【 闇の墓標 (ざっくりと) 】 1 8

 【07-GHOST】の物語は、すべてを鮮明に覚えている。『ミカエルの瞳』と情報を共有したらしい『ラファエルの瞳』の中に、記録データとして残っているからだ。
 期せずして『ラファエルの瞳』を宿してしまった己にとってそれは、『瞳』の操者としての在り方を見失わぬための大切な指針。何度も、何度も。繰り返し、見続けてきたから。


『復讐は何も生み出さない。たとえ誰かを憎んで殺しても、おまえは救われない。必ず、前を向け。光のある道を進むんだ』

 そう言ったのは、ミカゲだった。
 人の身に封じられた死神フェアローレンの魂を持つアヤナミに、魂の半分を握られ、逃亡したテイトを捕らえる駒として肉体を乗っ取られようとしていた、その直前に。

 ただ、死にたくない――と。自分のことしか考えられず、自分を守ることしかできない己には、決して見習うことすらできない綺麗な心――魂……
 ミカゲこそが光であり、自分の神だと言っていたテイトの気持ちがよくわかる。
 けれど――テイトもまた、己にとっては綺麗すぎる存在だ。


『自分に正直に生きると誓ったんだ。オレの中にある光を失いたくないから。そうすれば、何があっても受け入れられるって信じてる』

 十年前の戦争の真実と自分の記憶を求めて『ゼーレの地』を目指す旅の途中で出会った少女オウカ。生きる道に迷っていたような彼女の問いに、テイトはこう答えた。

 ミカゲを失ってもなお、光を失わないテイトに対し、己の内には、光は――ない。
 未だ闇に囚われたままの己が『自分に正直に』生きたとしたら――
 後悔するばかりで、何ひとつ受け入れられない――と。
 今の、この、現状が証明している……


消魂ランドカルテ……何もないんじゃない……それはおまえが死ぬとき、すべてを赦し、受け入れたからこそ辿り着けた場所だ。その瞬間からおまえの中に光が宿り、その光は河全体に行き届いたはずだ。お陰で近年、第三区の水禍の話は聞いていない。――おまえの「赦し」は最強だ』

 地上に降り立った悪しき死神フェアローレンの制裁部隊として天より遣わされたのが、七人の死神セブンゴースト。フェアローレンの封印を守るために地上に留まり続けなければならない彼らは、人の似姿を以って暮らし、人と繋がって家族を築いた。それが神の血族ゴッドハウス
 セブンゴーストがこの世に存在するための『器』として、死した魂が選ばれてきた。その多くは、それぞれのゴッドハウスの中から。
 テイトが出会った消魂も例に漏れず、第三区のゴッドハウス『ロイエン家』の人間だった青年だ。
 水禍を鎮めるための人柱として沈められた河の底で見た、『何もなく、果てしなく穏やかな、完璧な世界』に魅了されていた彼に、親友であった醒魂エアが言った言葉。

 赦すことも、受け入れることもできていないから……己の内には光がないまま――なのだろうか……


『他人を憎んでもなお、赦そうとする愛情から、人は成長してゆくわ』

 地獄の第九圏にいた消魂を連れ出そうとしていたその最中、彼に向けられた諭しの言葉は――天界の長の娘、良心を司る神イヴのもの。

 赦そうとさえ思えないのは、愛のない証拠……?


『一人で外に出るのは良いことだ。人は自由で、そして孤独だと知らされる。だから、心の底から命の灯火を愛しく思うことができる』
『君が人を助けるのは、深い想いがあるからなんだね』
『……心から誰かを愛したいだけだ』

 出会った当初のオウカとテイトの会話……

 命の灯火を愛しく思えないどころか恐怖しか感じないのは、孤独を強制されたからだろうか。
 己が治癒能力を使っているのは、あくまでも自分自身のためでしかない。
 誰かを愛したいなんて、そんな綺麗な心など、己の内には欠片も――



!!」

 ザザッ――と。一瞬のノイズのあと、視界が暗くなった。
 まぶしい雪の残るレンガ造りの街並みは消え、薄暗い車内の光景へと切り替わる。
 その、目に映る光景が、映像ではなく現実だと認識するまでにしばらくかかった。

「……?」

 まばたきを繰り返し、体の感覚を取り戻そうと試みているその耳に、控えめな呼び声が届く。
 ゆるりと振り向くと、車外から覗き込んでいる茶髪の同年代の少女がいた。
 どこか不安そうな表情をしている彼女は――己の知る人物だ。

「……麻衣、ちゃん……」
「大丈夫? 酔った? 着いたんだけど、反応なかったよ?」
「あ……ええ……大丈夫……ごめんなさい」

 記憶を探り、少女の名を導き出すと、少女――麻衣は一瞬ほっとした様子を見せ、矢継ぎ早に問いかけてきた。未だ反応の鈍い頭で無難な答えを返し、ゆっくりと車から降りる。
 そこは、無機質なコンクリートの大きな建物が目の前にある駐車場の一角だった。周囲にある常緑樹の緑色が、灰色のコンクリートの無機質さを際立たせている。
 駐車場でこちらを見ていたのは麻衣のほかに、そっくりな顔をした双子の少年――ナルとジーン、そして運転手だった滝川と……見覚えのない男性が一人、不機嫌さを隠す気などさらさらない様子で立っていた。
 目が合った途端に、男性は聞こえよがしに大きな舌打ちをして、無言のまま踵を返した。さっさとついてこいといわんばかりの態度に、けれど特別何の反応も示さずナルがそのあとに続き、ほかの者もそれに倣って移動し始める。
 その、最後尾に続きながら、はやっと現状を思い出した。

 ここは、千葉県にある緑陵という名の公立高校。今回の調査先だ。
 幽霊が出るという理由で集団不登校との記事が新聞に載って以降、集団中毒、小火ぼや、さらに屋内授業中に犬に咬まれるなど事件が続いているらしく、マスメディアがこぞって取り上げている場所だった。
 所長であるナルがマスコミ嫌いということで。校長から来た依頼を一度は断わったらしい。だが、生徒の署名を持って事務所まで来て頭を下げた生徒会長・安原修の誠実さと切実な様子に、折れて引き受けたのだということだった。

 状況把握が済む頃には、体の感覚も完全に戻っていた。そうして、『ラファエルの瞳』の記録と完全に接続リンクを切って、『』として見た緑陵高校は――非常に悪印象な場所だった。
 マスコミで取り沙汰ざたされるほどの怪事件が頻発するのも納得できるだけの闇や霊が存在している――のは事実だが、そういう意味ではない。

「とにかく、早いところこの馬鹿騒ぎを何とかしてもらおうか! まったく! 何が幽霊だバカバカしい! そんなものに金を払わされる身にもなってくれ」

 意味など全くない単なる愚痴を吐き散らかすのは校長だという初老の男性だ。依頼人としての立場というものを全く弁えていない高圧的な態度なのは、一度断わられた腹いせということではないだろう。明らかに霊能者という存在への不信感が露わだ。それは世間一般的な認識だから仕方がないが、それでも礼節を示すのが社会人としてあるべき姿ではないだろうか。
 学校という組織のトップがこうであれば、校長室ここまで案内してきた男性の態度の悪さも当然ということになろう。
 そしてそれに輪をかけて最悪とさえいえるのが、今回の調査拠点ベースとなる会議室までの案内を校長から託され、あからさまに気乗りしない様子で返答した松山という初老に差しかかろうかという年齢の男性教員だった。校長同様、霊能者イコール信用ならない詐欺師のようなものという固定観念の否定派なのは仕方がないとしても、露骨に小馬鹿にした態度はもはや、他人を見下すことに愉悦すら感じている人間の典型に思える。
 どうやらその推測は的外れではなかったらしく――
 会議室の戸を開け放った松山の動きが止まった。

「お待ちしてました」
「安原! おまえ、授業は」
「三年はもう短縮授業ですから」
「受験は大丈夫なのか」
「ご心配なく」

 件の生徒会長が中で待っていたらしく、落ち着いた声が聞こえた。足取りも荒く室内に踏み込んでサボりを咎めようとしたらしい松山の言葉を、半ば遮って事実を告げたその声は、理性的で堂々としている。しかし、威圧感は微塵も与えず、やわらかく耳に心地好いその喋り方には彼の器の大きさが表れている気がした。さぞ生徒会長として頼られてきたのだろう。だからこそ、卒業間近の今に至るまで、その役目にあるのだろうと窺い知れた。
 出端ではなをくじかれた松山は、あからさまに気分を害した様子。自分の思いどおりにならないことが気に入らないとありありと表すその態度が、自分の狭量さを暴露しているなどとは考えもつかないのだろう。
 どちらが上の立場かわからないような二人のやりとりを横目に、皆は中に入って上着を脱ぎ、仕事の態勢を整え始めていて。

「さて! 調査拠点ベースも確保したところで、まずはどうする?」
「そうだな……各事件に関わった生徒たちに話を聞いてみようか。麻衣、、ジーン、探してきてくれ」
「まだ右も左もわからんのにどーやってさ!?」

 滝川が口火を切るようにナルに指示を仰ぎ、ようやく調査開始かと思いきや、早々に麻衣が苛立ちも露わに問い返した。
 ごもっともな言い分に、安原がすぐさま片手を小さく上げて。

「あ、じゃあ僕が」
「そのほうが早いな。お願いします」
「手っ取り早くやってくれ。おれも忙しいんでな!」

 安原の申し出をナルがすぐに受けたのは、彼の誠実さを知る故だろう。
 それで問題は解決したかに思われたとき、松山が口をはさんできた。
 嫌々引き受けた案内役が終わったのだから早々に立ち去っていいようなものを、パイプ椅子にどかりと腰を下ろして何故か居座る態勢の松山に、視線が集中する。
 何故という疑問と邪魔だという全員の思いを代表して、ナルが口を開いた。

「先生はお帰りくださってけっこうです」
「そうはいかん。生徒を管理するのがおれの仕事だ」
「事件に関わった以上、彼らも依頼人のようなものです。依頼人のプライヴァシーは守ることにしていますので」
「子供にプライバシーがあるか!」

 ――ああ、やはりだ。この男は自分の立場というものを、完全にはき違えている。
 諦観したようなその思いにより、無意識に『瞳』と再接続する。小さなノイズが走り、ふくよかな体を派手なドレスに包み厚化粧した中年女性の姿が、立体映像ホログラフィーのように松山の背後に映し出された。

『私の新しいペットを御覧いただける? 面白い顔をしているでしょう?』

 女性が軽く持ち上げた右手には、ドレスを着るような人間が持つには不釣り合いな、太い鎖のついた革製のベルトがはめられていた。
 重たげに垂れ下がった鎖の先、女性がペットと称したのは、剃り上げた頭頂部に大きな傷痕きずあとがある大柄な男だった。下着一枚姿なので、腰に押された奴隷の烙印が痛々しいほどはっきり見える。それ以上に、獣のようによだれを垂れ流して四つんばいになった姿は、目を背けたくなるほどだ。虚ろな目に知性の光はなく、もはや自分が人間であるという認識すら失っているようだった。
 そんな男をペットと呼んで紹介する女性の顔は、性根の腐った魔女のよう。

「年がいくつだろうと、依頼人は依頼人です。お引き取りを」
『……人の尊厳を踏みにじるような行為は慎むべきと……何度も申し上げたはずですが』
「おれがいちゃ都合の悪いことでもやらかすつもりか? おれは霊能者なんかを学校に入れたやつの言い分が聞きたいんだ」
『まあ! まだ正式に帝位を継承されていない方が私に指図する権限なんてございませんわ。困ったわねぇ……あんまり仰るものですから前のペットに嫌気が差して、先日処分・ ・したばかりですのに』

 どこまでも静かなナルの声に、怒りを押し殺した少女――オウカの声が重なる。
 そして松山の、部外者の分際でこちらの仕事の邪魔をするなとでも言いたげな苛立ち露わな声と、嫌味たらしい笑いを含んだ女性の声が重なった。
 声だけではない。
 他人をおとしめ見下すことを何より喜び楽しむ女性のくらく濁った目と、松山の自分の思いどおりにならない相手への苛立ちをたぎらせる目もまた、完全に重なって見えて。

 ――そう、正論であろうがなかろうが、はじめから聞き入れる気などないのだ。自分こそが正しく、思いどおりに事を運ぶ権利が自分にはあるのだと思い込んでいる『彼ら』には……他人はすべて、自分の支配欲を満たし優越感を味わうための道具でしかないのだから。

 相手が嫌がり、悔しがり、苦しめば苦しむほど、自らの心を喜びで満たすような腐った人間が、教師という立場を悪用して人の尊厳を踏みにじる行為が日常的に横行するような学校では、怪事件に限らず何が起きても何ら不思議はない。
 渦巻いていると表現できるほど闇に満ちているのも当然だ。この闇は、教師たちの悪意だという自覚すらない歪んだ妄執と、その犠牲にされている全生徒の抑圧された憎悪が蓄積されたものなのだ。そして、闇に感化され、さらに闇を生み出していく負の連鎖スパイラルに陥っているのだから。

『ハハハ、綺麗だろう。翡翠の眼は希少価値でな。こんなに収集コレクションしているのは私ぐらだよ』
『奴隷の闘技場は楽しかったですわ! あの汚らしい奴隷が殺し合って死ぬところを見るとゾクゾクするの』
『消耗品にも、あんな存在価値があるなんて知らなかったわ』

 薬品の満ちる容器の中に浮かぶ人間の眼球を、うっとりと、実に楽しげに眺めて自慢する初老の男。
 ドレスで着飾った外見は美しい女性たちの、けれど高慢な笑顔で交わされる外道極まりない会話。
 負の連鎖の最果てともいえる腐りきった人間の見本サンプルのようなこれらは、バルスブルグ王室の人間たち。生まれによって与えられた地位にあぐらをかき、下位の者の痛みを知ろうともしないどころか人間だと認めようとさえしない傲慢の塊。
 松山もまた、同じ領域に足を踏み入れている。彼らとの違いは、自らの力で手に入れた立場だということと、その立場に社会的な絶対性がない故に、相手の心を傷つけることはできても体や命には直接手を出せないことだろう。
 ――だが、その差に一体どれほどの意味があるというのだろう……

「では、校長室にどうぞ」
「そりゃそうだ。依頼したのは校長だもんな」
「~~っ、かまわんさ! 何かあったら校長の責任だからな!」

 顔色を変えることもなく短く返されたナルの発言を理解できずに固まった松山も、笑いをかみ殺しきれていない滝川の解説じみた言葉によって、自分の発言の揚げ足を取られたうえに反論まで封じられたことにようやく気づけたようで。怒りで顔を赤く染め、無意味な捨て台詞ゼリフを吐いて荒々しく立ち去った。
 あからさまな足音が聞こえなくなった頃、麻衣が思い切り息を吸い込んで。

かー―っ! バッカじゃないのこのハゲ! 生徒の前に自分の性格管理しろっての! 生徒はテメエのペットじゃねえっつーの!! テメエのほうが負け犬の大声かましてんだろーが!!」
「『遠吠え』だ、麻衣……」

 僅かな時間だというのに溜まりに溜まってしまった鬱憤うっぷんを声の限りに吐き出したようだが、小さく滝川に訂正されて我に返ったのか、何ともいえない表情で固まってしまった。
 そんな麻衣を「面白いなあ、谷山さんて」と言いながら笑顔で見守る安原を横目に、気を取り直した滝川が双子を振り返り、言った。

「ナルちゃんの毒舌がいつ飛び出すか、楽しみにしてたんだけどなー」
「豚に説教しても意味がない」
「……ジ、ジン坊は!?」
「え?」
「見事な笑顔であらぬ方向見たままなのは、松山に腹立ててる余裕がないほど具合悪くなってるってことか!?」
「そーなのジーン!?」
「違うよ~。あの手の輩とは一切合切関わり合いになりたくないから、全力で視界からも聴覚からも排除してただけ」
「ジーン……」
「何、麻衣? それが一番の対策だよ? こっちが反応すればするほど、付け上がるだけなんだから。人間の言語を理解できない駄犬に立場ってものをわきまえさせるなんて、時間と労力の無駄以外の何物でもないよ」
「……おまえさんら、揃っていい性格してるよ……」
「Thanks」

 片や無表情で豚と言い捨て、片や笑顔で犬と呼ぶ。表現の仕方に僅かな違いがあっただけで、そっくりな顔をした双子は同じように苛立っていたらしい。
 そのあまりにもな様子に口元を引きつらせ、呆れ返って肩を落とす滝川。しかし、彼とてナルによって言い負かされ悔しがる松山の姿を見たかったと言外に言ったように、表面を取り繕っていても内心負の感情が湧き上がっているのは間違いなく。
 麻衣も含め、この学校に満ちている闇の影響を、早くも受けているのは確かだ。負の連鎖に、からめ捕られかねない事態。
 ――けれど。
 それがわかったところで、己にできることは何もない。何故なら、己の心もまた、怒りや苛立ち――憎しみに似たものさえ渦巻いているのだから。
 松山が、あの程度でおとなしく引き下がるはずがない。絶対にまた何か自分の優位性を誇示できる理由を作り上げて妨害しに来るだろう。
 そう思うだけで、ドロドロとした思いが内からあふれ出てきそうで。
 ――ああ、なんて……

「醜いなぁ……」
「っ」

 まるで己の心を読んだかのようなジーンの呟きに、は思わず彼を見た。しかしジーンはこちらを見てはおらず、笑顔の消えた、どこか苦味を表す顔をパイプ椅子へ――松山が座っていたところへ向けていただけだった。
 意図の見えない呟きは、しかし己の心の内を言われている気しかしなくて。
 は、ただ、拳を握り締めた。

「それじゃ、安原さん。授業が終わり次第、関係者をここに……」

「 キャ――――ッ!! 」

 いかに依頼人が本来なら関わり合いになりたくない人種だとしても、仕事として引き受けた以上は完璧にこなすのみ、と。気を取り直したような声音で出されたナルの指示は、室外からの悲鳴で中断された。
 誰もが戸へと目を向ける中、真っ先に滝川が廊下へと出て行き、皆がそれに続いた。
 廊下には、身を寄せ合うように座り込む二人の女子生徒の姿があり、その一人が顔を向けている先の教室からは今なお悲鳴や何かが倒れる物音が途切れることなく続いていた。

「どうした!?」
「――……い……犬が――」
「……例の犬か」

 滝川の問いに、教室内を見ていた女子生徒がやっとといったていで答えた。その顔は涙で濡れ、恐怖で引きつっている。彼女と身を寄せ合っているように見えたもう一人は、どうやら意識を失っているようで、彼女に支えられてぐったりとしていた。
 ナルと滝川は、事態を確認しようと教室内に入っていく。

「ちょっ……危ないよ!」

 滝川と入れ替わる形で女子生徒を診るため膝をついたは、麻衣の声で何気なく二人のほうへ目を向けた。二人の足の間から、教室内の荒れた様子が垣間見えた。そして、女子生徒が言っていた、黒い獣の姿も。
 半開きになった口から覗く――血まみれの牙――長く垂れ下がった舌から滴り落ちるよだれ――見開かれた血走った赤い目がこちらを向き――大きく開かれた口に並ぶ鋭い牙――飛び散る血と肉塊――食い散らかされていく人間だったモノ――耳障りな、笑い声――

 ―― ……なければ…… ――

っ!」

 はっと顔を上げると、ジーンと麻衣の心配そうな顔が近くにあった。
 異様なものは、どこにもない。もちろん、黒い獣の姿も。

「……大丈夫?」
「あ……え、ええ……」
、この子――」
、彼女を保健室へ」

 どこまでが現実だったのだろう、と。半ばぼんやりしたままジーンの問いに答えると、麻衣がぐったりとしたままの女子生徒を示してきた。状態確認ができずじまいだったことを思い出し、役目を果たさなければと思ったところでナルの指示が来て。何故か麻衣がはっとして周囲を窺う仕草を見せて、は目を瞬かせる。
 すると、安原がすっと目の前に膝をついた。

「あ、僕が背負いますよ。案内ついでですし」
「安原さん、怪談に関係した生徒を事件ごとに分けて会議室に連れてきてもらえますか」
「わかりました」

 ありがたい申し出に素直に甘え、麻衣が彼の背に意識のない女子生徒を乗せているところに、先程中断していた要請が改めてナルから向けられた。
 快諾して立ち上がった安原とともに、麻衣も「仕事バカ……」とぼそっと呟いて腰を上げる。
 何気なくそのあとに続こうとしたは、しかし一拍の間を置いて深呼吸。意を決して膝に力を入れる。問題なく立ち上がれたことに小さく安堵の息をこぼし、それでも二、三歩確認するように足を進めてから、小走りに二人を追った。

「安原さん、けっこう平然としてますね」
「してませんよ、全然。あんなにはっきりと、本物っぽく見えた犬が消えていなくなる光景なんて、初めて見ましたし。平然としてるんじゃなくて、呆然としてるだけです」
「あはは、確かに呆然としちゃいますね、あんなの見たら」
「でしょう?」

 前方から聞こえてきた会話に、は一瞬足を止め、歩調を緩めた。
 どうやら、黒い獣が教室内にいたことは間違いなく現実だったようだ。けれど、どこからか忌まわしい記憶とすり替わり、その間に獣は姿を消した、と。
 ようやく把握した状況に、嘆息がこぼれた。
 真砂子に言われて、なりたい自分――理想の姿を具体的に思い描こうとしてきたけれど、いくら思い出しても、思い描いても、そのとおりには動くことができない。心は未だ闇に囚われたまま、何も変われていないという現状を突きつけられた嘆き――だった。
 ――それでも……
 は、ゆるゆると頭を振る。
 理想について思いを巡らせている間は、心の闇が拡大することはないから。きっと無意味ではないはず。闇に抗う手段としては有効だと思うから。
 深呼吸をひとつ。は顔を上げ、前を行く二人へ目を向けた。



「保健医は生徒の味方だった人なので、保健室ここ、駆け込み寺みたいなものだったんですが、どうもここにも何か出るということで、今はいません。随分頑張ってくださってたんですけどね」

 程なくして着いた保健室で、少し前に意識を取り戻した女子生徒を、入ってすぐのベッドに下ろしながら安原が言った。
 ぐるりと室内を見回したは、ただ納得する。奥から二番目のベッドがどろりとした闇で完全に覆われてしまっているだけではなく、蛍光灯の光をかすませるほど暗さがもやのように発生して視えたからだ。
 あまり長居はしないほうがいいだろう、と。改めて女子生徒を診た。
 怪我をしているのは、左足の側面。ふくらはぎに近い位置に咬み傷があり、流血している。それだけならば何の問題もないものを、どろりとした闇が傷口にまとわりついていて。

「消毒液やガーゼは、こっちの棚です」
「いえ、必要ありません」
「え?」

 指部分のない革製の手袋で手の甲がしっかり覆われているのを確認し、床に膝をついて、右手を傷口にかざした。
 球状の光が傷口を包み込む。いつもなら然してかからず癒えるはずの傷口がなかなか塞がらない。傷口にまとわりつく闇が、まるで光に抗うようにうねって消えないからだ。
 左手も添えて、癒しと浄化を同時に加速させる。どろりとしていた闇の端が、気化するように黒いもやへと変わり始めたことで、ようやく傷口も塞がり始めて――闇が完全に消え去ると同時に、傷口も完治させることができた。
 完治とはいっても、傷痕自体は残ってしまう。己の持つ治癒能力とは、患者の自己治癒力を一時的に活性化させ、また補助するものであって、時間を巻き戻して怪我した事実をなかったことにするものではないからだ。無から有を生み出せないように、失った血液などを補完することはできない。いくら機能を活性化させても、体の中に血液を作り出す元となるものがないなら新たに作り出すことはできないのだ。
 つまりは、緊急時の応急処置でしかない。オウカが癒し系能力ザイフォンを使う理由を『医者の修行』と称したことは、間違いではないということ。
 ――だが、己にはそんな崇高な目的などは、ない……

 かざしていた手を、ぐっと握り締めたことで光が消えた。
 また思考が後ろ向きになりかけていたことに気づき、目の前の現実に意識を傾けることでそれらを脇に追いやる。
 そのままの姿勢で、しばし傷痕を注視。闇が再び発生することも、この場に漂うもやがまとわりついてくることもないのを確認して、ようやく小さく安堵の息をつく。
 けれど、別の不安がよぎって……驚きぽかんとしている安原と女子生徒を見上げ、問いかける。

「同じ怪我をした人、わかりますか?」
「あ……うん……ウチのクラスだけだから、全員わかるけど……」
「その人たちの怪我、もしかしてまだ誰も治っていないのでは?」
「そう! 小さな傷なんだから二週間も経てば完治してもおかしくないのに、未だに出血してるからって病院に通ってるって言ってた」

 思ったとおり最悪の事態を告げる内容に、は溜息をこぼして立ち上がった。そして、改めて安原に向き直り、告げる。

「安原さん。この事件の被害者の方、可能であれば全員会議室に来ていただけるように言ってくださいますか?」
「全員、ですか?」
「はい。今日でなくてもかまいません。もし無理な人がいるなら連絡先だけでもいただきたいです。この怪我は、病院では治せません。放置すればおそらく……壊死えしに至る可能性が高いと……」
「! わかりました」
! 本当にいいの?」
「え?」
のヒーリングの力が公に知れ渡ったりしたら、心ない人たちに金儲けの道具にされちゃうって、真砂子が言ってたよ」

 事の重大さを理解して重々しく頷いた安原は、女子生徒に目を向けた。協力する意思の表れか、彼女は頷き返してみせて。
 すぐにでも動きだしてくれそうな雰囲気を打ち消したのは、これまでただ事の成り行きを見守っていた麻衣。彼女が発した思いがけない言葉に、安原や女子生徒のみならず、も目を瞠った。
 すがりつくように腕を掴む麻衣の顔を、じっと見返す。心配と不安とがありありと伝わる表情に、こちらの身を案じてくれていることが手に取るようにわかると同時、先程の廊下での奇妙な反応もこのためだとわかって、嬉しさが込み上げてくる。
 しかし、答えるべき言葉が見つからず、開いた口を再び閉ざしてしまった。
 誰にも話したことはないが、麻衣が聞いたという真砂子の抱いている危惧は、未遂に終わったとはいえ実際に起こったことだった。にも拘らず、未だに治癒能力を使い続けているのは……あくまで己自身のためでしかない。
 麻衣が納得しなさそうな言葉しか持ち合わせずどう答えるべきか悩んでいたその脳裏に、ふと甦ってきたふたつの言葉。それによって浮かんだひとつの疑問を、答えの代わりに口にしてみる。

「……麻衣ちゃんなら、どうするの?」
「へ!? あたし!?」
「仮に、目の前に最悪死に至りかねない怪我をした人がいたとして、その怪我を治せるのが自分しかいない状況に置かれたとしたら……麻衣ちゃんは、見なかったことにする?」
「できないよ、そんなの!! その人の手当をして、そのあとのことは起こってから考える!!」

 即答した麻衣をまぶしい思いで見たあと、は瞑目してひとつ頷いた。
 己の選択は間違っていなかったのだという確信を得て、けれど麻衣のような純粋な愛などない己の醜さを突きつけられた気がして。
 何の言葉にもできずにただ頷くことによって答えとした。――それが己の弱さから逃げているだけだと自覚しつつ。

「あの、他言無用とも伝達しますよ」
「すみません」
「そんな、当然のことです」
「いえ、そうではなく」
「はい?」
「先程の安原さんの説明から察するに、この学校の教師の大部分は、松山と同じような考え方をする人間ばかりということですよね?」
「ああ、ええ、そうですね」
「わたしは、体の傷は癒せても、心の傷は癒せません。傷痕が残ってしまっているとはいえ、自作自演だと決めつけられたり、圧力のようなものを向けられてしまったりしたら……ただでさえ大変な状況なのに、さらに増長させる原因を作ったのだとしたら申し訳ないと……」
「のあ!? むしろあたしが考えなしでごめん!?」
「そんなこと!? 足がなくなるほうが嫌だもん!」

 控えめに申し出てくれた安原には感謝が湧くも、癖になってしまった逃げの姿勢は自然と彼に便乗する形で話題を変える言葉を紡ぎ出していて。
 容易の想像がつくくらいには現実味のある可能性らしく、二人は表情を曇らせた。
 目論見もくろみどおりにこちらの事情から離れてくれたと安堵したのも束の間、二人はすぐに顔を上げてまっすぐにこちらを向いて。

「教師の対応については、こちらが無視して流してしまえばいいと、大抵の生徒はわかっていますから心配いりません」
「うん。今度は先生もばっちり見てるから、こっちが大きく主張しない限りは大丈夫。――だから、ありがとう。それと、他の怪我した人のこと、この学校のこと、よろしくお願いします」

 揃って、深々と頭を下げられてしまった。
 これには己のみならず、麻衣ですらすぐには言葉が出てこなかったようで。どちらからともなくお互いを見て、図らずもアイコンタクトとなり。

「「 最善を尽くします 」」

 ただ、そう返すしか、できなかった。





「さっきの、様子がおかしかったよね。大丈夫かな?」

 保健室へ向かう三人の姿が、廊下の角を曲がって見えなくなってから呟いたジーンに、ナルは一瞥いちべつをくれただけで答える気は毛頭なかった。
 代わりに口を開いたのは、まあ当然というか滝川だ。

「びっくりしたんじゃねーの? いきなりあんな、いかにも凶暴そうな犬っころに遭遇してさ。俺だってビビったくらいだし。じゃなきゃ、実は犬が苦手とかな」
「あー、咬まれたことある、とか?」
「そーゆーこと」

《 発作、起こしかけてたように見えたのは、ぼくだけ? 》

 会話に加わる気もなく踵を返したナルの脳裏に、ジーンの声が響く。物心ついた時から既に馴染んでいたその感覚に、溜息が口を突いて出た。
 事情を知らない滝川がいるとはいえ、わざわざホット・ラインで改めて聞くほど気になっているのか、この愚兄は。
 無視すれば、しつこく呼びかけてくるのはわかりきっているので、仕方なく返答を送る。

《 僕にもそう見えたが、起こさずに済んだのだから克服へ向かっていると思えばいいことだろう 》
《 でも、のトラウマの元は人間のはずだよね? 》
《 ひとつとは限らないだろう。それこそ、ぼーさんが言ったようにもともと持っていた嫌悪感や恐怖心が例の事件と重なって、似たような症状を起こしたとしても不思議はない 》
《 う~ん……注意しておくに越したことはない? 》
《 ……過保護は逆効果にしかならないことは肝に銘じておけ、馬鹿が 》

「う……っ」
「どした? 何か変なモノでも視えたか?」
「あ、えーと……」

 返答を送ったら送ったで、次々と疑問が送り返されてきて。ナルは半ばうんざりしつつ、正論を以って送信を終了させた。――とはいえ、現実の電子機器とは違い、テレパシーの一種である以上、完全に遮断することなどできないのだが。
 だというのに、うっかで声に出して滝川に気づかれるあたりがやはり愚兄たる所以ゆえんといえよう。
 開け放したままの会議室の前で振り返れば、たちを見送った位置から一歩も動いていないジーンへ顔を向けて足を止める滝川の姿が、ちょうど中間あたりにある。
 そして、未だ騒ぎの治まりきっていない生徒たちの姿も。

「中で話せ、馬鹿」

 出かかった嘆息を、忠告を含ませた指示に変えて吐き出す。
 それによって、ようやくこちらをチラチラと見る生徒たちに気づいた様子で、二人は急ぎ足で戻り始めて――今度こそ盛大な溜息を吐きつつ、ナルは会議室の戸をくぐった。

「んで? 何が視えたんだ?」
「えーと……」

 最後に戻ったジーンが戸を閉めるのを待って、滝川が問いかけた。
 誤魔化すための言い訳を考える間か、それとも調査へと頭を切り替えるためか。息を整えたジーンは室内へと向き直って、口を開いた。

「とりあえず、さっきの犬なんだけど……鬼火として今もあの教室にいるよ?」
「は?」
「さっき、こう、廊下に出た途端、ふっと消えたよね? あれ、なんていうか……実体化する力をなくして鬼火に戻ったって感じに視えたんだ」
「実体化する力を溜めるごとに被害を出している、ということか?」
「そんな気がする。現時点では」
「待て待て、おい! 鬼火ってことは、この学校にゃ、前回同様呪詛を行なってる誰かがいるってことじゃねえのか!?」
「……可能性はあるだろうな」
「可能性って、明らかに生徒の誰かだろ! 学校と教師への不満と恨みの念吸って実体化してんじゃねえのか!?」
「それでは生徒にだけ被害が出ているのはおかしい。本当に生徒が呪詛を行なったのなら、被害の向く先は松山をはじめとする教師のはずだろう」
「あ……」

 調査へ戻ることを選んだらしいジーンからもたらされた情報は、前回の調査を思い起こさせる内容で、滝川が思ったままを主張した。しかし矛盾を指摘すると反論できずに頭を抱えてその場に屈み込んだ。
 矛盾は理解しているが、それでも納得いかない顔で唸る滝川を見ていると、再び脳内にジーンの声がした。

《 松山といえば、ナルはコレ、視えてた? 》

 そんな言葉とともに送られてきたのは、松山の背後に立体映像のような派手な女性の姿が映し出されている映像だ。ほかにも、薬品漬けの眼球をうっとりと眺める男性や、ドレス姿の若い女性たちの姿も、松山の周囲に現れては、消えていく、そんな光景。

《 ……いや。僕は見てない 》
《 やっぱり……でも、どう見ても調査とは別物だよね、コレ 》
《 だろうな 》
《 ってことは、やっぱり、が視てたものってことなのかなぁ…… 》

 それ以外には考えられないだろう。だが……コレを視ていたからこその先程の過保護的発言につながったのか、と。
 得心はいっても、呆れていることに変わりはなく。
 こぼれた溜息は、何故かジーンと重なった。
 ナルが嫌味を言うよりも、滝川が口を開くよりも先に、ジーンが報告を再開させ、再び思考は調査へと向く。

「呪詛かどうかはともかく、霊ならいっぱいいるよ」
「はあ!?」
「……鬼火とは別に、ということか?」
「うん。まだ昼間だっていうのに姿もはっきり視えるのがいっぱい。姿視えなくても存在感あるのもいっぱい」
「どんだけだよ!?」
「とりあえず姿が視えるのは、この学校と関わりなさそうな感じだよ? 浮遊霊って呼ばれる類? 年齢も服装もバラバラ」
「浮遊霊がそれだけの数、一ヶ所に留まること自体、異常だな。場所的にも何かあるかもしれない」
「……なんか、俺もー既にやる気なくしてんですケド……」
「帰りたければご自由に」
「帰らねーけどさー……」

 軽い口調で告げられた重い事実に、早くも滝川からは愚痴がこぼれた。
 やる気のない者に無理を強いる気はない。半端な気持ちで臨むことほど危険なことはないからだ。どの業種でもそれは同じだろうが、ゴーストハントは姿も見えない、存在すら不確かなモノを相手にする以上、どんな事態に陥るか予測不能というリスクがつきまとうので、なおのこと。
 意志を確認すれば、まあ、案の定。ただ単に溜まった不満を吐き出したかっただけのようで。

「とにかく、まずは情報を集めなければ始まらない。聞き取りを優先させよう」

 愚痴につきあう気などないナルが、次の方針を告げたとき、麻衣とが戻ってきた。