第 2 話
新しい生活

 宿屋『忘れじの面影亭』に置いてもらえることになった翌朝、は庭にある井戸の前に立っていた。
 事情説明のあと食事を済ませてから、生活必需品の買い物がてら町を案内された昨日。その過程でわかった様々なことが、本当にここが異世界なのだという実感を与えてくれた。
 その最たるものが文字と、そしてこの井戸だった。
 『忘れじの面影亭』には、水道が引かれてないのだ。町のほうには引かれているようだが、高台にあるここには――この世界の技術ではまだ無理らしい。
 つまり、料理にしろ洗濯にしろ入浴にしろ、水を使うためにはまず井戸から汲まなければはじまらない。
 腕まくりをし、気合を入れて、は釣瓶(つるべ)を落として縄を握った。
「ん……っしょ……っ」
 よく時代劇とかでは目にしていたが、なかなかどうして。実際にやってみると、かなりの力仕事だった。
 水が重いということは勿論知っていたが、まさかこれほどとは……
 それでも、一生懸命に手に力を入れて縄を引いていくと、ようやく桶が見えてきて。
 知らず頬が緩んだ――刹那。

「誰!? そこで何してるの!?」
「――っ、きゃあっ!?」

 突然の大声に吃驚して、つい悲鳴を上げてしまった。
 けれど、そのすぐあとに、ぼっちゃ――ん……と。実に小気味いい音が目の前の井戸から聞こえて。
「あ――――――っ!?」
 自分の両手と井戸を見て、また叫んでしまった。
 折角苦労して汲み上げたものを落として振り出しに戻ってしまっては、そりゃ叫びたくもなる。
、どうしたんだ?」
 井戸の縁に手をついて項垂れていると、扉の開く音と共にライの声が届いた。……届いてはいたものの、衝撃からはなかなか立ち直れず。
「や……なんでもない――かな?」
「『かな』って……」
 そう答えた時には、既にライが傍らまで歩いてきていた。
 呆れの色が濃い呟きを耳に捉えつつ、溜息をついてもう一度縄へと手を伸ばした。
 その手を、ライの手が遮る。
「無理すると筋肉痛になるって言っただろ」
「でも、やらなきゃいつまでも慣れないもの」
 文字の読み書きが最低限できるようになるまでは、ホールの仕事は出来ない。半居候の身の上だ。できることは何でもやらなければ、申し訳なさ過ぎる。
 でも、理由はそれだけではなく。
「それに……今は、忙しくしていたいの……」
 昨夜もまた、あの赤い夢を見て夜中に目が覚めてしまった。何度かうとうととしたものの、眠れば必ず続きが待っていて。怖くて眠れなくなり、結局朝まで起きていたのだ。
 寝不足、だけど。眠るのは、怖い。
 だから……せめて昼間は、忘れていたい。
 が抱えている不安を察したのか、ライは溜息をついて。
「けどな、疲れすぎると逆効果になる可能性もある。程々にしとけよ?」
「……うん」
 ただ頭ごなしに駄目だというのではなく、忠告しつつも許可してくれる。それは、理解してくれているということ。
 そのことが、ただ嬉しかった。
 小さく頷くと、ぽんぽんと頭を撫でられる。そして。
「とりあえず、水汲みは後回し。今は、回れ右」
 小首を傾げつつ、言われた通りに後ろを向いて――ようやくライ以外の人の存在に気がついた。
 そういえば、さっきは少女の大声に吃驚して手を放してしまったんだった。
 今更ながらに思い至って、改めてそこにいた二人の少年少女を見た。
 ウサギの飾りがついた大きな桃色の帽子をかぶった、勝気そうな少女。そして大きなゴーグルを頭につけて、三色のスカーフを首に巻いている大人しそうな少年。どちらも年の頃はライと同じくらいだ。
 少女は訝しげに、少年は不思議そうにこちらを見ている。
「女のほうがリシェル、男のほうがルシアン。二人ともオレの幼馴染みで、この宿のオーナーの子供だよ」
 宿の仕事を手伝ってくれてるんだ。
 そうに紹介し、ライはすぐに二人のほうを向いて。
「コイツは。ウチで住み込みで働くことになったんだ」
 同じように――けれど簡潔に説明した。
 すると、少女・リシェルが片眉を持ち上げた。
「バイトぉ? 何で急にバイトなんて雇うことにしたのよ?」
「別に一人くらいいたって、おかしくはねえだろうがよ」
「そうだよ、ねえさん。僕たちだって、毎日手伝えるわけじゃないんだから」
 不満をこぼすリシェルをライは軽くあしらい、ルシアンが宥める。
 三人の関係がよくわかる遣り取りだが、リシェルの率直な不満がの胸に突き刺さって。遣り取りを楽しむ余裕は勿論、冷静に状況把握をすることもできなかった。
「あ、あの……!」
 三人が同時に振り向いた。
 その視線――特にリシェルの眼差しが強くて、たじろいでしまう。
 それでも何とか弱気になる心を叱咤して、リシェルを見つめ返す。そして……
「まだ、慣れなくてわからないことが多いけど、でも早く役に立てるようになりたいと思ってます。だから……色々、教えてください!」
 頭を下げること数秒。あからさまな溜息が耳を打つ。
「何言ってんのよ、あんた……」
 拒絶、と受け取れるよな言葉。
 顔を上げることができずに頭を下げた姿勢のままのにとって、次の言葉は意外すぎた。
「あったりまえでしょ」
「――……え?」
「あたしたちが来れない日は、しっかりライのサポートしてくれなきゃ困るんだから。ちゃんと覚えなさいよね?」
 恐る恐る顔を上げると、少し悪戯っぽくからかうように……けれど悪意のない笑顔が自分に向けられていた。
「何でも聞いてください。僕たちにわかることなら答えますから、一緒に頑張りましょう」
 もうひとつ、優しく励ますような笑顔。
 ライも見守るように小さく笑っている。
 その、笑顔が。受け入れてもらえた証拠だとようやくわかって。途方もない安堵がの心を満たした。
「はい……っ、よろしく、お願いします!」
 潤んだ目を隠すために、再び深々と頭を下げる。するとまた、ぽすぽすと頭を撫でられ、差し伸べられた手を取ると勢いよく体を起こされた。
「それじゃ早速、朝の仕事をはじめようぜ」
 目の前のライが笑う。
「まずは、ミントさんの家に行って野菜をもらってくることね」
「行きましょう!」
 リシェルが説明し、ルシアンが手を差し伸べてくる。
 ライがつないだままの手とは逆の手でそっと触れれば、力強く握られて導いてくれる。
「――はいっ!」
 今度はも笑顔で答えて、歩き出した。