第 1 話
恐れは未知の世界

 廃墟の町で出会った少年・アレンが話してくれた、アクマとエクソシストの戦いのこと。恐らく、平穏な、極普通の人たちとは無縁だと思われるそれを、は見た。
 ティムキャンピーという名前のゴーレム――生物ではないらしい――に導かれて、通気口のような狭い通路を進んだ先だった。
 アレンの後ろにいたには、あまり見えなかった。聞こえたのは、アレンの連れだというエクソシストの声。そしてアレンの左腕が大きく奇怪な形になって、広い通路に出た。
 見えたのは、その先。
「モヤシ!!」
「神田……」
 どう考えても人を呼ぶような単語ではないそれに、アレンは普通に振り返って相手の名を呟いた。
「どういうつもりだ、テメェ……!! なんでアクマを庇いやがった!!!」
 強い言葉は非難の声。
 彼の言葉から推測するなら、アレンの足元に倒れているアレンとそっくりな人がアクマで、アレンはその奇怪な左腕でアクマを庇ったということなのだろう。
 そうするなら、神田の非難は正当に思える――けれど。
「神田。僕にはアクマを見分けられる『目』があるんです。この人は、アクマじゃない!」
 はっきりと断言して、アレンはそっくりさんを抱き起こした。――と。何かに気付いたのか、いきなりそっくりさんの顔を引きちぎった。
 破れてしまったアレンとそっくりな顔の下には、全く別の顔があって。
「トマ!?」
「何……っ」
「そっちのトマがアクマだ、神田!!!」
 叫ぶアレン。
 直後、大きな音が響き壁が揺れて――音は遠くなっていった。耳障りな笑い声と、金属がはねた微かな音だけを残して。
「かっ……神田!!」
 一瞬の、出来事だった。
 誰も、何も、できないほどの……僅かな時間。
「すみません、さん! トマをお願いします!!」
 けれど、何もしないままで終わるわけにはいかないとばかりに、アレンは走っていってしまった。
 残されたは、恐る恐る広いほうの通路へと下りる。
 アレンが走っていったほうには、大きな穴が壁に開いていた。暗くてその先は見えないけれど、先程の音から察して何枚もの壁をぶち抜いていったと思われた。
 そのようなことを、簡単にやってのけるのが『AKUMA』。
 兵器だとは聞いたけれど、こうして目の当たりにするとやはり――怖い、と思う。
 背筋に走った寒気に自分の腕をさする。そして、足元に横たわる人物・トマの傍らへ膝をついた。
 ここが危険だということは、最初に聞かされていた。それでもアレンは、ここから連れ出してくれると約束してくれたのだ。
 ならば、彼の負担にならないように、自分にできることをしなければ。
「大丈夫ですか? トマ、さん?」
「う……あ、あなた、は……?」
 呼びかけてみると、うっすらと目が開いた。意識はある。
、といいます。怪我、してますよね……」
 でなければ、こんなに弱ってはいないだろう。
 自分に何ができるかは、はっきり言ってわからない。けれど、何かできるかもしれない。
 どちらにしても、まずは状態を確認してみないことには始まらないので、アレンが破った顔の部分から他も破っていく。
 どうやら、気ぐるみのようなモノらしく、中には白いシンプルな形の服を着た男性が入っていた。
 全部を綺麗に破りとって、確認する。
 所々汚れていて血が滲んでいるけれど、その程度はよくわからなかった。
 とりあえず、自分の服を漁って――ハンカチがあったので、見えている顔の部分の血と汚れを拭き取った。
さん」
 呼びかけられて振り返れば、長い黒髪の男性を引きずるように抱えているアレンがいて。
「アレン、その人……」
「まだ生きてます。とにかく、移動しましょう。どこか手当てできる場所を見つけないと……」
「う、うん……それじゃあ、トマさんはあたしが……」
「いえ、トマも僕が運びます。さんは、これをお願いします」
 差し出されたのは、鞘に納まった黒い日本刀。
「それは……?」
「神田のイノセンス……対アクマ武器なんです。持っていて、くださいますか?」
 武器……刀。人の命を、奪うもの。
 少し、怖い気はしたけれど――そっと、両手を差し出す。アレンがその上に刀を静かに置いて……ずしり、と。重みを感じた。
 これが、真剣の重み。
さん?」
 呼びかけに顔を上げると、既にトマを肩に担いだアレンが心配を顔に書いてこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫だよ!」
 両手でしっかりと刀を握り、頷いてみせる。――負担になっては、いけない。
 心配要らないということを、真っ直ぐに彼の瞳を見据えることで伝えようと試みた。
 それは無事に成功したらしく、アレンの顔に安堵が表れる。
「それじゃ、行きますね」
「うん」
 アレンの言葉に、もう一度しっかりと頷き、その場を離れた。

 どれくらい進んだのだろう。
 なるべく歩きやすい――床の抜けていない道を選んで右へ左へと曲がり、更に広い通路へと出た。
 初めてアレンと会った場所よりは狭いが造り的には同じなのか、幾つもの通路が様々な方角へと伸びている場所だ。
 ひとつひとつ通路を覗き込んで確認する。――部屋、なのだろうか。行き止まりが多かった。
「痛っ」
 荒い吐息が途切れて聞こえた小さな呻きに、は振り返った。
「大丈夫、アレン? やっぱり、少しの間だけでも代わるよ」
「ウォーカー殿……私は置いていってください。あなたもケガを負っているのでしょう……」
「なんてことないですよ!」
 とトマの申し出にも、アレンは強がって引かない。
 そんな彼を、は見ていることしかできなくて。
 せめてできることを、と。少し先を歩いて通路先を確認していたのだけれど。
「…………っ」
「歌……?」
 微かに聞こえてきたのは、歌。
 無人のはずの廃墟の町には、あるはずのないモノ。
「歌が、聴こえる……」
 呟き、まるで吸い寄せられるかのように、アレンは歌が聴こえてくる方向へと歩き出して。
「……さん?」
 思わず、彼の服を掴んでいた。
 怪訝な呼びかけ。振り向いたこともわかったけれど、そちらを見ることはできなくて俯いたまま。
「歌の、ほうへ……行くの?」
「……はい。正直、どの方向に行っていいのかわからないですし、ダメもとで……嫌、なんですか?」
 ――嫌、といえば嫌だ。
 この歌は、何故かすごく怖い……あのアクマよりも、今、手にしている刀よりも、怖いから。
 けれど。
 これは、自分のわがままだ。
 アクマが歌を奏でるとも思えないし、ならば他に人がいるということなのだろう。重傷人がいる以上、早く手当てできる場所に着かなければならない。そう考えるなら、歌の出所へ行くということは闇雲に歩き回るよりは、ずっといいはずなのだ。
 は頭を振って、握り締めてしまっていた服を放した。
 しばらくアレンはそのまま立ち止まっていたけれど。
「行きましょう?」
 そう、促してきて。
 が頷いたのを確認してから、歩き出した。
 先へ、進んでいくアレンの背を見つめて――も、歩き始める。
 この歌は、怖い。けれど、アレンと離れて一人になることのほうが、怖いと感じてしまったから。
 ふたつの恐怖との板挟み状態で重い足取りを、それでも前へと進めた。

 辿り着いたのは、砂で埋もれた大きな広間。
 そこにいたのは老人と人形。歌は、イノセンスを核にして造られた人形が奏でていたものだった。
 己の正体を知られたためか、いきなり巨大な石柱を人形は投げてきたりしたけれど、アレンの優しさが伝わったのか、事情を語り始めた。
 マテールの民が去って500年。迷い込んだ人間はいたけれど、亡霊といわれてしまった人形を受け入れたのはたった一人の子供だけ。その子供と共に過ごした80年……老人になったその子供の命は尽きようとしていた。
「最後まで一緒にいさせて。最後まで、人形とした動かさせて! お願い……」
 人形・ララの願いは、ただそれだけだった。
 たった、それだけの願い――けれど。
「ダメだ」
 はっきりとした拒絶の言葉。それは、意識を失っていたはずの神田が発したもので。
「その老人が死ぬまで待てだと……? この状況で、そんな願いは聞いてられない……っ」
 アクマなどが介入してきていなかったならば、叶えていたかもしれない――と。そう受け取れなくもないが、彼の言葉は厳しかった。
「俺たちはイノセンスを守るためにここに来たんだ!! 今すぐ、その人形の心臓をとれ!!」
 起き上がるだけでもつらいのだろう彼は、それでも強い眼差しで――声で、アレンにそう言った。
 アレンは――動かない。
「俺たちは、何のためにここに来た!?」
 それでも、アレンは動かずに。
「……と、取れません……ごめん。僕は、取りたくない」
 そう、言って。
 そこからは、堂々巡り。自分の手で取ろうとする神田の前に出て、二人を庇うアレン。神田は犠牲があるから救いがあると言い、アレンは犠牲ばかりで勝つ戦争は虚しいだけだと言う。
 同じ位置に立ちながら、全く違う考えを持っている二人。
 には、どちらが正しいのかなんてわからなかった。ただ、やはりアレンは優しいのだと思っただけ。危険な場所なのに、素性のわからぬ己に手を差し伸べてくれるほどに。
 二人のその言い争いは、無粋な乱入者によって止められた。
 人形を抱いていた老人ごと身体を貫き、攫って行ったアクマによって。
「イノセンス、も――らいっ!!!」
 砂の中から現われたのは、砂の塊にアレンと同じ奇怪な腕と仮面のような顔がついた化け物――アクマ。
 三本の大きな指には、身体を貫かれている老人と人形から抜き取ったらしい部品があった。
 それを、見た瞬間。
 ざわっ、と。全身が粟立つ感覚に襲われた。
「……っ、あ……っ」
 わかった……人形の歌が怖かった理由が。
 歌じゃない。あれが――イノセンスが怖かったのだ。
 でも、何故……?
 アレンの腕は――奇怪だとは思うが、怖いとは思わない。神田の刀は、イノセンスだからではなく、『刀』であるから怖いのだし。
 何故、人形の心臓である――何の害もない形のはずの、あのイノセンスに対して恐怖を感じるのか……わからなかった。
 わからなかった、けれど……怖かった。
 怖い……怖い、怖い、怖い怖い怖いこわいコワイ……
 記憶がなくて自分が何者であるかもわからないのに、あれに引きずられて今の自分すらなくなってしまいそうなほど――

 ――ドオオオオォォンッ!!!

 渦潮のような恐怖に終わりを与えてくれたのは、天井を綺麗に吹き飛ばした轟音。
 アクマは消え去り、砂の真ん中には並んで倒れているアレンと神田の姿。
「あ……アレン……」
 駆け寄りたかったけれど、身体が震えて上手く動かせなかった。その上、穴の開いた天井から例のイノセンスが降ってきて――また、恐怖で心臓が跳ねたから。
 そのイノセンスは……意識が残っていたのか、それとも取り戻したのか。アレンが己の身体を引きずって人形の中に戻して。
 の恐怖も、完全に消えはしなかったが小さく治まってくれた。
 認識できたのは、そこまで。
 あの恐怖の渦の中、自我を保つことに力を使い切ってしまったのか、の意識は闇の中に沈んでしまった。



「……トマ、さん?」
「気がつかれましたか?」
 目が覚めた場所は白い壁に囲まれた清潔そうな部屋で、見覚えのある男性が自分を見下ろしていた。
「ここ、は……」
「マテールに最も近い町の病院でございます。あなたは二日ほど眠っておられました」
「二日……」
 トマの説明を聞きながら、起きあがった。
 部屋の中にはベッドがふたつ。ひとつは自分が、もうひとつは――空だ。
「……あなたは? 怪我、大丈夫だったの?」
「はい。私のケガは、入院するほどではありませんでした。ウォーカー殿に頼まれまして、あなたの目覚めをお待ちしておりました」
「アレンは、どこに?」
「まだマテールにおられます」
 アレンだって、怪我をしていたはずなのに……これがエクソシストというものなのだろうか。
 自分がぼろぼろになってもアクマを倒し、イノセンスを守り通す。それが、エクソシストの生き方なのだろうか。
 どうして、そこまでできるのだろう。
 そんな疑問の渦に沈んでいたの目の前に服が差し出され、意識を現実に戻した。
「どうぞ、これに着替えてください」
「それは?」
「新しい服でございます。あなたが着ていた服は、ぼろぼろでしたので。私の見立てで申し訳ありませんが……」
 は頭を振って、服を受け取った。
 正直言って、かなり嬉しかったのだ。ここまでしてもらえるとは思わなかったから。
 ――けれど。
「着替えがすみましたなら、お呼びください。あなたの家までご案内いたします」
「――え?」
 一瞬、彼の言っていることがわからなかった。
 には、まだ自分が何者なのかわからない。どこから来たのか、どこに住んでいたのか、家族がいるのかさえもわからないのに……『家』とはどういうことなのか。
「ウォーカー殿から、あなたのことは伺っております。この町に住む、子供のいない老夫婦があなたを引き取ってくださいます」
 こちらの困惑を察したトマの説明で、その疑問は解決した。
 自分が眠っている間に、今後のことまで全て整えてくれるなんて思いもしなかった。
 驚きに目を瞠ったの心に生まれたのは、先程のような嬉しさではない。――不安と困惑だ。
 だって、それはまるで、自分たちの役目はここまでであとは関係ないと言っているように聞こえたから。
「ま、待って! それじゃあ、アレンとは――」
「我々には関わらないほうが、あなたのためです」
「――ッ」
 そのの考えは、当たっていた。
「あなたは、目の当たりにしたでしょう。アクマという存在を……我々が立つ世界は、常に死と隣り合わせなのです。これ以上は、踏み込まないほうがよろしいでしょう」
 ……わかって、いた。はじめから。世界が、違うのだと。
 ずっと一緒にいられるはずがない、と。わかっていた。
 でも、だとしたら尚のこと。
「……アレンに、会わせて……」
「もう、お会いにならないほうが――」
「わかってる!! だから……だからこそ、もう一度会わせて……最後にちゃんと、お礼とお別れを言わせて!!」
 このまま終わりになんて、したくなかった。
 ただのわがまま――甘えだとしても……離れてしまう――二度と会えなくなるその恐怖に打ち勝たなければ、前へは進めないと思ったから。
 無言で見つめ合うこと、しばし。
 トマの口から溜息がこぼれて。
「わかりました。ウォーカー殿のところへご案内いたします」
 そう、言って。部屋を出て行った。

 子守唄が響いてくる、マテールの最上部にある教会跡。その前にある階段に、アレンは座っていた。
 眠って、いるのだろうか。抱えた膝に顔を埋めている。
「……アレン?」
「…………さん、目が覚めたんですね……」
「うん……」
 呼びかけてみると、少しの間があってから返事があった。でも、顔は腕に隠れたまま。
 泣いているようにも見える、その姿。
 初めて会った時も、アクマと戦っている姿も、すごく頼もしく見えていたけれど。こうして悲しみや痛みにじっと耐えている姿を見ると、子供なのかなと思う。
 そんな彼に頼ることは、きっと重荷になってしまう。そう、改めて思ったから。
「隣、座ってもいい?」
「……家に、帰らなくていいんですか?」
「家には、帰るよ。でも、今は側にいさせて。アレンがここを去る時までは……あたしには、何も返せるものがないから……側に、いることくらいしか、できないから」
 半分は、自分のためだけれど。そのことで少しでもアレンに安らぎを与えられるなら、そうしたい。
 拒絶、されてしまうかな、と。思ったけれど、そっとアレンの頭に触れてみた。
 振り払われたり避けられることもなく、苦情も出なかったので、そのまま頭を撫でていると、気が抜けたように長い吐息がこぼれてアレンの肩から力が抜けた。
「……どうぞ。お好きにしてください」
 諦めたような、それでいてどこか安心したような、泣き出しそうな声で許可が出て。
 は、彼の隣にそっと腰を下ろした。


 ただの人形に戻ってしまったララ。グゾルとの約束も忘れ、死んだということも理解できずに『眠る人間』への子守唄を歌い続けている。
 イノセンスを守るという任務上、新手のアクマが来ても対処できるように側を離れるわけには行かない立場。
 必然的に、間近でその子守唄を聞き続けなければならず……自分で決めたこととはいえ、あまりにもつらかった。
 けれど、が来た。
 アクマとの戦いを目の当たりにし、その恐怖で意識を失っていた女性。きっともう自分には近付かないだろうと思って、トマに全てを任せてきたのに。
 変わらずに話しかけ、優しく頭を撫で、今は隣に座って寄り添ってくれている。
 その彼女のぬくもりが、何よりの救いだった。
 あまり彼女を気に掛けている余裕がないまま、一夜が明け――全治一ヶ月の重傷によって入院中だったはずの神田がやってきた。
「コムイからの伝達だ。俺はこのまま次の任務に行く。おまえは本部にイノセンスを届けろ」
「…………わかりました」
 用件だけを端的に伝えてきた彼に了承の意を返すと、少しの沈黙があって。
「つらいなら、人形止めてこい。あれはもう、『ララ』じゃないんだろ」
 神田の口から出たのは、無情な事実。
 アレンにも、それはわかっている。けれど……
「二人の約束なんですよ。人形(ララ)を壊すのは、グゾルさんじゃないと駄目なんです」
 叶えて、あげたいから。それが己の自己満足だとしても。
「甘いな、おまえは。俺たちは『破壊者』だ。『救済者』じゃないんだぜ」
「…………わかってますよ。でも、僕は――」
 その先を、口にする前に。
 風が一陣吹き、そして――
「歌が、止まった……」
 それは、グゾルが死んで三日目の夜だった。
 教会跡へ確認に入ると、人形は全く動かなくなっていて。
 人形の傍らに膝をついた、その時。

「ありがとう。壊れるまで歌わせてくれて。これで、約束が守れたわ」

 『ララ』の声が、聞こえた。
 もう動かないはずの――消えたはずの『ララ』が、微笑んだように、見えた。
 自分のほうに倒れこんできたのは、ぼろぼろで動かない人形だったのに。
「おい? どうした」
 入口から掛かった神田の声に、溢れていた涙を拭う。
 例え幻聴だとしても、いい。
 自分が選んだことは無駄ではないと、そう思えたから。
「神田……それでも僕は、誰かを救える破壊者になりたいです」
 それは、エクソシストの道を歩むと決めた時からある想い。
 アクマとされた人の魂を救いたい。そして、生きている誰かにとっても――ほんの僅かでも助けになりたい、と。
「……アレン」
 そう、思っていたから。にも、手を差し伸べたのだ。
 でも、彼女のためにできることは、もうない。
 彼女のことを思えばこそ、共にいるべきではないから。
「ありがとう、アレン。あたしを見つけてくれて。名前を、くれて……」
 別れを、告げようと。思っていたアレンより先に、がそう言ってきて。
 彼女は、笑っていた。
「お礼を言うことしかできないけれど、アレンの幸せを祈ってるね」
 まだ、ぎこちないけれど、それでも精一杯の笑顔。
 だから、アレンもそれに応えて、笑った。
「はい。僕も、さんの記憶が戻るように祈ってます」
 差し出された右手を取り、握手を交わした。――刹那。
 バチンッ、と。電流が身体を走ったような感覚。手の中で強く光を放つイノセンス。
 それは、一瞬の出来事。

「きゃあああっ!?」

 アレンの手の中にあったはずの、人形の心臓とされていたイノセンスは、と握手をした瞬間に引き寄せられるかのようにアレンの手をすり抜けて、彼女の胸元へと埋め込まれてしまった。
 突然のことだった。
 何の前触れもなく起こったそれに、アレンたちは呆然と立ち尽くす。
「この女も、適合者だったのか……しかも、寄生型の……」
 一番先に我に返ったのは、神田。
 驚きを隠せないまま、それでも的確に現状を把握した。
 信じられないけれど、それが現実だ。
「ある意味、一石二鳥だったな。おまえは、その女を連れて本部に戻れ」
 自分のことすらわからない彼女を、戦いの中に置くのは気が進まない。でも、イノセンスを宿してしまった以上、遅かれ早かれ巻き込まれてしまうだろう。
 ならば、きちんと全てを教えたほうがいい。
「……わかりました」
 本当は、平和な場所で幸せに暮らしてほしかったのだけれど。
 複雑な想いを抱えながらも頷いたアレンは、自分の腕の中で意識を失っている女性を見て、ふとあることが脳裏をよぎった。

 ――ひょっとしたら、彼女はイノセンスに呼ばれてこの町に来たのかもしれない……