マテールで人形の心臓として使われ、今は己の胸元に埋め込まれるように寄生したイノセンスは、どうやら電気を操る力を宿す結晶らしい。
肉体を変形させて武器とするのが寄生型の特徴である中、身体の成分を増幅して武器とする珍しいタイプということで、調査に当たったコムイを初めとする科学班の人々は興味津々といった様子だった。
彼らの知的好奇心のお陰でイノセンスの性質や能力など早々に判明したのはいいのだが、問題も出てきた。
コムイが言っていたように、エクソシストとして戦うためには安定してイノセンスを発動できるよう訓練しなければならないのだが、珍しい――つまり前例のないタイプということで、従来の方法が通じるのかが不明だということ。
そして何より、本来なら師となるべき5人の元帥たちが皆任務でしばらく帰還予定がないということが一番の問題だろう。
だが時間を無駄にはできないということで、基本的な体力作りをする傍ら、寄生型のアレンと装備型のリナリーを代理師匠として手探りで訓練していくことになった。
あくまで訓練の日々だ。肉体的には、もちろんつらいことのほうがほとんどだった。
けれど、アレンやリナリーと共に過ごす毎日は充実していて、楽しく思えたのも間違いなく事実。
それでも、不安は心にいつまでも居座って消えてはくれなかった。それどころか、増えてさえいたのだ。
前例がない――他人とは違う……そのことに対してひどく心がざわめくのは、失われたままの記憶に関係があるのだろうか……
相反する思いを抱えた心を置き去りにしたまま身体だけが確実に成長していって、一ヶ月が過ぎた頃――はアレンと共に司令室へと呼び出された。
「アレンくんとくんとで任務に行ってもらうよ」
呼び出された司令室でそう告げてきたコムイに対して、アレンは反射的に否を唱えようとした。
自在に発動できるほどにシンクロ率は上昇し、体力もつき力配分の調節も可能となって一回の発動でダウンすることはなくなったとはいえ、それでも『やっと』というレベルなのだ。そんな彼女に任務なんて――戦闘なんて早すぎる、と。
言いかけた時、リナリーの忠告が脳裏を駆け抜け、口を噤んだ。ちらりと盗み見たの覚悟を持った表情に、ぐっと拳を握り締める。
本人がやる気になっているのにその決意を折るような行為は過保護でしかない。それに気付かず泣かせてしまうという失敗をやらかしているのだ。同じ過ちは犯したくはなかったから、心配だと思う気持ちをぐっと抑え込んだ。
「今回はどうしてもくんに行ってもらいたい理由があるんだよ」
アレンの葛藤を知ってか知らずか、コムイはそう付け足してから説明を始めた。
「形状は確認できていないんだけど、イノセンスがあるのは間違いない。アクマの姿が目撃されているし、何より奇怪現象自体がアクマを寄せ付けていないからね。けれど適合者を持たないイノセンスではアクマを撃退できないし、いつまで現状が保たれるかは不明だから早めに回収してきてもらいたい。詳しいことはその資料と、案内役の探索部隊に聞くといい」
リナリーから資料を受け取ったのを確認すると、コムイは笑った。
「今から行けば丁度間に合うと思うよ。気を付けて行っておいで」
企み顔ではないけれど意味深長な言葉にと顔を見合わせ首を傾げつつ、司令室を後にした。
「トマ!」
案内役として地下水路で待っていたのは、マテールの時も一緒だったトマだった。
「お久し振りでございます。今回も私がご案内させていただくことになりました。ヨロシクお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
一ヶ月振りの再会が嬉しいのか、それとも顔見知りであることに安心したのか。笑顔で改めて挨拶を交わすを促し、舟に乗り込んだ。
暗い水路では資料は読めず、それらに目を通したのは汽車の中でだった。飛び乗り乗車にならなかったことに安堵しつつ、と向き合って座り資料をめくる。
「真実を映し出す泉、ですか……」
夕陽が水面を輝かせる時間帯に泉を覗き込むと、その者の『真実』が映し出されるというそれは、奇怪というよりは昔ながらの言い伝えに近い噂話だった。
それがただの噂話として埋もれてしまわなかったのは、その泉で見た『真実』によって成功をおさめた者や、逆に破滅を迎えた者が多数いたためだ。
そのような結果をもたらすほどに人の心を捉える『真実』とは――
「はい。どうやら覗き込んだ者が最も気にかけている事柄が映し出されるようです。私を初め、幾人かの探索部隊の者が試し、見えたものの真偽を確かめましたところ、確かに『真実』である確認が取れました。ただし、数人の者につきましては、未来の出来事を見たようで、何名かは後日に見た通りの出来事を確認。未だ結果の確認ができていない者も数名おります」
「最も気にかけている事柄……」
「はい。ですので、ひょっとすると殿が覗かれた場合、忘れておられる過去の一部が映し出されるかもしれません」
通路に立つトマのほうを思わず見てしまったのはアレンだけではなかった。
彼の言葉で、全てが繋がった気がした。
「それでコムイさん……」
「どうしてもあたしに行ってほしいって言ったのね……」
アレンと同じように謎が解けたらしいは、穏やかな表情で資料に目を落としている。
自分のことを想ってくれている人がいるという事実は、とても有難いことで、嬉しいものだ。だから穏やかに微笑んでいるのが無意識であるのはわかる。教団内で彼女が孤立などしていない証でもあり、それはアレンとしても安堵すべきことだった。
なのに――やはり、素直に喜べない自分を発見してしまう。
彼女を教団に連れて行ってから、彼女に関することばかりで、理解不能な反応が自分の内で次々に起こっている。
そんなもやもやとした思いを持て余すアレンを乗せた汽車は、目的地へ向けて走り続けていた。
汽車を乗り継いで着いたのは、片田舎の寂れた駅。そこから更に山奥へと移動する。
アクマを警戒しつつトマについて山道を登っていった先、木々に囲まれた小さな広場に然程大きくはない泉があった。
「こちらの泉でございます。恐らくイノセンスが沈んでいるものと推測されますが、中へ入ることが不可能な故に我々では確認できておりません」
「入れないって……」
トマの説明にきょとんとなる。
大きさは、大人10人もいれば囲ってしまえる程度だ。こんこんと水の湧き出す泉だけあって透明度も高く、入れれば探索は大して難しくなさそうに思えたから。
しかし、それが入れないとは一体どういうことなのか。
その疑問に答えるべく、トマは泉へと飛び込んで見せた。――と。
「「 トマっ!? 」」
彼の足が水面に着くかと思われた瞬間、バチンッ、と大きな音がして弾き飛ばされてしまったのだ。
驚いて叫ぶ二人の横へと、トマは慣れた調子で着地して。
「このような状態なのでございます」
何でもないことのように、そう言った。
「確かに、入れないみたいね……」
……いや、うん、一目瞭然にわかりやすい答えではあったけど、心臓には悪い方法だったと思う……は疲れたように肩を落として大きく息を吐き出した。
「ひょっとしてアクマも同じ状態に?」
「はい。それが不幸中の幸いでございます」
だがコムイの言っていたように、いつまで保つかはわからない。大量のアクマがやってきて同時に攻撃――などという事態だって起こりえないとは限らないし、早めに回収したほうが得策なのは事実だろう。けれど……
「恐らく、同じイノセンスの力があれば入れると思われますが」
「……さん、潜れます?」
「あたしのイノセンスで一時的に蒸発させちゃえばいいだけじゃないの?」
「とりあえず、もうすぐ夕陽が射し込みます。入れるかどうか試されるのは、そのあとでよろしいのでは?」
その言葉で、二人の視線が自分に向けられた。は泉を、そして太陽があるだろう方向を向いた。
薄暗い森の中で、唯一明るい光の射し込んでいる方向。木々の間をすり抜けるようにして伸びている光が徐々に泉に向かって移動していく。……何故『夕陽』なのだろうと思っていたけれど、木々に囲まれたこの場所に光の届く唯一の時間だというだけのことらしい。
そんなことを思っている間に、最初の光が泉の端に届いた。
少しずつ水に当たる光が増えていくのを見守るの心は、不安に満ちていた。
失われ空白となった過去。それを取り戻して埋めない限り、不安がついて回るのは間違いないことはこの一ヶ月で嫌というほど実感した。
受け入れることから始めてみると決めて、多少変われた自覚があるのも事実。
けれど――
頭を過るのは、リナリーと出掛けた時に思い出された男の言葉。
もし……忘れたくて忘れているのだとしたら……そうすることでしか心を守る術がなかったのだとしたら……本当に自分はその過去を受け入れられるのだろうか――
不安を払拭することも、覚悟を決めることもできないまま、泉全体に夕陽が届いて水面は光り輝いた。
光の乱反射で残像現象が起こる――その中に。
人影が、見え始めた。
刹那。
「さん!!」
鋭いアレンの呼びかけにハッとして振り返る。枝葉の間からレベル1のアクマ数体がこちらへ銃口を向けているのが見えた。直後、撃ち出される弾丸。イノセンスを発動しつつ、その場を飛び退って――
「っ!?」
失敗した、と気付いた時にはもう水の中で。
気管に僅かに入った水を吐き出そうと咳き込む身体の反射反応が、余計に水を飲み込ませる悪循環。苦しさから空気を求めてもがく身体は、けれど浮上することはなくて。
湖や沼ではなくて泉なのだ。そんなに深いはずがないのに……水面に出るどころか、底に触れることすらできないなんて……っ。
このままでは溺れてしまう。
イノセンスを発動させて、水を蒸発させよう――と……
思ったはずの思考は、行動に移す前に停止した。
『馬鹿だな。こっちに帰ってくるなんて言わなけりゃ、おまえも母親も殺されずに済んだのにな』
男の声が、聞こえた。あの時、脳裏に蘇った声と、台詞。
ゆらり。光と影が揺らめく視界に、男の姿が映し出された。その足元に倒れている少女は――自分?
男は無造作に少女の髪を掴むと、手にしていたナイフで断ち切った。明るい茶色の髪が、その場にパラパラと散らかる。
『このまま日本で事故にでもあってとっととくたばってくれてりゃ、俺もこんなことせずに済んだってのによ。無駄な手間取らせやがって』
腕にチクリと痛みが走った。男が己の腕に注射針を突き刺していて――気付く。先程までふかんで見ていた光景を、いつの間にか少女の視点で見ていることに。
『おまえは、いじめの苦痛から逃れるためドラッグに手を出した挙句に転落死。母親は……まあ、事故死でもしてもらおうか』
身体が思うように動かずされるがままになっていると、短くなった髪を掴まれて――ぐいっ、と。引っ張り上げられ顔を覗き込まれた。
『邪魔なんだよ、おまえら。の遺産は俺らのもんなんだ。今更戻ってきて横取りなんかさせるかよ』
欲と狂気で怪しく光る蒼い瞳に射抜かれ、恐怖で全身に震えが走る。……コワイ……
髪を掴まれたまま、引きずられる。
怖い、いやだ、死にたくない。
心は悲鳴を上げているのに、身体はまともに動かせず声すら出せない。
引きずり上げられた上半身が、窓から外へと出された。遥か下方にコンクリートの地面が見える。
嫌だいやだ死にたくない。お金なんかほしいわけじゃないのにどうして――
『恨むなら、他人を不快にしかさせねえ不要な人間として生まれた自分自身を恨みな』
男の嘲笑に押され、身体は完全に宙へと投げ出された。瞬く間に近付く地面――それは抗いようもない死の入り口。
走馬灯など浮かぶ余裕すらないほど恐怖に埋め尽くされて――
―― イ ・ ヤ !!
生への執着が死の恐怖を凌駕した瞬間――光が、弾けた。
「くそっ!」
アレンは苛立ち露に対アクマ武器をアクマに向けて振るった。
が泉に落ちたまま上がってこない。早く助けに行きたいのに、次から次へと現れるアクマの相手に追われて完全に足止めを食らっていた。
いくら数が多いとはいえレベル1ばかりなのにこれほど苦戦するなんて……自分の未熟さに腹が立つ。
それ以上に、邪魔なアクマの存在に焦燥感を駆り立てられ、不快な思いでいっぱいになって――ギリッ、と。歯を食いしばり、対アクマ武器を遠距離戦型に変えて目につく端から撃ち抜いていく。
――早く……早く……っ、の許へ……っ!
焦る気持ちに呼応し、発射される早さが、弾数が上がっていって。攻撃させる隙すら与えずアクマを次々に破壊していき――アクマの姿は、消えた。
「これで全部……か……?」
静けさを取り戻した森の中、左眼に反応がないことを確かめてから、アレンは踵を返し泉へと駆け出し――
――ドンッ!
「っ!?」
突如起こった爆発によって、アレンの足は前進を阻まれた。襲い来る爆風は熱と共にじっとりとした重さを孕んでいて、ただの爆発ではなく水蒸気を発生させていることは目を閉じていてもわかった。しかも瞼を通してでさえチカチカと光を感じるともくれば、この爆発を起こしたのが自身だということもわかる。――だが。
無事である証拠を得ているというのに、アレンは安堵できていない。むしろ焦燥感が増してさえいたのだ。
風と蒸気とが治まるのを待つことすらできず、多少弱まった隙に泉へと走り寄った。
泉は――なかった。先程彼女が言っていたように、一時的に蒸発させてしまったらしい。泉、故に、今尚湧き出てくる地下水すらも、出る側から蒸気となっていく。
その蒸気で白く霞む泉があった窪地の真ん中に、はいた。
俯き力なく座り込んでいる彼女の手の中には、小さな丸い鏡のようなものがある。あれが、イノセンスだろうか……俯く彼女の表情は髪に隠れて見えないが、手の内にあるその鏡を見ているように見えた。
じり、と。胸のあたりに不快感が増す。
「さん!? 大丈夫ですか!?」
焦燥感に押されるまま声を掛けるが――反応は、ない。
まるで聞こえてすらいないかのように、ぴくりとも動かない。近付き身体に触れてでも自分の存在を認識させたいと思うのに……泉を囲うように発動したままの彼女のイノセンスに阻まれて、そうすることもできない。
じりじり。胸の奥が焼けるような感覚……嫌な、予感がする。
見たのだろうか。彼女の、『真実』を。見て、いるのだろうか。失くした記憶を――取り、戻したの、だろうか。
もし……もしも、そうだとするならば――最早『』は彼女を示す名ではなくなったということだ。記憶を持たぬ間の仮初の名を付けてほしいと願ったのは、彼女自身なのだから。
ぐっ、と。強く拳を握り締め、アレンはもう一度呼び掛けた。
「しっかりしてください! さん!!」
間違いなく彼女自身の、母方のファミリーネーム。無意識状態の彼女から得ていた、唯一の記憶の欠片であるそれに。
びくり、と。彼女の肩が跳ねた。脱力しきっていた身体に力が入り、逆に強張っていく。俯いていた顔がゆっくりと上げられて――
「っ」
露になった彼女の頬は涙で濡れ、そして酷く怯えた瞳を向けてきた。
拒絶を表わすその瞳に見つめられ、アレンは動けなくなる。声すらも喉に詰まったかのように出すことができず、頭の中が真っ白になった。
その時。
「――っ!!」
大きく目を見開き恐怖の色を濃くした彼女が、声にならない叫びを上げた。
彼女の叫びに、感情に呼応し、泉を囲うように立っていた雷の柱が素早く動く。無数の矢へと変化した雷の全てがこちらへと飛んできて――
「ギャアアああァっ!!」
「っ!?」
ひび割れた悲鳴に振り返れば、何本もの雷の矢が刺さって針山のようになったレベル2のアクマがまさに消えゆくところで。
全く気付いていなかったアクマの存在。助けられたという事実。少なくとも、イノセンスを正しく制御できてはいるようだから、元の記憶を取り戻すことで喪失期間のことを忘れてしまうという事態にはなっていないようだ。
その点に関しては素直に安堵できるのだが……だからこそ、涙と怯えた瞳の理由が不可解で、気になる。
雷の柱がなくなったことで蒸発は止み、泉には再び水が溜まり始めている。けれど――否、は未だ座り込んだままで。
アレンは彼女の側に近付くと膝をつき、再び俯いてしまっているその顔を覗き込む。
「、さん?」
呼びかけると、また小さく震え手にした鏡を握る手に力を込めた。俯いたままの顔は髪に隠れてはっきりと見ることはできないけれど、唇を噛み締めているのはわかる。
彼女が何に耐えているのかはわからないが、少なくとも今は何を言う気もないことは読み取れたから。
アレンは、手を差し伸べた。
「このままでは濡れてしまいます。ここから離れましょう?」
だが、彼女は動かなかった。
じりじり、じりじり。泉に戻る水のように、アレンの内に嫌な感覚も増していく。
「さん……」
再度呼びかける。と、緩く頭が振られた。
拒否を表わすそれに、胸に痛みが走った気がした。
彼女を形作ってきた過去の記憶。それが己を拒絶させるこの現実を、無意識の内に警戒し恐れていたのだということを、アレンは悟った。
過去の記憶の中の何が己を拒否することに繋がるのかは知る由もないことだ。けれど、『今』は――エクソシストとなった彼女の帰る場所が、黒の教団本部であることは覆しようのない事実。
それを伝えよう、と。
「……『』……」
「――え?」
開いた口は、聞こえた呟きによって疑問を表わす短い音を発しただけとなった。
「『』が、いい……『』のままでいたい……」
「あ、の……?」
「『・』として、アレンやリナリーのいるあの場所へ帰りたい……っ」
「――っ」
そして続けられた言葉に、アレンは言葉を失くした。
じりじり、と。あれほど胸の内に重苦しく広がっていた不快感が、彼女のこの言葉で綺麗に霧散してしまったではないか。
代わりに胸中を満たしゆくのは、途方もない喜び。
それを自覚して――気付く。理解する。これまで理解不能だった反応の原因を。
それは――『独占欲』。
自分がつけた名以外で呼ばれるようになるのが嫌だった。自分を頼らなくなるのが不快だった。ただ、自分にだけ笑顔を向けて欲しかった。
無意識に過保護にしてしまったのも、側にいたかったから。守りたかったから。そして何より、自分が知らなくて他人が知っている彼女の一面などというものを作りたくはなかったから。
コムイが茶化してきた『束縛系男子』……実は真実だったとか、内心頭を抱えたくなった。
だが、そんな思いもすぐに喜びに押し流される。
未だ涙を流し続ける彼女がどんな思いでそれを口にしたのかは正直見当もつかないけれど、過去よりも今を選んでくれたというその事実が嬉しくて、充分だと思えたから。
「はい、もちろん。あそこが僕たちの帰る場所です。ですから、一緒に帰りましょう。『』さん」
心の示すまま、笑顔で告げた。
ようやく顔を上げたの震える手が、差し伸べたままのアレンの手を握ってきた。その手を強く握り返すと同時に引っ張り上げる。そして、ついでとばかりに彼女を抱き上げた。
「っ、アレン?」
「濡れちゃいますって、さっき言いましたよね?」
彼女のすぐ側まで迫っていた泉の水の存在を言い訳にして、抱き上げたまま歩き出す。見上げた彼女の顔は夕闇と逆光ではっきりとは見えなかったけれど、今日最後の光を投げかける太陽の輝きを一筋の雫が反射させているのだけはわかって。
首に回された腕とぬくもり。このあたたかさだけは、何があっても守り抜こう――と。
アレンは、密かに己に誓った。
見せられた映像。取り戻した記憶。
殺されかけた現実。助かったのは、イノセンスが己を喚んだから。
母は、どうなったのだろう。やはりあの男に殺されてしまったのだろうか。
気にはなるけれど、多分知る術はないのだろう。あったとしても知りたいとは思わない。知っても、何もできないことはわかるから。
だって、もう二度とあの場所へは戻れないのだから。……わかるのだ。命を救ってくれたイノセンスが、その代償とばかりにこの地に己を縛り付けているのが。
ならば、どうすることもできないことにこだわり続けるのは無駄でしかない。
だから、嘆き続け立ち止まるよりも、周囲を良く見て、受け入れ、先へ、進もう。
ここには――自分を受け入れてくれて人たちがいる。必要と、されている。
あの男のような一部の人間の欲望のために、不要だと切り捨てられることは――ない。その力が、与えられているから。
ならば、守りたい。自分を受けれてくれた人々を……自分の、居場所を。そのために、戦っていこう。もう、何もできずに奪われるのは嫌だから。
そのためには、古い名はいらない。父と母からもらった大切な愛情の証ではあるけれど、それは思い出という形で確かに残るから。
だから、新しいこの世界で、新しい人生を。相応しい新しい名で生きていこう。
この名をくれた、アレンと共に――
かえるべきところ 【 ゆうやみのちかい 】・完