【 闇の墓標 (ざっくりと) 】 1 9

「ただいま戻りました」

 戸が開いて姿を見せたの様子に、ジーンは目をぱちくりさせた。
 怪我人の治療に行っていた彼女は、手ぶらで向かったはずだ。着いて早々の怪騒動で、情報収集すらまだの段階だったのだから、それは当然のこと。
 ところが、今その手にはノートサイズの紙の束を持っていて。それだけにとどまらず、声をかけ一礼までしたあと再び後ろを向いたかと思ったら、何やら大きなものまで引っ張り入れ始めたではないか。
 どうやらそれは、キャスターのついたホワイトボードのようで、戸にぶつからないように支え押しながら麻衣も会議室に入ってきた。その麻衣の手にも、模造紙のような筒状のものや筆箱サイズのケースがある。

「コレ、安原さんが用意してくれた筆記用具類でーす」

 訝しげな視線に気づいてか、否か。麻衣が軽い口調で告げた簡潔な説明で疑問は氷解し、ジーンも動くことを思い出してホワイトボードを引き受け、見やすい壁際に設置してみた。
 その間に二人は持ってきたほかの物を長机の上に並べて置き、確認した滝川のみならず、ナルからも感嘆の吐息がこぼれた。

「見取り図に……名簿まであるんか。気が利くってもんじゃねーな。何者よ、あの少年」
「生徒会長さんだよ」
「ほーぅ、そりゃ優秀だなー」
「使い物にならんミソっかすな雑用ですみませんねー」
「よくわかってるじゃないか」
「にゃにおー!!」

 滝川がこぼした安原への賛辞の裏にあったのは、教師陣の対応の悪さだということは、きっと誰もがわかっていたはず。しかし、劣等感でも抱いていたのか自虐的な反応を見せた麻衣に対し、ナルがそれをあっさり肯定して麻衣を怒らせるというお約束となった展開に発展。
 その、いつもどおりといえる状況が安心感を呼び、和やかな雰囲気を生み出したのは――ほんの束の間で。

「所長」

 一度も笑顔を見せることのなかったの呼びかけで、その場の空気は一瞬で調査モードへと切り替わった。

「安原さんからの言伝ことづてで、間もなく集団登校拒否の関係者が、次に慰霊祭を企画した関係者、次に教室に犬が出たという関係者、最後に集団中毒の関係者の順で、およそ三十分刻みでこちらに来るそうです」
「わかった」
「それで、あの、犬に咬まれた関係者が来ましたら、少しお時間いただいてもよろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
「先程の被害にあった方の話によりますと、最初の被害者から全員、未だに出血しているらしく、治る気配のない状態だそうです。病院に通っていてその状態とのことで……おそらく、このままでは最悪、壊死に至りかねないかと……」

 ようやく関係者の聞き取りという初期調査が始められることを告げる伝言は、安原の優秀さや細やかな気配りといったものを再認識させるに充分な段取りで。
 そこまではよかった。
 しかし、その後の報告と、それによるの予測は、この学校で起きている怪事件が半端ではないどころか、かなり深刻な状態だと証明するような内容で。
 ナルも滝川も顔をしかめた。

 霊障による心身の不調は、科学的に原因を突き止めることができないため、病院では完治させられないことが多いのは事実だ。だが、医療技術が通用しないわけではない。前回の湯浅高校の被害者のように、原因が判明しないから症状がぶり返すたびに治療するしかないだけで、それでも一時的には回復するのが通常なのだ。
 その一時的な回復すらないほど医療技術で太刀打ちできない傷となると、もはやそれはただの霊障の域を超えて、呪術的な疑いが出てくる。先程視た犬が鬼火へ変じたことを踏まえれば、なおだ。

 ――だが、疑問は残る。
 が直接診たのは、先程怪我をしたばかりの一人だけのはずだ。なのに話を聞いただけで『壊死』という結論に至った、その要因は一体何なのかという疑問だ。
 夏の調査で依頼人の足首にできた手形のアザがなかなか消せなかったことはあったが、似たような事態だったとしても全く同じではない以上、疑問は解消するはずがない。
 具体的に症例を言及できるのは、先見、すなわち予知能力をも持ち合わせているからではないのか――と。
 うがちすぎだと思いつつも否定しきれない疑いが、次から次へと湧いてきてしまうから。

「治療する時間が欲しいということか」
「はい」

 特異な能力が公になった場合に受ける不自由を、ジーンは間近で見て知っている。真砂子が危惧したようなことを、自身も自覚しているはずだ。でなければ、研究者を警戒したような条件で雇用契約を結びはしないだろう。
 なのに、何故自ら不利益を招くようなことを望むのだろう。
 病院……科学に基づく医療技術では治せないことと、彼女の持つ治癒能力でなら癒やせるということは紛れもない事実なのだろう。
 それ故に、義務感のようなものを抱いている? それとも、以前に滝川が言ったように、自分の居場所を求めているから? ――それはつまり、誰かに必要とされることでしか、自分の価値を認められないということ……?

「わかった」
「ありがとうございます」
「待って。何人いるかもわからないのに、そんなにたくさん、いっぺんに治せるものなの? 負担、かかるんじゃないの?」

 考えれば考えるほどわからなくなって、ただ彼女に対して感じる違和感がひどく不安をあおってきて。
 けれどうまく言葉にできず、結局、能力使用による負担を口実にすることでしか、ジーンは口を挟むことができなかった。
 それに対してあからさまに反応したのは、麻衣だった。今になってやっと思い出したように、はっとした表情でを見る。
 注目の的になった当の本人はといえば、きょとんとした表情で目をまたたいて。

「……大丈夫、だと思うけれど……」
「『思う』じゃダメじゃん!! 真砂子んとき入院しちゃったの忘れてるの!? 自分のことに無頓着すぎない!?」
「――え? そんなことはないけれど」
「そんなことあるよ! さっき保健室でも自分の心配よか怪我した人の心配してたじゃん!!」
「それは麻衣ちゃんも同じじゃなかった?」
「うっ」
「麻衣の負けだな」
「勝ち負けの問題なの、ぼーさん!?」
「負担のかからない人数に制限すれば済む話だろう。残りは後日に回せばいい」
「「 ナルまで!? 」」

 実に信用ならない不確定な大丈夫発言に声を荒らげた麻衣の言葉は、しかし完全に自分のことを棚に上げたものでしかなく。多分、揚げ足を取る意図などなく事実を告げただけのによって、あっさり撃沈する羽目に。
 滝川はそんな麻衣をからかうだけで味方になってくれず、そのうえ決定権を持つナルまでが側に立ったままで。
 特異な能力が公になった場合に受ける不自由を、身をもって知っているのはナル自身なのに。何故止めてくれないのか、と。
 非難めいた目を向ければ、あからさまに呆れ返った表情で盛大な溜息をつかれた。その態度だけでも頭に血が上りそうになったとき、ナルの口から出た言葉は――意外なものだった。

「麻衣、それとジーンも。過保護は押さえつけと同じだぞ」
「押さえつけって……」
「松山がやってることと同じだと言えば理解できるのか?」
「なんでそうなるのさ!? 心配してるだけでしょ、あたしたち!!」
「動機が何であれ、相手の意思を無視し、自分の考えを押しつけて思いどおりにしようとしていることに変わりはあるまい」

 松山なんかと同じ扱いは心外だという反論は、客観的事実という正論によって完全に封じられてしまった。
 ナルの言ったことは理解できているし、正しいこともわかっている。けれど、心は納得しきれなくて。
 ジーンは、すがるようにを見た。は、麻衣をじっと見つめているようで。ジーンと同じような眼差しを向けた麻衣と目が合うと、どこか困ったように見える微笑みを浮かべただけだった。
 それが何を意味するのかわからず、口を開きかけて――
 響いたノックが関係者の到着を告げ、結局何も言えぬまま調査に戻った。



 三組目の怪事件の関係者として会議室に来た、犬に咬まれた被害者は五名だった。残りは三名だが既に帰宅していたので、明日にでも各々こちらへ来るように伝える、と。に向けてそう説明したのは、先程被害に遭い治癒を受けた女子生徒のようだ。彼女が中心となってナルの質問に答えている間に少し離れた壁際で一人ずつ治癒するを、ジーンは視ていた。

 今まで幾度か見た治癒の様子の、どれとも少しずつ違う光景に、眉をひそめる。
 咬み傷というだけあって歯形に小さな丸い傷がいくつか並んでいるだけなので、の持つ規格外の治癒能力であれば一分もかからず完治させられると思えた。
 しかし、予想に反して時間がかかっている。しかも、はじめから両手で患部を包み込むようにして光を発生させているにも拘らず、何かに手間取っているかのように治りが遅い。
 そして、完治し、光を消したあとも。しばらく動かない。それは自分の回復のためなどではなく、明らかに何かを確かめるように傷のあった部分を見ているのだ。

 瞑目して、深呼吸をひとつ。己の中の感覚を研ぎ澄ませていき――ジーンは、ゆっくりと目を開いて。

 ――ああ、鬼火だ……

 視えた瞬間に言葉が頭に浮かぶという、湯浅高校の時と同じ経験。しかし、あのときとは見えているものは違った。
 青白い光ではなく、黒いもやのようなものが傷口にまとわりついて視える。それは、鬼火がくすぶっている、と表現するのが相応ふさわしい光景。
 が治癒を施す。生み出された球状の光は、黒いもやを閉じ込める檻のよう。逃げ場を失くした黒いもやが、それでも光に抗うようにうごめいて――やがて力負けしたように霧散していった。完全に黒いもやが消えてから少しの間を置き、治癒の光を消した。その後も傷痕を見つめているのは、どうやら黒いもやが再発しないかを確認している――ということらしい。

 ひとつ納得はして、けれどジーンはの観察をやめようとはしなかった。
 の右手……革製の手袋で覆われた甲の部分に、肉眼では見えなかった青く美しい輝きが視えるのだ。夏の調査でアームカバーの下に見えた気がしたそれが、見間違いではなかったことがわかったから。
 視ていると、すごく清らかで、でも恐ろしいような気持ちになってくるその輝きが何なのかは、まるでわからない。夏の調査の時に思った推測が、僅かに確信に似た何かを伴って湧き上がったことのほかは、ひょっとして松崎が言っていたを守る何かの存在を示すものなのではという、あくまでも推測を立てることしか、できない。
 ――そうだ、松崎は、を守る強い力を持った存在がいるような気がすると言っていた。もしやその存在がいることが、研究者を避けながらも能力使用を控えようとはしないという矛盾した行動の理由なのではないだろうか。具体的な症例を言及できたのも、その存在にすべての理由があるのではないだろうか。
 思いついた新たな可能性は、しかしやはり推測でしかない。
 膨れ上がる問い質したい欲求と不安に、ジーンはただ拳を握り締めて耐えた。





 最初に来た集団登校拒否の関係者から、原因となった怪事件以外にも怪談話がたくさん聞けた。半数はどこにでもある学校七不思議や枯れ尾花的な内容に思えたが、その中でひとつ、具体的というか、原因候補になりそうな話があった。
 坂内という名の一年生男子生徒が九月に自殺したのだが、彼の目撃情報がいくつもある、と。
 次の慰霊祭の企画者も、数々の怪事件の原因が自殺した男子生徒にあるのではと考えて始めたことらしい。
『ぼくは 犬では ない』
 たった一言だけ記された遺書が有名になったことで存在が認知されたほどの、地味な男子生徒。彼の人柄などはわからずとも、遺書に記された言葉の意味はわかる気がする――と。
 そう言った女子生徒から語られたのは、案の定、松山ら教師からの締めつけがかなり厳しいという、この学校の実態だった。
 だから、坂内は学校を恨んでいるのではないかと思うのだ、と。
 麻衣には、いまいちピンとこない話だった。腹立たしく思うことはあっても、恨むという感情は抱いた経験がないと思っているから。自ら命を絶ったうえ、死後も残るほどの激情というものには、今のところ縁はない。
 理解できたらしい滝川の「これが心霊現象じゃなくて集団ヒステリーでも俺は納得するね」という呟きも、麻衣にとっては小難しくて理解が追いつかなかった。

 授業中、教室に現れた犬に咬まれた被害者から新たに出た情報は、だんだん被害の程度が大きくなってきているということくらいか。
 の治癒に時間がかかったため、その時間でなるべく詳しく聞き出そうとしたが、当人たちにもそれ以上のことはわからず。ほかに思い当たることを尋ねても、一組目の人たちから聞いたことと変わらない怪談話しか出なかった。
 最後に、ナルが責任者として正式に、の能力については他言無用に願うと伝えると、心得ている、と。全員が力強く頷いてくれて、麻衣は胸をなで下ろした。

 そして、最後にやって来た集団中毒の関係者の中に、安原自身が含まれていたのは、嬉しい誤算だった。気が利くということは頭の回転も良いということで、ナルの質問の意図も正確に読み取ってくれるため、非常にわかりやすく、効率のいい聞き取りができたのだ。
 その中で気になった新情報は、新聞にも載っていた小火の件。体育館の男子更衣室で起こるその小火は、必ず十二日周期で発生していて、しかも規模が拡大しているということ。はじめは煙草タバコでも押しつけたのではという程度の棚の焦げだったのが、ロッカーが五つも焦げるほどになり、そのすべてが早朝の密室で起きているとのこと。
 そして、次の予定は二日後だ、と。

「……教室を見せてもらえますか」

 聞き終えてから、しばし無言で考え込んでいたナルが唐突に発したこの言葉で、ひとまず謎の異臭がするという教室の現場検証に向かうことになった。



「開けますよ」

 着いた教室の前。すぐには中に入ろうとせず、わざわざこちらを振り返って断わりを入れてくる安原の気配りが、却って怖い――と。
 そう思った麻衣は、安原に続いて一歩教室に足を踏み入れた途端に襲ってきた異臭に、思い切り眉を寄せて鼻をつまんだ。とても我慢できるものじゃない。確かにこんなものに襲われたら、授業中だろうと教室から出たくなるのも当然だ。
 既に麻痺してわからなくなっていると事前に告白していた安原は、その言葉どおり顔色を変えることはなく、至って平然としていて。

においますか?」
「……なんちゅーか、夏の台所に出しっぱなしで三日ほど忘れていた魚の臭いのような」
「かすかにすえた香りと水量の減ったドブ川にも似た香りが絶妙なハーモニーを奏でて」

「「 つまり、クサイです 」」

 滝川と二人、具体的に表現しようと試みたものの、結局は一言に落ち着いてしまう。そうとしか言いようがない強烈さなのだ。
 安原も「やはり、そうですか」と。これまた特別驚きもせず、ただ得心を呟く。
 ――しかし。

「へ? そんなに臭う?」

 きょとんとした呟きに、麻衣は、ばっと振り返った。
 そこには、すんすんと鼻を鳴らして首を傾げているジーンと、目をぱちくりしているが並んで立っていて。

「おまえさんら、何も感じないんか?」
「うん。覚悟してたのに、拍子抜けしちゃったくらい無臭だけど?」
「いやいやいやいや、ジーンに限っておかしくない!?」
「うーん……ぼくも不思議なんだけど……って、?」

 ジーンと話していると、不意にがすすすっと後退り始めた。気づいたジーンが振り返ったとき、彼女の体は教室の敷居を越えて廊下へ戻っていて。
 刹那。

「え!? うわっ!? 何この臭い!? なんで、ぼくだけタイムラグ!?」

 突然、大声を上げたジーンは、見る間に涙目になった。麻衣や滝川と同じように鼻をつまんだが、そんなものでは防げないらしく、涙を流しながら一気に教室を突っ切って窓へ突進していく。

「だ、大丈夫か、ジン坊」
「全然、大丈夫じゃない~」

 窓から上半身を出して遠目にもわかるほどにぜえはあと荒く呼吸するジーンに、滝川が控えめに声をかけるも、まあ案の定否定が返ってきた。
 麻衣も、おそらくは滝川も。ジーンと同じようにしたい気持ちはあるのだが、自分よりひどい状態を目の当たりにすると、我慢できてしまうから不思議だ。
 この症状の差は、彼が霊媒体質だからなのか、それとも思ったより何ともなくて気を緩めたあとの不意打ち効果か、またはその両方か。
 同情心をもってジーンを見ていた麻衣の耳は、小さな溜息を拾った。振り返るとが何とも表現できない顔を隠すように俯いて……少し右手が動き、革製の手袋に覆われている手の甲に目を落としているように見えた。
 その右手がぐっと握られ、さらに左手で右手首を掴んで、より深く俯くの姿は、いつぞやのジーンの姿を思い出させて。
 ――何故、と。

「特に臭いの強い場所はないですね」
「そうなんです。臭いの元を随分探したんですけど、教室全体が臭うんですよね」

 思い浮かんだ様々な疑問を形にしようとした、まさにそのとき。
 我関せずといったていで教室内を見て回るナルと安原の会話が聞こえたことで、麻衣の意識はそちらへと逸れてしまう。

「……ここで何か変なことをしませんでしたか?」
「変なこと……ですか?」
「――降霊術のような」
「降霊って……」
「……ヲリキリさまのことじゃない?」
「ばっか違うよ! だってあれは――」
「『ヲリキリさま』……?」

 突拍子もなくナルの口から出てきた『降霊術』という単語に加え、『ヲリキリさま』という全く聞き覚えのない女子生徒の回答という、疑問の上塗りともいえる展開になって。
 すっかり調査モードに切り替わってしまった麻衣が、と話すチャンスをひとつ逃したことに気づいたのは、ずっとあとになってからだった。





「はぁ……」

 とぼとぼと一人廊下を歩きながら、は盛大な溜息をこぼした。
 謎の異臭がするという教室で得た、二学期以降『ヲリキリさま』という名のコックリさんが学校中に流行しているという情報の実態把握のために歩き回った、その帰り道でのことだ。

 三年一組の教室で、己は何の臭いも感じ取ることはできなかった。教室全体が黒いもやのようなものでかすんでいて、視界を遮られたことに気を取られていたからではない。よくよく観察してみれば、その黒いもやは己を中心に球状に弾かれているのがわかった。ジーンの姿がかすみ始めるまで後退して、彼の急変を確認して。
 ようやく原因が『ラファエルの瞳』の守りの力だと目の当たりにしたは、何となくでついて来てしまったことを後悔した。

 依頼人を守るということには多少なりとも役に立った守りの力が、まさかジーンたちの能力を抑制してしまうなんて……
 調査を妨害しないためには、彼らから距離を取らなければ。できるだけ、別行動をしなければ――と。
 イレギュラーな己の存在が与える悪影響を突きつけられた気がして、また他人との間に壁を作ろうとしてるのは、単なる逃避だろうか。
 何が正しいことなのか、まるでわからない。――ならば、なりたい自分になれるように動けばいいのではないだろうか。
 そう、真砂子が教えてくれたように。なりたい自分、すなわち理想とする姿を――

!」

 思い浮かべようとした、そのとき。名を呼ばれ、顔を上げた。
 向かう先の廊下の角から、ジーンが駆けてくる。
 距離を置かなければと思ったばかりの相手に近づいてこられて、自然と足が後退してしまう。

「って、なんで逃げるの!? ぼく、また何かした!?」
「ち、ちが……っ、そうじゃなくって……」
「そうじゃないなら、また自分のせいで何か悪いことがとか考えちゃってるの!? 後ろ向きにばっかり考えないで、もう少し前向きに考えようよ! に頼みたいことあって声かけたんだし、話くらい聞いてくれるよね?」

 騒がしさが一変、真摯な目で、どこかすがるようにさえ見える表情で確認のように問われ、つい頷いてしまう。
 ほっとした顔を見せたジーンは、背後を振り返って。

「この人のことなんだけど」
 ―― お嬢さん。あんたならワシをここから解放してくれるかい? ――
「何を言ってるか、わかる?」
「――え?」

 ジーンの陰から出てきたのは、小柄な白髪の老人の――霊体。
 その老人の言葉と、ジーンの言葉と。
 どちらにどう反応していいのか咄嗟にはわからず、ただ疑問だけが口を突いて出た。

「どう、いう、こと……なの?」
「姿ははっきり視えるんだけど、声が聞こえないし、何も読み取ることができないんだ。おじいさんのほうからコンタクトとってきてくれたし、何となく浄化を望んでいるんじゃないのかなってことはわかるんだけど……」
 ―― 坊やの言うとおり、ワシの言葉が届いておらんようなんじゃ。おまえさんには、聞こえておるかね、ワシの声 ――
「聞こえ、ます……けれど……どうして……」
「ぼくにもわからない。こんなこと初めてだから」

 ジーンの答えに、はまた一歩後退あとずさった。
 まさか、離れていても『瞳』の力が何か影響を与えてしまっているのではないか、と。
 そう思えてならないから。
 もしくは、本来亡くなるはずの運命をねじ曲げた影響によって、彼の命を保つ代償として能力を失わせつつあるのでは――と。
 どうやっても悪い方向に考えてしまうことを止めることができないへ、ジーンは右手を差し出してきた。

「ね、。手、つないでいい?」
「な――ん、で……?」
「夏にね、ぼく、霊視に麻衣を巻き込んじゃったこと、あるんだ。それで思ったんだけど、共鳴っていうのかな? ひょっとしたら力の強いほうに引っ張られる形で、今まで以上のものが視えたりするんじゃないかって。今なら、この人の声がぼくにも聞こえるようになるんじゃないかって思いついたから、試してみたいんだけど……だめかな?」

 己では決して思いつかない、プラス思考の提案。
 ――能力を抑制してしまうのではなく、引き上げることもできる? 本当にそんなことが可能なのだろうか……

『テイト!! 私のザイフォンを受け取ってくれ!!』

 不意に脳裏に再生されたのは、クラート家でのオウカとテイトの脱出劇の一幕。
 ザイフォンとは、生命エネルギーを指すと同時に、それをさまざまな形に変換できる能力のことでもある。大きく分けて、攻撃・癒し・操作という三タイプがあり、癒し系ザイフォンは唯一、他者に分け与えることができる力だ。
 ――だが、この世界とあの地とは、全くの別次元。同じ概念があり、同じことわりが支配し、同じ法則が働いているとは限らない。たとえ『ラファエルの瞳』を宿す己であっても。
 己の持つ治癒能力は、ラファエルと出会う前から身に宿していたものであり、恐らくはPK-LTと分類される超能力が『瞳』を宿したことで強化されたにすぎないのだ。
 だから、治癒能力を使うのでもなく『瞳』を発動するのでもない、力の譲渡のような方法はわからない。
 なのに、本当にただ手をつなぐだけで、相手の力を引き上げることなどできるのだろうか。
 ――もし、もっと悪いことに……本当に彼の持つすべての能力を失わせることになってしまったら……
 逡巡は、けれど長くは続かず。

「やっぱり、こういうのも実験扱いになっちゃう? 情報は少しでも多いほうが解決も早まるから試したかっただけなんだけど……が報告してくれるんなら、それでもいいし」
「っ」
「……霊視能力についても、やっぱりまだ知られたくない? みんなも秘密は守ってくれると思うけど」

 己で報告するか、それとも実験につきあうか。
 二択を迫られておずおずと左手を差し出してしまうあたり、己はやはり身勝手で醜い人間のままだ。結局、自分のことしか考えていないのだから。

「ありがとう、ごめんね?」

 の思いなど知らぬはずのジーンは、しかし申し訳なさそうに微笑んでこう言い、そっと手を握った。
 は、何の変化も、違和感も感じない。
 ジーンのほうは……何かを感じ取ろうとしているのか、俯き加減で目を閉じて、しばし。静かに双眸を開いた彼は、老人の霊を見て、言った。

「えっと、もう一度、お話してもらえますか?」
 ―― いいとも。ワシをここから解放してくれんかね、と言ったんじゃよ ――

 ジーンの求めに、好々爺こうこうやという言葉がぴったりなやわらかな物腰で老人が答えた。すると、ジーンはぱっと咲かせた笑顔で振り返って。

「聞こえたよ! やっぱり効果あった!」

 子どものようにはしゃいで告げたのも一瞬のこと。すぐに真顔に戻って老人に向き合う姿は、本当にゴーストハントという仕事に真剣に取り組んでいるのだと思わせるもので。
 ――彼の能力を失わせる結果にならなくて本当によかった、と。
 は胸をなでおろし、ただ見守る姿勢を執った。

「浄化を望んでいるってことですよね? なのに自力では逝けないんですか?」
 ―― 逝けないねぇ……どうも、ここはそういう場所のようで、来る者は多いが出て行けた者はおらんのじゃよ ――
「どうしてですか?」
 ―― ワシにはわからんよ。じゃが、最近はその来る者らがタチの悪そうなモノばかりでの。このままではワシ自身も逝くべき場所へ永遠に逝けなくなりそうな気がしてのぅ ――
「最近って、ひょっとしてここ半年ほどってことですか?」
 ―― 死者のワシには時間の流れ方は、もうよくわからんよ。ただ、以前はワシのようにただ迷い込むだけの者がぽつぽつとしかおらんかったんじゃが、今は毎日のように新しいモノが来ておるように思う。まるで磁石に引き寄せられでもしておるかのようじゃ ――
「……やっぱり、原因は『ヲリキリさま』……? でも、誰も彼もが呼べるわけじゃないはず……何か別の要因が……」
 ―― さて。それで、ワシをここから解放してくれるのかね? ――
「あ……」

 得られた情報から推測を組み立て始めたように独り言を呟くジーンの姿は、ナルとよく似ていた。ナルは、まとまっていない考えを声にすることはないけれど。
 視えているはずなのに見ていないようなジーンの様子に、老人は首を傾げてから再度本題を問いかけた。
 ついうっかり思考の海に沈みかけていたことに気づかされたようにハッと顔を上げたジーンは、照れ笑いでその場を繕って。

「えっと、おじいさんの未練って何だったんですか?」
 ―― 何だったかのぅ……? もう忘れてしもうたよ。何故、逝き損ねてしもうたのか ――
「浄化を望んでいるのに逝けないというのは、おじいさん自身の未練のせいじゃなくて、この場所のせいってことですか?」
 ―― ワシには断言できんがのぅ、そんな気がするよ ――

 霊の記憶や思い、死んだときのことなどといった情報を読み取ることはできないままなのか、先程と似たようなことを聞くジーン。
 遠くを見つめつつ答える老人の言葉に、は目を細めた。
 彼の体には、鎖はない。本当に未練と呼べるものはないのだろう。使い魔コール闇徒ヴァルスが叶えた人の願いなどによる他者からの強制であっても、魂を束縛ものであるならば鎖として視えるはずだが……
 霊や魂といった領域の知識も能力も【07-GHOST】に由来するでは、鎖がない老人の霊が留まり続ける理由など見当もつかなかった。

「光が見えたりしたこともないんですか?」
 ―― 光なら、やっと見えたからこそ、声をかけたんじゃが ――
「え……ぼく、ですか?」
 ―― 坊やもじゃが、それよりも、お嬢さんのほうが、ずっと強い光を感じるよ。お嬢さんならワシをここから解放できるのじゃあないかね? ――
「わ……たし……?」

 思いがけない言葉に、目を瞠る。
 もう薄くしか開けられないのだろうまぶたの隙間から覗く光のない瞳が、まっすぐこちらを向いていて――
 ――そんな目で、見ないでほしい……
 闇の中でもがき続けるしかできず光なんてものを持ち合わせていないことは誰よりもよく自覚しているには、すがるようなその視線はむしろ責められているように感じられて、体が震える。
 無自覚のまま後退っていた足は、しかしすぐにつながれたままのジーンの手によって動きを止められて。

……浄化、できる?」

 ジーンにまで同じ眼差しを向けられ、胸が痛んだ。
 しかし、握られた手に力が加わり、ハッとする。
 振りほどけないことはない程度の力加減は、拘束を目的とはしていない証拠。そして、かすかな震えが彼の心を表しているようで……先程聞いた言葉が脳裏に甦る。
 怖さといった否定的な思いは、ジーンも持っているのだ。それでも前向きに考えようとしている……自分の言った言葉を、おそらくは無意識に――自然と体現しているということがわかって。
 は、きゅっと唇を引き結び、拳を握り締めて体の震えを抑え込もうと試みた。さらに、目を閉ざして深呼吸を繰り返し、後ろ向き思考をも意識の外へと追いやっていく。
 ――己の心には、光はない。けれど老人の霊には光が見えるという。ならばその光というのは『ラファエルの瞳』の存在によるものなのではないだろうか。
 そっと目を開き、老人を視る。やはり鎖は視えない。彼がこの場所に留まり続ける原因も不明なままで浄化が可能なのか、はっきり言ってわからない。
 それでも、試す価値はある。少なくとも、それで彼らは納得するだろうから。

「……やって、みます……」

 下がってしまっていた足を一歩踏み出し、自由な右手を老人の胸元へかざす。そして、祈るように心の中で浄化を願うと、すぐにラファエルから快い承諾が帰ってきて。
 ふわり、と。浄化の光が老人の体を包み込んでいく。強くなっていく光に溶け出すかのように輪郭がぼやけ、そして端からいくつもの翼の形となり何羽もの鳩が一斉に飛び立つかのごとく、音もなく老人の姿が消えていき――

 ―― ありがとうよ、お嬢さん…… ――

 安堵に満ちたやわらかな笑顔と言葉を最後に、すべては光の鳥と化して羽ばたき昇って……ただとジーンの二人だけが、廊下には残されていた。
 何の異変も起こらないことを確認し、かざしていた右手を静かに下した。

「すごい、キレイだね……」

 無事に老人の霊の願いが叶えられて肩の力を抜いたとき、ぽつりとジーンから言葉がこぼれた。
 隣に目を向けると、見送ったまま天井のほうを見ていたジーンがゆっくりとこちらへ顔を向けてきて。

「ありがとう。ぼくには浄化する力はないから、あの人を助けてあげることはできなかった。ごめんね、無理に変なこと試させて」

 申し訳なさそうに言われた言葉に、力なく頭を振る。
 お礼を言われることでも、謝られることでもない。己には、麻衣やオウカのような純粋な心はないからだ。いつでも打算が働く自己中心でしかない。他人と己を天秤にかければ、結局自分を取るしかできないのだから。

「とりあえず、ベースに戻ろう?」

 俯いてしまったに何を思ったのか、ジーンはそう言ってつないだままの手を引いて歩きだした。
 顔を上げることができず、ぼんやりと床を見て歩くしかないため、ひどく長く感じていたとき、ぽつりと言葉が降ってきた。

「ん~……なんだか、すごく暗く感じるね? にも、そんなふうに視えてるの?」
「……ええ……黒く、かすんでいるように視えるわ……」
「ホントに共鳴でおんなじものが視えるようになってるのかな? でも、前にが言っていた霊の体から生えてる鎖っぽいのは視えなかったから、やっぱりただぼくの能力が引き上げられただけなのかな?」

 『同じものが視える』――その言葉に、ギクリとした。
 恐怖心が生み出す幻覚と霊視との区別がつかない己の見るすべてのものが見えてしまったとしたら、本当に妨害以外の何物でもない。

「はな、して……っ」
「え? ベースまではいいでしょ? もうすぐそこだもん」

 これ以上、自分が悪影響の原因だと突きつけられたくはないのに。
 手を、離してくれない。それどころか、力を増して引かれて……引かれるままに歩く自分の体を止めることすらできなくて。
 ――どうしよう……どうすればいい? 手を振りほどくのが正しい選択? なりたい自分になるためには、どうするのが正しい? そもそも、なりたい自分、理想とは……?
 ぐるぐるといくつもの疑問が頭の中に湧き上がってくるだけで、何ひとつ答えらしきものは出てくることはなく――
 ただ、『わからない』という一言だけしか、残らなかった。





「たっだいま~」
「おまえは……今度は一体何をやらかしているんだ」
「へ?」

 腹立たしいまでの能天気な笑顔で会議室に入ってきた兄へ、ナルは感情のまま顔をしかめて、すぐさま問い質した。すると案の定、何も理解していないと如実に告げる間抜け面が返る。
 むしろ、ぎょっとしたのは麻衣のほうが早かった。

が泣いてる!? ジーン何したの!?」
「ええ!? ぼくのせい!?」

 言われてから振り返り、それでようやく自分が連れてきた少女の異変に気づくとか……どうしてこの愚兄はこんなに浅慮なのか。
 嘆息するなというほうが無理な話で。

「過保護をいさめたら荒療治に転換したのか? おまえはなんだってそう、やることが極端なんだ」
「荒療治って、もしかしなくてもジーン恐怖症!?」
「というか男性恐怖症だな。俺が頭撫でてもビクついてたから」
「つまりジーンと手ぇつないでるせいで泣いてるってことじゃん!! 早く離しなよ!!」
「うそ!? ちゃんと手つないでいいか聞いたし、から手を差し出してくれたからつないだんだよ!?」
「どうせ限界申告を無視したんだろう」
「うっ」
「やっぱジーンが悪いんじゃん!!」

 麻衣の剣幕に押されて手を離し、さらには胸の高さで両手のひらを見せてホールドアップの姿勢になりながらも、言い訳で無実を訴える愚兄。
 ナルのたったひとつの指摘でそれらの抵抗は無駄に終わり、麻衣が体を滑り込ませてとジーンを引き離した。

、大丈夫!?」
「ご、ごめんなさい……っ」
のせいじゃないよ!? ほらっ、もう手は離れたよ?」
「ごめんなさい……っ、どうしたらいいのか……っ、わからない……っ」

 ぽたぽたと、次から次へと床に滴り落ちる涙を何とか止めようとはしていてもうまくいかないのか。俯き肩を震わせるからは、謝罪の言葉しか出てこない。
 ナルは再び嘆息して。

「麻衣。を宿直室へ連れていって落ち着かせてこい」
「うん!」
「安原さん、案内をお願いできますか?」
「わかりました」

 出した指示に渋る者も、特別疑問を抱く者もなく。
 三人の姿が会議室から離れたのを確認してから戸を閉め、ナルはていよく人払いの済んだ室内を見下ろし口を開いた。

「……で? 自業自得のくせに何を落ち込んでいるんだ?」
「ぼーさん……ぼくって、性格悪いかな?」
「あん? どした急に」
「麻衣に、一緒に待とうって言ったのに……待ちきれなくって、誘導尋問みたいなことを……」
「泣いてたホントの理由はそれか……」

 床にうずくまるジーンは、ナルの質問に答えようとはせず、滝川に問いかけた。
 誘導尋問と称したことの詳細を、ナルは知っていた。何せジーン自身がホット・ラインを繋ぎ実況中継のようにだだ流しにしていたからだ。
 だからこそ、ジーンの問題行動を的確に指摘できたわけだが。

「自業自得以外の何物でもないだろう」
「わかってるよ! そうじゃなくって……落ち込んではいるけど、後悔はしてないんだ」
「それ、意味ねえ質問だよな?」
「え?」
「俺が性格悪いって言ったところで、後悔もしなけりゃ改める気もねえだろ最初から。を泣かせようが苦しめようが、自分の知りたいっていう欲求を満たすことのほうがジン坊にとっては重要だってんなら、その責任も自分で持つしかねえだろうよ」
「うぅ~……泣かせたくも苦しめたくもないよ~……じゃあ、今度はこっそり探ることにする!」
「そりゃストーカーだ! 性格の善し悪し以前に犯罪だ!!」
「ええっ!?」

 滝川の至極まっとうな忠告すら、理解しないのが愚兄たる所以ゆえん
 すっくと立ち上がり拳を握り締めて見当違いな決意を宣言することによってそれを証明するという阿呆さ加減に、腹立たしいを通り越して頭痛を覚えたナルは、ただただ深く嘆息するしかなかった。