「真砂子が触れてる間だけ霊が見えて、声も聞こえた、ねぇ……そんなことって、あるもんかね?」
車に乗り込んですぐのこと。待ってかのように滝川が疑問を呟いた。
ジーンはシートベルトを締めながら考えるふりをして、あらかじめ用意しておいた答えを口にする。
「……さあ? でも、強い霊の場合、霊視能力のない人でも見えることは多いから」
「にしたって、それじゃ霊障が強まったってことにならんか?」
「なったんじゃない? あの人の症状は悪化したんだし」
「そりゃそーだが……」
不満げな滝川の声を閉じ込めたまま、車はゆっくりと動き出す。窓の外で病院の門が遠ざかっていくのをぼんやりと眺めるジーンの口からは、知らず小さな嘆息がこぼれていた。
昨日、カメラを設置するため陸上部の活動が終わるのを待っていた間に、ないと思われていた学校怪談の存在が明らかになった。その中のひとつに校庭の桜に関するものがあり、入院中の怪異被害者の一人がその桜に関わっていたという証言も今さっき確認してきたところだ。倉庫での肝試し後に怪異が始まったのでそちらが原因かと思われていたが、同じ日に関わった桜のほうが本元だったらしい。護符も効果があり快方に向かい始めたとのことで、こちらの問題はほぼ解決したといっていいだろう。機械に反応があれば、上々だ。
問題は、もう一人のほう。いや、真砂子が証言したとおりの怪談も出てきて、浄化も済んでいるという意味では何の問題もないのだ。問題にされてしまっているのは、彼が語ったその浄化の時の現象だ。
真砂子がに会うために病院に行ったことと、彼女とともに青木に会ったことをジーンは聞いていた。夏の調査時、に浄化能力と、霊視を共有させるような――ナル曰くテレパスに近い能力があることも体験した身としては、青木を救ったのが真砂子ではなくであることは容易に推測できた。
だからこそ、すっとぼけて口を噤むしか選択肢はなかった。それがと交わした雇用契約であり、何より命を救われたことに対する恩返しだからだ。
――だけど。
それを改めて思い起こすと、同時に己の浅はかさも思い出してしまい、後悔が渦を巻き始めた。
――本当に、己はなんてひどいことを彼女にしてしまったんだろう……
「……ジン坊? 大丈夫か?」
「――え?」
「顔色悪いぞ。酔ったか? それとも昨日の影響残ってんのか?」
「ああ……平気だよ」
「じゃ、なんで腹さすってんだ?」
滝川の声が――呼びかけが、意識を現実へと引き戻した。
説明できない後悔を悟られるわけにはいかない、と。笑顔の仮面をつけて返した答えは――しかし、続いた指摘ですぐさま崩れ落ちてしまう。
言われるまで全く気づかなかった己自身の動作……そして、ミラー越しに、滝川と、目が、合った。――刹那。
「――っ」
連鎖反応のように恐怖心が甦り、ナルを通して視た映像が脳裏を駆け巡る。強烈な吐き気に襲われ左手で口許を覆い、右手で強く腹部を押さえた。
そうやって傷などないということを確かめていなければ、同調してしまい戻れなくなりそうだったのだ。
「おい、マジで大丈夫か!?」
「だい、じょーぶ、だから、前、見て、運転、して……」
「お、おう……じゃなく! どっかに停めて少し休むか!?」
「いい……どのみち、この件、さっさと片付けないと、ゆっくり休めない、し……」
「ナル坊の人使いの荒さは身をもって知ってっけど、いくらなんでも具合悪い人間にまで強要はせんだろ? だって病院行かせたんだ、おまえさんだって――」
「ぼくまで休んだら、霊視できる人、いなくなるよ」
「……体調悪いのに万全に視ることできるのか?」
「むしろ視えすぎるくらい?」
「危ないだろ、それ!!」
滝川との会話に全神経を集中させることで現実だけを意識し、吐き気をやり過ごす。背もたれに体重を預け、深呼吸。恐怖心も抑え込んでいき……少しは冗談めいたことを言える余力が戻ってきた。
そうして思い出すのは、話題にも出た弟のこと。
「ぼくよりも、ナルのことだよ、休めないって言ったのは」
「は?」
「ナル、普段から集中しちゃうと寝食忘れがちで、調査になると輪がかかるっていうか……ゆうべも今朝もほとんど食べなかったし……ホントにサプリメント常備してる貧血持ちだからね」
「あーうん、兄として弟が心配なのはわかったが、おまえ自身も顔色悪いんだから無理はすんな。おまえが先に倒れでもしたら、いつも以上に嫌味が飛んでくんじゃねーの?」
「……かもね……」
起きたときには、もう至って平常だったナル。しかし弟は隠し事がうますぎる。
能力を暴走させたのはナルのほうで、あの映像を――己は聞こえなかった音声付きで拾ってしまったのだ。その負担が己より大きいのは自明の理。
根っからの研究者気質の弟が体調不良を理由に調査を途中で放り投げるはずはなく、また、兄である己だけ休むなど心配でできるはずもない。
心身共に休むためには、調査を終わらせるしかないのだ。
それを酌み取ってくれた滝川だが、それでも言わずにはいられないとばかりに忠告をよこして。最後には諦めたような溜息を落とした。
「とりあえず、少し早いが昼、食ってくか? 食えそうか?」
「ん~……それより、そこのドーナツ屋で麻衣に差し入れ買っていこうよ」
「子豚ちゃんにするのか?」
話題を変えているようで、こちらの体調を気遣っていることに変わりのない提案。
正直、食べたくない。というか、食べたら吐きそうな気がする。
さて、これ以上気遣わせないためには、どうやれば悟られることなくかわせるかな、と。考え始めたとき、ふと目についた看板に、言葉は無意識に出ていて。
調査初日の雑談を思い出したのか、怪訝な声で応じつつもそちらへとハンドルをきるあたり、滝川も反対する気はない模様。
ドーナツと麻衣。思い浮かべるだけで平和な光景に、自然と笑顔があふれてくる。作り物ではない笑顔の効力なのか、心まで軽くなった気がして。
「甘いもの食べたり、おなかが満たされれば、元気も出るでしょ?」
「いっつも元気いっぱいじゃねーか、麻衣。なんか落ち込むようなことあったか? ……する、わきゃねーよな……?」
「昨日の今日だから、ね? 怒って、さらに元気になってもらおうかなって。カラ元気も元気のうちということで♪」
「マジでなんかすんのかよ!?」
「こんなときに!?」というツッコミは笑顔で流し、思いついた小さなイタズラを実行すべく、ジーンは車を降り軽やかな足取りでドーナツ屋のドアをくぐった。
「『先に調査してるから、ドーナツでも食べつつ連絡係と留守番よろしく~♪ byジーン』――って、なんじゃそりゃーっ!!」
りゃーりゃーりゃー……って、山彦みたいに声がこだましてるなんて気のせいだ、窓の外でタイミングよすぎにカラスが鳴いてたりするのも幻聴だゼッタイ。
――と、麻衣は襲いくるむなしさと戦っていた。
調査拠点である小会議室の戸を開けて、まず目についたのが、長机の上に鎮座する取っ手付きの細長い箱。側面に描かれた有名ドーナツ店のロゴマークに引き寄せられるように近づき、ちょこんと貼りつけられたメモ用紙いっぱいに書かれた『麻衣へ』の文字を見てためらうことなくオープン。ふわっと立ち昇った甘い匂いと、期待どおりのドーナツの存在に、つい頬が緩んだのは、一分にも満たない前のこと。
箱を開けたときに剥がれ落ちたらしいメモ用紙が、裏返しで机にあっただけなら気にも留めなかっただろう。ただ、表側の大きな三文字と比べて、あまりにも細かい文字列が目に入ってしまえば気になるもので。
拾い上げ、読み上げていくうちに、嬉しさは怒りに取って代わられたという次第だ。
これは、明らかに悪戯だ。顔に似合わぬイタズラ小僧の悪ふざけだ。――とすると、このドーナツ……まさか、カラシとかワサビとか仕込んであったりとかは……流石になさそうか、そうだよな、そこまで性格悪くはないよな、うん。
胡乱な眼差しで箱を再度覗き込み、クリームなどを包まない輪型のものだけなのを確認した麻衣は、一拍の後、深々と溜息をついた。
「……あ、のー……?」
「ぅわっ!? 笠井さん!?」
不意を食うとは、まさにこのこと。麻衣は、文字どおり飛び上がって振り返った。
明らかにノックする体勢で廊下からこちらを見ている笠井の姿が、戸を閉めるという基本的なことすら忘れるほどドーナツに夢中になっていたことを、また、どこか引きつって見える彼女の表情が、先程の叫びが聞かれていたことを如実に物語っていて。
叫んでみたところで誰も聞いてくれる者のないむなしさは、思ってもみなかった相手に聞かれてしまったという気まずさへと、一瞬で裏返されたのだった。
「えっと、入っても?」
「ど、どーぞどーぞ」
脳内フリーズ中の麻衣には、完全に引いている笠井の言葉に対して、笑顔で取り繕う以外の対応策はない。
おずおずと足を踏み入れた笠井に席を勧めたあと、戸を閉め、上着を脱いでから、校長のご好意なお茶セットを遠慮なく使って二人分のインスタントコーヒーを淹れるという動作をよどみなくできたのは、慣れた事務作業だったからだ。
それらが終わって腰を落ち着けても、すぐに本題に入ってくれなかったりした場合、見ないようにしていた気まずさが大きくなっていくのは、まあ想像に難しくない。
現状を打破したくて何とか会話のきっかけを探しつつも見つけられない麻衣に気づいたわけではないだろうが、笠井がぽつりと言った。
「……除霊、すすんでる?」
「あー…………どうなんだろう? 実は昨日、視える人が二人とも体調崩したり何だりバタバタしちゃって、結局報告聞いてないんだよね、あたし……」
本題を口にしてくれたのはありがたかったが、それにより引き出されたのは昨日の出来事。正直に答えたことで、また気まずさがむなしさへと裏返り、麻衣の口からは大きなため息がこぼれていた。
一瞬、胡乱な目を向けてきた笠井だが、誤魔化しているのではなく本当のことだと察したようで、きょとんと眼をまたたかせて。
「渋谷さんとか、あんたも霊能者じゃないの?」
「あたしは違いますー。ただのみそっかすな雑用係ゆえに何の報告も聞けずにここでぽつりお留守番なんぞしとるんですー。ちなみに渋谷氏はゴーストハンターと名乗っておりまするー」
「それはカッコイイけど、それより……ひょっとして、いじけてる?」
「……ます。だって、いくら雑用係だって調査経過ぐらい教えてくれてもいいと思いません? そりゃ確かに知識も何もないド素人だけどさー、この扱いは流石に疎外感覚えるっつーの」
「ド素人なの?」
「4月まで、霊能者なんてテレビとか本の中だけの存在だと思ってた、ごくごくフツーの学生でした」
「そうなんだ」
明らかに態度に出てしまった心情をスルーすることなく指摘され、つい愚痴モードに突入してしまった。
本来なら内輪話のようなものはすべきではなく、適当に誤魔化してしまうべきだったのだろうけれど……そうしなかったのは、そこまで考えるだけの冷静さを欠くほどに落ち込んでいたのか、それとも先程の叫びを聞かれているのだから今更という気持ちもあったのかもしれない。
でも、たぶん、一番の理由は、誰かに聞いてほしかったから、なのだろう。
事実、吐き出したことで多少気分が浮上した気がして――コーヒーに口をつけた。
麻衣につられたのか笠井もカップを口に運び、ふぅ、と。吐息がピッタリ重なって、顔を見合わせ、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「あ、そうそう、恵先生が、何か手伝えることがあったら言ってくれって」
「産砂先生が?」
「うん、恵先生、超心理学とか詳しいんだ。あたしの知識は全部、恵先生からの受け売りだよ」
「受け売りでも知識があるだけうらやましいっす……むしろ、このみそっかすめに僅かでもご教授くだされ」
「あははっ」
半分本気を含んだ軽口をたたけば、笠井が笑い声をあげた。
毛並みを逆立てた猫のように人を拒絶してるふうに見えた昨日の姿を知っているだけに、なんだかとっても嬉しさがこみあげてきて。
「ウチのイタズラ小僧が置いてったんでロシアンな可能性のあるドーナツでよければ、どうぞ」
「ちょ、それ、毒味しろってこと!?」
「いやいや、ちょーっとコワイんでいっしょに食べてくれると心強いなーって」
「おんなじことじゃん!」
言葉は拒否と受け取れなくもないツッコミながら、手はためらうことなく箱に伸びて。二人揃ってドーナツを手に、目配せ、同時にかじりついて、数秒。
「「 おいし~♪ 」」
歓声を重ならせた。
ヒトを複雑な気持ちにさせてくれやがったドーナツをコミュニケーションツールに利用してやったぜザマアミロ、と。
内心毒づいてみたりした麻衣は、誰に対するものかもわからない当てつけのつもりで笠井と雑談を楽しんだ。その中で、笠井の『あんた』呼びに名乗っていなかったことを思い出して名乗ったあと、流れ出思い出したのは、ひとつの疑問で。
「あ、そうだ。あたし、笠井さんに聞きたいことあったんだ」
「何?」
「スプーン曲げしてて疲れたりとかしなかった?」
「は? なんで?」
「えーと、PK-……なんだっけ? 怪我を治せる超能力」
「PK-LT?」
「あ、それそれ。がその能力持ってるんだけど……ほら、昨日あたしと一緒にいたもう一人の」
「渋谷さんと麻衣以外に誰かいたっけ?」
「いたよ~、あたしと同い年の美少女が」
「美少女って……あ、顔色悪いのが廊下からこっち見てたか」
「え!? そのときから具合悪かったの!?」
「あたしに聞かれても……普段から青白い顔してるってんなら平常だろうけど……そんなにじっくり見たわけでもないし」
「色白で華奢で『薄幸の美少女』って言葉がここまで当てはまるんだって思っちゃうような子だから、顔色悪いのがわかりにくいんだよ……いっしょにいると思ってここまで戻ってきたら、いつの間にかいなくなってたし、綾子が呼びに来るから何事かと思ったら体調崩しててナルが病院行かせたとか言い出すし!」
「さっき言ってたドタバタ? 霊も視えるんだ、あの子」
「ちゃう! 霊視えて体調崩したのは別の人! で、視えるもう一人がの付き添いでリタイヤっつーワケわからん状態!!」
「何がワケわかんないの?」
「みんなプロでしょ!? 仕事でココにいるんでしょ!? だったらプロでもない一番役立たずなあたしが付き添いしたほうが効率的で常識的判断じゃない!?」
「ああ、そういうこと」
「なのになんで真砂子!? の親友公言しくさってるから!? それっておかしくない!? 実力主義者のナルが贔屓しすぎじゃん! なんぞ真砂子に弱味でも握られてるのかオノレはーっ!!」
「ちょ、ちょっと! 落ち着きなよ。何をそんなに怒ってるわけ? というか、あたしに聞きたいことって結局何だったの?」
「あ!?」
つい熱くなって思いっきり話を脱線させてしまっていたことを、指摘されてようやく気づく有様。笠井のほうが余程冷静だ。
麻衣は必死に落ち着こうと努力し、頑張って要点をまとめようとなけなしの思考力をフル回転させる。
「えっと、その……命にかかわるほどの大怪我でも治せたんだけど、代わりにすっごく顔色悪くなってって、入院までしちゃったことあるんだ、」
「うん」
「ジーンとか、ぼーさんとかも、除霊とかしたあとすごく疲れてるみたいな様子だったからさ。そーゆー特殊な能力使うのって、やっぱ体に負担あるものなのかなって、思って、聞いてみたかったんだけど……」
「うーん……」
やっと聞きたかったことと、その理由を言葉にできた。
ただの興味本位でないことは伝わったようで、笠井は視線を上のほうへ向け、記憶を探るふうに唸ったあと、首を傾げた。
「あたしはスプーン曲げられるだけだったから、そんなに負担感じたことはなかった、かなぁ……まあ、あっちこっちでやってって言われて調子に乗ってたときは、いつもよりおなかすいてた気もするけど、せいぜいその程度ってカンジ?」
「でも、それってやっぱり、何の負担もなくそんなスゴイことはできないってことだよね?」
「かもね。でも、なんで本人に聞かないであたしに?」
「それ! それが怒ってた理由!」
「はい?」
「クラス違うけど同じ学校に通ってて、しかも同じアパートにも住んでて、みんなよりあたしのが先にと知り合ってたはずなのに、なんかあたしよりみんなのほうがワケ知りっぽいのが気に入らないの! あたしだってのこと心配なのに……ともっと仲良くなりたいのに! なのに、まともに話すチャンスすらないってどーゆーこと!? なんかみんなしてあたしとを引き合わせないようにしてるって思えてならないんだけど!!」
「それは邪推だと思うよ、流石に。……詳しい事情知らないけどさ」
「そうかな!? あたし仲間外れじゃない!?」
「仲間外れって……小学生じゃないんだから……」
身を乗り出してまで確認すると、思いっきり呆れた顔をされてしまった。
子供じみた物言いだと己でも思ったことで、顔が熱くなった。絶対赤くなってるとわかる顔を隠したくて俯いた頭は、けれどノックもなく開いた戸で反射的に上げられる。
立っていたのは、本日初顔合わせとなる滝川で。
「おーう、人が仕事してるときに優雅にティーブレイクたぁ、いいご身分だのぅ、麻衣」
「へっへーんだ。あたし宛てのおやつ、いつ食べようとあたしの勝手でしょ! ホウレンソウもまともにする気ない人に文句言われる筋合いないやい」
「報告・連絡・相談に関してはおまえの上司に言えよ。つか、動きもせずに食ってばっかいたら、マジで子豚ちゃんになるぞ~?」
「うるさいやい!」
「……充分、仲良いように見えるけどな、あたしには」
軽口の応酬を条件反射でしていると、笠井の呟きが意外にも大きく聞こえて。
――これが『仲が良い』? 確かに無視されることはないけど、ふざけたやりとりだけじゃ蚊帳の外に変わりはない気がするのだが?
首をひねっていると、笠井は苦笑を浮かべて立ち上がった。
「聞いてみれば済む話じゃない? とにかく、あたしは麻衣のこと応援するよ。ドーナツ、ごちそうさま」
「あ、ありがとう笠井さん!」
「こっちこそ楽しかった。ありがとう。頑張ってね」
「――うんっ!」
滝川に一礼して帰って行く笠井を、麻衣は笑顔で見送った。
入れ替わるように、松崎とジョンが姿を見せて――麻衣は、笠井の助言に力を得て、口を開いた。
「調査って、今どうなってるの?」
その姿を見かけたのは、偶然でしかない。学校という場所に不似合いな着物が視界に入らなければ完全に見逃していたことを確信できるほど、それは予想外だった。
同じ思いを抱いたらしいナルと、思わず顔を見合わせるジーン。
僅かな迷いを見せる足取りでそちらへと向かう弟のあとを、ジーンも同じように追った。
「、来ていたのか……」
どう声をかけていいのかもわからず声を出すこと自体をためらっていたジーンに代わって、ナルが声をかけた。しかしその声音には、同じようにためらいがにじんでいて――あんな映像を見たあとでは、無理もない。
声をかけられたほうは――校舎の角と真砂子の着物とで半ば隠れている華奢な背がびくっと跳ねて、彼女にとっても予想外の出来事だと告げた。
先に振り向いて会釈した真砂子は、見るからにこわばり震える背を優しくさすり、落ち着くのを促し待って。
ややあって、おもむろに振り向いたは――しかし蒼白な顔を上げようとはせず。
「……すみません、所長」
「何への謝罪だ」
「所長たちが『霊視』と呼ぶものと、自分の、恐怖心が生み出した幻覚、との、区別がつけられないわたしが……口を、出すべきでは、ないのかも、しれません……」
「……僕は、人の証言を絶対視しないと言ったはずだ。情報が正しいかどうかのウラを取るのが、僕やリンの役目でもある。言いたいことがあるなら、言ってかまわない」
小さく息を吐き出したあとは、もう平常に戻ったナルの声音と物言い。
は俯いたまま、胸の前で合わせて握る両手を震わせて口を開き――けれど声は出ずに吐息だけがこぼれ出て。何度かそれが繰り返されて、ようやく絞り出すように言ったのは。
「学校中に、ある、闇……あれを、発生、させているのは、笠井、さん、では、なく……産、砂、先、生、の、ように、わたしには、視え、ました……でも、それが、『霊視』によるもの、なのか、わたし自身が生み出した、幻覚、なのかは、わかりません……っ。だって、あの人は……っ、わたしからすべてを奪った男と全く同じ笑い方をしていたから……っ!!」
「っ」
あの映像が、間違いなく彼女のものだと告げる内容で。
息を呑み驚いた表情でを見た真砂子の反応もまた、彼女には見えていないようだったというナルの推測が当たっていたことを如実に表した。
三者三様の思いがけない彼女の告白に言葉を失っていたその時間は、にとっては乱れた呼吸を整える機会となったようで。
「ただ、あの人から、闇があふれ出ていて、その中に、小さな木片がいくつもあったのが、気になって……探してみたら、これが……」
少しだけ落ち着いた様子で言葉を紡ぎながら、まだ震えの残る両手をこちらへと伸ばし、そっと開いて見せた。
指部分のない革製の黒い手袋の上にあったのは、人の形に切り抜かれた小さな木片。
ジーンは目を瞠り、ナルは目を細めてそれを見やって言った。
「それは、ヒトガタだ。呪詛の道具。これにより、その人物のもとにだけ悪霊が現れることになる。原さんに感知できなかったのも道理だ」
「これは、どうすれば、いいんですか?」
「焼き捨てることで解呪される。こちらで全部集めて処分するが」
「すみません……身勝手、なんですが、恐怖を、乗り越えるために、もう一度、あの人と、向き合いたいと……」
「そのために、それが必要だと?」
「……はい」
木片を受け取ろうと差し出したナルの手を、まるで避けるように再び両手で包み込んで胸元に引き戻した。
大事そうに包み込んでいるふうではあるが、やはり手は震えていて、むしろ力を強く込めているはずだ。それなのに、何故だろう……球体を握っているかのように、木片に手が触れていないように見えるのは。
ナルもその違和感に気づいたのか、訝しげに眉根を寄せ、けれどそれを問い質すことはなく、口にしたのは念のためといった口調の忠告。
「それは本人の形代だ。傷つけた箇所と同じ場所に本人も傷を負うことになる。扱いは丁重にすることだ。ちなみに、それはどこにあったものだ?」
「車、です。ミラーに、女性の霊が映ると言っていた先生の……」
「そうか。このあと、すぐに産砂先生のところへ?」
必要な情報を聞き出す意図しかない事務的なナルの問い。だが、産砂の名が出た途端に震えが大きくなり、呼吸も浅く、乱れだした。背を包み込むようにして真砂子が両肩を支えてはいるが、立っているのが不思議に思える状態だ。
――無理だ。こんな状態で本人と向き合うなんて、できるはずがない……壊れてしまう。
頭に浮かんだ言葉は声にはならず、しぼり出されたの声によって呑み込まされ、ジーンの中で渦を巻く。
「ま……まだ……っ、どう、したら、いいのか……っ、わから、ない、ので……っ」
「できれば、こちらでウラがとれるまで待ってもらえると有難いんだが」
「わ、わかり、ました……っ」
「なら、今日はもう帰って休め。無理をしても良い結果は得られないだろう」
「っ、は、はい……」
向き合うための方法がなのか、向き合ってどうすべきかがなのか。行動を決めあぐねているような答えではあるのに、諦めようとはしない。ただ、その意志に対して、体と心とがついていけていないのは誰の目にも明らかで。
本人にも自覚はあるのだろう。帰宅を促すナルの言葉に渋る様子もなく、むしろどこかほっとしたようにさえ見える応答の後、真砂子に支えられながら一歩一歩ゆっくりと校門へと向かっていく。
その背を見送っていたナルが、小さく息を吐き、振り返った。
「ジーン、おまえは陸上部の部室へ行け。僕は魔の席を見てくる」
言って、こちらの返事も待たずに校舎へ向かう弟の背を、ジーンはただ眺めていた。
頭の中が、先程呑み込んだ言葉がナルへの疑問や不満となって嵐のように渦巻いていたからだ。
――何故、ナルはを止めようとはしないのだろう。自分たちにできることは下手に刺激しないことしかないと言っていたのに……いくら本人の望みとはいえ、限界を超える可能性の高さを知っていて容認するなら、それは刺激を与えることと何も変わらないではないか。完全に壊れてしまったら、医者だってどうすることもできない。取り返しなど、つくはずがないのに……
もう既に視界から消えた弟を睨むように見ていたジーンの目が、不意に大きく見開かれた。
「……そうか、が戻ってくる前に、調査を終わらせちゃえばいいんだ……」
そうすれば、彼女が産砂と向き合う機会はなくなる。――ああ、だからナルも早々にを帰して、急ぎ足でほかのヒトガタを探しに行ったんだ。
辿り着いた結論に笑みさえ浮かべて、ジーンは陸上部部室へと駆けだした。
調査の進行状況などの情報交換がてら、超能力についての豆知識などの雑談休憩を経て、再び滝川ら三人の霊能者陣が出て行った少しあとのこと。
ガラッ、と。戸が開き姿を見せたのは、ナル一人。
「麻衣、全員集めろ」
「戻ってくるなり挨拶もなしに何なのさ」
「原因がわかった」
「へ!? ホントに!?」
「ああ、だから全員呼び戻せと言っている」
「う、うん、わかった!」
本日、初顔合わせにも拘らず、挨拶も謝罪の一言もないいきなりの命令。
ムカッと頭に来たのも一瞬、続いた理由で不満は消し飛び、麻衣は無線に手を伸ばした。――が。
「あれ……? 反応ないよ? 壊れた?」
ウンともスンともいわない無線機に首を傾げていると、スゥッと視界が暗くなった。
秋の日暮れは早く、曇っていれば放課後になって間もない時間でも電灯が必要となる暗さなのだ。蛍光灯の消えた室内は夜のようだ。
――カタン、と。天井から音がして、電灯が瞬いた。それは、何度も続く。
「――ナル……ねえ、あれ……髪の毛……?」
切れかけのように時間をおいて電灯が瞬く。そのたびに、天上から生えたような黒い髪が長さを増していく。然して間もなく、逆さになった女の首が天井から突き出てきた。
「ナル……っ」
おもわずナルを呼んだとき、まるで声に反応したかのように女が目を見開いた。爬虫類を思わせる小さな瞳が真っ直ぐにこちらを捉え――ニタリ、と。女が、笑った。
ゾクリ、と。全身に冷たいものが走った。胃の中に氷でも突っ込まれたように、震えだす。
「――ナ……」
「落ち着け。あれがこの学校の霊なら何もできない。大丈夫だ」
ナルが背にかばってくれるが、女は麻衣だけを見ていて、麻衣も目を逸らせず、ただ震えが増す。ガチガチと歯が鳴る。
まるでその反応を楽しむかのように笑ったまま、女が沈み出てくる。白い着物の衿が、胸が、帯が、現れる。
――あれが、このまま降りてきたら、どうなるの?
考えたくもない疑問が頭をよぎった――刹那。
「――ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン!」
勢いよく戸が開き、姿を現した滝川の真言によって、女は天井へと戻っていく。
完全に女が姿を消して怪異が去った証拠のように、蛍光灯が本来の力を取り戻して煌々と室内を照らした。
「ここにまで現れるようになったか……」
何の感慨もなく単なる事実確認のように呟いて、自ら無線機を操作するナルの声を背に、麻衣はその場にへたり込む。危険が去ったと頭ではわかっていても、恐怖はなかなか消えてくれず、震えも止まらない。
「大丈夫か、麻衣」
大きな手が頭をわしゃわしゃと撫でる。そのあたたかさに、やっと顔を上げられた。
しゃがみ込んでこちらを覗き込む滝川の隣に、ジーンがいて。
「ジーン……ジーンっ!」
「っ」
「――え……?」
思わずすがりついた手を、力任せに振りほどかれて。驚いて見上げた先でジーンは、まるで恐ろしいものでも見るかのようにこちらを見下ろしていて。
好意を寄せている異性に、明らかな拒絶を示されてショックを受けない者はいまい。
まして、先程の恐怖心も治まっていない麻衣の頭は、ぐしゃぐしゃに混乱した。
「なに……? あたし、なにか、した……?」
「落ち着け、麻衣。おまえのせいじゃなくて、昨日の影響が残っているだけだ」
「きのう、って……」
「過呼吸起こしてたアレか?」
「ああ、その馬鹿は自分の感情をコントロールできなくなっているだけだ」
「……自分の……?」
淡々としたナルの言葉に、何故かジーンが一番驚きを表した。
目を瞠り信じられないものでも見るかのような顔を向ける兄に、ナルは怪訝な表情をあからさまに呆れたものに変えて、嘆息をこぼす。
「なんだ。いつまでも引きずっていると思ったら、自覚すらしていなかったのか」
「これが、ぼくのだって言うの……? だって……っ!」
「おまえは車で轢き殺されかけたことがあるだろう」
「――……」
「一度、心に刻まれた恐怖というものは、そう簡単には消えないものだ。まして、まだ一年も経っていないのだから、忘れたつもりでいても小さなきっかけで甦るのは道理だろう」
「……これは、ぼく自身の、恐怖心……?」
「自覚したなら、さっさとコントロールしろ。おまえにとっては容易いことだろうが。いつまでもそんなものに振り回されていられたら仕事に差し支える」
目の前で繰り広げられる兄弟の会話を、麻衣はただぼんやりと見守った。
麻衣個人が拒絶されたわけではなさそうだという点で少しは落ち着けたけれど、安堵し喜ぶといった状態にはなっていない。
それは、ひとつの疑問のせい。
俯き、ぐっと拳を握り締めて小さく頷いたジーンの姿が、何故かと重なって見えたのだ。
とジーン……昨日、同じような時間に体調を崩したのは、果たして偶然なのだろうか。
恐怖心に代わって、形容し難い心のざわめきに支配された麻衣は、松崎とジョンが戻ってくるまで座り込んだまま、立つことができなかった。
「で? 原因がわかったって?」
調査拠点にリタイヤ組を除いた全員が戻り、麻衣も落ち着いたのを見計らって、滝川は切り出した。
すると双子がアイコンタクトを交わし、ジーンが小さく頷いた後、同時にそれぞれがひとつの木片を長机の上に置いた。
人の形に切り出された小さな木片には、見覚えがあった。
「魔の席と陸上部部室、あとミラーに霊が映ると言っていた先生の車からこれが見つかった」
「ヒトガタじゃねえか」
「これは『厭魅』という呪詛に使用されたものだ」
「「「 呪詛ぉ!? 」」」
ナルが挙げた場所とヒトガタの数が合っていないという疑問は、予想だにしなかった単語の衝撃でどこかへすっ飛んでしまった。
呪詛と霊の関係など、いまいち理解しきれていないこちらへと、ナルの講義が始まる。
曰く、ワラ人形に釘を打つという呪法の元は陰陽道の『厭魅』であるということ、釘を打つという行為が呪殺の依頼であり、呪者はその依頼を受け入れた人ならざる存在――悪霊を使役することになるのだという。
誰かが始めた『厭魅』によって噂が流布、忘れられることで眠っていた本来の怪談も目覚めて活発化し、それが枯れ尾花にまで発展したというのが、この学校の現状だろう、と。
事件の様相は理解し、納得もできた。だが、問題はどう解決するのかということ。
これが生きた人間による仕業だとするなら、除霊のような力業でどうこうできる問題ではない。呪者を見つけ出しやめさせなければ、何の解決にもならないのだ。
「にしたって、誰がそんな」
「笠井って子以外に誰もいないでしょ、そんなの」
「ちょっ、笠井さんなんかじゃないよ!!」
「なーんでよ。自分の超能力を否定されたうえに、吊し上げでしょ。おまけにかばってくれた先生もひどいめにあって、そのうえ『呪い殺してやる』って言ったんでしょ? 有言実行してたってことじゃない」
「違う! 笠井さん、そんなことする人じゃない!!」
「現状で一番疑わしいのは事実だよな」
「ぼーさんまで!?」
「そりゃ、おまえは仲良くなった相手だからかばいたいんだろうが……」
「だからだよ!! だからわかるの!! あたしなんかより、よっぽど冷静で客観的に考えられる人だもん!! 絶っ対っ!! 笠井さんじゃないっ!!」
「人は見かけによらないものよ~?」
「っ! ジーンも何とか言ってやってよ!!」
ばんっ、と。長机を叩いて松崎を指差し訴えた麻衣に、ジーンはびくっと肩を跳ねさせ上げた青い顔をすぐに逸らせた。その反応に先程のことを思い出したのだろう麻衣も苦い表情になり、俯いた。
明らかに何かがあったと告げる二人の仕草に松崎が口をはさむ前に、滝川はわしゃわしゃと麻衣の頭を撫で、ナルは嘆息の後、話を調査方針へと戻す。
「呪者は僕とリンで探す。ほかの者はヒトガタを探してくれ」
「なに?」
「『厭魅』を破る方法はふたつだ。呪詛を呪者に返すか、使ったヒトガタを焼き捨てるか」
「探すったって、あとは場所限定されてねえヤツばっかじゃねーか!?」
「ヒトガタは相手にとって身近な場所に埋めるものだ。犯人が学校の関係者なら、この学校のどこかにある可能性が高い」
「にしたって、どんだけ広さがあると思ってんのよ!?」
「何のためにジーンがいると思ってるんだ」
「は!?」
「ジーン。この部屋に鬼火は視えるか?」
「ううん、ないよ。さっきも鬼火が見えたんじゃなく、嫌な気配を感じただけ」
「なら、ヒトガタは別の場所か……」
指示に対して苦情を訴えれば、あからさまな嘆息が落とされる。そのうえで直接答えを返さないあたりが、ナルのひねくれているところといえよう。
先程、小会議室の近くで偶然合流したジーンが、急に「ベースに何かの気配が現れた」と言ったのを受けて駆けつけ、逆さ吊りの霊を目撃した身としては、真砂子以上の霊視――というか霊探知能力の高さは信頼できるのだが。
「鬼火の視える場所を探せばいいってことね……らじゃー」
自分にとっての『当たり前』を他人にも求めるのはやめてくれ――と。
内心げんなりしつつも了承を返したことで、ナルはリンを伴ってさっさと出て行ってしまった。
相変わらずの対応に、こちらも相変わらずぶつぶつと文句を言う松崎。
同感が半分、言ってもどうにもならないという諦観半分な重い気分を盛大な溜息に変えて吐き出し、次の行き場所を知るためジーンへと目を向けた。
先程まで立っていた長机の側に姿がなくて、一瞬首を傾げる。その目が、隅のほうを見ているジョンの姿を捉え、彼の視線を追うとすぐに壁に背を預けて床に座り込んでいるジーンを見つけることができた。
「ジョン? ジン坊はどした?」
「もう一度、位置を確認してはります」
「ああ、幽体離脱中ってことな」
こちらに構わずさっさと調査を進めようとするあたりナルとそっくりだな――と。平常であれば思ったかもしれない。しかし、昨日の今日でどうにも不安定な様子であることから、早く終わらせて休みたいほど余裕がないのだろう、と。好意的に解釈できてしまうのは、やはり人徳の差なのだろう。
そんなことを考えているうちに体に戻ってきたジーンの情報に基づいて、それぞれが手分けしてヒトガタを探すために校内に散った。
「とりあえず、ヒトガタひとつ見つけたぜ」
「こっちもやです」
「まったく……なんでアタシがこんなこと……」
念のためにベース待機にしといたジーンのもとへ、示し合わせたわけでもないのにヒトガタを手にした者らが戻ってきた、直後のこと。
先に戻っていたリンと何やら話していたジーンが椅子から立ち上がり、笑顔でこちらを迎え――ようとして、また昨日のように床に座り込んだではないか。
「おい!? また過呼吸か!?」
「っ、ナルと麻衣がマンホールに引きずり落された!」
「なに?」
「学生会館建設予定地だよ!」
「先に行きます!」
「俺は梯子か何か借りてくる! ジョン、手伝え! 綾子はジン坊を頼む!」
過呼吸ではなさそうだが胸元の服を掴んで苦しげな顔を向けるジーンも心配ではあるが、もたらされた情報のほうが緊急性があると判断したのだろう。
即座に駆けだしたリンに倣い、一応の役割を振ってから滝川もベースを飛び出した。
そうして、かすり傷程度で済んだらしいナルと麻衣とともに見つけ出したのは、山と積まれたヒトガタだった。
「これだけの数のヒトガタを、よくもまあ……ジン坊、鬼火はこれで全部ここに集まったってことか?」
「うん、大丈夫……今のところは、だけど」
思いきり顔をしかめて木片の山を見るジーンの目は、やはりどこか別の次元でも見ているような不思議な色をしている気がした。霊媒特有の目の色だ。
「麻衣、おまえのヒトガタだ」
「っ、なん、で……あたし……?」
「何か犯人の気に障ることでもしたんじゃないの~?」
「誰が犯人かもわかんないのにどうやってさ!?」
「無意識にってことよ。動かない!」
木片に書かれた名前を確認していたナルが、麻衣のフルネームの記されたものを見つけて彼女に向けて長机に置いた。
見た瞬間、恐怖に青くなった麻衣の顔は、松崎の茶々ですぐに赤くなり、手当てをする松崎の注意でしゅんとする。
相変わらずころころとよく表情の変わる感情豊かな麻衣が、呪詛を向けられるほど気に障るようなことを無自覚に誰かにしているなど、あまりピンとこない。それこそ、悩みのなさそうな姿が妬ましく思うほど犯人がひねくれているのでは、という程度のものだ。
「まあ、麻衣が狙われた理由はさておき。これで呪詛はパアになったわけか?」
「ああ。あとは水に流すか、焼き捨てればいい」
「ジン坊も言ったように、新たに作られたら意味ないぞ。犯人は見つかったのか?」
「その前に、ナルも怪我したんでしょ。ちょっと見せなさい。……ナル?」
名前の確認を終えたのか椅子に腰を下ろしたナルは、珍しく背もたれに体重を預けて目を閉ざした。
余程疲労したのか、滝川の問いにも答えなくなり、松崎が近付いても無反応で。
嫌味ひとつ出てこないことに訝しんだ松崎がナルの肩に触れた。その力に抗うことなく、ナルの体がぐらりと傾ぐ。
「ナル!?」
「動かさないでください。救急車を」
椅子ごと倒れたナルの体を、すぐ傍らにいたリンが受け止め、至極冷静に言った。まるでこうなることを予見していたかにさえ見えた。
ジョンがすぐにベースを飛び出して行き、騒然とする中、深々と溜息をこぼすジーンと、そのジーンにもの言いたげな視線を向けた松崎の姿を、滝川はただ見ていた。
「ジン坊も一緒に乗ってきゃよかったんじゃねーの?」
ナルと付き添いのリンを乗せた救急車を見送った直後、滝川が冗談めいた口調で言った。
ジーンはそちらを見ることもなく。
「ぼくは……大丈夫。ナルよりはちゃんと食べてるし……」
「そーゆーことじゃなくってよ」
「うん」
彼の言葉を遮り、俯いて、目を閉じる。
思い出そうとすれば、今でも鮮明に脳裏に甦る――車が真っ直ぐ己へと向かってくる光景。
ぐっと、拳を握り締めた。
「ナルに言われて、やっと自覚できたんだけど……はっきり言って恐怖なんてないと思って忘れてたんだ。でも、違った。事故に遭ったときは、ほんとに急なことで、頭の中、真っ白って感じで……びっくりしたって以外の感情を自覚できる余裕がなかっただけなんだって……」
自覚はなくとも、根づいた恐怖心は無意識の行動に表れていた。
病院の行き帰りに、助手席ではなく後部座席をあえて選んだのは、同調によって引きずられたの恐怖心から、滝川のスキンシップを警戒してのことだと思っていた。
けれど、よくよく思い返してみると、それ以前から己は助手席を避けていた。
それは、動いている車と正面から向き合うことに対して恐怖があったからだったのだ。
「その、ぼく自身の、死に対する恐怖心と、今まで視てきたたくさんの霊の死の記憶とかが、いっぺんに、ごちゃまぜになっちゃってただけだから……今は、ちゃんと区別できてるから、大丈夫……」
「ジーン……」
呼び声で目を開け、ゆるりと振り返る。心配そうな、複雑な表情の麻衣がいる。
――そう、麻衣に対して抱いた恐怖心は、間違いなく己自身のものだ。何故なら……
「ごめんね、麻衣。ぼくを轢き逃げしたのが女の人だったから……わざわざ車から降りてぼくの状態を確認したうえで、トドメを刺そうとされたことが瞬時に甦ってきちゃったから……ホントに、ごめん」
「ううん……っ」
涙ぐんだ麻衣の頭を、滝川がくしゃくしゃと撫でる。
滝川も納得はしたのか苦笑を浮かべて。
「んじゃ、まずヒトガタを処分しちまおう。それからオフィスに戻ってリンからの連絡を待つ。ベースはナルちゃんの指示があるまでこのままにしておくってことで、どうだ?」
今後の方針を提案。誰も異を唱えることはなく、皆、重い足取りを引きずるようにして動きだした。
その光景から目を逸らし、ジーンは遠く空を見上げる。
弟の言葉をきっかけに、己は恐怖心と向き合い克服しつつある。この小さな解放感にも似た不思議な感覚を、にも味わってほしいと思う。
けれど、同時に不安も大きくなるのだ。
先程、見かけた……結局一度も顔を上げず目を合わせようとさえしなかった。それほどまでに恐怖心に支配されたまま、呼び起こした元凶と向き合って耐えられるとは、とても思えなかった。
あと一撃……ほんの僅かなショックでさえ粉々に砕けてしまいそうなほど、限界寸前に見えたから。
――その、最後の一撃を、己が加えてしまうのではないか、と。
そんな不安と恐怖心から逃れたくて、彼女が来る前に調査を終わらせてしまおうとしていたその企ては、ナルが倒れたことでおそらく実行不能となった。
――本当に、このままと産砂を引き合わせて大丈夫なんだろうか……
ジーンの心は、迷いで揺れていた。
支えられてやっと歩いていたは、何を考える余裕もないまま再び真砂子の家へと導かれていた。
彼女の自室の床に座り込み、ぼんやりと手の中の木片を眺める。
薄い光の球状の膜に包まれた小さな木片には、どろりとした闇がまとわりついて輪郭さえ判然としない。絶え間なく動き広がろうとする闇は、光の膜に触れるたびに焼かれたように霧散し、その下の木片の一部が姿を現す。しかし、すぐにまた新しい闇があふれて覆い隠してしまう。
消しても消しても、すぐに戻ってしまう闇……まるで己の心そのものだ――と。
そんなことを考えたとき、木片を載せている己の手をそっと包み込むもうひと組の手が現れて、はのろりと顔を上げた。
「さん、恐怖を乗り越えた先を考えてみてくださいまし」
「……先?」
「あなたがなりたいと思っておられるあなたになれるということでございましょう? どのような自分になっているのか、その姿に思いを向けられてはいかがでしょう。そうすれば、どうすべきなのかがおわかりになるのではございませんか?」
優しく包み込むような笑みを浮かべて、真砂子が言った。
時間をかけて、その言葉が脳裏にしみこんでいく。
そして、気づく。
闇から解放されることばかりを願ってきたけれど、その先のことは何も……具体的なことは何ひとつ考えてこなかったことに。
そんな余裕などなかった――というのは言い訳にすぎない。
ならば、考えなければ。この先のことを。
理想はある……あったはずだ。思い出せ。なりたい姿を思い描け。
闇から目を逸らし、は必死に記憶を手繰り寄せた。
「……わたし、は――……」