――おまえのイノセンスは、暗き闇夜を照らす暁の光となるだろう――
暗い闇夜というのなら、記憶を失い何者かもわからない身で、恐らくは初めてとなるだろう戦場などという命の危険のある場所へ行かなければならなくなった今の状況がまさにそうだといえる。
けれど、それでも暁の光となると言われたから……
未知のものをただ恐れるばかりではなく、まずは受け入れることから始めてみようと。
そう……思った。
「くんには、これからイノセンスを発動できるように色々訓練を受けてもらうことになるんだけど――」
ほとんど何も聞いてはいなかった大元帥とやらとの面会を終えた帰り道。相変わらず昇降装置の上でミイラ男状態のコムイが切り出した言葉に、は気を引き締める思いで頷く。
「はい」
一体どんなことをするのか。不安はもちろん未だ心に居座っているけれど、いつまでもその存在を理由に甘えているわけにはいかないと思うから。
できることから、頑張ってみよう、と。
次の指示を待っていると――
「とりあえず、今日はリナリーとお買い物に行っておいで♪」
「「 はい? 」」
完全に予想外の内容が出てきて。己の耳を疑ったアレンと共に声を揃えて聞き返す。
ミイラ男状態のため表情は全くわからないコムイだが、声の調子から察するに笑っていると思われる。けれど、この話の展開であの指示……全く意図が読めない。
今までが今までなだけに、一体何を企んでいるのか、と。
肩透かしを喰らった不満と共に、また不信感が頭をもたげてきていた耳に届けられた理由は。
「着の身着のまま、真っ直ぐここへ来てもらうことになったから着替えもないし、第一女性は何かと入り用な物が多いだろう? これから忙しくなるからね。今日は一日ゆっくり近くの町を散策しておいで。何か思い出せるきっかけに出会えるかもしれないしね♪」
意外にも、気遣いに満ちたものだった。
次々に起こってくることに対応するだけでいっぱいいっぱいで流されるだけの自分とは違い、必要なことをきちんと把握した上で最善を導き出し指示してきたコムイは、確かに『室長』という肩書き――人の上に立つ者としての能力を備えていた。
あの騒動による第一印象から信用できない人物だと決め付け、変に勘繰ってしまった自分が恥ずかしい。
……そうだ、受け入れることから始めると決めたのだ。受け入れるためには、ありのままを見なければならない。決め付けて否定するのではなく、新たに知ったそれもまた一面なのだと見つめることが大切なのだろう。
双眸を閉ざし、深呼吸をひとつ。初めてアレンの陰からではなく真正面からコムイと向き合って。
「ありがとうございます」
彼にそのつもりはないのだろうが、身を以ってこちらの決意の具体例を示してくれたこと。その感謝を、気遣いへのそれに託して伝えた。
包帯で表情が全く見えない現状では伝わったのかは定かではない。けれど、そもそもが誰も知らない密かな決意であり、自己満足による感謝のため別段構わなかった。
――ただ、不思議には思えたけれど。
「それじゃあ僕、荷物持ちしますね」
「ダメ!」
他人の心の内など知る術もないアレンは、当然のことのように同行を申し出た。それに対して口をついて出た答えは――拒否。
アレンは吃驚している。だがもまた自分自身に驚いていた。
互いに吃驚した顔で見つめ合った時間は、ほんの僅か。
どちらかが次の行動に移る前に、二人の間にコムイが割り込んできて。
「アレンくんのス~ケ~ベ~♪」
よくわからない動きをしながら、楽しげな声でそんなことを言ったから。
二人の驚きは困惑に塗り替えられた。
「え!? 何でそうなるんですかコムイさん!?」
「くんの下着見たいの? 知りたいの? むしろ選びたいの? 恋人の下着の柄まで把握してなきゃ気が済まない束縛系男子だったってことでしょ~、アレンくん?」
「っ!?」
「んなっ!?」
アレンが投げつけた問いに打ち返してきた答えは、明らかにふざけていると丸わかりの大飛球。
ふざけていると、からかわれているだけだと、頭ではわかる。わかるのだけど……理性と感情は別物で。
「違いますよ! 荷物持ちだって言ったじゃないですか!?」
「荷物持ちという言葉の裏に隠されたアレンくんの下心~♪」
「下心なんてありません!!」
「え~? くんもそう思ったからダメって言ったんじゃないの~?」
「ちょ……っ、そうなんですかさん!?」
白いコートに遮られていた視界に、再びアレンの姿が戻った。
その瞬間、ぼんっ、と音でもしそうな勢いで顔に熱が集まり、考えるより先に手は自らの身体に巻きついていた。……そう、まるでアレンの視線から下着を隠すかのように。
「さん!? 違いますよ!! やましい気持ちなんてこれっぽっちもありませんからね!?」
……うん、わかってる。アレンはただ親切心から言ってくれただけだってことは充分にわかっている。自分の反応が余計に誤解させてしまっていることも、頭ではわかっているのだ。
でも――感情に従う身体の反応を理性では止めることができないのだから仕方がないではないか。
本当の理由どころか言葉さえ発せずにいると、コムイの笑い声が躍って。
「冗談だよ、冗ー談♪ いやあ~若いねぇ二人共♪」
「からかわないでくださいコムイさん!!」
「あはははっ♪ ほら、着いたよ。とりあえず朝食を摂っておいで。その間にリナリーに話をしておくから」
この場を乱した本人として責任は取ろうとでもいうのか、あっさり悪戯を認めて場を治めたコムイの指示に、やはり言葉はデずにこくこくと頷いて足早に昇降機から降りた。
「あ、待ってくださいさん!」
「アレンくーん。ティムキャンピー少し借りるよー」
「はい、わかりました! ――って、さん! 食堂そっちじゃありません!」
追ってくる声に何とか足を止めて、ちらりと振り返る。全身真っ白なコムイが片手を振っているのが見えた。
――不思議な感覚だった。
あんなに信用できないと思って、些細な言動にも疑う心が真っ先に出てきていたというのに。個性として受け入れると決めたら、からかわれたというのに不信感は湧いてこなかったのだから。
本当に、不思議だと思う。
心構えが違うだけで、こんなに世界が違って見えるなんて思いもしなかった。
この貴重な体験をくれたコムイへ改めて心の中で感謝してから、追いついてきたアレンについて食堂へと向かった。
急にが変わった。少なくとも、アレンにはそう見えた。
急変する理由として最も可能性が高いのは、記憶が戻ったことによって本来の彼女自身を取り戻したということ。
だが、そういうわけでもないようで。アレンにはその理由が、きっかけが、まるで見当もつかなくて、不思議――だった。
……うん、不思議だ。コムイに対して、ずっと自分の陰に隠れて窺い見るという警戒心丸出しだったのが、特別きっかけとなるような出来事があったようには思えないのに真っ直ぐ向き合ったのだから。
それに――……
アレンは、向かいの席に座るを見た。彼女の前には、オムライスとサラダとスープが置かれているが、ほとんど手がつけられていない状態だ。食べずに何をしているのかといえば、ポカンとした顔でこちらを見ていて。
「食べないんですか? さん」
「え……あ……食べる、けど……」
声を掛けると、ハッとしたように手を進め始めた。
アレンもまた、ミートスパゲティを口に運ぶ。教団の料理長・ジェリーの作る料理は本当に美味だ。自然と頬が緩むし、手も早くなる。
「アレン……よく食べるね……」
ふと聞こえた呟きに顔を上げると、また食事の手を止めたが半ば呆然とした様子でこちらを見ていて。
口の中のスパゲティを咀嚼し、飲み込みつつ空いた皿を横へと移動させる無意識の動きを、目で追ってみて――彼女の反応の理由を理解した。
そこには既に食べ終えた皿の山がひとつできていた。だが、己の反対隣にはまだ料理の載った皿が、積み上げられているのとほぼ同じ量あるわけで。
「あ、はは……よく、びっくりされます」
渇いた笑いで答えると、ようやく衝撃が治まってきたらしく再び食事を進め始めて。
「うん、びっくりした……その細い身体のどこにそれだけの料理が入るのか不思議……」
「どこって、もちろん胃ですけど」
「それはわかるけど……」
次はパエーリャを堪能しているアレンを、どうも納得いかないらしくじっと見つめてくる。サラダを咀嚼しつつ、その視線は上から下まで何度も往復して。
「やっぱり変。一度にそれだけ食べても全然お腹膨らんでもいないし……」
そんなことを訴えられても、こちらとしては苦笑するしかない。
「消化が早いんじゃないですかね? 昔っからこうなんですよね、僕。とりあえず、食べれる時には食べられるだけ食べるようにしてるんですけど……」
「……アレン、実は胃袋がよっつあったりする?」
「んぐっ!?」
突拍子もない言葉に、食べていたものが気管に入りかけた模様。思い切り咳き込んで、しばし。最後に水を一気に飲み干して、何とか肉体的には落ち着いてから、疑問を投げかける。
「何でそうなるんですか!?」
「ん~……確か牛って、胃袋よっつあったはずだったな~って、ふっと頭をよぎって」
「さん!? 僕、人間ですよ!? 牛じゃありませんよ!?」
こちらの訴えをちゃんと聞いているのか、いないのか。ただくすくすと楽しげに笑う姿が、やはり変わったという認識を改めて感じさせた。
それは決して悪い意味じゃない。無理せず自然に笑えるようになったのなら、それは喜ばしいことだ。ただ、自分がからかいの対象にされて、というところは少し面白くないが。
……面白くない?
はて。アレンは小首を傾げる。
何故だろう。彼女がコムイとまっすぐに向き合った時にも、この感覚があった気がする。あの時だけではなく、他にもあったような……不思議だと思ったことは間違いないのだが、他にも感じた上手く言い表せない全ての感情をひっくるめて『不思議』だと、そう片付けたような……
「……アレン?」
「え?」
「どうかした?」
気付けば食事の手を止めて考え込んでいたようで、不思議そうな、どこか少し不安そうな表情を向けるの姿があって。
そんな表情をさせたかったわけではないアレンは、誤魔化すネタを探して頭を働かせる。
けれど、出てきたのは、結局先程考えていた内容に沿ったものでしかなかった。
「えーっとぉ……結局うやむやになってしまってましたけど、このあとの買い物って僕も行っていいんでしょうか?」
「ダメ」
そう、これも『不思議』の一言で片付けたことのひとつだ。
まさか彼女から拒否が返されるとは夢にも思わなかったから、理由がまるでわからなくて。どうにも、すっきりしない気分になる。
「やましい気持ちはありませんよ?」
「それはわかってるから蒸し返さないで」
ほんのり頬を染めてそっぽを向く姿は、可愛らしいと思う。
けれど、それでもまだ気分は晴れないままで。
「じゃあ、どうしてダメなんですか?」
ストレートに聞いてみた。
答えは、すぐには返ってこなかった。俯き加減でオムライスを食べること、しばし。口の中の物を飲み込んでからも、ややあって。
「だって……アレン、マテールからずっと、ほとんど寝てないんでしょ?」
「それは、まあ……コムリンの麻酔で寝たくらい、ですね……」
「ケガだってしてるんだし、折角安心できる場所に戻ってこれたんだったら、ゆっくり休んでてほしいから……」
ぽつり、ぽつりと語られた理由に、ようやく得心がいった。けれど、アレンとしては水臭いと思ってしまう。
記憶が戻らない限り不安は消えないと言ったのは彼女自身だ。己の不安を押し殺してまで気遣ってくれなくても大丈夫なのに――と。
「ありがとうございます、さん。でも、大丈夫ですよ? これでもちゃんと鍛えてますし、荷物持ちくらい何てことないです」
笑顔で力瘤を作る仕草までして見せたのは、安心させたかったから。安心して、一緒に出掛けてほしかったからだ。
しかし――彼女から笑顔が返ってくることはなく、俯いたままで。
「さん?」
「アレンくん。やっぱり恋人作って帰ってきたのね」
「違いますってば! どうしてそんなにくっつけたがるんですか皆さん!?」
「くっつけたいわけじゃなくて、そう見えるの」
「ええっ!?」
呼び掛けに対して答えが返る前に割って入ってきた断言に、アレンは反射的に否を返した。更に予想もしなかった客観的な意見に頭を抱えたくなって、はたと気付く。
「リナリー……あれ? 団服じゃない……」
「うん、任務じゃないから」
ティムキャンピーを頭に乗せて立つリナリーは、あの黒い団服ではなく中華風の衣服を着ていた。どうやらと出掛けるために着替えたらしい。
「って、そうだ、さん!」
宙ぶらりんになっていた返答を求めて視線を戻したアレンは、ぎょっとした。
「何で泣いてるんですかさん!?」
俯いたまま声も出さずにはらはらと涙をこぼすは、アレンを見ることもなく、ただ隣に立つリナリーの袖口をきゅっと小さく掴んで。
「リナリぃ……無茶しようとするアレンを止めてぇ……あたしの言葉じゃ全然聞いてくれないのぉ……っ」
「女の子泣かせるなんて、アレンくんサイテーね」
「ええっ!?」
訴えを受けたリナリーがじとりとした目を向けてきた。
そんな目で見られて責められて、引き下がる以外の選択肢などあるのだろうか。
「ちょっ、わかりました! ちゃんと休みますから、泣き止んでくださいさん!!」
「はい、言質いただきましたー。、大丈夫よ。アレンくん食事終わったあと兄さんに呼ばれてるから、一緒には行かないわ。だからね、泣き止んで? ごはん済ませて、ゆっくりショッピングしましょう?」
アレンが白旗を挙げた途端、リナリーはにっこり微笑んでを慰め始めたではないか。しかもその台詞からは、初めから同行の余地はないと知った上で確約させるためだけに責めてきたことが丸わかりで。
女性って……と肩を落とすアレンの前で、は全然気付いていないらしく、必死に涙を止めようとしていた。
泣かれるようなことを言ったつもりもないアレンは、またひとつもやもやした気持ちが増えてしまい、ただ深く嘆息する以外に何もできなかった。
朝食を済ませアレンとは食堂で別れたあと、リナリーに連れられて例の地下水道を通って再び町へと出た。
まず、真っ先に向かったのは理髪店。理由は覚えていないので不明だがザンバラな髪を整えてから、改めて散策となった。
夜とは違い、明るい昼間の街中は人通りも多く活気に満ちている。買い物をしながらゆっくりと見て回る街中は、記憶がないからか見る物全てが新鮮だった。特に同年代であるリナリーとの買い物は、最初こそ少し戸惑いがあったものの、それでも楽しくて。自然と笑顔になっていた。
だからだろうか。
「、明るいね」
リナリーが、ぽつりとそう呟いた。
「え?」
「話に聞いていたほど不安さを感じないわ。とても、明るい」
どこか安堵した様子で感想を述べた彼女に、は苦笑する。
「不安は、あるよ? でもヘブラスカがね、あたしのイノセンスは闇夜を照らす暁の光になるって言ってくれたの。だから、怖がってばかりいないで受け入れることから始めてみようって決めたから」
「あー、それでなのね」
そのお陰で不安な気持ちが外に表れていないのなら、それは喜ばしいことだ。余計な心配を掛けずに済むのだから。……アレンに対しては、効果がなかったようだけど。
「そう決めた矢先、アレンくんに過保護にされちゃったら悔しいやら情けないやらで、泣けてきちゃったわけね?」
「う……っ」
誰にも言ってなかった密かな決意を打ち明けると、リナリーはあっさりと泣いた理由まで見破ってきた。
そんなに自分はわかりやすいのだろうか。むしろ今、まさに妙に情けない気持ちなんですが……っ。
「や、休んでほしかったのは嘘じゃないよ。ここまでずっとアレンの負担にしかなれてなかったから、これ以上は頼っちゃ悪いと思って……」
「アレンくんは負担だなんて思ってないわ、きっと」
「……アレンは、優しいから……」
「その優しさに甘えたままでいたくないのね」
「うん……」
リナリーのほうが年下な気がするのにこちらの心情を的確に推し量れるのは、記憶がないことも含めた人生経験の差だったりするのだろうか。
面白がったりしていない、落ち着いた彼女の声音には、他人の心を素直にさせる力がある気がした。情けないと思う気持ちはどこかへ消え、すんなりと自分の心に向き合い認められたから。
はぐれないよう繋いでくれている手も含めて頼もしく感じてしまうのは、年上(多分)としてはやっぱり問題あるかな――とか。
ぐるぐると考えていた耳に、きゅるるっという音が――身体の中からというか、まあ、腹の虫の声が届いて。
「ん? お腹空いちゃった?」
「~~っ」
雑踏の中だから大丈夫かと思ったら、リナリーの耳にもしっかりと聞こえてしまったらしい。
恥ずかしさで一気に顔が熱くなる。
「どこかで何か食べましょうか」
「ご、ごめんなさい……っ、その……っ」
まだ昼には少し早い時間で、朝食を済ませてからもそんなに時間は経っていない、はず。覚えてはいないけれど、以前はそんなに大食いじゃなかった気がするし……うん、朝食を注文する時の感覚はあの量が『普通』だと告げていたから、間違いない。
それなのに、もう空腹になるなんて……それだけ無自覚にはしゃいでいたのだろうか、と。
「気にしないで。多分それイノセンスの所為だから」
「――え?」
居たたまれない思いで縮こまりたくなっていたら、あっさりしたリナリーの声が後ろ向きに進んでいた思考を止めた。
気休めなどではなく単なる事実として告げられた思いがけないそれに、きょとんとなる。
「寄生型の人って自分の身体を武器化するからなのか、発動してなくてもエネルギーの消費が多いみたいなの。ほら、アレンくんも沢山食べてたでしょう?」
リナリーに促され、食堂でのことが思い出される。
早食いで大食いといった様子のアレンの食事風景は、昔からだと言っていた。つまり彼はそんな頃からエクソシストだったということだろうか。――いや、今問題なのはそこじゃなく。
「えっと、つまり、あたしもあのくらい食べなきゃ今までみたいにはもたない身体になっちゃったってこと?」
「多分ね」
「~~っ、アレンのこと牛だとか笑ってられる立場じゃなかったのね……っ」
数時間前の自分を殴りに行きたいと本気で思うとは反対に、リナリーは笑い声をこぼして。
「あはっ、って面白いっ!」
……面白がられても困る……いや、うん、アレンごめん――と。こっそり心の中で謝りつつ手を引かれるままに近くのレストランに入って席に着いた。メニューを見ながら「アレンくん並みに食べてみる?」とからかい半分に言われたけれど、流石にそんな勇気はないので普通に一人前を注文した。
ウエイターが去ってから、テーブルに身を屈めてみる。
「……?」
「ティムキャンピーって不思議……生物じゃないのよね?」
テーブルの上にちょこんと乗っている金色の物体を至近距離でじっと見つめ、更に指先でつついてみた。
まんまるボディに大きな羽と長い尾、ちょこんと小さな足と角らしきものがあるだけで、目も耳も口らしきものも見当たらない。尾の位置や羽の向きから、十字模様のある部分が正面なのがわかるだけ。
その正面と向き合っていると、意志のようなものを感じるのは気のせいだろうか。
「ええ、ゴーレム――土人形って言えばいいのかしら? 命はないけど、こちらの言うことは理解して従うし、崩れても少しすると元に戻れるの」
「へえ……本当に、不思議な存在ね」
「教団の無線ゴーレムは自動再生はしないんだけど、ティムは特別なの。映像記録機能があるのよ」
「無線に映像記録かぁ……便利なような、そうでもないような……」
「任務では必要不可欠よ。どこからでも本部と連絡が取れるし、仲間内での連携とか、あと探知機能があるから合流するのも楽だし」
「う~ん……」
リナリーの言いたいことはわかるのだが、自分が言いたいことは何が違う気がするのだ。具体的に何がと聞かれると答えられないのだけれど……この感じは、これまで街中を見て歩いた時にもあったもので。
上手く表現できずに悩んでいると、リナリーは一言断わって席を立った。
残されたは、未だティムキャンピーと向き合ったまま、これまでに感じたことを思い返していた。
人々の様子を含めた街中を見て歩いて感じたもの、それは――『懐かしさ』。けれどその感覚は、以前にも訪れたことがあるといった、自分の経験に基づく類のものではない。
他の言葉で言い換えるなら……『古めかしい』、だろうか……自分が実際に触れる機会すらなかったような生まれる前の時代、知識として知っているだけの世界に対して感じるものと似ている気がするのだ。
やはり理由はわからずじまいなのだけど。……記憶が戻ればはっきりするのだろうか。
―― …… ――
不意に、目を瞠る。
何だろう……フラッシュバックとでもいうのだろうか……今、何か思い出しかけた気がする……
一瞬すぎて掴めなかったそれをもう一度拾い上げようと試みる。――と。
「おねえちゃん、だいじょーぶ? あたま、いたいの?」
くいくいと袖を引かれると同時に可愛らしい声が耳に入り、我に返る。
いつの間にか身体を起こし、テーブルに肘をついた状態で頭を抱え込んでいたらしい。心配そうに見上げてくる小さな少女の姿に、ふっと心があたたかくなる。自然と微笑み少女の頭を撫でた時、更に人影が。
少女の母親かと思ったが、立っていたのはウエイターで。
「オ待タセイタシマシタ。オナカガ減リマシタノデ殺サセテイタダキマス」
片言のようなおかしな発音、意味不明で不吉な言葉。
筒状のモノが身体を突き破ったように出てきて、膨らみ、人の形を失っていく。
トレイと料理の載った皿とが床に落ちて散らばる頃にはウエイターの姿はどこにもなく、人の顔といくつもの筒がついた球状の物体が浮いていた。
――銃器に転換するボール型のアクマはレベル1で――
アレンの言葉が瞬時に蘇った。
これが、レベル1のAKUMA……死ぬ? 殺され、る……
――……けりゃ、おまえも母親も殺されずに済んだのにな――
更に脳裏に蘇ったのは、知らぬ男の声、覚えのない台詞……それが失われている記憶の一部かなどと考える余裕はなく、ただ心が追いつめられていく。
死ぬ? 否、死にたくない。それは生きる全ての生命の当然の願いであり、本能と呼べるものだろう。
死なせたくない。――それは、誰を? 覚えてもいない母親? それとも、今、目の前にいる、この少女?
様々な思考が、問答が、葛藤が脳内を巡ったのは、恐らくほんの刹那の間。意識せずに身体を動かしたのは、果たして本能か願望か――それ以外の何かの意志か。
気付けば、事態を理解もできずきょとんとアクマを見上げている少女を庇うように腕におさめ、目は真っ直ぐにアクマを睨みつけながらも、意識は胸元から身体中に広がりつつある熱に囚われていて。
死にたくない。死なせたくない。守りたい。――ならば力を解放すれば良い。
――バンッ!
何かが破裂したような音が轟き、眩い光が幾筋も降り注ぎ、突き刺さり、立ち昇り、絡み合って、鳥籠のように自分たちを囲った。
留まることなく常にジグザグに動き続ける光は、空を駆ける稲妻によく似ていて。
アクマが放った何発もの弾丸は全て、光によって防がれ、一瞬で蒸発した模様。僅かな間発生した血色の霧が晴れた先では、ボール型のアクマが更に増えて他の客へと銃口を向けているのが視界に飛び込む。
「ママ!」
腕の中の少女の声。逃げる客の女性へと向けられるアクマの視線と銃口。
助けたい。終わらせたくない。護りたい。――ならば守りの檻を矢に変え放てば良い。
思いに応えるように、すぐに脳裏に浮かぶ指示。その通りにイメージし、己の内にある熱を増幅、解放する。
絡み合っていた光が解け、抜け、矢の雨のように降り注いでアクマを串刺しにした。
目の前にいるのと、少女の母親らしき女性を襲おうとしていたアクマは、それによって弾丸と同じように蒸発して消えた。
だが、アクマはもう一体いる。矢は刺さっているものの威力が足りなかったのか、形を保ったまま動き、こちらを見ていて。
動く限りの銃口が、全てこちらへ向けられた。
しかし、もうには何かを為す力は残っていない。身体が痺れて上手く動かすことすらできない状態だった。
それでも少女だけは守りたいと、己を盾にするように抱き込んだ――刹那。
「!」
リナリーの声が聞こえるとほぼ同時。黒い影がアクマに突っ込んだように見えた次の瞬間には、アクマは真っ二つに割れ、ぼろぼろ残骸が崩れて消えつつあった。
「大丈夫!? ケガは!?」
「リナリー……」
席を立つ前とは違う形のブーツを履いたリナリーが駆け寄る。彼女の姿を見た途端広がった安堵が力を奪い、ふらりと傾いだ上体をリナリーが支えてくれて。
「おねえちゃん……」
不安そうに見つめる少女の頭を、何とか持ち上げた手で撫でてやり、駆け寄ってきた母親に抱きしめられ安心した顔で去っていく姿を笑顔で見送ることができた。
何とか、守れた……その事実が、心を満たした時間はそう長くはなかった。
――ぐうぅ~っ、と。先程よりもかなり大きく腹の虫が鳴いたのだ。
「おなか……すいたぁ……っ」
今回は恥ずかしいと思う余裕すらない逼迫的な状態で。
寄り掛かったまま素直に訴えると、リナリーからはひとまず安堵の息がこぼれて。
「……そうね。空腹状態でイノセンス発動しちゃったから、体力ほとんど使い切っちゃったんだと思うわ」
「発動……今のが?」
「ええ」
確かにイノセンスが寄生しているあたりが熱かったし、自分のイメージ通りの現象が起こっていたから、発動自体を疑う気持ちはない。
ただ、疑問がひとつ。
「寄生型は自分の身体を武器化するって言ってたよね? あたしの身体……どこか変化してた?」
アレンの戦い方とは、明らかに違っていたこと。
自分では確認できない背面あたりに変化があったのかとも思ったのだが――答えは、否。
「ううん、見た感じではどこも変わってなかったわよ」
「どういうこと?」
「うーん……兄さんや科学班のみんなのほうが詳しくわかると思う。とりあえず帰りましょう?」
「うん……」
わからないものを推測、問答していても時間の無駄だし、そもそもその時間的な余裕すら自分にはないようなもので。この店もしばらくは使えそうにないこともあり、移動すること自体に異議はないのだけど……意志に反して身体は動いてくれなかった。
寄り掛かっていた時点で予測していたか、あっさりとリナリーに抱え上げられた時には流石にびっくりしたけれど、どうやら腕力で持ち上げたのではなくイノセンスの力らしい。体重操作能力もあるらしく、水の上に立つこともできるんだとか。
途中、道端のワゴン販売でサンドイッチを買って舟の上で食べながら教えてくれて、色んなイノセンスがあるんだなぁと。しみじみと思いながら本部へと戻った。
サンドイッチを10個ほど食べてひとまず落ち着けたので、まずは科学班研究室へと向かった。そこでティムキャンピーの映像記録というものがどういうものなのか見ることができた。口らしきものが現れ、その間の空中に映像が映し出される様子は、街並みの古めかしさとは真逆に思えた。『ゴーレム』という言葉の響き自体は、古めかしく感じるけれど。
映し出された自分の姿を客観的に見ても、やはり変化は見られない……否、まあ、精々髪が少し広がっているくらいだろうか。
これに対する、専門家たるコムイの結論はというと――
「うーん……見たところ電気を操っている感じだねえ」
「電気、ですか?」
「そう。人間も含め全ての生物にも微弱ながら電気は流れてるからね。静電気とか、バチッときたことないかい?」
「あー……ある、気がします。とりあえず、言いたいことはわかります」
「うん。その体内の電気を増幅して武器化してる感じじゃないかな? 珍しいタイプだね。まあ、詳しくはもう一度発動してもらって調べてみないことにはわからないけど……」
それまで大人しく説明を聞いていたの腹の虫が再び盛大な音を響かせて、サンドイッチ10個じゃ足りないと主張してきて。
「それは明日以降にしよう。ひとまず食堂でごはんたっぷり食べておいで」
「~~っ、はい……っ」
苦笑したコムイに頭を撫でられ、絶対顔が赤くなっているなと思いつつ、言われるままに席を立って食堂に向かったのだった。
「アレンくん」
部屋でゴロゴロしていたものの朝食でのことが気になって寝付けず、気分転換でもしようと廊下に出たところで声を掛けられた。
振り向いて見れば、出掛けたはずのリナリーが立っていて。
「リナリー!? もう帰ってきたんですか?」
女性同士であることも含め、何より生活必需品をまとめて買いに出たのだから、もっと遅いと思っていた。その気持ちがそのまま表れた声音で尋ねると、苦笑が返される。
「ちょっとアクシデントがあったから仕方なく、ね」
「アクシデントって……さんは!?」
「アレンくんはちゃんと休んだの?」
「う……っ」
一人でいたことが気になって問えば、じとりとした眼差しで問い返され、言質をとられていたことが瞬時に思い出されて言葉に詰まる。
「その、寝付けなくて……っ」
視線を泳がせながらも馬鹿正直に答えると、リナリーは深く溜息を落とした。そして。
「アレンくん、優しさと過保護を履き違えちゃダメよ?」
「へ?」
脈絡のない突然の忠告。わけがわからずきょとんとしたのは、ほんの少しの間。
「過保護って相手のためにはならないんだからね? それが、彼女が泣いた理由だから」
ああ、出掛けた先でそんな話をしたのか、とか。妙に実感が籠っている気がするのはコムイが原因だろうか、とか。
考え付いていた思考がピタリと止まる。
「えーっと……僕、過保護にしてましたか?」
「ちょっとね」
全く自覚がないことを肯定されて、どう改善すればいいのだろう。
真剣に悩み始めた時、くすりと小さな笑い声が耳朶をくすぐって。
「ところで、お昼は食べたの?」
「あ、いえ、これからですけど……?」
「なら丁度いいわ。結局昼食食べそびれちゃってね。今、彼女も食堂にいるはずだから、一緒に食べてきたら?」
何故そんなに楽しそうに笑っているのか見当もつかなかったけれど、先程の忠告が距離を置けという意味ではなかったことに安堵を覚え、勧められるまま食堂へと足を向けた。
昼食時で賑わう食堂内。ひとまず注文を先に済ませ料理が出来上がるまでの時間でを探すことにした。結構な広さと人数だから難しいかと思った人探しは、同じく昼食を摂るため一緒に来ていたリナリーによってあっさり終了した。
彼女が指し示した隅っこのテーブルに、見覚えのある茶髪と、白や黒の多い教団内では珍しいパステルカラーの服を確かに認めて、そちらへと向かう。――が。近づいたことではっきりとした光景に我が目を疑い立ち尽くす羽目になろうとは。
「……さん?」
半ば呆然とした呟き。それに対してすぐに反応を返した目の前の人物は、髪型こそ綺麗に整えられているとはいえ間違いなくだ。
だが、彼女の周りには食べ終えた皿が何枚も散らばり、また積み上げられている。
自分の食事風景と大差のない状況は、朝食の時にはなかったものだ。
一体この数時間の間に何があったのだろう……
呼びかけで顔を上げた彼女はアレンの姿を認めると、ぱっと目元を朱に染めた。かと思えば勢いよく頭を下げて――ゴッ、と。そのままテーブルに打ち付けて。
「さん!?」
「アレン、牛とか言ってからかってごめんなさい」
「え!? ちょっ!? はっ!?」
「まさか自分も同じ体質に変化してるなんて夢にも思ってませんでした。牛仲間としてこれからよろしくお願いします」
テーブルに額を打ち付けたまま起き上がろうともしない様子と声音から、本気で気にして反省しているということは充分伝わってくる。背後からくすくすと笑うリナリーの声が聞こえるあたり、これを知るか予測していて廊下でも笑ったのだろうこともわかった。そしてこの光景の原因が、恐らくはイノセンスを宿したことによる変化だということも。
理解はできた、けれど、どうしていいのかはわからなくて。
「えーと……僕は気にしてませんから……とりあえず、牛から離れましょうよ、さん……」
思ったままを口にするしかできなかった。