泣き腫らした目で寝息を立てるの姿に後ろ髪を引かれながら、それでも麻衣は宿直室の戸を静かに閉めた。
そのまま戸に額を押しつけて、盛大な溜息を吐き出した。
――刹那。
「お疲れさまでーす」
「ぅひゃおうっ!? ――って、安原さん!?」
潜めた声がかけられ、思わずおかしな叫び声が出てしまった。
声のしたほうへ勢いよく振り返れば、懐中電灯の光を下から自分の顔に当てている安原の姿があり、また叫びそうになってしまう。
「な、な、なにして……っ!?」
「いやあ、谷山さんって驚かし甲斐があるなぁ」
「安原さん!?」
「そんなに大声出して大丈夫なんですか?」
はっとした麻衣は、宿直室の戸をそっと少しだけ開けて中を覗き込む。暗くてよく見えはしないが、動く物影はないし、寝息は変わらずかすかに聞こえているので起こさずには済んだことがわかる。
戸を閉めて、再度の溜息。
真面目な生徒会長だと思っていた安原の意外とおちゃめな性格は、かなり心臓に悪くて。
麻衣は恨めし気な目を彼に向けた。
「安原さん、まさかずっとここで待ってたんですか?」
「いえいえ、そこまで無粋じゃありませよ。お迎えに上がったところです」
笑顔のままの安原が差し出してきた懐中電灯を素直に受け取った麻衣は、手にあるそれに目を落とし、小さく息を吐いてスイッチを入れた。
宿直室まで案内してくれた安原は、てきぱきと布団まで敷いてくれたあと、が男性恐怖症と聞いたからか、早々に宿直室を去った。
そのときはまだ廊下も電灯がついていたし、窓の外もかろうじて明るさが残っていたが、今は電灯も消えて真っ暗だ。
今日来たばかりの学校で、どこに何があるか覚えきれていないような状態だというのに、怪現象の起きている校舎内を暗やみの中で文字どおり手探りで進まなければならない――なんて事態を回避できたことは、正直助かったし、心強くもある。
あるのだが……素直に喜べないのは何故だろう。今までと変わらない人の良さそうな笑顔なのに、胡散臭く見えたからだろうか。
言葉に言い表せない妙な気持ちを抱え、歩き出した安原の後に続いて足を進め始めて間もなく。
階段に差しかかったとき、ふと安原が肩越しに振り返った。
「さん、大丈夫ですか?」
「あ……わかんない……泣き疲れて寝ちゃったから……」
「谷山さん、『ジーン恐怖症』とかおっしゃってましたけど、渋谷仁さんとさんの間に何か問題でもあるんですか?」
「あー……ジーン、轢き逃げにあったらしくて、そのときのお陰で命拾いしたとかで、ずっと捜してたんだって。で、やっと見つけた嬉しさのあまり、うっかり抱きついちゃったって聞いてるよ」
「それは災難でしたねぇ、渋谷仁さん」
「へ? ジーン? 災難だったのはでしょ?」
「感謝を伝えるために捜し出した恩人の傷を、意図せずえぐってしまったのですから、相当ショックを受けられたと思いますけど」
「それって、ジーンのせいで男性恐怖症になったんじゃないってこと?」
「見知らぬ相手だったとしても、悪意もなく抱きつかれただけで傷になるほど恐怖心を抱きますかねぇ? ま、僕は男なので断言はできませんけど」
言われてみれば、そのとおりだ――と。
麻衣は目から鱗が落ちた心持ちで、前を行く安原の背を見た。
周囲の状況を認識できなくなるくらい傷つくということは、余程恐怖を感じる経験をしたからではないだろうか。
だとするなら、ジーンはきっかけにすぎない。本当の恐怖の元は、別だということになる。
……そうだ、夏の依頼の時にも今回のように周囲の声が何も届いていないような状態になっていたではないか。あの時は、ジーンも男性も関係なかったはずだ。
ひょっとして、病院に通っているというのも、摂食障害ではなく心の傷のほうのため、なんだろうか。だからジーンはプライバシーにかかわるからと、教えてくれなかったのだろうか。
本人に聞いて確かめたい。けれどを追い詰めたくはない。
相反する思いの板挟みでもやもやとする心を何とか落ち着かせよう、と。ジョンの言葉を思い出しながら、麻衣は深呼吸をしてみた。
――そのとき。
「ホテルじゃない!?」
突然の大声に、麻衣はビクッとしてしまった。
気がつけば、もう会議室の前にいて。声に驚いたのか、安原も戸に手を伸ばした姿勢のまま止まっていた。
息まで止めてしまっていた麻衣はゆっくり吐き出すことで気を取り直し、安原と目配せをしてから彼が開けてくれた戸の先を覗く。
会議室の中には、案の定な松崎と、そしてリンの姿があった。
「あ、綾子、着いたんだ」
見知った協力者の姿に安堵して室内に踏み込みつつ声を掛ければ、ぐりんと松崎の顔がこちらへ向き、近づく。
「来たわよ! 東京からわざわざ三時間もかけて来てやったってのに、調査の間中、暖房の壊れた宿直室に泊まれってのはどういうことよ!?」
「文句なら依頼人に言ってくれーい。一応名目上、外でうろつくメディア関係者の目に留まってほしくないってことだよ」
「だからって、方法なんてほかにもあるでしょ!? 単に誠意ってものがないだけじゃないの!?」
「そのとおりでござる。だからあたしたちも、もうヤル気ってもんが失せてんだから、ぎゃあぎゃあ騒いでこれ以上既にないものをマイナスまで下げんでくれよーぅ。不満があるならさっさと終わらせて帰るのが一番なんだから、今度こそ活躍して見せてくれよーぃ自称巫女さーん」
「自称は余計だっつってんでしょ!!」
「さっさと終わらせて帰りたいのはやまやまなんだがな、どうもそうはいかねえみたいなんよ、今回も」
不平不満愚痴といったものを、隠しもせず大々的にぶつけてくるのが松崎綾子という人物。
わかりきっていたことなので、宥めることもなく事情説明を少々踏まえて適当にあしらっていれば、普段は一緒になってあしらう側にくる滝川が溜息交じりに呟いて。
松崎と揃ってそちらに目を向けると、滝川はジーンを見た。
ジーンはといえば、顔はこちらに向いているものの目線はどこか別の方向に向けていて、おずおずと片手を挙げて口を開いた。
「今回、ぼく、霊の姿を視ることしかできないみたい、です……」
「へ?」
「どういうことよ、ボウヤ」
「姿ははっきり視えるんだけど、声は聞こえないし、霊の情報も読み取れない状態みたい」
「なんで? そんなことってあるの?」
「ぼくだってこんなこと初めてだから、なんでなのかはわかんないよ」
「じゃあ何? いるのはわかっても、なんでいるのか、何がしたくているのかって原因が一切わからないってこと?」
「そうなりますです、はい」
「役立たず」
「うぐっ」
いつもなら弟の毒舌に負けじと言い返すジーンだが、今回は自覚があるのか言い返せず、その場にうずくまっていじけモードに入ってしまった。
見慣れてしまったその姿を見下ろし、滝川が結論を口にする。
「まあ、ジン坊がこの調子なんで、真砂子ちゃんのほうもあんま期待できそうにないんだわ」
「少なくとも、霊がいることの判断には使える。目撃数が多すぎて機材も人手も足りないんだ、その程度のことで遊ばせておく理由にはならない。明日、原さんとこの馬鹿とで霊の有無を確認、いるとわかったら、ぼーさん、松崎さん、ジョンの三人で除霊に当たってくれ。曖昧なものについては僕とリンとで調査を行なう。いつまでもいじけてないで機材を設置する場所の絞り込みぐらいさっさとしろ!」
「いだっ」
例によってナルの足蹴が炸裂し、ジーンのいじけモードは強制終了。
てきぱきと指示を出すナルによって、すっかり場はお仕事モード一色。手伝いを申し出た安原の好意を珍しく受け入れたナルによって荷物持ちとなった彼とともに機材の設置に出た麻衣は、あのもやもやした思いのこともすっかり忘れ果ててくたくたになって就寝した。
そして、夢を見た。
屋上で、人魂の飛び交う校舎を楽しそうに眺めている、半袖の男子生徒の夢を。
――ごめんなさい……
黒い大きな獣が、こちらを向く。血の滴る口を、牙を見せ、飢えた赤い瞳で標的を定める。
己を庇い目の前に両手を広げて立ちはだかった、父の背中。力の入らない体で、それでも何とか伸ばした小さな己の手の先で、獣の餌食となり崩れ落ちていく父――人間、で、あったモノ……
飛び散る鮮血と対照的な――己の手の甲に光る青い真球の石……
――世界の理をねじ曲げて、ごめんなさい……
鮮血にまみれた牙の並ぶ獣の口が視界いっぱいに広がる。しかし体に衝撃が走り――突き飛ばされて。
獣の牙を免れたとき、既に虚ろとなっていた母の瞳と、目が、合った……あばら骨が露出している、上半身だけとなった、母であったモノと。
母としてのカタチを残す最後のパーツであった頭部に、獣の足が乗った、次の瞬間――不快な音を立てて潰れ飛び、鮮血や肉片が顔に、手に、かかって。
恐怖が――心が――正気が――弾け飛んだ。
そして、ただ白く青い光が視界を染め上げて、獣の姿を隠していって……
――それでも生きることを望んでしまうわたしを、どうか……
視界に映るのが麻衣の寝顔だと、そう認識できたのは、果たしてどれだけの時が流れたあとだったのか。
ゆっくりと体を起こしたは、ぼんやりとしたまま周囲を見回した。己を挟んで松崎と麻衣が寝息を立てている暗い六畳間――宿直室。
どういう状況だろう、と。
浮かんだ疑問が鈍い思考回路を動かし始めて。
―― は何も悪くないよ。理屈がわかったって、こわがる必要はないんだってわかったって、一度こわいと思った気持ちはどうしたって、すぐには消えてくれないもん。だけじゃないよ。は悪くないから、謝る必要なんて、これっぽっちもないよ ――
しかし思い出せない己に代わってか、『再生』されたのは、麻衣が己に言ったらしい言葉。
再度、隣を見た。麻衣は、確かに寝息を立ててそこにいる。
けれど、『いない』ことがわかって、はそっと布団を抜け出し、夜の校舎内を麻衣を『捜して』歩いた。
そうして、見つけた場所は――屋上。
夏服の――校舎と鎖で繋がった男子生徒と話している様子だった麻衣は、彼と向き合ってしばし。ふっと、その姿を消した。
ややあって、男子生徒の姿もその場から消え失せて。
消えた麻衣の姿を求めるように、はしばらくその場所を見つめていた。
「霊が視えない? 全然?」
「全く視えないわけじゃありませんのよ。存在は感じますわ」
「それってどんな感じ?」
調査二日目の午後三時頃。合流した真砂子とジョンを交えてのミーティングで、予想どおり真砂子の不調が明らかになった。
予測済みであることを知らない真砂子は、同じ霊媒であるジーンに詳細を尋ねられたことでプロとしての自尊心が傷ついたように顔をしかめた。しかし、それこそプロとしての意地があるように、表情を引き締めてすいっと周囲を一通り見回してから答えた。
「霊がたくさんいることと、どこにいるのかはわかりますわ。でも、どんな霊なのかよくわかりません。いつもは、もっとはっきり視えるのですけれど……なんだかチャンネルの調整が合ってないテレビを見ているような……わかりますかしら」
「うん、例えはわかりやすい。じゃあぼくの場合は、スピーカーの壊れたテレビって感じかな?」
「――え?」
「ぼくは今回、霊の姿ははっきり視えるのに、声も聞こえないし情報も読み取れない状態なんだ」
ジーンの告白に、真砂子は目をぱちくりさせたあと、まじまじと彼を見返した。
「あなたが? あたくしは、もともと浮遊霊と話をするのは苦手ですけど……何故あなたがそのような……」
「理由はわからないよ」
「では、ひとつだけ強く感じる霊の存在にもお気づきではありませんの?」
「ん~……存在感はいっぱい感じられるけど、ぼくには霊というより鬼火に近いもののほうが強く感じるかな?」
「鬼火、ですの?」
「原さんがわかるその霊はどのようなものですか?」
まだまだ続きそうな霊媒同士の会話に、置いてきぼりを食った気分で静観するしかなかった麻衣とは違い、有用な情報を引き出すために割って入ったのは当然ナルで。
ナルのほうへ顔を向けた真砂子の目は、すぐに焦点がぼやけたようになり独特の雰囲気をまとって。
「男の子です。あたくしと、同じ年頃の……強い感情を感じます。何か――学校でつらいことがあったのではないかしら。学校に囚われています。この近くにはいないのに、こんなに気配が強い……きっと自殺した霊だと思います。そんなに昔の話ではありませんわ」
語られる霊の情報を聞くうちに、麻衣の脳裏には昨夜の夢が甦ってきた。
――もしかして、彼のことだろうか……いや、まさかな。
「それは、この子ではありませんか?」
「……この方ですわ。そう……坂内さんとおっしゃるの」
ナルがファイルに挟んであった小さめの紙を真砂子へと差し出した。それは己がコピーした新聞の切り抜きだった。
真砂子の手の中のそれを覗き込んだ麻衣は、もしやが確信に変わり、眩暈を感じた。
――あれは……どんな夢だった? 見た映像ははっきり覚えている。あの男子生徒――坂内は、笑っていた。歪んだ、昏い笑い方だった。けれど……何を言っていた? 何を話したっけ?
思い出そうとしていた麻衣は、ふと視線を感じた気がして顔を向けた。すると、と目が合った。
視線が外れず、じっと見られている気がして居心地が悪くなり、へらっと笑ってみた。
の反応といえば、目をぱちぱちとまたたかせて小首を傾げただけだった。――見られていると思ったのは、気のせいだったか。ひとまず、調子が悪そうな様子ではなさそうだけど……
麻衣が起きたときにはもう宿直室にその姿はなく、拠点となっている会議室でナルから昨夜の経緯を聞いているようだった。
授業の邪魔はするなというわかりきったお達しもあって、授業中は大してできることもなくベース待機だったため時間はあったのだが……
聞きたいことは山ほどあるのに、いざ話しかけようとすると、うまく言葉が出てこなかった。ゆうべの取り乱したの姿、落ち着かせることも慰めることもできなかった己の不甲斐なさなどが脳裏をよぎって、言葉を封じている感じで。
彼女のほうも気まずさがあるのか、距離を置かれている気がして、なおさらまともに話もできないまま、真砂子たちが到着してしまったのだ。
さらには、仕事が始まればそちらに集中してしまうのは、複数のことを同時にこなせるほど器用ではないこと以上に、状況的にも当然のことで。
「仕事にかかろう」
所長たるナルの一声で場の空気がピリッとしたような緊張感に包まれ、全員の意識が調査に集中したことを告げる。
真砂子と松崎、ジーンとジョンでペアを組み、とにかく霊のいる場所を片っ端から祓うようにというナルの指示に否を唱える者はなく、それぞれが二つ返事で引き受ける。
こういうところはプロだよな、と。気を抜いていたら――
「LL教室は女子生徒に限定されている。ぼーさん、麻衣とを連れて確かめてきてくれ」
「ラジャー」
「「 ――え? 」」
不意打ちで名前を挙げられ、思わずこぼれた疑問の声は、のものと重なった。
てっきり拠点で連絡係だと思っていたのに……ほかにもできることがあるのは嬉しいが、だからといって怪奇現象なぞ進んで体験したくはない。
そう思うよね!? ――と。同意を求めてを見た。
しかしはナルを見ていて。
「あ、の……わたしが行くと、何も起こらない可能性が高くなってしまうと思うんですけど……」
「――は?」
「なに、それ……どーゆーこと、?」
おずおずと申し出たその内容に、滝川や麻衣をはじめとしてほぼ全員が疑問の眼差しを向けた。
問いかけられたことでハッとして周囲を見回したは、ようやく注目されていることに気づいたらしい。一瞬、怯えたような表情を見せたかと思えば、それを隠すためか深く俯いてしまう。
そのまま縮こまるかのように身を硬くする彼女のきつく結ばれた手に、真砂子がそっと触れた。
びくっと体を震わせ少しだけ顔を上げたは、心配そうな真砂子を見て、深呼吸をひとつ。肩から力を少しだけ抜いて、真砂子の手を握った。
何があったのか、麻衣には全くわからない。ただ、二人の間にある、言葉がなくても通じ合えているような親密な空気が嫌だった。
己がやりたくてもできなかったことを、真砂子は軽々とやってのけている。その事実が、ゆうべからずっと胸中に重く沈む不甲斐なさなどを刺激してきて――でも認めたくなくて……変えたくて。
感情のままに何かを言ってしまいそうになったとき――わしゃわしゃと力任せに頭を撫でられた。こんなことをするのは一人しかいない。
案の定、いつの間にか隣に来ていた滝川がこちらを見ることもなく言った。
「ひょっとして昨日、ジン坊だけ時間差で臭い感じたアレか?」
引き出されたつい昨日の事例に、その体験者であるジーンを見れば、ぽむっと手を打っているところで。
尋ねられた当人はといえば……滝川を一瞥し、小さく頷いた。
「それって、明らかに治癒能力とは別物の力を持っているってことよね?」
続いた松崎の問いには――反応しない。
俯いたまま目を向けようともしない様子に、松崎はあからさまに溜息をついて。
「できれば何ができるのかぐらい、はっきり言っといてほしいところなんだけど? それともアタシたちはアンタにとって、そんなに信用ならないのかしら?」
嫌味にしか聞こえない物言いに、しかし皆同じ思いなのか窘める者はいなかった。
そう、真砂子でさえも、だ。物言いたげな眼差しをほんの僅かに向けてきただけで、すぐにに寄り添いつないでいないほうの手を彼女の背に添える姿は、まるで答えを促しているかのよう。
訪れた沈黙の時は、全員が応答を待っている証拠で。
俯いたままのは、しかし深呼吸をひとつして。
「……どう、説明すれば、いいのか……わからない、んです……」
小さく、そう答えた。