第 0 話
目覚めは疑問の廃墟

 ……ここは、どこだろう……
 まず初めに思ったことは、それだった。
 薄暗い室内はあちこちが崩れていて、無人になって久しいことがわかる。随分と広い空間だ。暗くてあまり先は見えないが、広間のような場所から幾つもの通路がのびているようだった。
 そんな場所に、何故座っているのだろうか。
 疑問が頭をよぎった時だった。物音が聞こえたのは。
 それはあっという間に大きくなって――

 ――ガガガガガガガガガガッ!!
「きゃあっ!?」

 目の前に瓦礫が落ちてきて、思わず悲鳴を上げてしまった。
「……えっ? 人!?」
 直後聞こえたのは、少年の声。
 聞こえてきた上へと目を向けようとしたけれど……
「うわあっつ」
 続いた悲鳴で、反射的に目を閉じた。
 暗闇の中に、何かが落ちた音と悲鳴が響く。それがおさまった後には、瓦礫が崩れる小さな音と布ずれが聞こえて。
「あの、驚かせてしまってごめんなさい。大丈夫でしたか?」
 そして、耳を打つ少年の落ち着いた声。
 少年の声に誘われるように目を開けると、目の前には黒いコートを着た白髪の少年が屈んでこちらを覗き込んでいた。
 にこっ、と。優しげな笑みを見せた少年の顔が、心を落ち着かせてくれた。
 身を守るように頭を抱えていた両手を下ろし、小さく頷きを返す。
「よかった。立てますか?」
 安堵を浮かべ差し伸べられた手を取り、立ち上がった。……立ち上がれた、けれど……身体のあちこちが痛んだ。
 よく見ると、小さな傷がいくつもある。
「大丈夫ですか? その傷は、アクマにつけられたんですか?」
「あ、くま……?」
「あれ、違いましたか……? でも、じゃあ、どうしてこんなところに?」
 少年は、質問を繰り返した。何だか随分と忙しない気がする。……それとも、己の思考が遅いだけなのだろうか。
 判断はつかないけれど、とりあえず少年の質問に答えるためにも、まずは己の疑問を消化することにした。
「ここは、どこなの?」
 逆に問い返された少年は、一瞬きょとんとして。
「ここは古代都市マテール。今は無人となっている町です」
「古代、都市……マテール……」
 答えてくれた場所を、鸚鵡返しに呟いた。けれど、耳に覚えはない。
「知らない……聞いたこと、ないわ……」
「え? ……それじゃあ、どうやってここに来たんですか? 何のために……」
「わからない……気がついたら、ここにいたの……あなたは? あなたは何故無人の町に来たの?」
「僕は任務で……あっ! 僕はアレン・ウォーカーっていいます。あなたの名前は?」
 問われ答えて、問い掛けて答えられて。その繰り返しの終わりは、少年・アレンの問い掛けだった。
 彼の問いで、それまで鈍かったらしい思考が急ぎ足で回り始めた。――けれど。
 答えは、すぐに出た。
「……あたし……は……」
 アレンの質問に対する答え。探しても探しても見つからない。
「あたしは……誰……?」
 ――白紙の記憶。
 それが、全ての答えだった。


 廃墟の町・マテールで出会った一人の女性――年齢的には、まだ少女と言えるかもしれない彼女は、大きく目を瞠った状態で固まってしまった。
 自分の名前が……何者なのかが、わからないようだ。
 ――記憶喪失の女性。
 身体のあちこちに小さな傷があり、着ている服も所々破れている。髪も……長さが合っていない。まるで、長かった髪を無理矢理切られてしまったかのようにバラバラだ。
 何故このような姿で廃墟の町にいるのか……いくつかの予測は立てられるけれど、本人の記憶がない以上、真実はわかることはないだろう。
「あたし、誰なの……? どうして、無人の町にいるの……?」
 呆然とした呟き。身体が小さく震えている。涙も、浮かんできて。
「どうして、何も思い出せないの? あ、あたし……誰……?」
「あの! 僕と一緒に来てください!!」
 放っておけるわけがなく、アレンは女性の肩に手を置き強く言った。
 俯いてしまっていた彼女の顔が、再びアレンへと向けられる。
「今、この町はとても危険な状態にあるんです。一人になるのは危険ですから……僕が、必ずあなたを安全な場所まで連れて行きます。外に出れば、何か思い出せるかもしれませんし……」
 とにかく、落ち着かせること。そして、一人では――独りではないのだということを、伝える。
 肩に置いていた手をどけて、彼女へと差し出した。
「ですから、僕と一緒に行きましょう?」
 かつて孤児だった自分に、義父であるマナがそうしてくれたように。
 アレンは、行く宛のない女性に、手を差し伸べた。
 しばらくこちらを見つめていた女性に、変化が見えた。怯えたような表情の中に、ほんの少しだけ意志が現われたような……
 再び俯いてしまった彼女の手が、恐る恐るアレンの手に触れてきた。
 自分の手の平の上に添えられた女性の手を軽く握り、アレンはもう一度言う。
「一緒に、来てくれますか?」
 今度ははっきりと女性は頷いて。
 アレンは彼女の手を取ったまま、歩き出した。


 薄暗い廃墟の中を進みながら、アレンはいろんなことを話してくれた。
 ここに来た理由でもある任務のこと――彼はAKUMAと呼ばれる兵器を破壊する戦士・エクソシストで、この町にもそのアクマがいるということ。アクマは人間を殺すことで進化していく生きた兵器で、それがここが危険だと言った理由だ、と。
 アクマだとかエクソシストだとか、人を殺す兵器だとか。記憶のあるなしに関係なく、彼が立つ世界は普通ではないのだと思った。……多分、だけれど。
 それらのことは、よくわからなかったけれど、そのあとに話してくれた世界のことには少しだけわかることがあった。それは……
「イギリス人?」
「はい。僕はイギリスで生まれました。義父に拾われてからは、あちこち旅していましたけど。あと、今回一緒に任務を受けた神田っていうエクソシストがいるんですけど、彼は確か日本人だったはずです」
「日本……」
 アレンが話してくれた言葉を、同じように繰り返す。
 その音、響き……自分は、これを知っている気がした。……けれど。
「……何か、思い出せたんですか?」
 振り返って聞いてきたアレンへは、頭を振って否定を返さざるを得ない。
「聞いたことがあるような気はするの……でも、それがどういう時かとかはわからない」
「そうですか……」
 暗く、声のトーンを落としたアレン。……何だか、記憶を失っている当人よりも落胆している。
 いらぬ期待をさせてしまったようで、却ってこちらの気が引けてしまう。
 訪れた気まずい雰囲気を払拭するかのように、アレンが、ぱっと明るい表情で顔を上げた。
「でも、関係ありそうですよ? 東洋人は背が低めだって聞いてますし、あなたの瞳の色は蒼色ですし」
「……あたしの目、蒼いの?」
「はい、僕と同じ色です。青い瞳は西洋人に多く見られますから、案外、西洋と東洋の混血なのかもしれませんね」
「ハーフ……」
 自分の姿が見られるような物がないので気にも留めていなかったが、言われて初めて知った。髪は少しなら見える。明るい茶色をしている。身長は――アレンより低いのは確か。だけれど、彼のことは『年下』だとずっと感じていたということは、自分の年齢は彼よりは上なのかもしれない。
 そして、混血という言葉……それは、自分の中に驚くほどすとんとおさまった。
「そう、かもしれない……うん。きっと、そうなんだ……」
 言葉にすることで、より一層実感する。
 まだ仮説だけど、自分のことがひとつでもわかった。その事実が、確かに己の内に安心という感情を生んだ。
 そしてそれは、表情にも表れていたようで。
「よかった……やっと笑ってくれましたね」
「――え? 笑ってた、今?」
「はい、微笑んでいましたよ」
 自覚なんて全くないことに、心底安堵したような笑顔で言われても……困る。というか……恥ずかしい。
 両手で頬を押さえて、少しアレンから距離をとった。
「そんな、隠さなくても……」
「だ、だって……なんか、恥ずかしいんだもん……」
「笑うのはいいことだと思いますけど……って、あの! あ~……」
 照れ隠しで更に距離をあけようとして――阻止されてしまった。
 それを為したアレンは……何故か、言葉を濁して。
「あまり離れると危険です、けど……その、名前はまだ思い出せませんか?」
「……ごめんなさい」
「いえ、いいんですけど……ないと、呼びかけるのに不便だなって思っただけで……」
 確かにその通りだ。
 それに名前は、己の存在を示す何よりも有効なものだし。
 ――でも、思い出せそうな気配は全くない。
 少し考えて……ひとつ、思い浮かんだことを口にしてみた。
「……アレンなら、あたしを何て呼ぶ?」
「え? 何てって……どういうことですか?」
「だから、アレンなら、あたしにどんな名前をつけてくれるのかなって」
 それは、本当にただの思い付きだった。深い意味などあるわけもない。
 今、自分が知る人物は彼だけだから。
「僕が名付けるんですか!?」
「うん。本当の名前を思い出すまでの――記憶を持たないあたしの名前。よければ、つけて?」
 自分では、全く何も名前らしいものを思いつけなかったから、ただ単純に。
 こちらの思惑を知る由もないアレンは、しばらく唸り続けて。
 そして。
「……『』……って、どうですか?」
……」
 彼の口から出たその名前は、とても綺麗で。自分にはもったいない気さえしたけれど。
「嫌だったら、別のを考えます!」
「ううん、それでいいよ」
 でも、すごく気に入ったから。
「あたしの名前は、。よろしくね、アレン」
 最初は答えられなかった自分の名前を、今、答えた。
 差し出した右手を、アレンはしっかりと握ってくれて。
「はい、よろしくお願いします。さん」
 笑顔で、呼んでくれた。
 その名前が、今の自分を示すもの。
 不安はまだ胸中を支配しているけれど、それでもやっと大地に立てた気がした。