「とにかく数が多いので個別に調査をしていられない。手当たり次第、対処していくしかないと思う。効果がなければ、そのときに次の手を考えよう。ジョンとぼーさんは、ジーンを連れてここに行ってくれるか」
メモを渡しながら説明とともに指示するナルの言葉を、真砂子は少し離れた所にいるの様子を窺いながら聞いていた。
火曜日の午後。湯浅高校の来客用玄関口に集合した、旧校舎に関する依頼で会って以来何故か協力体制を取ることが増えたメンバーを引き連れて進んだナルが、今回の調査基地だという小会議室に着くなり概要を説明したあとのことだ。
同じようにナルの説明に耳を傾けているの顔色は、然程悪くはない。しかし移動中、周囲を見渡しては時折顔をしかめていたのを、真砂子は見ていた。
同じ場所を視てみたが、真砂子には何も視えず、そして何も感じなかった。
「その下に三つあるのは、病院だ。魔の席の最後の被害者、机から手が出てきたと訴えていた女生徒、高橋さんの担任」
「その、担任という方、青木さんと仰る男性ではありません?」
「そうですが」
「でしたら、昨日お会いしましたわ。生徒を愛し、教師という仕事に誇りを持っておられた美術教師の霊に憑かれておりました。そのひたむきさが災いして、病に蝕まれていることに気づかぬまま居残って作業なさっていたときに吐血し、倒れられて、朝まで誰にも発見されずに亡くなられた女性でしたが、浄化しましたので、快方に向かわれるかと」
「わかりました。とりあえず本人の証言は欲しいので、できれば録音してきてくれ。可能ならば、残る二名の除霊を。場所が病院なので護符を渡すだけでもかまわない」
病院、担任という言葉から連想された記憶でナルに視線を戻し、仕事用の顔で簡潔に情報提供する。指示外の人間が口を挟んだからか、それとも内容にか。周囲から集まった注目は、しかしナルがすぐさま次の指示に移ったことで同様に逸れて。――内心安堵している己の本心を自覚し、真砂子は眉をひそめた。
その安堵は、本人の許可なく除霊能力について口外しないという親友との約束を守れたからのものではなく、己の無力さを他人に――特に松崎などの同業者に知られずに済んだことへのものだったからだ。
「原さんと松崎さんは校内をお願いします。まだ授業中なので、とりあえず開かずの倉庫と屋上に出る階段、ミラーに霊が映るという訴えのあった車、陸上部の部室を。もし霊がいるようなら除霊してみてください」
「……わかりましたわ」
「あーら、不服そうねぇ。アタシと組まされるのがそんなに嫌なの? それとも、旧校舎の時みたいに特別扱いされなくなったことが不満なのかしら~?」
確かに己は無力だった。もし一人で青木と会っていたなら、彼を救うことはできず目の前で命を落とされてしまっていただろうと確信できるくらいには自覚している。
もとより霊媒とは、霊をその身に宿して口を貸すことで死者の思いを生者に伝える橋渡し役であり、除霊は専門外だ。せいぜい、語りかけることで逝くべき先を示し、未練を解いて浄化へ導くくらいしかできず、それは聞く耳を持ち浄化を望む霊に限られる。生者に害なす意志で留まる悪霊と呼ばれるモノには、手も足も出ないのは百も承知。
――だが。
隠すことすら思いつけなかった自己嫌悪の表情を見つけ、ここぞとばかりに下衆の勘繰りに走るしかできぬ無能に見下げられるなど、本心を暴かれること以上に、プロを名乗る者としてのプライドが許さぬ。
「巫女を自称する身でありながらそれらしい能力を発揮されたこともなく、清さとは程遠い低俗な言動しかできないような方と同程度に見られるのは確かに不服ではありますけれど、仕事ですから仕方がありませんわね」
「視るしか能のない小娘が随分と偉そうじゃない」
「視えもせず祓う能力すら疑わしいうえに、不要な言動で仕事すら妨害なさっていることを自覚してもいないような方よりは、まともであると自負しておりますわね」
「原さんの言うとおりですね。余計なことを言う暇があったら、除霊の才能を発揮していただきたいものです。そろそろ松崎さんの活躍を拝見したいんですが?」
「ぐ……っ」
下衆への対応など嫌味で充分。それはナルの方針と同じらしく指揮者にまで言われては反論のしようもなかった模様。
ようやく黙った松崎に、しれっと勝ち誇った顔を作ったうえでその半分を袖口で隠して残りの指示を聞き終えた真砂子は、不安も自己嫌悪もすべて虚勢で覆い尽くして松崎とともに校内へと踏み出したのだった。
真砂子が言っていたように、今回の依頼は相当難易度が高いということが概要を聞いただけでにも理解できた。
学校の敷地全体という範囲の広さ。相談数の多さと、多種多様さ。
たくさんの機材を設置してひとつの現象を研究し解明することを目的とする『SPR』としては、本来のやり方で対応できないのだからある意味不本意でさえあるのだろう。
しかし、ナルにはそのような気配はまるで見られない。むしろ難解であればあるほど、いかにして解明してくれようか、と。内心、燃えているようにさえ感じられて――うらやましい、と。は目を細めた。
前へ進もう、と。変わっていこう、と。何度決意を新たにしたかわからない。けれど、結局は迷って立ち止まって、日常に流されてしまうという繰り返しだ。
今も、そう。
決意を新たにしたばかりだが、具体的にどうすればいいのかがまるでわらなくなっているのが現状なのだ。
そして、指示されるままに図書室で資料を探し、湯浅高校の歴史や地域の過去に怪現象が発生する原因となりそうな出来事がなかったかをただ無心に調べている己に気づいて、大きく嘆息をこぼした。
また、流されていた。仕事だからと割り切るのは、単なる言い訳でしかない。
本気で変わることを望んでいるのだから、よく考えなければ……どうすべきであるのか、考えることを止めないようにしなければ。
かつてのナルの忠告を今一度心に刻んでから、まとめた資料を手にしては図書室を出た。
「所長」
迷うことなく足を進めた先、廊下の一角にリンとともにいる後ろ姿を見つけた。教職員を中心に聞き取りをすると言っていたが、ひと段落ついたところなのか二人しかいないので声をかけたのだが……振り返ったナルは何故か少し驚いた様子。
何かあったのだろうか、と。首を傾げつつ、ひとまず報告を優先する。
「戦前から続く学校ですが、戦火に呑まれたり臨時に別の施設として利用されたりといった事実はありませんでした。他にも特別重大な事件事故の記事は見当たりません。少なくとも、図書室内には、ですが……一応、簡単にまとめたものがこちらになります」
「そうか……早かったな……」
「……都立図書館のほうまで行くべきでしたか?」
「いや、そういうことじゃない」
もっと詳しく、調べられるだけの手段を講じることを期待されていたのかと思って聞いてみたのだが、どうも違うらしい。かといって明確な答えが返るわけでもなく……むしろナルとしては珍しく何かを言いよどんでいる様子。
対応に困ってリンを見上げれば、彼も困り顔で。
どうしたものか、と。思った矢先、ナルの口からは溜息がこぼれて。それで何かを諦めたのか、切り替えたのか。いつもの様子に戻った彼が言ったのは――
「、君にはここはどのように視えている?」
前回の調査で知られてしまった霊視能力を求める言葉。
としては、聞かれるだろうとは思っていたし、覚悟もしていた。とはいえ、霊視能力ぐらいならまだ知られても大した問題にはならないとも思っているのだが……
まさか、この一言を言い出すのにあそこまで迷っていた? ――否、と、断じてしまうのは彼を信用しきれていない証拠だろうか……?
前へ、進むのなら、素直に応えるべきだろう。ほかの人間がいない時を選ぶというその気遣いに。疑いを乗り越え、人を信じる心を、取り戻すために。
は息を吸い込んで――けれど出た言葉は。
「わたし、の、視え方は……多分、ジーンや真砂子ちゃんとは、かなり異なっていると……思うんですが……」
「それは当然のことだ」
「――え?」
「同じ風景を見ていても人によって見え方や感じ方は違うものだ。それは、自分の都合や興味の有無によって見ても認識しない能力が人間には備わっているためだ。通常の視覚情報でさえそうなのだから、霊視能力に個人差が出るのは当然だろう。特に生死観などは育った国の文化や宗教によって全く違うのだから、むしろ統一しているほうがおかしい」
「……」
「だから僕は人の証言を絶対視しない。証拠として残るデータが取れてこそ意味があるからだ。ひとつでも多くの情報を集めるのは、共通事項の中に真実への手がかりがあるからにすぎない。情報の提供ぐらいはしてほしいと前回も言ったはずだが……理由を理解していなかったのか?」
――ああ、まただ。また自ら他人との間に線引きをし、壁を作ってしまっていたんだ。
決意とは裏腹に逃げ道を探るような言葉を口から出してしまったその原因に、淡々としたナルの言葉が気づかさせてくれて。不甲斐なさに落ち込みそうになったのを、深呼吸によって押し留めて今度こそ覚悟を決めることができた。
「もう一度聞くが、君には何が見えるんだ?」
見計らったかのような問いに、素直に口を開いたは――けれど言葉が出てこないことに困惑し、再び閉ざした口に手を当てる。
声が出ないわけではない。視えているモノを表現する言葉が咄嗟に出てこなかったのだ。
答えを探して、窓の外へ視線を向けた。グラウンドに面した二階建ての建物の一部に、ソレを見つけて、考える。
「……どこを見ている?」
「あの、二階建ての一階部分の中央寄り……端から三番目の扉、です……」
「そこに何があるんだ?」
「……闇……?」
「闇? 黒いもやのようなものか? それとも――鬼火?」
「いえ、もやや炎のような軽くて薄い感じじゃなく……もっと重い……粘着質な液体、のような感じで……ドアや窓の隙間からあふれ出て、こびりついているような……」
「それは霊とは別物か?」
「多分、ですけど……別物だと思います。あの中に呑まれていたりした場合は、断言できませんけど……」
「その闇として視えるモノの正体はわかるのか?」
ナルが具体的な質問を繰り返してくれたお陰で、何とか伝えることはできた。しかし、それが何かは、はっきりいってわからない。
それでも答えを求めて、じっと目を凝らしてみる。
彼の世界の闇徒のもたらす闇に酷似している……使い魔が闇そのものであることを考えれば、当然かもしれない。『闇』は、おそらくどの世界にもあるものだということだろう。
けれどこの世界には使い魔も闇徒もいない。あれらは主たるフェアローレンとともに浄化され、彼の世界からも消えたものだ。
だが、『闇』自体が消えたわけでは、ないのだろう。
それは、己自身がよく知っていること……『闇』からの解放を望む、己自身が――
「……こころの、やみ……」
「なに?」
「黒珠石……人間の、嫉妬や、虚栄心……心の、闇を、結晶化した、宝石……黒法術師が、人のいのちを、からだを使って、作り上げた、忌まわしき宝石……っ」
己の足下の影が唐突に広がり、一面を闇に閉ざした。幾度となく見続けた悪夢の光景。抜け出すことを願っても、出口となる光は見えず、手も足も動かせない。
その闇に、いつもとは違うものが浮かび上がる。
燕尾服で紳士を気取ってはいるが、ボタンがはち切れんばかりに腹回りの大きな男が狂気と高慢を映し出す瞳で醜く笑って両手を広げている。その足元から、背後から、いくつもの闇でできた手が出てきて、触れた宝石を黒く染め上げた。
そうして作られた宝石を、我先にと求める着飾った男女の群れ。その群れからも闇がドロリとあふれ、太った男の闇の手となり、何も知らされぬまま男の指示どおりのポーズを取らされた奴隷を――人間をも黒く輝く石へと変える。それさえも、大金をはたいて買い求める貴族たち……その醜い感情自体が闇となりあふれて、闇の手を増やしていく。
人間の欲深さ、おぞましさ、醜悪な感情そのものが『闇』だと示す、その光景……
不意に、男の狂気に染まった目がこちらを向いて。一気に恐怖で染められた心。蜘蛛のような闇の手が向かってきても、動くことはできず――
「 っ!! 」
耳元で叫ばれた名前。はっと我に返ったそこは、明るい陽光に照らされた何の変哲もない学校の廊下で。
目の前には厳しい表情をしたナルと、困惑したままのリンがいる。
「……大丈夫、か?」
「――え……?」
「今さっき、僕の質問にどう答えていたか、覚えているか?」
「……しつもん……?」
「闇の正体についてだ」
ナルの言葉に、止まっていた思考を働かせようと試みるも、恐怖がそれを妨げた。
質問自体を聞いた覚えはある。けれど、思い至った途端に幻影に囚われて――何か、言ったのだろうか……?
首を横に振って、否定を示す。
「おぼえて、いません……けれど……あれは、人間の負の感情……醜い心そのものだと、わたしは、思います……」
「……そうか」
ジェスチャーだけではなく、言葉でも答えて――呼吸の乱れをようやく自覚し、そちらに意識を向けて深呼吸を繰り返す。そうすることで、恐怖心をも抑え込んでいく。
少しずつ、少しずつ、平静を取り戻していく感覚の隅で、何かの機械音を捉えた気がした。どうやらそれは気のせいではなかったらしく、ナルが用意していた無線機のものだったようで。
「麻衣が新たな情報が出たと言ってきた。一度ベースへ戻るぞ」
ナルの号令で、その場を後にした。
もともとは滝川に相談をしたという高橋優子が、雑談紛れに言ったことは、生徒間で『カサイ・パニック』と呼ばれる騒動があったということだ。
夏休みが明けたあと、三年生の笠井千秋がスプーン曲げができることで有名になったのだという。それだけなら一過性の話題で済みそうなものだが、何故か学校側が全校朝礼でつるし上げるという過剰な対応をしたらしい。その場で「できるものならやってみせろ」と挑発した挙句、目の前で見事に曲がってしまった鍵を見た教師側がパニックを起こして大バッシングとなったのだという。
そのような目に遭わせられれば、怒りも恨みも生まれるのは当然と思える。笠井千秋の口から「呪い殺してやる」といった感じの言葉が発せられたことが、さらに話題になり――それ以後、学校中で妙な話が聞かれるようになって、結果、彼女の呪いではないかとさえ言われているとのこと。
話を聞いたナルは、眉間にしわを寄せて考え込んでしまった。それは自身も同じだ。
学校中にあるあの『闇』が人間の負の感情そのものだと確信できてしまっている今となっては、その発生源が笠井千秋だと思えてならないのだ。
先程、人の証言を絶対視しないと明言したナルは、その言葉どおり、当然のように事実の確認に動きだした。リンにベースを任せて、代わりに麻衣と――そしても連れて、高橋優子情報に基づいて生物準備室へと向かった。
ノックの後、しばしの間があってからの応答。中には一人の女子生徒と、一人の女性教師の姿があった。ナルが笠井千秋の名を出した途端に女子生徒がそっぽを向いた。その反応自体が本人だと告げていて。
深呼吸をひとつ、は麻衣の後ろから笠井千秋の姿を注視した。――と、すぐに応対に立ち上がった女性教師の姿で見えなくなってしまう。
「私は生物を教えています、産砂恵といいます」
「……珍しいお名前ですね」
産砂恵と名乗った女性が、ナルの言葉に笑顔を見せた――刹那。ざわり、と。の背筋を冷たいものが走り、全身に鳥肌が立った。心臓のあたりがじりじりと不快な反応を示し、同時に息苦しさに襲われる。
――だめだ……これ以上、この笑顔を見ては……っ。
防衛本能が鳴らす警笛を認識しながらも、体は思うように動かせない。その場から離れることはおろか、目を逸らすことすらかなわず、ただ立ち尽くす。
現実を見てはいても、それは膜一枚隔てた先の出来事のようで、もはや時間の経過すら感覚から切り離されてしまったかのよう。
その、中で。
は、必死に抗っていた。動け、と。己の体に命じて、念じていた。
――けれど。
「やだ、ほんとに呪い殺せるわけないじゃん。ね?」
笠井千秋の言葉に、同意も否定もせず、ただやわらかく微笑んで見せた産砂恵。
その笑顔から――目から、口から、ゴポッと闇があふれ、流れて、彼女の姿を覆い尽くしていく。それだけでは留まらず、床を伝って広がっていく闇色の液体。
その、中に。小さな木片がいくつもあるのに気づいた。
流れていく木片を目で追って――体が、動かせたことに、驚いて。けれど気づいた心に従って体は動きだす。木片を追うことで、闇の――恐怖の源である産砂恵から離れるように。
だが、もはや周囲は完全に闇一色で、どこを歩き、どこへ向かっているのかもわからない。
「っ」
逃げる足が、止まった。――否、止められた。
それは、腹部に感じた違和感のせい。
ガチガチと歯が鳴るほどに震える体。見てはいけないと思う心とは裏腹に、目は、顔は、下を向く。
そこに、あったのは――男の手に握られたナイフの柄――己の腹部に埋められ見ることのできない刃で。
「――っ!!」
下へと押し込まれてから引き抜かれたナイフに、声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる体――しかし壁でもあるのか倒れることはなく、座り込む形になる。
己の腹部から噴き出した鮮血を浴びて見下ろすのは――産砂恵と同じ笑顔をした一人の男で。それは、のよく知る男……幾度となく見続けてきた、悪夢の中の住人で。
――そうだ、これは悪夢だ、現実じゃない、ただの幻覚だ、もう存在しない幻影にすぎない、だから、だからだからだから……
顔を上げる力すらなくなったと、まるで目を合わせようとするかのように男がすぐ傍らに膝をついた。そして伸びてきたのは、何も持っていない左手。
何の躊躇もなく、その左手は――ずぷり、と、傷の、なか、へ――
―― ハ ヤ ク サ メ テ ッ !!!
《 ―― 主ッ !! 》
「っ、!!!」
鋭い叫びが重なり、がくんと頭が揺れた。立ちくらみのように、一度完全な黒に染まった視界が徐々に開けていく。
狂喜を宿す瞳で無邪気に笑っていた男に代わって己を覗き込んでいたのは――苦悶の表情を浮かべた、真摯な瞳の、少年で。
「、僕が、わかるか?」
「……ナ、ル……っ?」
「そうだ。ゆっくり息を吐け。深呼吸しろ。いつもやっていることだろう? できるな?」
やっとのことで目の前の少年の名を声にした、その理由が乱れた呼吸のせいだと。続いた指示でようやく気づけたはいいが、なかなか治めることができない。
背中をさすってくれる誰かの手を感じ取り、その動きに意識を向けて合わせるように息を少しずつ長めに吐き出していく。それが功を奏したのか、まだ息苦しさはあるものの、大分乱れは治まってきて。
「、落ち着いて、余計なことはもう考えるな。動けるようになったら病院へ行くんだ。わかったな?」
呼吸に意識を向けたまま、しかし言われた言葉を脳内で反芻する。どれだけの時間を要したのかはわからないが、理解できたときに頷いてみせた。
それを確認したナルは、の隣へと目を向けて。
「原さん、後は頼みます」
「ええ……ナル」
「何か?」
「あたくしには、ジーンが言っていた霊ではないものは、気配すら感じ取れませんでしたわ。通りがかった校庭の桜の枝にしがみついている生徒の霊がいたくらいしか……何も、感じられませんわ。これ以上、お役に立てそうにはありません」
「……わかりました」
難しい顔をして立ち上がり、去って行く背を、はぼんやりと見送った。その頃になって、やっと息苦しさが消えて、最後とばかりに大きく息を吐き出した。
見計らったように、横手から日本人形のような少女が覗き込んできた。
「大丈夫ですの、さん?」
「……真砂子、ちゃん?」
「ええ、あたくしですわ。お立ちになれます?」
背を支えてくれているのが彼女の手とわかり、じんわりとぬくもりが安堵となって広がっていく。けれど、まだ体は微かに震えていて力が入らない。
緩く頭を振って否定を返したあと、おもむろに周囲を見る。廊下の隅に座り込んでいるようだということはわかった、けれど……
「ここ……どこ……?」
「……湯浅高校に調査で来ていることは、覚えておられますの?」
「生物、準備室、に、い、た……? と、思ったん、だけど……」
「はい。生物準備室のある特別教室の並ぶ廊下を曲がってすぐのところですわ。ベースとは、真逆の……ぼんやりと、尋常ではないご様子で歩いていらしたのをお見かけしましたので、松崎さんにナルを呼びに行っていただいたのです」
闇の中、歩いていたのは、ただの夢ではなく、現実でもだった、ということ、だろうか……?
は、下を向いた。己の腹部を見、震える右手で、そっと押さえる。痛みは、ない。血も、出ていない。当然、傷も、ない。
先程まで見ていたモノが、幻覚であったことを確かめて、安堵の息を吐き出した。
そして、もうひとつ――
「……引き、戻して、くれて、ありがとう……」
――ラファエル、と。口の中だけで呟いた呼びかけに、革製の指のない手袋の下に出現していた『ラファエルの瞳』も一言応えてから消えたのを感じ取る。
途端に、心細さが安堵を押し流していく。どれだけラファエルに依存しているかを突きつけられ、ぐっと、入れられるだけの力で右手を握り締めた。――と。
「……さん?」
不安げに、心配そうに覗き込んでくる真砂子の手が、握りしめた右手の上にそっと添えられた。未だ背を支えてくれているぬくもりと合わせて、心細さが薄れていく。
――大丈夫……一人じゃない……
深呼吸をひとつ。心細さが完全に消えたのを感じて――できた余裕からか、ふと『カサイ・パニック』の話を聞く前にも今と似た状態になっていたことを思い出した。
「真砂子ちゃん……わたし、何か、言っていた?」
「いいえ、特にお声は出されておられませんでしたわ」
「そ、う……真砂子ちゃん、は、魂――霊じゃ、ないものは、わからない、の?」
「……はい、残念ながら。さんは、ジーンと同じようにおわかりになるの、ですのよね?」
「わから、ない……」
「ですが……っ」
「自分の、恐怖心が、生み出した幻覚、と……区別が、できない、の……」
「――っ」
ナルの質問に答えていたらしいあの時も、そして今さっきも。どこまでが彼らがいうところの『霊視』に値し、どこからが己の闇の産物なのか、全くわからないのだ。
これでは、彼らが『枯れ尾花』と分類する相談者と何も変わらない。――否、それ以下だ。
「わたしも、役に立てない……ううん……それ以上に……調査を、混乱、させて、妨害、してしまうだけ……わたし、は……やっぱり、不要な存在でしかな――」
「そんなことはありませんわ!!」
「――っ」
「あなたは、あたくしとは違いますわ! もう何ひとつできることのないあたくしとは違って、あなたにはまだできることがございますでしょう!?」
「真砂子ちゃん……」
「本当に、まだ何かをしたいと望むのであれば……っ、まずは、病院へ、行きましょう? 心と、体の調子を整えるなら、できることが、あるはずですわ……っ」
今まで聞いたことがない強い調子の真砂子の声。涙をこらえて、それでも先を――解決法を諭してくれるその姿が。己の過ちを、弱さを――甘えを、叱責しているようで。
――ああ、何度繰り返せば己は学習するのだろう……
不甲斐なさで熱くなった目頭を隠すようにして、頷いて。
弱い己を、叱咤して。未だ震えが残る体に、力を、込めて。
真砂子に支えられながらも、は何とか立ち上がった。
――ガタタンッ。
「ジーン!?」
滝川と松崎の不毛な言い争いに辟易していたリンがその口を開いたのは、予想すらできなかった事態を目撃したからだ。
言い争う二人を横目に結果報告をリンへと簡潔に済ませたジーンは、終わりそうもないレクリエーションだとでも言いたげに苦笑を浮かべて、腰を落ち着けようとしたのかパイプ椅子のほうへと歩いていた。
その姿が、急に傾いだのだ。
手をかけていたパイプ椅子を押し倒し床に座り込んだ姿は、立ちくらみか貧血でも起こしたかのよう。しかし、それは何の前触れもなく起こった。そして、食の細いナルならともかく、健康上何の問題も抱えていないジーンではありえないことだ。
「ダイジョブどすか!?」
「っ!?」
一番近くにいたため真っ先に駆け寄り肩に触れたジョンの手を、ジーンは力任せに払った。露わになったジーンの顔は蒼白で、恐怖に染まっていて。
何かを言おうとしたのか開かれた口は、しかし声の代わりにヒュッ、という音を発して。
「坊主! その上着貸しなさい!!」
「ぅおっ!?」
「ちょっ、何してんの綾子!?」
「過呼吸よ!! ジーン! 小刻みに吸わないで、ゆっくり長く息を吐きなさい!! 自分の手で口と鼻を覆って、自分の吐いた息を吸うのよ!! 二酸化炭素を多めに肺に入れなさい!!」
滝川からはぎ取った上着をジーンの頭にかぶせる松崎へと、異を唱えたのは麻衣。それをただ一言で答え、黙らせた彼女は、すぐさまジーンに対処を呼びかける。
完全に上着に覆われた上に松崎の陰になっているジーンの動きは、全くわからない。しかし、ややあって異様な空気音は少なくなっていき、肩と思われる位置も大きく上下していて、緊急性のある時点は何とか回避できたようだった。
「救急車、呼んだほうがいい?」
「いいえ、とりあえずは大丈夫よ。……平気よね?」
かろうじて頷いたであろうことが動きでわかり、ひとまずは安堵が満ちたものの、それはすぐに疑問へと徐々に侵食されていく。
けれど、未だ肩で大きく息をして、頭からかぶせられた上着をどけようともしないジーンには聞けるはずもなく。誰もが困惑するしかない中――ガラッ、と。引き戸が開き、ナルが戻ってきた。
「ナル! ジーンが」
「松崎さん、帰るまでジーンを頼みます」
「それはいいけど、真砂子たちはどうしたのよ」
「が体調を崩したので病院へ行かせました。原さんにはその付き添いを頼んだので、事実上のリタイヤになります」
「ちょ、病院って!?」
「ジーンも今日はもう使い物にならないので、陸上部の部室と開かずの倉庫、それと校庭に予備調査程度の機材を設置して今日は終了とする。異論のある者は?」
「校庭まで設置するってのは、どこから出た情報だい」
「原さんですが?」
「了解」
「機材設置絶対手伝わないからって理由で綾子にジーン任せるの!?」
「おまえまで倒れたら誰に面倒を見させる気だ」
「どーゆー意味さ!?」
「どーどーどー、落ち着け麻衣。つまり、ジン坊の急変は能力暴走によるもので、それに巻き込まれた前科があるおまえは近づくなってこったろ」
「前例って言ってよ人聞き悪い!!」
「へいへい。納得できたなら、ジン坊を早くちゃんとした場所で休ませてやるためにも、さっさと設置しちまうぞ」
一瞥をくれただけで次々と指示を出すナル。必要最低限の言葉すら最後には不足した嫌味となった一連の様子には、焦りが見て取れた。
気づいたらしい滝川は、おそらく麻衣への言葉どおり、それをジーンの身を案じてのものと受け取って、無駄な問答をせず行動に移ってくれた。
けれど、リンには別の理由に心当たりがあったから、それを確かめるためにも急いで機材の設置を進めた。とはいえ、部室だけは部活動が終わるまで待たねばならず、すべての設置を終えて帰路に就く頃にはとうに夜空となっていた。
マンションに着き部屋に入るなり、上着も脱がずにソファに身を沈めたのは、案の定ナルで。途方もなく高いプライドを持つ彼は、他人に弱みを見せることをとことん嫌う。たとえそれが事情に精通し、一部において師という立場であるリンが相手でも、だ。
それなのに、隠しきれずに態度に表すということは、それだけ限界が近いということ。
本来ならば何も聞かず早々に休ませるべきなのだろうが、監視役としては何が起きたのか確かめておかねばならない。
「能力を暴走させたのはジーンではなく、ナルですね?」
確信を持って問うても、答えはない。煩わしげに目元を片腕で覆い表情を隠す様は、夏の依頼の時のジーンと全く同じで。
当のジーンはといえば、憔悴した様子ながらも気丈にも立ったまま弟を見下ろしている。
「一体何があったのです?」
「……おなかを、ナイフで刺される映像が、ホット・ラインから流れ込んできた……同調が激しくて、でも何も聞こえなくて、誰の視点で見ている映像なのか、ぼくにはわからなかった……」
答えたのは、ジーンだった。事象自体は、おおむねリンの予想どおり。
ホット・ライン――彼ら双子の間でのみ通じる一種のテレパシーのような能力で、声も、映像も、果ては『気』に至るまでやりとりできるらしい繋がりをそう呼んでいるのは、あくまでも緊急用だという意志の表れだろう。
その緊急用という部分が厄介でもあった。片方の不調に、もう一方まで引きずられてしまうのだ。夏の調査でナルが倒れたのが、それだ。貧血だと言い張ってはいたが、ジーンの暴走の影響であったことを、リンだけは知っていた。
今回は、それとは逆のことが起きたのだ。ナルの暴走に、ジーンが影響を受けた。ジーンの言葉から察するにサイコメトリーが暴走したようだが、ジーンとは違いほぼ制御をマスターしているナルが暴走させること自体が異常事態といえる。
一体、何があって暴走などしてしまったというのか。
「ナル……あれは、誰の過去……?」
「……わかって、いるんじゃないのか……おまえには……」
「っ、じゃあ、本当にあれがの記憶だって言うのっ!?」
「どういうことですか、ナル。暴走したのはサイコメトリーですよね? 生物への発動は不可能ではなかったのですか!?」
「自身に、テレパスのような能力があることは……おまえも、直前に経験、したんだろう?」
言われて、思い出した。部室棟を見ていたの言葉を聞いていた時、急に周囲が真っ暗になり、彼女の言葉が示しているであろう光景が少し先に見えたことを――ナルの声で彼女が我に返った途端に、それらが霧散してしまったことを。
だが、それだけでは暴走などしないはず。
「原さんには見えていない様子だったから……たとえるなら……おそらく、発動できずに彼女の内で出口を求めていた送信側の能力に、受信側の能力を持つ僕が触れたことで、回線が繋がり一気に流れ込んできた……そんな、状況、なんだろう……」
データにない、確信のないことは口にしない主義のナルが語った自分の体験を元にした推測は、リンを納得させるには充分なもので。
ナル自身の無理や無茶な行為によるものでもなく、過失とも言い切れない不運の重なりのようなものが原因だとわかった以上、リンにはもう彼を問い詰める理由はない。あとは、充分な休養を取らせるだけだ。
「ナル、ジーンも。何か食べてから休んでください」
「いらない」
「本当に貧血で倒れることになりますよ。スープだけでも」
「こんなの見たあとで食べられるわけないよ!!」
もとより食が細く、本当に貧血を起こしがちでサプリメントに頼るほど不健康なナルの拒絶を、いつものわがままだと疑わず窘めたリン。それに反抗してきたのは、ジーンのほうで。リンは怪訝な視線を向ける。
ジーンは、リンを見てはいなかった。震えるほど強く拳を握り締めて、ナルを見たまま言ったのは。
「おなかをナイフで裂かれて、傷口に手を突っ込まれて、内臓を引きずり出されたんだよ!! 手にした内臓を無邪気に笑って嬉しそうに見ている男が目の前にいたんだよ!! こんな……っ、こんなのが本当にの過去だって言うの、ナル!?」
「あれが、事実だとは限らないだろう……僕が、サイコメトリー、したわけでは、ないんだ……から送られてきた、映像なんだ……本人が、悪夢だと認識、している声が……聞こえたことからも……目撃した、両親の、死に様が、自分自身のことに置き換えられた、幻覚、だった可能性は、高い、だろう……」
「けど……っ、それでも、ひどすぎるよっ!!」
「どのみち、あれは、医者の領分だ……僕たちにできることは……これ以上、下手に、刺激しないこと、だけだ……」
想像を絶する内容、絶句するしかない会話で。
限界が来たのか、言うだけ言ってソファで寝息を立て始めたナルと、何かに耐えるように全身に力を込めて俯くジーンを前に。
リンは、ただ立ち尽くすしか、できなかった……
入院したくないというのなら、せめて今夜は決して一人にはならないこと。
帰宅の条件として主治医にそう言い渡されたを、真砂子は己の家に招いた。眠ることが――悪夢を見ることが怖いなら、二人で夜通し語り明かせばいい、と。
渋る彼女を説き伏せてまで自宅に連れ帰ったものの、二人きりとなった室内は沈黙に支配されてしまっていた。
その原因は己にある、と。真砂子は、自分を責めていた。
タクシーの中では、ぽつり、ぽつりと会話があった。と麻衣は、同じ奨学生として学校が用意してくれたアパートで一人暮らしをしていることなども聞いたし、真砂子も己の学校生活などを話したりした。
けれど、いざ自室で二人きりになると、言葉が出なくなってしまったのだ。
それは、話題が尽きたからなどではなく――迷いと悩みのせいだった。
の心からの笑顔を見たいと思い、そのために力になりたいとも思ったのは紛れもない事実。親友だとも本心から思っている。
――けれど。
発作を起こした彼女に対して、己ができることは何もなかったという無力感。それ以上に、ジーンとにわかる霊ではない何者かの気配を、己は全く感知できなかったという疎外感と、プロを名乗る者としての――絶望感。
未だ全容が明らかになっていないの持つ底知れぬ能力への羨望に、嫉妬まで僅かとはいえ生まれた己の心の醜さ。
自分の能力を一切、記録に残すわけにはいかないとは言っていたが、能力そのものについてだけではなく、その理由すら明かそうとさえしてくれないのは、にとって己は親友だと思われていないからなのではないか。
そもそも、彼女との約束を守ることよりも、己のプライドを守ることを優先したような人間に親友を名乗る資格などあるのだろうか――と。
「真砂子ちゃん、は……本当に、ミカゲみたいに、わたしの親友で、いたい、と……思って、くれている、の……?」
ぐるぐると迷い、悩んでいたその心を見抜いたかのような問いかけが、唐突に向けられて。真砂子は、答えに詰まってしまった。
は、そんな真砂子を見てはいなかった。膝の上に置いた自分の手に視線を落としたまま、続ける。
「ミカゲが、テイトのために命を落としたように……わたしのせいで命を落とすことになるかもしれないとしても……わたしとの関わりを、絶つ、気は、ない……?」
「……急に、どうして、そのようなことを……」
「真砂子ちゃんが、言った、ように……したい、ことが、あるの……闇、から、抜け出す、ために……引き出させた、人物と、もう、一度、向き、合って、乗り、越え、たい……っ。でも、一人じゃ、また……病院、送りに、なって、しまう……っ。だから……真砂子ちゃんの力を、貸して、ほしいの……っ」
「あたくしで役に立てることがございますなら、いくらでも――」
「でも……っ! その、せいで、真砂子ちゃんを危険にさらすことになるかもしれない……っ!」
「――……」
「わたし、テイトみたいに強くない……っ、もし真砂子ちゃんを目の前で失うことになったら、絶対耐えられない……っ! なのに、巻き込むってわかってて、それでも力を貸してほしい、なんて、ただの詭弁だわ……っ、自分が悪夢から解放されるために真砂子ちゃんの気持ちを、命を! 利用しようとする身勝手なわたしに親友なんて名乗る資格ないわ!!」
――ああ、なんだ、何も変わらない……同じ、だったんだ……
涙さえ浮かべて自分を責めるの言葉で、真砂子は自分の迷いも悩みもすべて吹き飛んだのを感じた。
今、胸を満たすのは、ただ安堵と喜び。
真砂子は涙を拭うこともせず、心のままに笑みを向けて、の手を握った。
「あたくしも、さんの親友を名乗る資格などないのではとずっと悩んでおりましたが、今のあなたの言葉で迷いも悩みもすべてなくなりましたわ。たとえ、どんなことが起きても、あたくしはさんの親友をやめたりはしません。ですから、どうぞ、あなたの望む未来のために、どのように力をお貸しすればよいのか教えてくださいまし」
真っ直ぐにこちらを見るヘーゼルの瞳は、しばらく迷いに揺れていた。ややあって、肩に額を押し付ける形で、はその方法を語った。それは、あまりに現実離れしていて、すぐには信じられない内容で。
それでも、覚悟を決めた様子で顔を上げた彼女に、真砂子も覚悟をもって頷いてみせて。
「Lv.01解除、記録再生『生物準備室』」
そうして目の前のその現実離れした光景に驚愕しながらも、ただ親友の望みを叶えるべく真砂子はの手をきつく握りしめた。