性障害の一種の症状として精神医学的には扱われているんだ」
「で、でも……っ」
「もちろん霊による憑依現象は否定しないが、彼女の場合、行くべきなのはカウンセラーのところだ。念のためジョンに試してもらって、効果がないならそう報告する」
麻衣や滝川の不満を解消するためではなく、ただ単に可能性を事実に変えるという研究者としてのナルの判断に。気づいているにしろいないにしろ、ひとまずその件は引き下がったようで。
ひと段落ついた会話の切れ目に、ジーンは報告すべきことを追加する。
「あと、ぼくが吉野先生と同じように妙な気配をさせていると感じたのは、呪われた席を見て戻ってきた時にここにいた二人の先生だよ」
「戻ってきた時ってーと、車のミラーに幽霊が見えるってのと、誰かに尾けられてるって男二人か?」
「うん。どっちかなのか、両方なのかまではわからないけど。やっぱり二人がここから出て行くと同時に気配が消えたよ。あとは、足を掴まれる夢を見て以来その足に不調が出てるっていうバスケ部の子と、飲み物に髪の毛が混じるって訴えた先生だね、今のところ」
「うへー……嫌なこと言うなよジン坊ー」
今のところ――つまり、まだ他にもいる可能性であり、同時にそれだけ鬼火が多いという霊視結果に、うんざりした顔で滝川は長机に突っ伏した。
どこか引きつった表情をしているあたり、麻衣にも一筋縄じゃいかないであろうことは伝わった模様。
そこへ、リンがやって来て簡潔に報告した。曰く、特別事件・事故などの妙な噂話はひとつもない、と。
「学校ってのは、多分に治外法権だからなー。んで、どれが枯れ尾花か明確に判断もできん状況で、この数だぞ。マジで俺一人で除霊して回るんか?」
「先に原因の調査をしたほうが確実なんだが、そうも言ってられない状況だ。人海戦術もやむをえないだろう」
「了ー解ー。松崎さんたちにも連絡入れときまーす」
うんざりした様子で結論を下したナルとは対照的に、ジーンは間延びした喋り方で了承を返し、今日のところは解散となったのだった。
「そこまで驚かれなくともよろしゅうございましょう?」
「ご、ごめんなさい……」
何度もまばたきし、頭の上から足の先までまじまじと見てしまい、流石に居心地悪かったのだろう真砂子の苦情で我に返って謝罪する。しかし、それでもは真砂子を見上げるのを止められず。
「ごめんなさい、学生服姿を見たの初めてだったから……やっぱり見慣れているからか着物が一番似合うと思うけど、洋装も可愛いわ」
「からかわないでくださいまし」
「ふふっ」
素直な感想を告げると、真砂子はほんのり頬を赤らめ、すねたようにが座っているベンチのすぐ隣へ少し荒く腰を下ろした。
その反応すらも愛らしくて、思わず笑い声がこぼれる。
驚きがひと段落すると、次いで出てきたのは疑問で。
「真砂子ちゃんは、どうしてこんなところに?」
「さんがこちらだと伺いましたから。病院に着物で来てはあたくしだと誰の目にも明らかでいらぬ誤解を与えてしまう可能性が高うございますので、変装の意味を含めて制服ですの」
素直に問いかければ、真砂子にしては珍しい茶目っ気のある答えが返ってきた。
そう、ここは都内にある病院の中庭。のかかりつけの病院で、定期検診に来ていたのだ。
けれどはそれを真砂子に言った覚えはないのだが……何か急用だろうか。
首を傾げたことでこちらの疑問を察したのか、真砂子が口を開いた。
「依頼のことはお聞きになられまして?」
「湯浅高校での調査が決まったことは聞いていて、明日から行くつもりだけど……」
「なかなかと、困難が予想される案件のようですわ」
「それは……学校、だから?」
「校長先生自ら依頼にいらっしゃるほど、学校中に異常と呼べる現象が蔓延しておられるようですわ。ジーンが視た限りでも、悪霊とは別の何かがいくともいるようですの」
「霊、ではないもの……?」
どうやら予備調査に行っているジーンからの、途中報告を教えに来てくれたらしい。
その内容は、確かに困難だと容易に想像がつくもので。けれど――
明日ではなく今日、途中の半端な情報でも知らせてきたのは、己にも治癒以外の能力――彼らが霊視、除霊と称する能力を求めてきているということなのだろうか……?
邪推、だとわかっていても、考えることを止められないのは、やはりまだ彼らを信用しきれていないから――
「――おい、君たち、今、湯浅って言わなかったか?」
唐突に。
背後から降り注いだ、低い、男の声。
痛みを感じるほどに、肩を掴む大きな男の手。
「っ!!」
一瞬で恐怖一色に染まった頭は、反射反応で体を動かし、男の手を払いのけると同時にベンチから立ち上がり背後を振り返っていて。
驚いた表情を浮かべる顔色の悪い、パジャマ姿で点滴パックを吊るした支柱を持つ若い男――明らかに入院患者であるその姿は、すぐさま真砂子の背に隠される。
「申し訳ございません。彼女は幼少の頃ある事件に巻き込まれたため、男性に対して恐怖心を持っておられますの」
「それは、悪かった……って、君、まさか原真砂子じゃ……っ」
「……ええ」
「頼む! 助けてくれ! このままじゃ、この女に殺される!!」
誤解を招かぬよう変装していると言った真砂子は、しかしあっさりと認めた。
その理由は、にもわかった。
真砂子の腕を掴んで頭を垂れる男の背後に、絶望を浮かべた生気のない女が、鎖を生やして浮いていたからだ。
「落ち着いてくださいまし。ここでは人目がございますわ。見たところ入院されておられるご様子……まずは病室に戻られて詳しいお話を聞かせてくださいませんか?」
静かな真砂子の声と真摯な対応で、安堵し落ち着きを取り戻したのだろう。男は青木と名乗り、病室へと歩き始める。
こちらを見た真砂子に、はひとつ頷いた。そして、差し出してくれた手を取り、二人揃って青木のあとをついていった。
病室に着き、ベッドに腰を落ち着けた青木は、俯き加減に語り始めた。
湯浅高校で教師をしており、美術準備室を控え室代わりに使用していたのだが、ある日、担任をしているクラスの生徒に幽霊が出るらしいと言われた。その時は幽霊などいるわけがないと鼻で笑ったのだが、それが幽霊の怒りを買ったのかもしれない。
一人でいると物音がしたり人の気配がしたりするし、暗い物陰なんかに女の姿が見えることもある。はじめは美術準備室だけだったのだが、家やほかの場所――今はこの病室でも現れるようになった、と。
「吐血ばかりして、でも医者にも原因がわからないらしくて、どうしようもないって言われるし……原因は絶対あの女の霊だって言っても誰も信じてくれない……っ、出るって言った生徒たちでさえだ! 自分で言ったくせに……っ、あんな女子高生、ありえねえよ……っ!」
最後にはただの愚痴を吐き捨てた男の肩に、真砂子はそっと手を置いた。
「落ち着いてくださいまし。あなたの言葉が嘘ではないことは、あたくしにはわかっておりますわ」
「やっぱりか! ――っ」
「ええ、ですから、しばしお静かに願います」
霊媒として有名な真砂子に肯定されたことで意気が揚がったのも束の間、自分ではなく自分の斜め後ろを――何もないはずの一点を見つめる不思議な色の瞳、独特な雰囲気に呑まれた青木は言葉を詰まらせ、緊張に体をこわばらせた。
彼にとっては、無言で虚空を眺めたまま動かぬ真砂子の姿しか見えぬだろうが、には、真砂子が見つめる先に女の霊がいることも、その霊の思いを、未練を読み取ろうとしていることもわかっていた。
―― どうして誰も気づいてくれないの ――
霊媒ではないには、霊の――魂の情報を読み取るような真似はできない。ただ、こうして、その口から語られる声を聞くことしか、できないのだ。
―― どうして私でなければならなかったの ――
聞こえた嘆きは、の心に深く刺さった。何故ならその思いは、自身、嫌というほど抱き続けたものだからだ。
今、この場にいることになった、そもそもの原因――事件――悪意すらないであろう、ただの狂気――その矛先を向けられたのは、何故己でなければならなかったのだろう、と。
呼び起こされた嘆きのせいか、また目の前が暗くなり、ただ女の霊だけがはっきりと闇に浮かび上がる。
―― 生徒のためを思って頑張ってきた私が何故死ななければならなくて、生徒たちのことなんて欠片も大切に思っていないこの男が何故生きているの!! ――
嘆きは絶望を通り越して、怒りと憎悪へと変わる。
それに応えるかのように、太い鎖が女の体から生え出て青木の体へ絡みつき――その内の一本は腹部を貫くようにして融合して。
咳き込んだ青木の口から大量の血があふれ、彼の手に、衣服に、床に、シミを作って。
赤い、いくつものシミが、大きくなり、水溜まりとなり、池となり、床一面を覆いつくしていく――わかっている……これは、己の恐怖心が生み出した幻影だ。
理性でわかっていても、震えて思うように動かぬ体では、見たくないものから目を逸らすことすら叶わない。
それでも抗おう、と。何とか握り拳を作ることに成功した。――その、右手の甲に。青い真球の魔石――『ラファエルの瞳』が出現する。
見る気がなくとも映る視界で、真砂子が焦った様子で青木を覗き込み口を動かす。次いで女を見上げて叫ぶように何かを訴えているが、その声はもはやには聞こえない。
ただ、願うのは、この闇の光景を抜け出すこと。
その思いに応え、『瞳』が発動する。
小さな光がいくつも生まれ、蛍のように女の周囲を飛び交う。女の意識が青木から光へと移り、光は鎖に集まりだす。
真砂子が何かを女へ語りかけている。それに応えるかのように、パキンッ――と。
鎖が砕けると同時に、女の体は端から幾羽もの白く光る鳩のように変化して――天を仰ぎ安らいだ表情を最後に、女の姿は完全に消えた。
そして、周囲を閉ざしていた闇も消えて――
「大丈夫ですの、さん? お立ちになられます? まずはこちらを離れましょう?」
気づけば床にへたり込んでいた己の前に真砂子がいて、病室の中は医師や看護師が慌しく動き青木の治療に当たっている。
邪魔にならないように、真砂子にすがりながら、何とか休憩スペースまで歩いた。
「お飲みに、なれます?」
「……あり、がとう……」
自動販売機で買ったバナナオレの紙パックを、は何とか受け取る。
本音を言えば何も口にする気になどなれないのだが、飲まなければ……体重を増やさなければいけないと、主治医に忠告されたばかりなのだから。
ゆっくりと紙パックの中身を胃におさめていくの様子を、心配そうに見守っていた真砂子が不意に口を開いた。
「あの女性は……浄化、しましたのね?」
問われて、気づく。他人の前で『瞳』の浄化能力を使ってしまったことに。
――けれど、今更な気もした。どのみちこの仕事に関わっていく以上、いつかは使わなければならない時が来ると。
覚悟は、しておかなければ――と。
ひとつ頷いたの肩に、真砂子がそっと触れてきた。
「さんがご自分で仰られるまで、あたくしは口外いたしませんからご安心くださいまし」
……以前にも、同じようなことを言われた。
気を遣わせてしまっている申し訳なさと、やはり何ひとつ変われていない失望に、目頭が熱くなる。
けれど、変わっていくと決めたのだ。いつまでもそれらを引きずっていては意味がない。
何より、これ以上親友に心配をかけたくない――と。
「ごめんなさい、ありがとう……っ、明日から、一緒に頑張りましょう?」
「――ええ」
涙を拭って、笑顔を向けた。