――ひらり、はらり。
仕事を終えた帰り道。道行く視界に風に舞う薄紅色の花弁を捉え、ふと足を止めて流れてきた方向へと目を向けた。
そこには市民の憩いの場となっている広い公園があり、沢山の桜が咲き誇っていた。
視界に広がる満開の桜と、耳朶をくすぐる楽しげな声……満ち溢れる春の気配に誘われて、は足の向く先を公園内に変更した。
根元から仰ぐ桜は、青空とのコントラストで白さが際立つ。
今年も綺麗に咲いた春の花。幾つの年を重ねても、場所が違っても、その美しさは何も変わらない。
宴会という形で春の到来を楽しむ人々の賑やかな声に紛れて、今はもう聞くことの叶わない懐かしい人たちの声が思い出される。
それは、胸に少しの寂しさを呼び起こさせるもの。
けれど、それでも楽しかった思い出が穏やかな気持ちにしてくれる。
そんなこの花が、この季節が。は、好きだった。
訪れた季節とそれのもたらすものとを存分に味わいながらゆったりと進めていた足が、不意に止まった。
咲き誇る美しい桜も、人々の賑やかな声も、周囲には変わらずにある。けれど、それによってもたらされる気持ちは、の中から急速に消えつつあった。
春は、どことなく明るく陽気な気分になる季節。花見という名の宴会で羽目を外してしまう者も少なくはない。故に、酔い潰れ道端で眠りこけてしまう酔っ払いの姿も、付き物だといえよう。
――そうだとしても、だ。
の視線の先にあるのは、公園内に設置された飲料水の自動販売機。屋根の形をしたその上に、どうやって登ったのか、うつ伏せで身を投げ出している黒い着流しの男の姿。そして、取り出し口に頭を突っ込んだまま動かない、流水模様のある白い着流しとブーツの男の姿。
道端で眠りこけるならまだしも、これは流石にあまりにもな光景だろう。
まして、そのあまりにもな醜態を曝しているのが知人であるというのならば――
「……一体、何をしておられるのでございましょうか……」
それまでの穏やかな気持ちも消え失せ、深い嘆息がこぼれたとしても無理からぬことではなかろうか。
とはいえ、このまま見て見ぬ振りをするという選択肢は、の内には存在しない。特に白い着流しのほうは、自動販売機を利用したい人間にとって迷惑この上ない状態なのだし。
改めてその惨状を見てもう一度嘆息をこぼしてから、は自動販売機へと足を進めた。
ふわふわと夢の中を漂っていた意識に、何かが小さく引っかかる。それは、まるで釣り糸のように、土方の意識を現実という岸のほうへと引き寄せていく。
夢と現の丁度中間あたりをゆらゆらとたゆたう意識は、夢の中にいながら現実の感覚をも拾い始めた。
「……じか……ま……、……ひじ……たさま……」
「ん……だ……」
呼ばれている、と。そう認識する前に、体は反射的にその呼び声に応えていた。
応えてから、未だ夢の中にある意識が現実の情報を拾っていく。
己を呼んでいた声は、やわらかく落ち着いた女のもの。そして頬と、首筋に、何かが触れている。これは……手、か……女の。
首筋など急所のひとつ。意識のない状態で触れられて気分の良い部位ではない。
にも拘らず、いくら殺意を感じないとはいえ、警戒心が全く湧いてこないというのは一体どうしたことか。
警戒、どころか……むしろ、その手のぬくもりが酷く心地好い。
だからだろう。土方の手は無意識の内に離れようとするぬくもりを追って動いた。
だが、その手は空しく空を切る。代わりに――
「失礼します、土方さま」
断わりの言葉と共に、ぬくもりを感じる箇所が大幅に増えた。
未だ現実に戻りきらぬ意識では、体の感覚もどこかふわふわとしていて薄膜でも隔てているように鈍くしか捉えられないためわかりにくいのだが、どうやら抱き起こされた模様。
女の細腕……であるのは確かなのだが、慣れているのか、それとも何かコツでもあるのか。不思議と不安定さはなく、むしろ包み込むように増えたぬくもりが安らぎを与えた。
ふわふわ、ゆらゆら。
現実から離れた意識が、再び夢の波間に漂いかけた――刹那。
「っ」
唐突に体を襲った落下感には、流石に防衛本能が覚醒を強制した。
それでも体の感覚と意識とが繋がるまでにラグがあったのか、ハッと目を開いた時にはもう落下感も浮遊感もなく、ただの夢だったのかとさえ思いかけた。……高所から落ちる夢を見た時は大抵、夢であるにも拘らずおかしな感じがして目が覚めるものだから。
まばたきを幾度か繰り返す。やっと完全に現実に戻った意識が、視覚からの情報を正確に認識した。
まず見えたのは、帯によって膨らんだ道行きに覆われながらも、まろやかな体のラインがわかる背面。未だぬくもりを与え続けている女の背から腰にかけての姿と、そのすぐ下にある地面だ。
己の下半身の裏――尻から脚にかけて感じるしっかりとした地面の感触と合わせて考えるに、女の肩に頭を乗せる形で座らされている、という状況のようだ。
己の体の状態を把握できた頃。横たえようとでもしようというのか、土方の背を細腕でしっかりと支えながら女が体を離した。
そうして、女と、目が合った。
「気がつかれましたか、土方さま」
驚いた様子など微塵もなく真っ直ぐに土方を見てそう言った女の顔には見覚えがあった。
忘れるはずもない。昨年の夏、降って湧いた非番のたった一日を共に過ごした女。休息の本当の意味を教えてくれた、その相手――
「おまえ……?」
「はい。お久し振りでございます」
半ば呆然と名を導き出した土方に、女――は土方を支えたまま軽く会釈した。その様子に、何故か違和感を覚える。
具体的に何に対してなのかはわからぬまま、ひとまず彼女から完全に離れて自力で座った。
そうして口をついて出たのは、とりあえず現状把握のための問いだった。――しかし。
「今、何をした?」
「まずは水分をお摂りくださいませ」
「――は?」
「脱水症状を起こしておいででございます。水分を補給なさってくださいませ」
「あ、ああ……」
はこちらの質問をまるっと無視して、土方の前にペットボトルを差し出してきた。ラベルを確認すると、スポーツ飲料だ。未開封のようだから買ったばかりなのだろう。
言葉は丁寧なのだが口調は強く、妙に真剣な表情の所為か有無を言わさぬ迫力もあって、土方はらしくもなく押され気味にそれを受け取り素直に口をつけた。
少しずつ滅多に口にしないスポーツ飲料を喉に流し込みながら、現状について考えてみる。
何故己は脱水症状など起こしているのか。土方自身にはまるで自覚のないそれを、何故は見抜けたのか。そもそも本当に脱水症なのか。
疑問ばかりが浮かんでくる。けれどそれが答えへと辿り着くことはない。まだ夢心地が残っているかのように、思考回路が上手く回ってくれないからだ。
それを察したのか、が答えをくれた。
「随分とお酒を過ごされたご様子。季節柄仕方のないこととは思いますし、いくら真選組の方々が近くにおられるとはいえ、ここは屋外。副長というお立場上、前後不覚に陥る状況は命取りなのではございませんか。おまけに刀まで手放されておられては尚のことでございましょう」
……とりあえず、状況はおぼろげながら見えてきた。見えてきた、のだが……こう……丁寧な口調は彼女の標準装備だと知っているが、知っているが故か、忠告のはずの言葉が説教どころか半ば嫌みに聞こえてしまったのは、果たして気のせいだろうか。
まあ、どちらにしろ言われたことは事実だ。侍失格とまで言われなかっただけマシかもしれない。……いや、問題はそこじゃなく。
「刀……どこやったんだったか……」
「近くに二振り落ちてございました。どちらかが土方さまのものでございますか?」
「あ、ああ……間違いねェ……」
侍の魂というべき刀の行方。全く記憶にないそれを思い出そうとした土方の前の地面に、が溜息と共にきちんと鞘に収まった二振りの刀を置いて見せた。
その片方は確かに己のもので、ほっと胸を撫で下ろす。
安堵が視野を広げたのか、視界の隅に見覚えのある流水模様の白い着流しがあるのに気付いた。
同じ見覚えでも、とは違ってあまり良くない意味のそれ。
つい、と。視線をずらせば――案の定。良く言えば幸せそうな、悪く言えばだらしのない寝顔をこちらへと向けて横向きに横たわる万事屋の主人、坂田銀時の姿があった。
そいつを見て、土方はようやく現在に至るまでの過程を思い出せた。
思い出せたものの、不愉快さまで蘇ってきて思い切り眉間にしわを寄せてしまう。
その顔を見てか、土方の視線の先を追ってその存在に行き着いたは、訝しげに問うてきた。
「坂田さまと、何かございましたか?」
「飲み比べ……いや、あー……馬鹿なことだってのはわかってる。わかってるんだが、負けたくねェっつーか……」
素直に答えてから先程の説教じみた言葉が過り、先手を打つ。だが、口から出てくるのは子供じみた言い訳でしかなく、自覚しても他に何も思い浮かぶものはなかった。
また小言を言われてしまうかと諦めかけた土方の耳に入ってきたのは、意外にも静かな理解をもった感想だった。……少なくとも、前半は。
「……殿方のプライドの在り処は女のわたくしには理解できませんが、普段のお仕事における緊張を適度に解せる喧嘩友達がいるのは良い傾向かと思います」
「誰が……っ」
喧嘩友達だ、と。続くはずだった言葉は、襲ってきた頭痛の所為で呑み込まれた。
ぐうたらでいい加減で余計なことにばかり口が回り詐欺師じみている上、テロリスト――もとい攘夷浪士の疑いまであるような男と友人関係だなど、勘違いも甚だしい。断固として拒否、否定、訂正したいというのに、あまりの痛みに声も出せない。
額を押さえて痛みに耐えていると、再びの溜息が耳朶を打った。
「お薬もございますが、服用なさいますか?」
「……くれ」
「かしこまりました」
何とか答えると、すぐさま小さな半透明の紙に包まれた粉薬が差し出される。包みを開いて口の中にざっと含み、残っていたスポーツ飲料を一気に流し込んだ。……かなり苦い。
空になったペットボトルを土方の手から抜き取りすぐ近くにある自動販売機横のくずかごに入れたは、代わりにもう一本スポーツ飲料を買って差し出してきた。
素直に受け取り、口内に残る薬の苦味を洗い流すようにしながら一気に飲み干していく。
ペットボトルの中身が空になる頃、ようやく苦味も薄れ安堵したのも束の間。上向いていた首を勢いに任せるまま戻したのが悪かったのか、今度は目眩に襲われ平衡感覚が失われた。自覚すらできぬまま傾いだ体を抱き止め支えてくれたのは、しかいない。
「薬が効くまでしばらくかかります。つらいのでしたら横になっていてくださいませ」
「あ、ああ……悪い――って」
支えを頼りに体を横たえた土方は、己の頭がやわらかなモノの上に乗ったのを感じた。
やわらかいけれど弾力のあるあたたかなそれ。見上げれば、手を伸ばせば届くほど近くにの顔がある。――それらが示す現状。考えるまでもない。膝枕をされた、ということだ。
別に女に膝枕をされたことは初めてではないし、土方としては悪い気などするはずもない。
だが――恋人ではなく、まして娼妓でもない女が、軽々しく男に膝を貸すというのはどうなのだろうか。
相変わらず甘くも艶っぽくもない雰囲気にどう反応したものかと迷ってる間に、は自分の着ていた道行きを脱いでふわりと土方の体にかけてきた。
――ただの酔っ払いを病人扱いとは、これ如何に。
ますます彼女の意図がわからなくなり、土方は怪訝な眼差しでを見上げた。
「別に寒くねェぞ」
「アルコールは脳の働きを低下させます。今、土方さまの体は体温調節機能も落ちておられます故、自覚がなくとも冷やすことは好ましくありません」
「そ、そうか……詳しいな」
「これでも医学の心得がございます故」
半ば不満を含んだ言外の訴えは、淡々とした説明で棄却された。
予想外ののスキルに、これまでの疑問のいくつかが納得を以って解決されると同時、そういえば彼女のことを何も知らないのだという事実にも思い至る。
しかし、僅かに細められた目で見下ろしてくるその真剣な表情が醸し出す迫力に、問いかける気力など簡単に削がれてしまった。その上、彼女の眼差しを真正面から受けることすらできずに顔を逸らす。……『鬼の副長』と呼ばれる己は一体どこへ行ったのだろう。
「あー……向こうは放っておいていいのか?」
「坂田さまは、土方さまよりきちんと着込んでおられますから。一応着流しに両腕は通させていただきましたので、大丈夫でございましょう」
情けなさを感じつつも、逸らした先に見えた存在へと矛先を向けてみれば、淀みのない答えが返る。ちらりと見上げたは、視線を坂田のほうへと向けていた。その表情はやはり真剣なもので、じっと観察している風にも見える。
視線を戻す。土方としては、視界に入るだけで苛立つのであまり見たくはない存在だ。せめてこちらに背を向けててくれれば幾分かでもマシなのだが……医学の心得があると言ったが、普段は羽織ってすらいない右腕に袖を通させたということは、あの体勢にしたのも医学的な理由があってのことなのだろう。
ならば、それは仕方のないことと諦めるしかないにしても、もうひとつ引っかかることがあった。
「……あいつと、知り合いなのか?」
医療に携わる者であるなら、医学的処置を要する存在を放置できないというのはわかる。だが、その要介護者が見ず知らずの人間であるならば、その名を呼べるはずもない。
だから、名前を迷いなく、間違いなく呼べる程度には見知った相手なのだろう、と。深い意味はなく問いかけたそれに対し、本日幾度目かの溜息が落とされた。
逸らしていた顔の向きを戻して見上げた先には、何やら呆れたようにもうんざりしたようにも見える表情。
溜息とその表情とが示している理由は皆目見当もつかなかったが、ふと今日は溜息ばかりついているなと思った。前回――初めて会った時には溜息など一度もつかなかったのに……と。一瞬、何かを掴みかけた気がした。
しかし、からの返答により、その何かは霧散する。
「以前テロリストとしてニュースで報道されたこともございますし、かぶき町では真選組と並ぶほどに有名な方なのですが、ご存じありませんでしたか?」
……池田屋の件のあと、万事屋の素性については山崎に探らせた。あの件に関しては桂に利用されただけのようだが、疑いが完全に晴れたわけではない。何せ、巻き込まれているのか引き起こしているのかは定かではないが、何かと騒動の中心にいるからだ。
今のところテロ行為に結びつくようなものではないから真選組としては放置しているが、確かに住人にとっては充分有名となるだろう。
会話を重ね、ひとつ、またひとつと疑問が解消されていくにつれ、少しずつ思考力も戻ってきた頃のこと。見計らったかのように、から問いかけが降ってきた。
「最初の質問の答えですが……聞きたいですか?」
「あ?」
「酔い潰れたご自分が曝していた醜態について、詳しく知りとうございますか?」
そんな問われ方をされては聞く気などなくなるというもの。余計に気にはなるが、聞かずになかったことにしてしまうのが得策だと思えてならないではないか。
かといって、馬鹿正直に否を返すこともできずに迷っている土方へ、はトドメの一撃を見舞ってきた。
「ちなみに坂田さまは、あちらの自動販売機の取り出し口に頭を突っ込んで寝ておいででございました」
わざわざ聞きたいか否かと問うてくるということは、つまりそれ以上の醜態を曝していたことに他ならない。そんなもの、改めて聞きたくはない。
とはいえ、それを彼女にはばっちり目撃されていることは、取り消すことのできない事実で。
決まりが悪すぎて、土方は片手で顔を覆った。
それを拒否と受け取ったのか、また溜息がの口からこぼれて土方に追い討ちをかける。
「殿方であれば、お立場からもお酒を飲まなければならないことは多くございましょう。飲むなとは言えませんが、節度は守られませんとお困りになられるのは土方さま自身でございますよ?」
……何故だろう。同じ説教じみた忠告であるはずなのに、今回は嫌みにはまるで聞こえない。
顔を覆っていた手をどけて見上げた顔はやはり真剣で、少しばかりきつい眼差しが向けられている。しかし――その瞳は僅かに揺れていた。
そこに映る感情は――?
……先程、掴み損ねた何かが、また見えかけている気がする。
掴めそうで掴めないそれに僅かばかりもどかしさを感じつつ、とりあえず目の前の疑問から解消しようと口を開いた。
「あー……もしかして、心配、かけちまった――のか?」
当たりをつけて尋ねると、途端に揺らぎが消えて代わりに瞳の奥に焔が灯った。
その焔は、悩むまでもなくわかる。怒りの感情の表れだ。
焔のような怒りをはらむ目を半眼にして彼女が返した答えは――
「顔見知りが酔い潰れているのを見つけて心配することもなく見て見ぬ振りができるほど、薄情な人間ではないつもりですが」
「あー……その、すまねェ」
「わたくしに謝る必要などございません。酔い潰れた挙句、嘔吐物を詰まらせる誤嚥によって窒息死などという事態になれば、侍としてこの上もなく無様で不名誉な死に様となるだけのことでございますから」
「ぅぐ……っ」
毒以外の何物でもなかった。しかも正論なだけに何も言い返せない。
穏やかでやわらかな雰囲気をまとい、こちらが気付かなかった新しい見解を静かに示してくれた彼女の口から、まさか、こう、さらりと毒を吐かれるとは思わなかった。陰険さとは無縁な女だと思えたから。――否。今でもその認識は変わらない。何故なら、他者を見下し蔑むといった低俗な感情は一切含まれていないからだ。
つまり、毒を吐かずにはいられないほどに心配をかけさせてしまったということだろう。そんな感情で満たされた心では、笑えないのも当、然……
土方は目を瞠った。
濃霧の中、伸ばしていた手がようやく目的のものに届いたような、または欠けていたパズルのピースがカチリとはまったような感覚……やっと、掴めた。
こんな簡単なことに気付くまでに、こんなにも時間をかけてしまうなんて……正しく脳の働きが低下している。
今日のは、一瞬たりとも笑っていない――そのことに対して違和感を抱いたのだという、たったそれだけのことを……
そして、あれほど多様な笑顔を持つ彼女から、今その笑顔を奪ってしまっているのが自分であるとも自覚して、罪悪感が強く胸を刺す。
――笑って、ほしい……
そう思った時、脳裏に一人の少女の姿が蘇った。
かつて同じことを思った、己が心底惚れた女。しかしその幸福を願うが故に、向けられた好意を受け入れず、突き放し、故郷に置いてきた少女の、最後に見た淋しげな笑顔が。
怒りをはらむ瞳で見下ろしてくるの隣に見えて。
自己嫌悪に苛まれ知らず顔を歪めると、再び彼女の顔は怪訝な色に染まる。
「何を百面相をしておいでで?」
「いや……肝に、銘じとく。こんなことは、二度としねェ」
――笑っていてくれ……それが見れれば充分だから……幸福であることがわかれば、それだけでいいから……
懺悔にも似た思いで誓言を述べると、は僅かに目を瞠ったあと深く溜息をこぼして瞑目して。
「是非にそうしてくださいまし」
ただ、そう返してきただけだった。
まだ――笑顔は戻らない。
どうすれば笑ってくれるのか……自分の所為で笑えなくさせてしまっただけに、どうにかして笑顔を取り戻させたい。けれど反省の言葉だけではそこまで至らなくて、他に何をどうすればいいのかまるでわからなくて。
ただ彼女を見上げるしかできずにいた時――
「っ」
一陣の風が吹き抜けた。ざわざわと枝が大きく揺らいで、上からも下からも花弁を連れていく。
やがて突風が過ぎると、余韻ではらはらと桜が舞う風情ある光景が残された。
それを眺めていたの双眸が、きゅっと細められて。
「まあ、これだけ見事な桜でございます。うっかり羽目を外してしまわれる気持ちは、わたくしにもわかりますが」
――笑った。
手の平の上に降りてきた花弁を見つめ、穏やかに、やわらかに、微笑んでいた。
やっと笑顔を見せてくれたことに、土方の胸はただ安堵に満たされた。
やはり女は笑っているほうがいい。笑顔が一番――
「美しいな……」
「はい。やはり桜が一番美しい花だと、わたくしも思います」
ぽつりとこぼれた呟きは、彼女へ向けてのもの。けれど当の本人は自分へのものだとは微塵も思わなかったらしく、笑みを深くして頭上の桜を見上げてずれた答えを返してきた。
元々、無意識に出てしまった本音であって伝えるつもりなど毛頭ない土方には好都合な勘違い。あえて訂正するようなことはせずに、桜を背負うを見上げる。
桜と、笑顔と。美しく咲いたふたつの花を、目を細め、まぶしげに見つめる。――と。
「副長が女性の膝枕で休んでらっしゃるぅ――――――っ!?」
「「「 何ぃぃ――――――――――っ!!? 」」」
ようやく笑顔が咲いて、これからが花見の本番だというのに……邪魔どころか明らかに花見中止の合図を叫びやがった山崎へと瞬時に怒りが爆発する。
体にかけられていた道行きを落として汚さぬよう、片手で掴んでへと押し付けるように返した動きは、ほとんど無意識によるもの。がばっと身を起こした土方は、山崎へと怒声をぶつける。
「山崎ィ……何か文句でもあるのか、あ゛ぁっ!?」
「ひぃっ!? ありません、すみません!!」
「土方さま。それだけお声をお張りになれますのならば、酔いのほうはもう大丈夫でございますね」
「あ?」
いつものように殴りかかろうとしていた土方は、静かであるにも拘らず不思議と掻き消されることもなく届いたの声でピタリと動きを止めた。そして言われた内容を吟味する。
勢い良く起き上がったのに目眩に襲われることはなく、声を張り上げても頭痛に見舞われることもなかった。
至って平常だと今更ながらに気付き、感嘆する。
「あー……そういや何ともねェ、な……すげェな、あの薬。どこで手に入れた?」
「わたくしが調合致しました。それが仕事にございます」
「ああ、それで医学の心得、か……」
「はい。とはいえ、症状が緩和されただけでアルコール自体はまだ体内に残っております。しっかり水分を補給して体外に排出なさるまで充分お気をつけください。間違っても追加でアルコールを摂取などなさいませんよう」
「ああ、わかってる」
釘を刺すような忠告を受け、神妙に頷いて見せた土方。
先程、誓言したばかりなのだ。舌の根も乾かぬうちに違えるつもりなど毛頭ない。
だから、笑っていてくれ――と。
決して直接伝えることのない願いが届いたのかは定かではないが、土方の返答を受けたは安堵したように微笑んだ。
それを見た土方も胸を撫で下ろし、僅かに目元を緩めた。――が、その隙に逃げようとしていた山崎の動きを察して、振り返ることもなく首根っこを掴み捕える。
その様子を目の当たりにしたは笑顔を消し、再び溜息を落として。
「土方さま……大切な同心の方々、お叱りは程々になさってくださいませ」
……まさか、隊士との関わり方に対してまで忠告されるとは思わなかった。
何も知らぬ部外者に口を出されることではない――と、普段なら思うところ。だが、彼女は、土方にとって真選組が生き甲斐であると気付かせてくれた人物だ。ただ単に感情に任せた行動によって僅かでも亀裂が入ることのないよう……生き甲斐を失うことのないよう心配してくれただけなのだろう。
その気遣いに、有難いやら情けないやら照れくさいやらと複雑な気持ちになり、土方もまた溜息を落とすことでそれらの気持ちをやり過ごす。
「……使い物にならなくなるようなこたァしねェよ」
そう簡単に崩れるほど、やわな関係ではない。だから大丈夫だ、と。
そんな思いで返した言葉に、真意を見定めるように見つめてきていたが、不意に会釈して。
「差し出口を失礼致しました。それでは……どうぞ、ご自愛くださいませ」
ふわりとやわらかな笑みを咲かせて踵を返した。
花見をするなら、やはり満開に咲き誇っている様を愛でるのが一番良い。
最後に見た大輪の花を目に焼き付けて、土方は鉄拳制裁すべく拳を握り締めた。