ナルが倒れて、救急車で運ばれた。
ジーンはただの貧血だから大丈夫だと言ったけれど、己のせいだと麻衣は思った。悪霊によってマンホールに引きずり落されたとき、彼を巻き込んでしまったのは変えようのない事実だからだ。
普段は腹立たしい相手だとしても、目の前で倒れられたら心配になるのが人情というものだろう。まして原因が自分にある可能性が高いともなれば、楽観視などできるはずもない。
湯浅高校で起きていた怪現象のモトであるヒトガタを処分し、全員でオフィスに戻ってリンからの連絡を待ったが、時間だけが無情に過ぎていき心配と罪悪感が比例するように増していった。
「ジン坊、家のほうに連絡がいってるかもしれんから、おまえさんは帰って、ついでに少し休め」
「あ……うん、そうだね。そうさせてもらうよ」
「ああ。麻衣も、ジョンと綾子も。一度帰って休んでこい。ここには俺が残って番しとくから」
不意に滝川がそう言って、彼を残して全員が一時帰宅することになった。
帰ってはみたものの悪い方向にばかり考えてしまい、まんじりともしないまま麻衣は朝を迎えていた。
始発を待ってオフィスに戻ると既にジョンがいて、滝川はソファで仮眠中だった。二時間ほど経って松崎が駆け付ける頃には滝川も起き出していたが、相変わらず電話は沈黙したまま。リンからもジーンからも音沙汰のないまま時が流れ。
やっとリンがオフィスに姿を見せたのは、昼近くなってからだった。
詰め寄る麻衣に、一瞬驚いた表情をしたあと鉄壁の無表情に戻ったリンが告げたのは、ジーンが言ったのと全く同じ内容で。そのもう一人の音信不通者はどうしたのかと思えば、先に病院へ行っているとの答えが返る始末。
「具合悪くなってんじゃなくてよかったけど……一言こっちにも連絡してほしかった……」
「それは――無理な注文だと思います」
「え?」
「ナル曰く、起床時間に起きたためしがないほどジーンは寝穢いので。寝起きの彼に、他人に気を回せるような思考力はありません。私も、彼から、こちらに皆さんがいるとは一言も聞かされてはいませんでした」
だから驚いた顔をしたのか、と。納得感は同時に脱力感にもなった。
ナルとは全く違う意外な一面だが、理由はどうあれ一人で先へ進もうとするその行動力はやはりそっくりだと思う。
そんな感想を滝川らと共有しつつ、リンの案内で入院することになってしまったらしいナルのいる病院へと向かった。
案内されたのは、名札がないのに『面会謝絶』の札がかけられているという奇妙な病室。疑問に思ったのは皆同じだろうが、誰かが口を開くより早く、リンがノックのために右手を上げた。
「――いい、治癒能力は使うな。君は君のすべきことだけに集中しているんだ」
薄く開いていた引き戸の隙間から漏れ聞こえてきたナルの声に、リンの手が止まる。
中にがいることは『治癒能力』という単語から明白だ。
躊躇するかのように動きを止めてしまったリンの姿は、が来ているとは夢にも思っていなかったと如実に語っていて。
しかし、だからといっていつまでも廊下にいる理由にはなるまいとでも言いたげに嘆息ひとつ。止めていた手を動かし、ノックの後、中へと踏み込む彼の後に麻衣たちも続いた。
案の定。ベッドを挟んだ奥の窓際にと、そして真砂子までもがいた。まだ本調子でないのは血の気のない白い頬が示しているが、俯いたままこちらを見ようともしないのは何故なのか。そんなを支えるように寄り添う真砂子の姿が、麻衣の心に苛立ちを生む。
ベッドの上の患者もだ。こちらを見るなり嫌そうな顔をしやがって、具合が悪かろうが通常運行な様子に安堵よりも腹立たしさが強く湧いて、ここに来るまであった不安も罪悪感も一気に押し流した。
体調不良で調査から抜けたはずのが、何故自分たちより先にここにいるのか。ベッドの手前にいるジーンのひどく困惑した表情が、彼が連絡したわけではないことを告げている。彼女がかかった病院もここだったから――という可能性も低い、気がする。単なる直感だけど。
あと考えられるのは――先程のナルの言葉……ナルが、ジーンが来るよりも前に連絡していた、のか?
だが、何のために?
「ぼーさん、ヒトガタは?」
「言われたとおり、燃やして、灰は川に流した。あとは犯人を探すだけ……」
「それについては想像がついている」
「なに?」
「犯人には僕が会って話をつける。今回の調査はこれで終了だ」
突然の終了宣言のみならず、異議を申し立てる面々への無関係宣言で、と真砂子に対する疑問を発するチャンスは消失したかに思えた。――が。
「ぼーさんはともかく、あとの人間ははずしてくれ」
「ちょっと! ならなんで真砂子とはいいのよ!? おかしいでしょ!?」
麻衣が抱いていた疑問は、松崎が代弁してくれた。
しかし、それによって見るからには畏縮し、真砂子はかばうようにしてこちらを睨みつけてくる始末。
一触即発な雰囲気は、響いたノックと来訪者によってひとまず霧散した。
やって来たのは、ナルが呼んだという高橋優子と笠井千秋、そして産砂恵の三人。
ジーンが用意した椅子に三人を招き、彼自身はと真砂子のいる窓際に移動する。来訪者の手前か、もう出て行けとは言われなくなった麻衣たちは、ベッド正面の壁際でギャラリーと化す。
そのような状況で始まったナルの確認だという質問は、麻衣たちにはさっぱり意図のわからないものばかり。ほんの数個で終えたらしく、ナルはファイルを閉じて、言った。
「犯人は、産砂先生です」
信じ難い結論に、誰もが目を瞠った。――否。名指しされた産砂も、笠井や高橋もが驚きを表す中、ジーンだけは苦い表情でベッドに視線を固定していた。彼の陰で見えにくいが、真砂子とも、それまでと変化なく佇んでいるような気がする。
先に聞いて知っていたとしか思えない三人の反応に湧いた疑問は、淡々と事実を告げるナルと、何を言っているのか理解できないと答える産砂の応酬に気を取られたことで宙ぶらりんとなった。こちらも納得できない問題だからだ。
――けれど。
はっきりと否定した産砂に、ナルが動機を告げたときだった。
あれほどかばい、守ろうとしていた笠井を、変わぬ笑顔で犯人にしようとするその姿こそが、間違いなく産砂自身が犯人――呪者だと如実に語って見えた。
どこまでも知らぬ存ぜぬでかわし続けた産砂の笑顔が消えたのは、彼女自身もかつてペテン師の烙印を押されたゲラリーニであった過去が明らかになったときだった。
ようやく事実を認めたことで、産砂恵という人物の本心も見えた――けれど。
「ほんのイタズラだったんです。私、悔しくて……」
そう言って顔を上げた産砂は、笑っていた。笑って言うようなことではないのに、やわらかく微笑んでいて……それは、ジーンがよくする笑顔の仮面を思い起こさせる微笑みだが、彼のそれとは全くの別物だと、麻衣は思った。
「イタズラで済むのですか? 『厭魅』というのは、人を積極的に害するための呪法です。幸い死者は出ませんでしたが、それも時間の問題でした。少なくとも、あの席だけでも次に座った生徒こそは電車に巻き込まれて死んだかもしれない」
「それは……不幸なことですけど。でも、そうなればみんな思い知るでしょう? この世には科学なんかじゃ割り切れないものがあるって」
同じような笑顔の仮面でありながら、ジーンと決定的に違って見えた理由――それは、彼女の心が既にどこか壊れていたことだった、と。
麻衣だけではなく、この場の誰もが悟ったのだろう。
重い沈黙を破ったのは、おそらく予測済みだったのだろう、ナルで。
「最後にもうひとつだけお聞きしたい。何故、麻衣に呪詛をかけたのですか? ただの雑用にすぎない彼女が、ヒトガタを二体も用いて呪詛をかけるほど一体あなたに何をしたというんです?」
「に、たい……?」
彼の口から出た疑問は、確かに未だ解明されていない謎だが、それよりも数のほうが気になった。
考えてみれば、そうだ。小会議室に現れた悪霊と、マンホールに己を引きずり落した悪霊は別物だった。ヒトガタがその人物への呪殺の依頼書と考えるなら、受け取る悪霊も一体であり、二体現れたならヒトガタも二体あるのは道理と言えよう。
だが、何故……まさか笠井と仲良くなったからではあるまいに……自分にだけ頼っていた笠井が別の人間と親しくなるのが許せないという独占欲――ということは、彼女をスケープゴートにした時点でないだろうし。
考えてもわかるはずもない答えを求めて産砂へと目を向けた。
「別に、何も。私はただ、彼女の願いを叶えてあげただけよ?」
「願い?」
産砂が、あの微笑みを浮かべたまま、真っ直ぐにこちらを見た。
何故だろう、邪気のない眼差しにさらされて、麻衣は胃が冷えたような感じがして。
「被害者として、調査に参加できたでしょう?」
「な、に、そ、れ……あたしがいつそんなこと望んだって」
「だって、淋しかったんでしょう? 心配してもらえて淋しさはなくなったでしょう? 仲間外れではなくなったでしょう?」
「そ――ん、な……りゆう、で……っ」
あんな怖い目に遭わされたというのか。
一時的な気分でこぼした愚痴を歪めて解釈して、危害を加えておきながら、それを望んだのはこちらだと。責任転嫁しつつ歪んだ好意を押しつけるほどに。
命の重さが――尊厳が、わからなくなるほどに。
もう、この人の心は、こわれてしまっている……
人の道を踏み外している自覚などまるでない微笑みから目が逸らせずにいた麻衣は、不意に視界が暗くなった気がした。
絶望的な思いが肉体にも影響を及ぼしたのかと思ったが、違った。
どこからか発する光によって、影ができていたのだ。
光が強くなっていく分だけ、影もより濃く――何故か産砂を覆って。
「ひ……っ」
恐怖に声をこぼしたのは、果たして己だったのか、それとも別の誰かか。
影が変化したのか。どろりとした真っ黒い液体のようなモノが、産砂の、目から、口から、耳からあふれ出る様は、まさにホラー映画だ。
産砂自身は、そのような変化が自分の身に起こっているなど気づいていないかのように椅子に座ったまま、しかし目の前に固まり何かを形作るかのように蠢くソレを不思議そうに見ていて。
――ずるり、と。
音がしそうな動きで、真っ黒い粘液のようなモノの中から、人の形が現れた。
「そう、ただのイタズラ。科学の不完全さも認められずにすがりついて、自分が理解できないものは存在しないものとして排除しようとする頭の固い人間を、逆に排除できれば一石二鳥なイタズラ……淋しがっている子どもの願いまで叶えてあげられる、とっても素敵なイタズラよ。ね? そうでしょう?」
産砂に向かってそう言ったのは、彼女と全く同じ顔、同じ声、同じ姿の、もう一人の産砂恵――だった。
目の前に現れた自分と同じ姿をした存在に、一番驚いているのは産砂自身のようで。微笑みは消え、呆然と見上げて。
「な、に……? あなた、は……」
「私はあなた、あなたは私。私はあなたが生み出した、あなたの闇!」
理解できない産砂と、どろりとした黒いモノでつながったもう一人は、両腕を広げ誇らしげに宣言した。
二人の足下を――腰から下に絡みつくようにして蠢き続けている真っ黒なモノの中に、いくつかの木片があるのが見えた。その、ひとつは――今、まさに、産砂のスーツのポケットからするりと出てきた、ヒトガタだった。
――これは、一体何を意味しているのか。
そもそも、何が起こっているのか。理解できていないのは麻衣たちとて同じこと。
「私の闇、ですって?」
「そうよ。あなたは私、私はあなた。だから、あなたのことは誰よりもよくわかるわ。あなたは物の道理を理解せず自分の欲望だけを見て、オモチャが欲しいと駄々をこねて周囲の人間を困らせるだけの子どもにすぎない」
「なんですって?」
「イタズラをするのは子どもの特権。だから、あえてイタズラと言ったんでしょう?」
見守るしかない麻衣たちの前で、また不可解なことが起きた。
自らを闇と称したもう一人の産砂の姿がどろりと溶けるように崩れたかと思った次の瞬間には、ツインテールの小学生くらいの少女の姿になっていたのだ。
椅子に座った産砂を見上げる少女の顔は、無邪気な子どもそのもので。
「子どもは、自分のしたことの責任は負わないもので、負わないことを許されている存在だから。あなたは自分のしたことの責任を負う気がないから。だから、イタズラと言ったのよね?」
「失礼な。私はもうとっくに大人だわ」
「あら、どこが?」
「あなたこそ、私のどこが子どもだというの?」
「人の価値観は十人十色。読書好きな人がいれば、本を読むのが嫌いな人もいる。同じ読書好きでも、推理物が好きな人がいれば、歴史小説だけが好きな人もいる。それは個人の自由で、他人が強要することはできない領域であるという道理を、まず理解していないでしょう?」
「そのくらいのこと、理解しているわ」
「あら、理解していないから呪詛を行なったのでしょう? 超能力を否定する人たちに、科学では割り切れない存在を強制的に認めさせるために」
無邪気に笑う子どものほうが、正論を口にする。外見とは裏腹に、子どもに諭すようにわかりやすい例えを用いて語られた内容は、麻衣ですら納得できるものだ。
けれど、人の道を踏み外した産砂には理解できない様子。――否、受け入れられない、だろうか。微笑みに代わって不愉快そうな表情が浮かんでいる。
「それは好みの問題じゃなくて、世界の摂理の問題だわ」
「その摂理を、道理を、理解しようとしないのが子どもだって言ってるじゃない。自分の欲望を満たすことしか考えず、その結果がどうなるかなんて考えもしていないでしょう?」
「超能力の存在が認められれば、ペテン師だなんて迫害を受けることはなくなるでしょう!」
「科学では割り切れないモノ、超能力、霊能力、呪詛が、科学と同等に認められる世の中になったとしたら、あなたは暴行、障害、詐欺、そして殺人未遂の犯罪者として世に認識されるわよ」
「な――っ」
「そうでしょう? 法律もまた、それらに適用されることになるんだから。人を害する呪詛は、テロ行為や麻薬と同等に、犯罪の項目に列挙されるのは当然よね」
「証明されなければ罪になんてならないでしょう!?」
「証明って、科学的に? あらいやだ、さすがお子様。科学以外の存在を認めさせたいって科学を否定した口で科学にすがるなんて」
「――っ」
「ああ、本当の目的は、そんな大それたものではないものね? ただ自分が味わった苦痛をすべての人に味わわせたかっただけだもの、大義名分なんて何でもよかったのよね?」
「大義名分なんかじゃないわ!」
「だって、今まで超能力に否定的だった人が相談に来て、気分が良かったでしょう? 今もノイローゼで苦しんでいると知って、いい気味だと思うでしょう? 仲間外れだと淋しがっていた子どもの悩みを解決してあげたことを誇りにすら思っているでしょう? 自分がしたことを、かつてのゲラリーニ仲間に褒めてもらいたいと思うでしょう?」
産砂自身だと言った子どもの言葉は、まさに真実を言い当てているのだろう。認めたくないのか口を噤む産砂は、子どもを見ようとさえしなくなった。
だが、子どもは自らを闇と称しただけあって、意地の悪い言葉を紡ぐことをやめようとはしない。
「何より守ってあげた笠井千秋に認められたいでしょう? ――でも、無理よね。自分を守るために彼女を売ったのは、あなた自身だもの」
「っ」
「ああ、それとも『すべての人間』に苦痛を味わわせるのが目的だから、彼女も含まれていたのかしら? そうよね、本当は妬ましかったものね? 同じトリックを使ったのに、自分はペテン師の烙印を押されて、彼女は超心理学者に本物だと認められたんだものね? 自分以上に苦しめたくって仕方なかったのよね?」
「違うわ! 私は、本当に彼女を守りたかった!!」
「でも裏切ったのはあなた自身よ。ほかの誰でもない、かつて自分が味わった絶望を彼女に与えたのは、あなただわ」
一度は否定してみせた産砂も、とうとう反論の言葉を失った。
大人と子ども、二人の産砂のやりとりに、麻衣は違和感を覚えていた。
子どもは産砂自身だと言っていたのに、何故彼女を追い詰めるようなことばかり口にするのだろう、と。心の闇だとしても、自分だけは味方となるものではないのだろうか――と。
その考えが何を意味していたのかを、麻衣は突きつけられた。
「別にそれはいけないことじゃないのよ。だって、みんなやっていることだもの。誰もが自分が一番正しいと信じているから、超能力を否定して学校全体で笠井千秋を吊し上げ、あなたを非難した。誰もが自分の欲望を一番に優先するから、スクープという栄誉を手にするためにあの記者はあなたを罠にはめた。誰もが自分が一番か可愛いから平気で他人を踏みにじる。人間って、そういう生き物だもの。だから、迫害という行為はどんな社会になろうとなくなることはない。だったら、あなたも同じようにすればいいのよ。いくらでも、呪えばいいの。世界中の人間を呪えばいいの。あなた一人になるまで、世界を壊し尽くせばいいだけのことよ」
無邪気な笑顔のまま、信じられないようなことを囁く子どもは、産砂の手を取ってそこにヒトガタを乗せたではないか。
それを見て、麻衣はやっと思い違いを悟った。
――そうだ、人の道を踏み外した産砂の味方になるということは、彼女を完全な外道に堕とすということではないか。そんなことにも気づけないなんて、なんて己は浅はかなんだろう……
産砂は、呆然とした様子で、子どもと、手の中のヒトガタとを見比べている。
このままでは、産砂の心は完全に壊れ後戻りできないところまで堕ちてしまう……そう思うのに、麻衣にはどうすることもできなかった。正論をもって追い詰めるようなことを子どもが言い続けたのが、彼女を完全に壊すためだったとするなら、どんな言葉ももはや逆効果にしかならない気がしたからだ。
見ていることしかできない悔しさに唇を噛んだとき――産砂が、笑った。
「そうね……みんな、同じですものね……」
子どもの言い分を、初めて認めた産砂。
絶望的な思いで目を瞠った麻衣とは逆に、産砂は静かに瞑目して。
「私がしたことは、すべて無駄だったということなのね……」
呟かれた声には、諦観が色濃くにじんで――薄く開いた目でヒトガタを眺める彼女の顔には、初めて後悔の色が浮かんでいた。
すんでのところで踏みとどまった産砂に、麻衣はただぽかんとする。
おもむろに産砂は、ヒトガタを手放した。重力に従い落下し、あの黒い粘液のようなモノの中に戻るかに思われた小さな木片は――しかし、光に包まれ灰も残さずに焼き消えた。
ヒトガタだけではない。さらに強くなる光によって黒いモノも焼き払われるかのように産砂の体から離れ、小さくなり、子どもも形を失って――目を開けていられないほどのまぶしさに反射的に手で、腕で、顔を覆う。
どれほどの時が経ったのか。気がつけば、何も不思議なところなどないただの病室に戻っていた。
「産砂先生、ゆっくりご休息なさってください。呪詛は、体力と気力を消耗するものですから」
「ゆっくり休んでから、もう一度、ご自分にとって何が一番大切なことなのか、考えてみてください」
何事もなかったかのようにナルが、そしてジーンが声をかけた。
顔を上げた産砂は、能面のような笑顔ではなく、心からの笑みを浮かべて。
「ええ、そうさせていただきます。ご迷惑をおかけしました」
頭を下げたあと、椅子から立ち上がった彼女は隣へと目を向ける。
「高橋さん、だったわね」
「あ、はい」
「笠井さんのこと、お願いね。笠井さん、私の駄々に巻き込んでしまってごめんなさい。谷山さんも、怖い思いをさせてしまってごめんなさいね」
二人の生徒と、そして麻衣にも声をかけて。産砂は、病室を出て行った。
本当にすまなさそうな顔をしていた産砂……二人の産砂などという現実離れした光景は夢だったように思うし、むしろどこか心が壊れた微笑みをしていたこと自体が幻だったような気さえさせるほどに、普通に見えた。
一体、何だったのだろう……
「!」
わけがわからず呆然としているしかなかった病室に、鋭い叫びが出たことで緊張が走った。
声の主であるジーンをみれば、焦った様子でベッドに手を突き窓際の床近くを覗き込んでいる様子。ベッド上のナルも、そちらへ上体を向けて険しい表情を浮かべている。
ジーンと、そして真砂子の陰になって見えないが、どうもがしゃがみ込んでしまっているようだ。
今度は一体何事だ、と。駆け寄った麻衣に見えたのは、抱えた膝に顔を埋めるを、包み込むように抱きしめる真砂子の姿。そして――
「よく、耐えられましたわ。もう大丈夫です。ほら、ね? 何も無駄なことなどございませんでしたわ。あの方も闇に呑まれることなく人の道に帰られましたし、彼女を信頼してきた笠井さんの思いも無意味ではなかったことがわかりましたもの。そうでございましょう?」
麻衣にはわからない内容の、を労っているような……むしろ慰め励ましているような真砂子の言葉。
ジーンがしゃがみ込んだことで見えるようになったは、何の反応も示していない気がする。けれど。
「、大丈夫? ちゃんと息吐いてる?」
心配そうに呼びかけたジーンの言葉で、少し変化があったように見えた。
体に力を入れすぎて起きる震えが、ほんの少し緩んだ気がするのだ。そして、かすかに深呼吸を繰り返しているような音も聞こえて。
まさか、過呼吸を起こしかけていた?
「ナルちゃんや。体調のすぐれない人間を酷使するってのは、あんま感心しねーぞ」
「本人の意志ですが」
「それでもだ。ドクターストップってもんがあるだろーが。おまえも含めて、無理も無茶もほどほどにしとけ」
「では、校長への報告はお任せしましょう。あの人には念のためカウンセラーの力が必要だと」
「はいよ」
「で、そっちは医者が必要な状態なのかしら?」
「……いいえ、今は必要ありませんわ」
「主治医のいるかかりつけの病院がちゃんとあるってことで間違いはないわね?」
「……ええ、そうですわ」
「じゃあ、タクシー呼んでくるから、調査も終わったんだし、ゆっくりきっちり休みなさい。麻衣もよ。アンタ、相当ひどい顔してるわよ」
――わけが、わからない……
何が起きていたのかもわからなければ、滝川や松崎までもが平然と次の行動に移れた理由も理解できなかった。
同じものを、見ていたのではないのだろうか。それが何なのかわかっていないのは同じではないのだろうか。
理解できない事態に加え、いろんな感情が一度に湧いてきて――容量オーバーにより思考停止していたと麻衣が自覚したのは、二・三日経ってからだった。
「ジーン! の連絡先教えて!!」
「……どうしたの、急に」
湯浅高校での調査が終了して、数日が過ぎたある日のこと。『渋谷サイキック・リサーチ』の事務所に出勤するなり、麻衣は開口一番に切り出した。
のんきにティーブレイク中だったらしいジーンは、目をぱちくりさせたあと小首を傾げた。普段だったら、小さな仕草ひとつでも絵になっていると見惚れるところだが、今の麻衣にとっては苛立ちをかきたてるだけ。
最近、入り浸るようになった滝川や松崎、ジョンもいたらしく、ぽかんとした様子でこちらを見て――滝川が疑問を紡ぐ。
「同じ学校に通ってるんだし、いつでも会えるんじゃねーの?」
「クラス違うし、教室離れてるもん! お昼一緒して話したいと思って突撃しても既にいないし、のクラスメイトもがどこで食べてるか知らないって言うし、全然つかまらないんだもん!」
同じアパートに住んでいることを活かして訪問してみても、やはり結果は同じ。朝は麻衣より先に登校しているのか無反応だし、夜は夜でアルバイトを終えて帰ってきても、まだ帰宅してる様子がないどころか、外泊している気配さえある始末。
改めて、のことを何も知らないのだと突きつけられて。会おうとしていなかった以前はよく会っていた気がするのに、会おうと思った途端に全然会えなくなったこの現実が、まるで避けられているように感じてしまって。
笠井が言ったように、邪推にすぎないと。会って確かめたいのに、己一人でできることはすべて空振りに終わってしまったから。
「連絡先知ってるジーンに聞くしか、もう方法ないじゃん!!」
「うるさいぞ。何の騒ぎだ」
不安でいっぱいの心は、思いどおりにいかない現実と相俟って、苛立ちへと変わって。無意識に荒らげた声を聞きつけて、所長室からナルが顔を出した。
今のこの苛立っているときに、この男と話はしたくない――と。ギッと睨みつけて。
「と話したいことがあるから連絡先聞いてるだけ!!」
「個人情報を本人の許可なく教えられるわけがないだろう。知りたいなら直接本人に聞け」
「本人がつかまらないから聞いてるんでしょ!!」
「……何の用があるっていうんだ」
「話をしたいの! 聞きたいことがあるの! でも全然つかまらないの!!」
「バカが……何のために彼女が臨時調査員だと思っている」
「いきなり何なのさ!!」
「おまえと違って彼女は忙しいんだ。くだらないことで取れる時間的余裕がないからこそ、つかまらないんだろう」
そんなことも考えられないのかとでも言いたげな、明らかに人を小馬鹿にした態度。それが標準装備だと知ってはいても、今の麻衣にそれを受け流せるだけの余裕はない。
「知らないよそんなこと! 何も知らないもん! だから聞きたいんじゃない! 普段何をしててそんなに忙しいのかとか、そういうことを聞きたいだけなのに、なんでそれがいけないの!?」
増長された苛立つ思いのままに、麻衣は望みをぶちまけた。
睡眠不足解消に伴い感情も落ち着いたことで、思考停止していた事実を確認するとともに回想することができた。けれど、いくら思い出してもわからない事実は変わらず、考えれば考えるほど悪い方向に向かってしまう。
親友を公言しただけあって、の事情に精通している様子だった真砂子。特別なことは何も言わなかったけれど、すべてを了承しているように見えた双子。の事情は知らないはずなのに、何かを察した様子であえて言及しなかった風体だった霊能者たち。
皆、同じような時期に出会い、似たような関わり合いしかしてないはずなのに……己だけが何も知らず悟れず聞かされもしないなんて。子どもじみているといわれようが、どうしたって置いてきぼりを食ったような疎外感は拭えなくて。
だから、知りたいと思うのは当然のこと。笠井がアドバイスしてくれたように直接聞こうとしてるだけだ。――なのに。
麻衣の心の底からの願望を聞いたほとんどの者たちが、まるでそれが悪いことだとでも言いたげに揃って深々と溜息を落としたではないか。
その反応が疎外感をさらに増し、不安が苛立ちへと変わっていく。
それらが爆発しそうになった――刹那。
ドアベルが来客を告げ、麻衣を含む全員の視線がそちらへ向いた。
いたのは客ではなく――真砂子。
「こんにちは。……あら、みなさん、お揃いで」
「真砂子ちゃんじゃない。どったの?」
「ナルに、さんから届け物を預かって参りましたの」
「から!? に会ったの!?」
「当然でございましょ。会わずにどうやって預かり物ができると仰るの?」
「なんで!?」
一番会いたくなかった人物が、一番会いたい人物に会ったうえに頼まれ事までしているという事実。もはや、本人に避けられているとしか思えなくて、不安、疎外感、悲しみ、淋しさ、悔しさ――様々な感情がすべて怒りとなって爆発する。
来たばかりでわけのわからない真砂子は、滝川らへと説明を求める。
「……一体何なんですの?」
「とゆっくり話がしたいんですってよ」
「なのにつかまらないってんで、ジン坊に連絡先教えてくれってせがんでたとこだったんだ」
松崎と滝川から事の成り行きを聞いた真砂子もまた、呆れきった様子で嘆息した。そして麻衣を無視し、目的を果たすべく持ってきた茶封筒をナルに手渡した。
ナルはその場で封を切り、中身に目を通す。横手からはジーンも覗き込んで確認していて。
「それ何?」
「おまえが見ていいものじゃない」
「なんでよ!? ジーンはよくてなんであたしはダメなの!?」
「僕たちは彼女の雇用主であって、負うべき責任がある」
「責任ってなにさ!?」
「……お子様ですのね、あなた」
邪険な対応に不満を爆発させていると、静かな嫌味が向けられた。誰かなどすぐにわかる口調――真砂子だ。
ただでさえ会いたくなかった相手の嫌味に、神経逆撫でされないわけがなく。ギッと睨みつける。
「何なのさ、いきなり!」
「先日、あの産砂恵の闇だという子どもが言っていたではありませんの。自分の欲望しか見ない、周囲の迷惑を顧みない、後先を考えない――これらは子どもである証だと」
「っ」
鋭い指摘に、麻衣は言葉を失くした。
すぐに思い出せるほど新しい記憶……正論を並べた子ども……あの子どもが言ったことは、そのまま今の麻衣にも当てはまる。
そうだ。己は邪険に感じてしまったけれど、ナルの言ったこともまた正論だ。
頭では、そう理解した。けれど、心はそれを不当だと感じるほど、未だ不満や怒りに満ちていて。
己が間違っているというのなら、それを納得させてみせろ――と。
そんな思いで睨みつけていると、伝わったわけではあるまいに真砂子は溜息をひとつ落としたあとに、ひとつの情報をくれた。
「……さんでしたら、ほとんどの日をリハビリセンターで過ごされていますわよ」
「リハビリセンター!? どこか悪いの!?」
「どこか悪いから、主治医がいてかかりつけの病院もあるんでしょうよ」
「綾子、知ってたの!?」
「ただの推測よ。肉が食べられないってだけであの細さは異常なの。つまり、摂食障害か内臓疾患の疑いがあるってことよ。ま、それじゃあリハビリセンターに通う理由にはならないけど?」
病院での松崎の対応の理由とともに、やはり彼女も何も知らないのだということが真砂子に向けられた視線と言葉で判明して。
同時に、甦る、さまざまな感情。同じものを、夏にも、あの病院でも、感じでいたことを。
思い、出した。心配する気持ちは同じはずなのに、己は何もできなかったという事実に対する悔しさと不甲斐なさ。親友を希望しているのはジーンだって同じなのに、己だけが余裕がなくて子どもっぽい。
そんな己を認めたくないと思ったこと……そんな部分があるからこそ、に避けられてしまったのではないかという不安を。
そして――
「……さんがリハビリセンターに通われていらっしゃる目的は、センターを訪れる方々と交流を持つためですわ」
「――へ?」
「会話によって精神的なケアをし、さりげなくヒーリングを施すことにより痛みを和らげほんの少しだけ治りを早めてさしあげているのだと、そうお聞きしましたわ」
「さりげなくってことは、言い換えるなら気づかれない程度ってことだよな? つまり、ボランティアか?」
「当然でございましょ。さんのあの能力が公になれば、どこぞかの宗教団体にさらわれて聖女だなんだと祭り上げられて、お金儲けの道具として利用されてしまうのは目に見えていますもの」
「アンタねー……」
「えげつないことさらっと言うねぇ、真砂子ちゃん」
「大袈裟になど言ってはおりませんわ。それが紛れもないこの国の実状なのですから」
「……まあ、否定する気はねえけどさ……」
語られた意外な事実と――考えもつかなかった、特殊な能力を持つことのデメリットが。己の無知を突きつけた。
どこまでも静かな真砂子の声が、呆れを表しながらも決して笑い飛ばしたり否定したりしない滝川や松崎の姿が、嘘偽りではないと如実に語る。
特殊な能力を持って生きるということは、嘘をついてまでそうなろうとしていた黒田が憧れたような華やかな世界などではない……むしろ、笠井や産砂が経験したような人々の批判や偏見、果ては欲望にさらされなければならないような暗く醜い世界だ――と……
「ご理解いただけたのでしたら、くれぐれも子どもじみた理由で彼女の貴重な時間や――自由を、奪うような行為はお止めくださいまし。さんが背負っておられるものは、この場にいる誰よりも重いものなのですから」
納得、せざるをえない情報、だった。
唇を噛んで俯いた麻衣に構うことなく、これ以上言うことはないとでも言わんばかりに真砂子は双子に向き直って。
「それでは、あたくしは失礼させていただきますわ」
「お茶ぐらい飲んでいってよ」
「お気持ちだけいただきますわ。これから依頼人のお宅へ向かわなければなりませんので」
「そっか……わざわざありがとう」
「いえ。では、また、次の調査の時にお会いいたしましょう」
「うん、また、よろしくね」
応対したジーンとの会話を終えて帰っていく真砂子と、同じように所長室へと戻ったナル。
残されたのは、すっかり意気消沈した麻衣と、少しばかり気まずい空気。
少しでも場を和ませようとしたのか、ジョンが口を開いた。
「さんは、えろう愛情深いお人なんどすな。森下家のお子にも、この先真っ直ぐ生きていかはるよぅ、お話しされてはりましたし」
「ん~……俺には、どっちかってーと、自分の居場所を必死に探してるように思えるけどな」
「性分ってヤツもあるんじゃないの? じゃなきゃ、そんな続かないわよ、ボランティアなんて」
滝川に松崎も便乗して感想をこぼすが、ジーンは何も言わずに席を立った。
お茶を淹れていることが音でわかったが、麻衣は動く気力もなくただ立ち尽くす。
戻ってきたジーンに促されて腰を下ろし、手渡された紅茶に口をつけた。ふわっと広がる香りと、胃にしみわたる温かさが、ほんの少し心を和らげてくれた。
それを待っていたかのように、ようやくジーンが言ったのは。
「麻衣。ぼくたちだってのすべてを知ってるわけじゃないんだよ。事実、リハビリセンターに通ってるなんて初めて知ったし」
「そう、なの?」
「うん。少なくとも、ぼくは初耳だったよ。でもね、誰だって同じだと思うよ、それは。今までの人生であったことだとか、何を考えているかとか、全部を人に話すなんてこと、誰もしないと思うよ。そうする必要だってないと思うし。たとえそれが家族間だってね」
「ま、そりゃそーだわな」
「それこそ個人のプライバシーってヤツじゃない。何から何まで大っぴらにするほうがオカシイわよ」
「ぼくだって、のこともっと知りたいと思ってるよ。でも強制はできないことでしょ? だから、から話してくれる時が来るのを待ってるんだ。時が来れば、きっと話してくれるって、ぼくは信じてるから」
諭すような、大人びた見解で。
それが余計に己の子どもっぽさを突きつけられた気がして、思わず麻衣は俯いた。――けれど。
「へ~、随分大人になったのね~、坊や?」
「頑張って背伸びしてるだけですよ。松崎さんが言ってたとおり、自分の気持ちを押しつけるだけでぐいぐい行ったら、思いっきり引かれるっていう苦ぁ~い経験しましたから」
「あら、ホントに引かれたの」
「ええ。アルバイトの話を持ちかけた時なんて、『モルモットになる気はない』なんてズバッと言われて……あれはかなりこたえたなー……」
「あーの嬢ちゃんも、大人しい割りにはきっついこと言うねー」
「自分の身の安全がかかってれば、誰だってそのくらい言うのが普通じゃない?」
「まあ、そういうわけで。あんな思いは二度としたくないから、聞きたい気持ちが湧いてくるたびに頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って、抑え込んでるんだよ、これでも」
「どんだけだよ……」
「相当いっぱい」
ぐっと握り拳まで作って力説するジーン。
それが妙に子どもっぽく見えて――己だけじゃなかったという安堵が、笑い声となってあふれた。
「あははははっ! ジーン、そんなにいっぱい我慢してたの!? 全然そんなふうには見えないよ!!」
「それは、まあ、ぼくも男だから。男の意地というか、見栄というか……ねえ、ぼーさん?」
「あーまあ、わからんくはねえな、うん」
「なにそれ~!」
「まあ、つまり、男ってのは特に努力してる姿とか、あと弱ってる姿とかへこんでる姿とか、見られたくねえし、悟らせたくもねえもんなんだよ。カッコつけたいの」
「言い切ったわね」
「事実だもんよ」
「ま、男のサガってヤツよね」
大人の会話を続ける滝川と松崎に構う余裕もないほど、麻衣は笑った。
随分久しぶりに心から――腹の底から笑った気がする、と。
大分晴れた気持ちでジーンを見た。
知らないのも、知りたいのも、己一人ではない。ならば――
「あたしも、待てるかな?」
「一緒に待とうよ」
「ホントに、話してくれる時が来る?」
「麻衣さん。聖書にこんな言葉があります。『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある』、『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』と。必要な時が来はったら、きっと知ることができますよって、ダイジョーブです」
「……うん……わかった。あたしも、待つ」
みんなと、待とう。が話してくれる時を。
やっと、もやもやした気持ちを消化できた気がして、麻衣はすっきりとした顔を上げた。――のに。
「ちなみに、さっきの封筒の中身は俺らにも秘密なんか?」
「あれは、お医者さまからの診断書」
「はい!?」
「今回みたいに通いができればいいけど、調査って大抵泊りがけになるでしょ? の場合、食事で気をつけなきゃいけないことがあるからさ。本人の申告じゃなく正式な書類を提出しろって、以前ナルが言い渡してたから」
「って、ホントに綾子が言ったみたいに何か病気なの!?」
「それは、ほら。プライヴァシーになるから、に聞いて?」
「う……っ」
折角、忘れていたのに。掘り返しやがった滝川を睨みつけることで、麻衣は復活したもやもやを何とかやり過ごそうと努めたのだった。
――トラウマを克服するだけではなく。
「ちゃん、どうしたね、ぼーっとして」
「あ……いえ。友人に言われて気づいたんですが、なりたい自分、なんて、何も考えてこなかったな、と……」
――その先の理想へ。
「今はいろんな仕事がいっぱいかるからなー。迷うだろ?」
「……そうですね……」
――わたしの、理想……
「オレらの世代にゃ贅沢な悩みだぁ。納得いくまでいっぱい悩んだらいいさぁ」
「――はい」
――それは…………何……?