何が起きたのか、わからなかった。
目が覚めて、自分もアレンと同じイノセンスの適合者――エクソシストだと言われた時は、本当に驚いた。それに自分の身体に宿ったイノセンスに対する恐怖も……前ほどではないが、まだ確かにあったのだ。
でも。
「僕と一緒に『黒の教団』に――エクソシストの本部に、来ていただけますか?」
もう一度、差し伸べられた手が……アレンと離れなくていいということが、何よりも嬉しくて、そして安心できたのだった。
「……エクソシストっていうことは、アクマと戦う――っていう事なのよ、ね……?」
「はい。記憶も戻っていないのに、巻き込んでしまうみたいで心苦しいんですが」
本部へと向かう汽車の中。問い掛けたの言葉に、心底申し訳なさそうにアレンが答えて。頭まで下げて謝りかねない彼へと、ぱたぱたと両手を振る。
「あ、ううん、それはいいの。きっと、記憶が戻らない限り、どこにいても不安な感じは消えないだろうし……じゃなくて、エクソシストのこととか、何も知らないから」
少しでも、予備知識ぐらいは持っておきたい、と。
そう伝えると、アレンはひとつ頷いて語り始めた。
AKUMA――それは、人類を標的に造られた悪性兵器の名称。暗黒物質・ダークマターにより造られた『機械』に、死者の『魂』を融合させた生きる兵器で、殺せば殺すほどに強く進化していくもの。
アクマに内蔵された魂は『製造者』に支配され、罪に苦悩し、己の姿に絶望し、現実を憎悪する。そんな魂のフラストレーションがアクマを進化させるエネルギー源となり、救うには破壊する以外に方法はない。
アクマは人間の死体を被って社会に侵入し、自らの体形を銃器に、毒のウイルスを含んだ血を弾丸へと転換して撃ち出す。撃ち込まれた生体には急速にウイルスが侵食していき、僅か数秒で砕け散ってしまう。
「あと、僕も今回の任務で知ったんですが、銃器に転換するボール型の悪魔はレベル1で、レベル2に進化したアクマには自我が生まれ、独自の姿と能力を得るようです」
「それって、あのマテールにいたアクマがやっていた、着ぐるみと脱皮みたいな?」
「は、はい……そうです、けど……脱皮って……」
肩を落とし、脱力気味に呟くアレン。
他にいい例えが思い浮かばなかっただけなのだが、変に疲れさせてしまったようだ。
ははっ、と。乾いた笑いを浮かべ気を取り直し、説明が続いた。
イノセンスとは『神の結晶』と呼ばれる不思議な力を帯びた物質のことで、武器へと加工したものを『対アクマ武器』と呼ぶ。その呼称の通り、アクマを破壊することのできる唯一の武器。しかし、イノセンスのみでは力を発揮しない。
イノセンスの力を発揮する者のことを『適合者』――イノセンスに選ばれた使徒と呼び、それがエクソシストの正体。
そして、アクマを作り出している製造者は『千年伯爵』といい、世界を終焉へ導くために暗躍している。アクマを破壊し、伯爵を倒すことが、エクソシストの宿命――
「……と、大体こんなところでしょうか。僕も教団には入ったばかりなので、それほど詳しくはないんです」
「ううん、充分だよ。……つまり、簡単に言っちゃうと、エクソシストの肩に世界の命運がかかってるってことなんだね?」
「はい」
何の迷いもなく、即答だった。
そこまで大事だとは――正直思ってなかったので、反応に困ってしまった。
誰かの妄想や夢物語と思いたい気持ちもあったが、実際にアクマを見ているし、アレンの左腕が変化する場面も目撃してしまっている。ただの人形が、まるで生きた人間みたいにも見えたし、何よりその不思議な物質が今は自分の身体にあるから。
現実だと、認めざるを得なかった。
それでもまだ、どこか自分とは別世界のことのように思えたけれど……ひとつだけ、納得できた。
記憶を持たず素性の知れない己の生活をきちんと整えられたのは、バックに大きな組織があったからだ――と。
今いるのも、個室。上級車両の一室であることから見ても、多分その通りのなのだろう。
――その組織に、今、足を踏み入れようとしている……
アレンと離れたくはないけれど、危険と隣り合わせの――得体の知れない場所に行くのは、やはり不安が大きくて。
「あ、着いたみたいですね」
汽車が目的の駅に着き、トマが進むままに夜の街を進んでいく。裏口からある一軒の家へと入り――地下へと降りた。
そこは、結構な広さのある地下水道で、一隻の手漕ぎ舟が繋がっていて。
「足元、気をつけてください」
「う、うん……」
アレンに手を引かれるまま乗り込んだ舟は、ゆっくりと頼りない明かりの灯る水道を進んでいった。
マテールといい、ここといい、どうにもどこかへ『進む』時には暗い方向へ向かっている気がする。
それが、これから歩む未来を暗示しているものでないことを、ただただ願うばかり。
不安に押しつぶされないよう自分を保つことにばかり気を取られていたの視界いっぱいに、アレンの顔が現われた。いきなりの至近距離に、思わず仰け反る。
「ぅ、きゃ……っ」
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……びっくりしただけ……」
「いえ、そっちじゃなくて」
返ってきた否定に小首を傾げる――と、トマの姿がアレンの背後、舟の外にあるのが見えた。
「着いたんですけど、反応がなかったので……船酔い、しちゃいました?」
時間の経過に全く気を配れていなかったことが原因だったらしい。
心配させてしまった彼へ、笑顔を向けて片手を振る。
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと、考え事してただけ」
「そうですか? ……ふあぁ」
一応安心したらしいアレンの口から、欠伸がひとつ。
「アレンこそ大丈夫?」
「あ、すみません。大分遅くなっちゃいましたから……」
眠いだけだと、アレンは言った。
あはは、と。笑ってはいるが、笑い事ではない気がする。
マテールでの戦いの後、ララが壊れるまでの三日間、ほとんど寝ずの番のような状態で外に居続けたのだから、体力はかなり消耗しているだろう。しかも、ここに来るまでの移動中も、こちらの求めに応じて様々な説明をしてくれていて、全く休んでいないのだ。
今更ながらに、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、彼の体調を気遣う余裕もなかったことが悔やまれる。負担になってはいけないと思ったはずだったのに。
安心できる場所に着いたのなら、せめて早く休んでほしいと思うのだが。
「もう真夜中ですね。さんのこと、どうしたらいいのかな?」
やるべきことは終わらせなければ、休むに休めないらしい。即ち、回収したイノセンスの適合者である己について。
「科学班の方なら、誰か起きてらっしゃると思いますよ」
「じゃあ、行ってみます」
舟を固定しているトマの言葉に答えたアレンは舟を降り、こちらへと手を差し出してくれて。
「行きましょう?」
「……うん」
その手を取り、も舟から降りた。そして、手を引かれるまま導かれて、上へと続く階段を上ろうとしたその時だった。
――ドサッ、と。目の前に黒い何かが落ちてきたのだ。
「え?」
それは、一人の少女だった。
「リナリー!? どうしたんですか!?」
焦ったアレンが抱き起こすも、意識はないようだ。彼と歳の近そうな、黒髪の可愛らしい少女。
二人を見比べて……小首を傾げる。
「……彼女?」
「違います!!」
呟いた素朴な疑問は、即答で否定された。……けれどその頬はほんのりと赤い。
片想い中なのか、それとも単にこの手の話に慣れていないだけか。どちらだとしても――そんな場合ではないのだが――ちょっと可愛いな、と思ってしまったことは内緒にしておく。
「も、戻ったか……アレン……」
「リーバーさん!?」
次に現われたのは傷を負った男性。ふらついた彼に、アレンは咄嗟にリナリーをこちらへ預けて自分より大きなその身体を支えた。
「そのキズ……? 何が、あったんですか」
「に……逃げろ。コムリンが来る……」
「は?」
アレンの問いに対し、男性・リーバーから返ってきたのは、答えになっていない指示。
わけのわからない帰還組の耳に、彼の言葉の通り何かが近付いてくるような音が聞こえてきて――
――ドカンッ。
「来たぁ」
階段横の壁をぶち壊して現われたのは、奇妙な形の巨大な機械。当然のように地下水道に落ちたそれは、大量の水を跳ね上げ地下に雨を降らせた。
頭から冷水を浴びる羽目になってしまったが、それで冷静になどなれるはずもなく――また、その時間も与えてはくれなかった。
「発……見!」
機械の顔のような部分がこちらを向き、中心にあるカメラかセンサーのような部分が光った。そして機械音と共に無機質な音声が響く。
「リナリー・リー。アレン・ウォーカー……詳細不明イノセンス反応……生体反応……寄生型適合者確認。エクソシスト三名発見」
一瞬で頭をよぎった嫌な予感。
「逃げろ、アレン! こいつはエクソシストを狙ってる!!」
そして当たりを告げたリーバーの声と。
「手術ダ――――――!!」
件の機械の音声。
ぐあっ、と。仰々しい動きで一気に近付こうとするそれに、皆、反射的に走り出した。
向かう先は、当然ながら一本道。上へと伸びている階段のみ。
気がついてから初めてと言っていい、ハードな動きを強いられる状況。自分の運動能力について考えたことはなかったが、終わりが見えないような長い階段を全力疾走で駆け上がるのは、きっと普通につらいことだろう。――けれど。
「大丈夫ですか、さん!?」
「大丈夫じゃなくても走る! 例え骨折してても走るわよ!!」
弱音なんて、吐ける状況ではない。
壁・天井・階段。そのすべてを破壊しながら巨大な機械が迫ってきているのに、身の危険を感じないほど鈍感ではないから。というか、普通に怖いから。
「ていうかアレ何なの!? ここってエクソシストの本部じゃなかったの!?」
「そうです、けど!」
「何で本部にエクソシストを狙うようなモノがあるの!?」
「僕にもわかりません! リーバーさん!?」
恐怖心を紛らわせるための問答の先は、リーバーへと向いた。
「ウム。あれはだな! コムイ室長が造った万能ロボ『コムリン』っつって……見ての通り暴走してる!」
「「 何で!? 」」
口を揃えて問い質した理由は、説明するのも馬鹿らしいようなものだった。
室長であるコムイの頭脳と人格を完全にコピーした万能ロボ『コムリン』は、本来イノセンス開発専用機として造ったものらしい。けれど、『人格』までコピーしたことが悪かったのか、コムリンは己が機械であるという認識をできずに、目の前にあったコムイのコーヒーを飲んでしまい暴走。エクソシストであるリナリーを強くするため、マッチョに改良手術するといって追い回しているのというのだ。
「……というワケだ。悪いな……こんな理由で」
全くもってその通りだと言いたいのはきっと、アレンやトマも同じだろう。けれど、誰も口にする気力はなかった。
に至っては、乱れた呼吸を整えるので精一杯だったから。ようやく階段を上りきっていくつかの角を曲がった先の廊下で、顔を上げる気力もなく壁を支えにやっと立っていた。
「だ、大丈夫……じゃ、ないですね、さん」
頭上から降ってきた、呆れたような申し訳ないようなアレンの声にも答えることはできなくて。けれどこれ以上の心配もかけたくなくて、何とか言葉を搾り出す。
「……ここ……へん……っ、イメー、ジ……と、ちが……っ」
「へ? あの……?」
「はなし、聞いて……もっと、ものもの、しい……かんじ、とか……ぐんた、い、みたい、な……そんな、ふうに……考えてた、から……っ、はぁ……っ、現実に、喜劇、巻き込まれ、るとは……思ってなかった……」
「喜劇って……」
「ははっ、確かに、端から見りゃ滑稽な演劇に見えるだろうな……当事者にとっちゃ、笑い事じゃねえけどよ」
脱力してしまったアレンに代わり、リーバーが笑って同意してくれた。それから、改めてこちらを見てきて。
「で、あんたはアレンの彼女?」
「違います! さんはマテールにあったイノセンスの適合者ですよ!!」
再び即否定のアレン。また頬は赤くなっている。やはり慣れていないだけのようだ。
「はははっ、悪い悪い。ちゃんと報告は受けてるよ。記憶喪失なんだってな。黒の教団へようこそ、。オレは科学班班長のリーバーだ。いきなりこんな騒動で悪いけどよ、ま、そうそうこんな馬鹿げたことあるわけじゃねえから」
「あ……はい……よろしくお願いします」
差し出された右手を軽く握り、握手を交わす。気さくな彼の笑顔が、の心に落ち着きと少しの安心感を与えてくれた。
初対面の挨拶を終えたリーバーは、アレンへと顔を向けて。
「アレンも、帰ってきて早々こんな騒動ですまん。おかえり」
改めての謝罪と迎えの言葉。
それに対し、すぐに答えると思いきや、アレンの顔からは表情が抜け落ちてしまったようになり……は小首を傾げた。
今まで見てきたアレンの姿から察するに、笑顔で答えるだろうなと思っていたので、ぼんやりとどこか一点を見つめてしまっている彼の反応は意外だったから。
「アレン?」
「え……あっ、はい!」
無反応であることに同じく疑問を持ったらしいリーバーの怪訝な呼び掛けで、アレンに表情が戻った。
いつもの様子。けれど、どこかぎこちない。
「何だよ、もしかして任務の傷が痛むのか?」
「いえっ、平気です。……た、ただいま」
ようやく笑って返せた言葉も、やはりぎこちなく見えた。――と。
「おおーい、無事かー!!」
吹き抜けだろうか。かなり広く開けた中央部分に、四角錐を逆さにした物体が浮いて現われた。上には沢山の人が乗っている。どうやら乗り物のようだった。
色々叫んでいる彼らへ、リーバーがとりあえず落ち着けと言った――直後。
「来たぁ!」
背後の壁をぶち破って、コムリンが追いついてしまった。
狭い階段や廊下ではなく、開けた吹き抜け部分にその姿を現したコムリン。それに向けて、あの逆さ錐体から大砲と思われる筒が出てきた。
「壊(や)れ――!!」という大合唱。皆があの機械には良い感情を持っていないらしいことがわかる。しかし、その直後聞こえたのは「ボクのコムリンを撃つなあ!!!」という悲痛な叫び。そして――
――ドルルルルルルルルルル!!
凄まじい音と共に放たれた弾丸は目標であったコムリンには一切当たらず、回転しながら周囲を無差別に破壊して……その、ひとつが。
「きゃああっ!?」
「さん!?」
……それは、一瞬の出来事で。何が起きたのか、にはわからなかった。
弾丸のひとつが、自分に向かって真っ直ぐ飛んできたのは見た。避けるとか、そんなことを考える暇すらなく、ただ反射的に目を閉じて叫んだだけ。
アレンもリナリーを背負い、皆自分の身を守るだけで精一杯の状況だったはずだ。
――なのに。
音が止みあちこち壊れたそこに、己は無傷でいた。
どうして無事なのか、あの弾丸はどこへいったのか……わからないまま。
「優先順位設定! アレン・ウォーカー、重傷ニヨリ最優先ニ処置スベシ!!」
コムリンの不吉な言葉で疑問は吹き飛び、現実へと意識を戻された。
コムリンは手の形をしたモノでアレンの足を掴む。
「アレンを手術室へ連行――!!」
「ぎゃあああ! 何あの入口!?」
「アレン!!」
そのまますごい勢いで引きずられていくアレンへと反射的に駆け出した。けれど、先程の砲撃によって崩れた床に足を取られて転んでしまう。
それでも何とか彼の許へ行こうとするその耳に入ってきたのは。
「さあ、リーバー班長! コムリンがエサに喰いついているスキにリナリーをこっちへ!!」
「あんた、どこまで鬼畜なんだ!」
この場所――というか『室長』という存在に対して不信感を募らせるには充分な会話で。
他の人間を頼ってはいけない……そう瞬時に判断し、足に力を込めた。
アレンは自分を見つけて守ってくれた。だから今度は自分が彼を守る番。何の力もないけれど、このまま何もせずに見ていることなんてできるはずがない。
吹き矢によって麻痺してしまったアレンの身体を抱きしめ、彼に代わって力一杯踏ん張る。だが、当然というか機会の力に敵うはずもなく、引きずられて徐々にその距離が縮まっていく。
「に、逃げてくらしゃい、しゃん……」
「いやっ!!」
自分が危険だというのに尚、他人を気遣うアレン。その言葉に甘えるつもりならば、初めからここには来ていない。――けれど、現実は無情だ。
「手術♪ 手術♪」
コムリン胴体部分にある扉の中で、到底『手術』に使うとは思えない大きなハサミやドリル、チェーンソーまで手につけた人形たちが不気味に歌っている。
それがすぐ目の前に迫り、アレンを捕らえようといくつもの手が伸ばされて――
「だめええぇぇ――――――!!!」
――バンッ!!
力の限り、叫んだ――刹那。イノセンスを宿した時に感じた、あの身体を走る痺れに襲われた。ほぼ同時に、何かが破裂したような音が響き……引きずられることはなくなった。
何が起きているのかは、わからない。確認する気力もない。
身体を支配しようとする痺れに抗うのに精一杯で、目を開けることもできなかったから。
ただ、閉じているはずの目に、チカチカとまぶしい光を感じてはいたけれど。
「不明イノセンス発動……適合者の身体機能に異常を確認。保護及び調査のため、麻酔ガス使用シマス!」
バリバリという音の奥から聞こえたコムリンの音声。その直後、全ての音が遠のいていって――闇の中に、消えてしまった。
「……ん……」
顔に感じたひやりとした感触に、アレンの意識は現実へと戻った。
目を開けてはいるものの、ぼんやりとして視界が定まらない。
「あれ……?」
「気がついた、アレンくん?」
聞き覚えのある声はリナリーのものだ。声は――背後から聞こえた気がして、振り向こうとした。だが、動けない。――否、身体自体は動かせるが、身動きが取れないというか……
「リナリー? ……あれ、動けないん、です、けど……?」
「でしょうね。抱き枕状態ですもの」
「――は?」
言われた言葉の意味を、動きの鈍い思考で考える。
身動きが取れない現状を、リナリーは『抱き枕』と表現した。つまり、眠っている誰かに抱きしめられているということ――か、と。
時間をかけて結論を導き出し、その相手を確かめようと頭を動かした。ぼんやりとしていた視界に僅かに奥行きが出て、見えたその顔は……
「さん……」
至近距離にある寝顔。視界がぼんやりとしていたのは、あまりに近くにあった彼女の服のせいか――と。未だ鈍い思考回路が導き出す。
その時、何か引っかかりを覚えた。
己の頭の上にあるの顔。至近距離のため定まらぬ視界。身動きの取れない身体。そして、抱き枕。
現状を表す言葉が、まるでパズルのピースのように浮かび上がり、カチリと組み合わさってひとつの形を成した。
女性の胸に顔を埋めているのだという、己の現状を。
「う、わわわっ!?」
自覚した途端、一気に顔に熱が集中し、慌てて彼女の腕から抜け出した。――心臓がばくばくいっている。
「ななな、なんで! こんな状況に!?」
「兄さんの吹き矢で麻痺しちゃったアレンくんを守ろうとしてたみたいよ。コムリンが出したガス状の麻酔で眠らされても、ずっと放さなかったらしいわ」
「そ……そうなんですか……」
ようやく知ることのできたことの顛末。それに、リナリーの静かな声も相俟って、アレンは落ち着きを取り戻すことに成功した。
そうして、思い出す。意識を失う前のこと。
確かにあの時、に庇われ、また、何か強い光を見たような気がする。
改めて彼女へと目を向ける。まだ麻酔が効いているらしく、よく眠っていた。顔の少し横、小さな傷が幾つもついた手が目について――アレンはそっと触れる。
出会った時から傷を負ってはいたけれど、真新しいこれは先程ついたものだろう。
「無茶なこと、させちゃいましたね……」
何故こんな無茶をしてまで守ろうとしてくれたのか……その理由が思い当たるだけに、余計に申し訳ない気持ちになって。
「ごめんなさい……それと、ありがとうございます」
意識のない彼女に、そっと囁いた。――と。
「アレンくん……恋人作って帰ってきたの?」
「違います!! みんなで同じこと言わないでください!!」
「しぃー。起きちゃうよ?」
「あ……っ」
的外れな問いに思わず声を大きくしてしまい、指摘されて目を落とす。深く眠り込んでいる様子に胸を撫で下ろすと、くすくすと笑う声が耳に届いた。
「ごめんね、冗談よ。記憶を失くしている彼女を、アレンくんが見つけたんでしょ?」
「ええ……だから、きっと不安なんだと思います。名前だってまだ思い出せていないのに、戦いの中に身を置くことになったこと……」
普通に考えたって、相当な覚悟がいることだ。だって……恐らく、アレンがいる場所だからこそ、承諾したのだと思う。
今の彼女にとって世界は白紙。その中で知っているのが、アレンとアレンに関わるものだけだから。
未知の世界に踏み入ることは、誰だって怖いもの。彼女にとっての未知の世界は、『見知らぬ人との平穏な日常』だった。
……僅かでも自分が知る者と離れてしまうこと。それを、彼女は何より恐れているように思えた。
だから、こそ。思わずにはいられない。
「自分の所為だ――とか、考えてる?」
「……彼女を見つけたのが、普通の生活を送っていた人なら――って、思ってます」
そうなら巻き込むことはなかった。
鋭い指摘に素直に答えると、小さな溜息が耳朶を打って。
「アレンくん。彼女が適合者だってこと、忘れてない?」
「忘れて、ませんけど……」
「亡霊の噂があった廃墟の町に、普通の生活を送ってる人が近づくと思う?」
「…………」
「来たとしても、アクマがいたのよ?」
次々と続く問いに、アレンは言葉を失くす。
本当は、わかっているのだ。もしかしたら、なんて、埒もない考えであるのは。
「平穏な日常の中にだってアクマは潜んでいるもの。危険があるのは変わらないわ。むしろ、アレンくんが見つけたからこそ、彼女は身を守る術を手にすることができるの。何も悪いことばかりじゃないわよ」
「…………はい」
リナリーが言ったことも、わかっている。だから、頷いたけれど……でも、それでも――
「――っ」
不意にアレンは息を呑んだ。手を――握られたから。
視線を落とすと、案の定。蒼い瞳が薄い瞼の下から姿を見せていて。
「気がついたんですか、さ――」
「……パパ?」
「え――!?」
「ごめん、ね……パパ……あたしは、を……ママの姓を、名乗るよ……」
パパって、父親に間違われるなんて、やっぱりこの白髪の所為なのか!? 祖父に間違われないだけマシって思うべき!? いやでも――等々。
ぐるぐると頭の中を巡った衝撃は、続いた言葉で見事に吹き飛んだ。
「記憶が――」
「アレンくん!」
しっ、と。口に人差し指を当てたリナリーに従い、口を噤む。
うっすらと開く目に力はなく、アレンを父親だと思っていることからも、夢現であるのは明らかだったから。
本当に記憶が戻ったのならいい。だが、この一時だけのものならば――できる限り引き出しておいたほうが、後々取り戻すきっかけになるだろう。
そう思っての判断だったのだが、果たして――
「パパのこと、大好きだけど……でも、日本には、いられないから……あたしは、ママの故郷に行くよ……だから、になる……ごめんね…………パ、パ……」
すぅ、と。再び寝息がこぼれ始めた。
蒼い瞳を隠した瞼に押し出された雫を、アレンはそっと指で拭った。
「記憶、戻りかけてるみたいね」
「はい……名前、ファミリーネームだけですけど、わかりました」
「目が覚めて、完全に記憶が戻っていたなら、本当の名前もわかるわよ。そうじゃなくても、時間が経てば戻る可能性が高いことはわかったんだもの。よかったじゃない」
リナリーは安堵を笑顔に変えて、そう言った。
彼女の言う通りだと、アレンも思う。記憶が戻るのは、のためになることだ。例え悲しみやつらい出来事が多かったとしても、それが彼女自身を形作ってきたものだから。自分が何者なのか――その存在証明だから。
それはきっと、彼女を支える柱となる。少なくとも……自分が何者なのかわからない不安からは、解放されるだろう。
――けれど。
何故だろう……それを喜べない自分がいるのは。
「……そうですね……」
形にならないその想いを表すことなくアレンはリナリーへと同意を返し、もやもやした気持ちに蓋をして笑顔を作った。
「やあやあ、黒の教団へようこそ、くん。来て早々いきなり騒動で悪かったね。こんなことは滅多にないから安心していいよ。むしろ、緊張がほぐれる丁度いい出来事になったかな? あはははははは♪」
包帯ぐるぐる巻きで人相すらわからないミイラ男と化している、あの騒動の原因を作ったコムイ室長とやらを、はアレンの陰に隠れて胡乱な眼差しで見つめる。
目が覚めて、アレンの無事な姿に安堵したのも束の間。大元帥とかいう偉い人たちに会わなきゃいけないのが決まりだということで、とりあえずリナリーに連れられて最低限の身嗜みを整えたのだが、その間に意識を失った後のことを軽く説明してくれた。
自分たちと入れ替わるように麻酔から醒めたリナリーがコムリンを撃破してくれたお陰で事無きを得たこと。コムリン製作者である科学班室長のコムイはリナリーの実の兄だということも。
実の妹……まして、あんなに愛らしい少女がマッチョに――ともなれば、取り乱してしまうのもわからなくはない。
とはいえ、それを差し引いても、あの暴挙はないと思う。
どうやら昇降装置らしいあの逆さ錐体に乗ってここまで移動してきた中、見えた本部内の様子は、悲惨ともいえる破壊っぷりだというのに、その元凶である自覚すらないようにしか見えないし。
こんな人物が『室長』なんて地位に納まっていられるような組織なんて、本当に大丈夫なんだろうか。
ちらりとアレンに視線を向けてみると、彼もまた呆れた目でコムイを見ていた。……不安だ。
「大体の説明はアレンくんがしてくれたみたいだけど、イノセンスは今のところ寄生型と装備型の二種類に分けられるんだ。くんは、アレンくんと同じ寄生型になるね。寄生型は副作用はあるけどレアでね、イノセンスの力を最も引き出せる選ばれた存在なんだ。とはいえ、まだ宿したてで何もわかっていないから、まずはヘブラスカに見てもらおうか」
目的地に着いたのか、昇降装置を停止させたコムイが胡散臭くしか聞こえない声で言った。
その言葉が終わるか否かという時、何かが身体に巻きつき、すごい力で引き上げられ、簡単に足が装置の床から離されてしまった。
「っ!?」
一体何が起きたのか。事態を把握しようと巡らせた視界に、巨人と表現できるほどの大きさの顔らしきものが満ちる。
身体に巻きついているのは、その巨人の、恐らく手と呼べる部位。しかし指と呼べる部位の先には、更に小型の手が――指があるという、見るからに異様な形で、生理的な嫌悪感を、恐怖を与えてくる。
その、何本もの指の先が。
皮膚に融け、通過して、身体の中へと入って、き、た?
「や……っ」
「落ち着いてください、さん。大丈夫です、害はありません。イノセンスを調べているだけですから」
あまりにも異常な体験。生理的な恐怖と嫌悪感も相俟ってパニックに陥りかけた耳に、落ち着いた声が滑り込んだ。
すがる思いで向けた視線は、真っ直ぐにこちらを見上げていた静かな蒼い瞳と絡んだ。
コムイは信用できない。けれど、アレンなら信じられる。
気持ちも感覚も最低最悪に気持ち悪くて仕方ないが、ぎゅっと目を閉じて耐えた。
どれくらい経ったのか……気持ち的には長く感じたが、実際にはどの程度かはわからない時間経過を経た頃。
「・……おまえのイノセンスは、暗き闇夜を照らす暁の光となるだろう……」
そんな声が聞こえて、ふっと目を開けた。
気がつけば、身体の中を探られる嫌な感覚はなくなっていて、元いた場所へと戻されるところだった。
戻された自分の足で立つ自由。けれど、まだどこか身体の感覚がおかしくてよろけてしまった。すると、アレンがさり気なく支えてくれて。
自分と他人。その境界線を侵すことのない、極普通の触れ合う感覚を自覚し、やっと少しだけ落ち着くことができた。
「なかなか良い預言がもらえてよかったじゃないか~♪ 八方塞がりの状況を打破してくれるとも受け取れる預言だ。アレンくんといい期待できそうで嬉しいね♪」
こちらの気持ちなど丸無視な様子で能天気に拍手を送ってくるコムイ。
支えてくれているアレンの手を握るだけで何も言えないでいると、アレンが溜息を落として。
「僕が初めてここに連れて来られた時もこんな調子でした。……やっぱり、一緒に来て正解でしたね」
呆れ返った囁きに、コムイに対する不信感はより一層強まった。
反対に、アレンの気遣いと優しさが心に沁みて。大元帥が何か言っていた気がするが全く頭には入ってこないまま、彼らの姿は現れた時と同様闇に消えていた。
「と、いうことで。・。新しいエクソシストの入団を歓迎するよ♪」
締め括るように右手を差し出して言ったコムイ。気持ち的にはその手を取りたくはなかったが、仕方なく握手を交わした。……交わしてから、ふと気付く。
「……『』……?」
うっかり聞き流していたけれど、二度ほどそう呼ばれていた気がする。
まだ記憶は戻っていない。ひょっとして、名前と同様アレンがつけてくれたのだろうか。
そう思ってアレンを見ると、苦笑が返された。
「やっぱり、まだ思い出せてませんか」
「アレン?」
「先程、夢現状態で寝言のように言っていたんです。母親の姓であるになる、と。ですから、間違いなくあなたのファミリーネームですよ」
初耳の事実。戻りかけている記憶……けれどそれを聞いても今は何も思い出せない。
それでも、記憶が戻る可能性が案外高いということと、その内のひとつを得たということ。
「そう、なんだ……」
様々な感情が入り混じって、それしか言えなかった。……けれど。
「記憶も戻りかけてるし、良いこと尽くめだね♪」
複雑な気分でしかなかったのに、コムイにこんなことを言われると、良いほうの感情が見事に鳴りを潜めたのは何故だろう。
「何だったら、記憶のこともイノセンスのことも、まとめて検査してあげるよ~」
「全力でお断りします」
「全力で阻止させてもらいます」
とりあえず、腹の底の見えないコムイの申し出には、心の赴くまま拒否しておいた。