第 1 話
悪夢のはじまり

「いやああああっ!!」

 真夜中、ライは悲痛な叫びで叩き起こされた。
 寝惚けることもなく飛び起きると、急いで隣の部屋へと駆け込む。ベッドの上で暴れている少女の体を押さえつけて、布を噛ませた。
 しばらくすると力は抜けていき、やがてまた眠りに落ちる。そこまでになって、ライもまた安堵の息をついた。
 噛ませた布を取り、布団を掛け直して……ベッドに背を預けてその場に座り込んでしまった。
 実はこうやって叩き起こされたのは、もう三度目なのだ。正直、ここまで大変だとは思わなかった。
 仕方のないこと――だとは思うが。
 ライだって、少女と同じ立場にいればこうなっていたはずだから。ほんの少し、運が良かっただけ。
 そう思えばこそ、放ってはおけなかった。
 せめて睡眠薬か鎮静剤があれば、もう少し楽かもしれないが……こんな時間にミントの家に行くわけにもいかないし。
 朝まで付き合う覚悟をして、明日(日付が変わってるはずなので、今日か)が定休日で良かったなと、本気で思った。
「とはいえ、ずっとこのままってのもな……」
 鎮静剤はないが、何か代わりになるものはないかと考える。
 酒……は、気付け薬になるぐらいだから逆効果。疲れもとれて、心が落ち着いて、よく眠れるものといえば……やはり甘めのホットミルクだろうか。
「物は試し、だな」
 呟いて立ち上がる。
 少女は、眠っていた。しばらくは発作を起こすことはないだろう。
 ライは静かに調理場へと向かった。

 十数分後、カップ一杯分のホットミルクを持って、紫雲の間へと戻ってきた。
 ハチミツを溶かし、人肌ぐらいに温めたそれをサイドテーブルへとひとまず置いて、止まる。
 作ってきたはいいが、問題は意識のない人間にどうやって飲ませるかということ。
 しばらく悩んでいたライは、急に顔を赤くして思い切り頭を横に振る。
 ――口移し――とか言う単語が脳裏に浮かんだからだ。
 とりあえずそれは却下して、目眩をやり過ごす、そうして、ひとつの方法を試すことにする。
 少女の上体をそっと起こして、口に少し流し込むということ。
 上手く飲み込んでくれるか、どうかというところだが、果たして……
 ――コクン、と。
 確かに少女の喉が鳴った。
 成功したことに小さく息をついて、更に飲ませる。少しずつ、ゆっくりと。
 半分ほど飲ませてから、再び横たわらせた。効果があるのかはわからないが、少し表情が和らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。
 その、少女の顔に。明るい光が射し込んだ。
「雲が、晴れたのか……」
 夕方から出ていた雲が晴れ、遮られていた月光が降り注いできているようだ。
 暗闇に慣れた目には、充分に眩しいと思える明るさ。
 窓のほうを向いていたライは、びくっと肩を震わせた。何かが、頬に――髪に触れたからだ。
 まさかと思い視線を落とした先で、ふたつの黒曜石が静かに佇んでいた。
「気がついたのか……?」
 呟きに近い問い掛け。しかし少女は答えない。目は開けているが――その瞳に光はなかった。
 意識は、恐らくないに等しい状態だ。寝惚けているといえば近いだろうか。
 ただぼんやりとライを見つめ、その髪に指を埋めてくる。
 どうしたものか、と。対応に困っていると、少女が口を薄く開いた。
「ぎんの……ひかり……」
 小さな、小さな呟き。
 ライを見つめる黒曜石が不意に揺らいで……一筋の雫が月光を反射させた。
「……け、て……やみの、なか……だして……もう、いや……」
 もう、嫌。闇の中から出して。少女は、そう言った。それが、彼女が囚われている悪夢――召喚主の死に様を、闇の中で見続けているのかもしれない。
「たすけて……おねが、い……なくならないで……ひかりを、けさないで……」
「……大丈夫だ」
 救いを求めて力なく伸ばされていた手を、ライは強く握って言った。
「大丈夫。光が見えたんだろう。光に向かえ。光は絶対に闇に呑まれたりはしないから、大丈夫だ。悪夢は、もう終わる」
 ライの言葉が、届いたのかはわからない。
 何かを言いかけたように唇は動いたけれど、結局声にはならなかったから。涙に濡れた黒曜石も姿を隠してしまい、伸ばされていた手からも力が抜けて――再び、眠りの中へと戻っていったから。
 ライは少女の涙を拭って、床に膝をついた。そして、祈るように少女の手を両手で包み込む。
「大丈夫……怖いものは、もうどこにもないから……光は、オマエの上にも降り注ぐから」
 少女の中で、悪夢が消え去るように願いを込めて、ライは呟いていた。


 そこは、赤い闇だった。
 真っ暗な空間に、一面に赤い水が満ちている。冷たくて、嫌な臭いがする所……
 突然、目の前に見知らぬ男が現われて苦しげな表情をしたかと思うと、まるで風船が割れるようにして弾けて消えた。
 生温かいものが飛び散り自分にかかった。それが何なのか理解した途端に悲鳴を上げて駆け出した。
 ただ、逃げたかった。この暗闇の中から。
 けれど、走ったその先にまた男が現われ、同じようにして消えて――また別のほうへと走る。その、繰り返し。
 足元の赤い水が跳ね上がって服を赤く染め、重さを増して絡み付いてくる。
 それでも、走った。ただ出口を――光を求めて。
 だが、何の変化もないまま同じことが――否。徐々に男の動きが増え、手を伸ばし、腕を掴まれて引き寄せられ、どこを見ているのかわからない目でにたりと笑って……本当に、鼻先がつきそうな至近距離で弾け飛んだ。
 目の前が、真っ赤に染まる。頭から、生温かい液体をかぶって……
 発狂しそうになった、その時。
 一筋の、光が――見えた。やわらかく、清らかな……銀色の光。
 もう、走る力もなくなって。それでも何とか立ち上がって、光に向かって歩き出した。
 はじめは足首くらいの水位だったのが、今は膝まで浸っていて。歩きにくかったけれど、ただ、光が射し込んでいる場所を目指す。
 ――あと、もう少し……
 近付くとより一層その光は輝いていて。光の下では水も青く澄んでいるのが見えた。
 もう、少し――と。光に向かって手を伸ばした、刹那。
 何かが足を掴んで、思いっきり引っ張られた。体勢を崩して水の中へ沈む。
 空気を求めて上へあがろうとする肩を、がっしりと押さえつけられた。赤い水の中で、また男が笑っていて。男の手は、首へと移動する。
 そして、男が言った。音にはならない声で。
 オマエモ、シンデシマエ――と。
 水の中、必死に抵抗してもただ男の力が増すだけで。
 真っ赤な視界の隅に見えた銀色の光に、最後の力を振り絞って手を伸ばした。
 意識も失いかけ、全てが闇に沈もうとしていた、その時。

 ――悪夢は、もう終わる。

 そんな声と共に、あたたかな何かが手を包んだ――気がした。


 気がついた時には赤い水はどこにもなく、見覚えのない木目の天井が見えていた。視界が白く霞んでいることも――それが、あれほど求めていた光であると理解するまで、時間を要した。
 しばらくぼんやりしていたが、やがて習慣的に体を起こそうとして、手に違和感を覚えた。
 目を向けた先には、銀色。
 体を起こして全体を見下ろして、わかった。正体は銀色のくせっ毛を持つ少年。彼が、自分の手を握ったまま眠っていたのだ。
 心休まる温かさが、手から伝わってくる。
 夢の中で、最後に感じた手のぬくもりは、このお陰だったのかもしれない。
 そう考えていると、少年が身じろぎした。
「ん……朝か……って、おう、気がついたのか」
 目元をこすりながら起きた少年は、少し驚いたようにそう言った。
 未だに状況がよくわからないので、頷くこともできずに一番はじめに浮かんだ疑問を口にする。
「ここは……?」
「オレん家の客室のひとつ。で、オレの名前はライだ。オマエは?」
「わたしは、……
、か」
 確認するように呟いた少年。
 その少年の名を呼ぶ声が響いたのは、丁度その時だった。

「ライくーん! 起きてるー?」

 やわらかな女性の呼び声に、少年・ライはすぐに近くの窓を開け放ち、答えた。
「起きてるぜ! 悪ぃけど庭のほうに回って来てくれ! 今、裏口開けるから!!」
 中へと顔を向け、「ちょっと待っててくれ」と言い残してライは扉の向こうへと姿を消した。
 ぼんやりと、開けられたままの窓へと目を向けた。
 庭――と言っていたけれど、花壇や芝生ではなさそうだ。ただの広場に、木が数本生えているのが見える。木から少し離れた位置に立つ大きな木の杭に、白いロープが結ばれていて、ベンチもあった。
 自分が知る庭とは、随分と違った質素な感じ。
 不意に窓際を金髪の女性が横切った。女性は室内のに気がつくと、優しく笑いかけてそのまま先へと進んでいく。
 ややあって、ライと女性が一緒に部屋に戻ってきた。
「おはよう……って、はじめましてって言ったほうがいいのかな? 私はミントっていいます。よろしくね」
です……」
って……」
 人懐っこい笑顔を向けてきた女性・ミントへもライにしたのと同じように名乗ると、彼女はきょとんと小首を傾げて、復唱して。
「ひょっとして、貴方……ニホンの人なのかな?」
「そう、ですけど……」
 訊かれた内容に、疑問が浮かぶ。何故今更そんなことを訊くのか、と。
 その疑問が、ようやく頭を働かせはじめた。
「ミントねーちゃん、知ってるのか?」
「ええ。先輩の知り合いにも一人いるみたいなの。名も無き世界のニホンという国では、家名――ええと、苗字っていうらしいんだけど、それが名前の前に来るって聞いたから」
「へえ~……って、家名持ちってことは、コイツ貴族なのか?」
「ううん、違うみたい。名も無き世界では、基本的にみんな家名があるそうよ」
「ちょっと待って!」
 二人の会話にストップをかけた。
 何かが、おかしい。自分のことを改めて日本人だと確認したこと。『ライ』に『ミント』という名前。金髪に、銀髪。見知らぬ家。
 何かが、おかしい。貴族や家名などという言葉が普通に出てくること。『名も無き世界』という呼称。日本を、知らない様相。
 ――これでは、まるで……
「ここって、日本じゃないの……?」
 疑問を向けられた二人は顔を見合わせた。それから、ライが真顔で向き直ってきて。
「オマエ、『リィンバウム』って名前に聞き覚えはないか?」
「ないわ……リンデンバウムなら知ってるけど……」
「それって、何だよ?」
「木の名前よ。菩提樹――しなの木のこと」
「……どっちもオレらの耳に馴染みはねえな」
 確認のためかライが視線を送ったミントも静かに頷く。
 二人の顔は真剣で、嘘をついているようには見えない。その事実は、不安を煽り立てるには充分すぎるもので。
「どういう、ことなの……『リィンバウム』って、何なの?」
 震える唇が、疑問を紡ぐ。
 けれど答えは、返ってこない。二人ともただ静かに佇んでいて。それがまた、不安を掻き立てた。
「ねえ!? ここはどこなの!? どうしてわたしはここにいるの!? 答えてよ!!」
 耐えられず声を荒らげると、ようやくライが口を開いて長く息を吐き出した。
 そして、告げられた事実は――
「『リィンバウム』は、今オマエがいる場所――この世界の名前だ。オマエはこの世界に存在する『召喚術』という、異世界からあらゆるモノを呼び出す力によって、ここに呼ばれてきたんだ」
 信じたくはない……認めたくはない内容。
「異、世界……?」
「そうだ」
「召喚術?」
「ええ、そうよ。魔法の力。貴方のいた世界では、空想上の力としては認識はあるのよね?」
 そう……そうだ。魔法だなんて、物語上の存在でしかないのだ。
 だから、有り得ない。あっては、ならないこと……
「……夢……」
「じゃねえよ。現実だ」
「ウソ……」
「そう思いたい気持ちもわからなくはないけど……認めなくっちゃ、先へは進めないよ?」
 やわらかな物腰、優しい言葉。
 落ち着かせようとしているのかもしれないが、今のには全く効果はなかった。
 認めるだけなら、そう難しいことではない。現に、大半は認めている。認めているからこそ、ここはどこ――と訊いたのだ。
 だから、認めた上での、これが結論。
「……かえして」
 俯いたまま呟いた声は、震えていた。
「今すぐ元の場所へ帰して!」
 強く拳を握り唇を叱咤して、二人を睨むように見上げて言った。
 涙が、こぼれてしまわないように……そうして強がって見せるしかなかった。
 けれど、沈痛な表情を見せた二人の口からは、無情な事実が告げられる。
「それは――できない」
「どうして!?」
「召喚獣――召喚されたものを元の世界に還せるのは、呼び出した当人だけだからだ」
「召喚術の媒体として召喚獣の真名が刻まれた召喚石が砕けた場合、及び召喚主が死亡した場合は、呼び出されたものは一生元の世界へ帰ることはできないの」
「わたしを呼んだのは、あなたたちじゃないの……?」
 問い掛けに対して返ってきたのは沈黙。
 説明の内容からしてその確率は高いのだろうが、二人はまた顔を見合わせている。
 今までとは、何か違う態度。言うべきか迷っているような、そんな風に見えた。
 何かを、隠している? ミントは、なんと言っていた?
 真名の刻まれた石が砕けた場合は帰れない。もうひとつは、召喚主が死亡した場合――
 ……何かが、引っかかった。
 ライは、何と言った? 確か、召喚されたものを還せるのは召喚した者のみ、と。そしてミントは、召喚主が死亡した場合は、一生帰ることはできない、と。
 は、理解した。己を呼び出したのがこの二人ではなく、召喚石が砕けたパターンでもないことを。召喚主が、既に死んでいるのだということを。
 そして、脳裏に蘇った。あの、赤い夢の内容が――否。思い、出した。夢じゃない。
 あれは、現実……あの、真っ赤に飛び散った男が、召喚主――

「しっかりしろ、ッ!!!」

 強い呼び掛けと同時、ガクンッと揺らされて、我に返った。
 すぐ目の前には、険しい表情のライの顔。
「あ……し、死んだ、のね……わたしの、召喚主は……あの、男の人……」
「……思い、出したのか」
「どうして、死んだの……? あ、あんな……わ、わたしの、せい……」
 脳裏に過ったのは、夢の内容。自分を追い詰め、殺そうとしていたあれが、まるで彼の怨念のように思えたのだ。
 ――けれど。
「違う。オマエに非はねえよ。オレが駆けつけた時、オマエらの周りにはぐれが……魔獣がいた。オマエの召喚主は身を守るために召喚術を使って、失敗しただけだ」
「で、でも……」
「でもじゃねえ!! オマエが召喚されたのはただの事故で、召喚主が死んだのは当人のミスだ! オマエは元の世界に帰れねえってことだけ、今は理解できればいい。……わかったな?」
 強い眼差しが、平静さを取り戻させてくれた。
 静かに、けれどはっきりと頷くと、ライは安堵の表情を見せて、から離れた。
「一応確認しとくけどな、オマエ死にたいとか思ってねえよな?」
 聞かれたことは、一瞬理解できなかった。だが、すぐに彼の意図を察した。
 元の世界に帰れないとわかって、自暴自棄になってたりはしないかと訊いたのだ。
「死に、たくはないよ……わたしは、生きていたい……」
 見知らぬ世界。ここがどういう場所かもわからない。
 不安が、ないわけじゃない。でも、死ぬことのほうが怖いから。
 生きて、いたい。それは、本心。でも――どうやって……?
 の思考を知らないはずのライは、けれどまるで読んでいたかのように言った。
「オマエ、ここで働かないか?」
「――え?」
「ここは宿屋兼食堂で、オレが店主なんだよ。オマエがいいなら、ここで住み込みのバイトをすればいい。そうすりゃ、少なくとも衣食住の心配はないだろ」
 思いがけない言葉。
 あとから思えば、何てお人よしなんだろうと思う。見ず知らずの、しかも異世界の人間を受け入れようというのだから。
 でも、この時のには、ただ差し伸べられている手しか見えなくて。
「いい、の……? わたし、ここにいて……?」
「ああ、ここで生きればいいさ。新しい人生を」
 こらえていたはずの涙が、いつの間にか溢れていた。理由は全く違っていたけれど。
 自覚しても止めようとはせずに、そのままで頭を下げた。

「あり、がとう……よろしく、お願いします……っ」