――それは、ただの気まぐれだった。
「こんにちは、土方さま。本日は休暇でございますか?」
「あ?」
橋の欄干に寄りかかり紫煙をくゆらせていた土方十四郎は、掛けられた声にゆるりと振り返った。
基本的に目つきが悪く、『鬼の副長』とも呼ばれて恐れられている土方と目が合った者は、大体怯えた様相を見せるもの。だが、そこにいた女はやわらかく微笑んだまま静かに佇んでいた。
職業柄か。真選組副長・土方十四郎と知って声を掛けてきた女をざっと観察する。
やわらかな物腰、土方の眼力にも怯まぬ精神力は、夜の蝶を思わせる。それも、かぶき町ではなく、吉原あたりの、だ。
だが遊女などではないことは、化粧や仕草、雰囲気が明らかに告げている。
良家の箱入り娘というには垢抜けていて、むしろ成熟した女性であるのは間違いない。
きっちり着込んだ着物も帯も、決して高くはないが安物でもない。
そして――武器らしきものを仕込んでいる様子も、ない。
刺客である可能性は、完全にないとは言い切れないが、低いと見ていいだろう。
ほんの数秒の間にそう判断を下した土方に気付く素振りもなく、再度女が口を開いた。
「いつも隊服をきちんと身に着けて忙しくしていらっしゃるお姿しかお見かけしたことがありませんでしたので、つい声をお掛けしてしまいました。ご迷惑でしたなら申し訳ございません」
「あー……いや。特に何もしてなかったし、迷惑ってことはねェが……」
丁寧に頭まで下げて重ねられた言葉で警戒するのも馬鹿らしくなり、かといって下心があるようにも見えない相手を無下に扱うこともできずに、つい歯切れの悪い言葉を返してしまった。
頭を上げた女は、どこか安堵したように微笑んだ。
「失礼ながら、手持ち無沙汰のようにお見受けしました」
続いた女の言葉に、土方は目を逸らす。――図星、だった。
こんな簡単に言い当てられてしまったのは、果たして自分に問題があったのか、それとも女の洞察力が鋭いのか。
土方は頭をがしがしと掻いて、溜息と共に紫煙を吐き出す。
「……まぁな。働きすぎだから休めって言われて休みになったんだが、別にすることがねェっつーか……そもそも仕事が残ってるのに休むこと自体、納得いかねェっつーか……」
やるべきことが山積みの状態なのに休めと言われても、それらが気になって仕方がないのは当然だと思うのだ。かといって屯所にいても仕事させてくれるわけでもなく、却って気になって苛立ってしまうからとりあえず散歩に出てみたというのが、現在に至る経緯だった。
思い返してみて再びもやもやとした気持ちが広がり、煙草を深く吸い込む。独特の苦味が、ほんの僅かに落ち着きを与えてくれて――そうして、湧いた疑問。
そもそも、何故自分は初めて会った名も知らぬ女相手にこんな話をしているのだろう。
そう思った時、女が言った。
「それほどまでにお仕事のことを考えてしまわれるのは、土方さまにとってお仕事が……真選組そのものが生き甲斐だからなのではございませんか?」
土方は思わず女を見た。女は優しくやわらかく微笑み、全てを包み込むような慈愛に満ちた目で土方を見ていた。
生き甲斐……そんなこと、初めて言われた。仕事中毒(ワーカホリック)だとは散々揶揄されてきたが。
――だが。
「生き甲斐、か……そうかもしれねェな……」
ストンッ、と。それは土方の中に落ち着いた。
やりがいよりも苦労のほうが圧倒的に多い気はする。だが、やめたいなどという気持ちは微塵も湧いてこない。こうして仕事から遠ざけられてしまうと、他にするべきこと、したいことなど何も思い浮かばないほど、真選組は土方の大部分を占めているのだから。
「そうであるのならば尚のこと、休める時にしっかりと休んでおくことは大切なことですよ? 土方さまのお力が最も必要とされる場面で疲れ果てて倒れてしまわれては、悔やんでも悔やみ切れないのではございませんか?」
「あー……頭ではわかってるんだがなぁ……」
生き甲斐であると自覚したためだろうか。休むということに関して不思議と抵抗感は消えていた。女の言い分ももっともだと素直に受け入れられた。
だが、それとこれは別問題というか……
「どうすりゃいいもんかねェ……」
何もしないということに慣れていない。ぼんやりとは――いくら休日とはいえど、立場上最低限の警戒は怠れないためそもそもできるわけがないし、すると、どうやっても思考回路は仕事のことに行き着いてしまうのだ。
それ以前の問題として――『休む』という定義自体が、土方にとっては不明瞭なのだ。日々の睡眠は、食事と同様に生命維持に必要不可欠なものであるからわかるのだが、丸一日も費やして『休む』というのは……
答えを求めていたわけではない単なる独白に、けれど女が答えを返してきた。
「でしたら、ひとつお教え致しましょうか?」
「あ?」
「雲を、眺めてみてくださいませ」
「雲?」
「はい。今日は丁度よい日和です」
女の意図が読めず、とりあえず視線を空に向けてみた。
天人(あまんと)のもたらしたオーバーテクノロジーにより高層ビルが立ち並ぶような町並みへと変化した江戸の空は、酷く狭い。それでも、橋の上から川沿いに見上げれば、それなりに開けて見えた。
更にはオーバーテクノロジーの副作用とでもいうべきか、以前に比べて気象も変化しつつあり、薄い雲に覆われていることが多くなった昨今。
霞のような雲など眺めて何になるのかと思ったが、今日は綺麗に晴れ渡っており、夏らしく割と境界線のはっきりとした雲がいくつも浮いていた。
そのひとつへ向けて、隣に並んだ女のたおやかな手が真っ直ぐに伸ばされ、土方はその先を目で追った。
「ほら……あのあたりの雲、まるで龍が空を泳いでいるように見えませんか?」
手と言葉で示したものを見つけようとした視界に真っ先に飛び込んできたのは、天人共のオーバーテクノロジーの最たるものでありこちらの常識をことごとく覆してくれた『船』だ。
悠々と我が物顔で空を飛ぶ『船』から、土方は意識して目を逸らした。
その、すぐ横に。女が示しただろう雲が、あった。
細く伸びる雲は、所々が上へ下へと曲がっている。風の流れにでもよるのか――それとも先程の『船』の影響か。端のほうの一部が更に細く短く枝分かれしており、見ようと思えばそれらは角と手足に見えなくもない。
「……確かに、見えなくはねェが……」
それが何だというのか、と。
要領を得ない土方の言外の問いかけに、女は空へと目を向けたまま答えた。
「雲は常に流れ動いているものです。見える形も決して固定されることはございません。あのように、もう先程の龍はなくなってしまいました」
「あー、今度は翼を広げた鳥みてェだな」
「はい。次はどんなものに見えるようになるのか……しばらく見つめていると、案外時間は経ってしまうものですよ」
「なるほど……」
気を揉むことなく何もせずに時間を潰せる方法だ――と。何となくではあったが、女の言いたいことが掴めた。
元々どうすれば休んだことになるのかがわからなかった身だ。物は試し、と。目障りな『船』はあえて見ないことにして、また形を変えてる雲が一体何に見えるのかを考えてみた。
「あれは……犬、か?」
「その隣はハート型になりましたね」
「あー……合わさっちまったな……けど……カニ?」
「猫、でございましょう」
「いや熊だろ」
呟く土方に合わせて、女も口を開く。刻々と変わりゆく雲に互いが何かの姿を投影していくそれは、どこか勝負事にも似ている気がした。
けれど、負けず嫌いな性質が刺激されることはなく、不思議と心は凪いだままで。
ただただ、単純に雲を眺めて――
「「 ゴリラ 」」
不意に二人の声が重なった。思わず顔を見合わせて、どちらからともなく笑い声をこぼす。
こんなに穏やかな気持ちになったのは、一体いつ振りだろう。そういえば、空をまともに見上げたのも久しぶりだ。部下に指示するにしろ、浪士を見分けるにしろ、周囲の状況を確認するにしろ、基本的に目線は人の顔から下へと向いていたから。
雨をもたらす以外で、雲がこんなにも多様な姿を見せることにも気付いていなかったかもしれない。
そう思うと同時、ようやく女が提案したことの本当の意味が理解できた。
「確かに、こりゃ何も考えずにいられるな」
「はい。童心に帰ることができますから、気分転換にはとても良い方法なのでございます。お役に立てましたか?」
「ああ、『休む』ってことがどういうことなのか、やっとわかった気がするぜ」
「それはようございました」
仕事のことなど完全に忘れられた。そして心が随分と軽くなり、どこかわくわくとした期待が湧いてくるような気さえする。それが何に対してかはわからないが、強いていえば何物にも対してといったところだ。
一言で表現するならば、やる気が出た、ということだろう。
これが休みの効果……確かに今の状態ならば仕事も随分とはかどることがわかる。
肉体の疲労回復は睡眠で事足りるのならば、休暇の目的は精神のリフレッシュ。頭では何となくわかってはいたが、それがどういうものなのか理解はまるでできていなかった。
それを、今、ようやく実感を持って知ることができたのだ。
近藤や山崎に無理に休まされてしまう程に、今の土方にとって何より必要だったもの。けれど土方だけでは手にすることの叶わなかったそれ。
土方にとっては貴重なそれを教えてくれた女に礼を言おうと。
口を開いた――刹那。
遠くで爆音が轟いた。
物凄く聞き覚えのあるそれは、沖田のバズーカに他ならない。
先程までの穏やかな気持ちはどこへやら。思わずピキッ、と。青筋が立つ。
瞬時に湧いた怒りの矛先は、もうほぼ条件反射のように山崎へと向かう。
「あの野郎……休めっつーくらいなら、今日一日ぐらい騒ぎを起こさねェようにするぐらいできねェのかよ……」
「……戻られるのでございますか?」
女の問いに、ふと考える。
音がしたのは屯所の方角。携帯電話は、まだ鳴らない。ならば緊急事態などではないのだろう。……緊急事態でもないのに、また無駄にバズーカを使った沖田にはかなりの怒りを覚えるのは事実なのだが。
「いや……呼び出しがかかるまで、今日は意地でも休んでやる」
戻って怒鳴りつけたところで、沖田が土方の言うことを素直に聞くはずもない。むしろバズーカを向けられて命を狙われるのは目に見えている。
折角、休むことの意義を見い出せたというのに、沖田に振り回されてふいにしてしまうのは勿体無い――と。
そう思って答えると、女はふわりと微笑んだ。
……出会った時からよく笑う女だったが、その多様性に内心で感嘆する。
己や沖田などがよくする悪意を含む笑い方でも、花街の女たちが貼り付けている客受けするよう洗練された仮面のような笑い方でもない。恋心を秘めた青臭いものでも、一方的な好意を押し付けてくるだけの下心を含むようなものでもない。
他人に不快感を与えることのない、自然体の笑い方――とでもいうべきか。
大きく分類すればその一言なのだが、表現されるものが実に多様なのだ。
その、笑顔に。僅かばかりの興味を惹かれて。
「おまえ、名は?」
「はい、と申します」
「、か。もし暇なら、もうしばらく俺の休暇に付き合ってくれねェか?」
「わたくしでよろしければ喜んで」
久方振りの非番を、休息の価値を教えてくれたこの女と過ごしてみたくなり、自然に口をついて出た誘い。
まるで陳腐な脚本のようなやり取りに思えたが、それもまた一興――と。
土方は爆音に背を向け、女と共にゆっくりと歩き出した。
――それは、ただの気紛れだった。
が土方に声を掛けたのも、土方がを誘ったのも。
気紛れがもたらした出会いでしかなかったそれは、けれど小さな変化のきっかけとなったのだった。