「ん……ぅ……っ」
冷たい何かが、喉を通っていく。
熱を持った体にゆっくりと染み込んでいくその心地よさに、綱吉の意識は浮上した。
目を開けてみて、まず見えたのは見覚えのない天井。ぼんやりとそれを見ている視界の端に動く何かを捉え、そちらへと顔を向ける。
何故か上手く定まらない視界いっぱいに、黒い何かがサラサラと揺れ動いているのだけはわかって。
何も考えぬまま、綱吉はそれを掴んだ。
「つ……っ」
自分以外の小さな声が耳を打つ。それが、止まっていた綱吉の思考をゆっくりと動かし始めた。
その声の主らしき人影が振り返り、綱吉を覗き込んだ。
「気がついたの?」
ひんやりとした手が綱吉の頬を撫で、熱に浮かされたような頭を少しずつ冷やしていく。
ぼんやりと定まっていなかった焦点が徐々にあって、人影を判別できるようになった。
「ヒ、バ、リ、さん……?」
綱吉を覗き込んでいたのは、並盛中学の支配者にして綱吉の想い人、雲雀恭弥――もとい、だった。
その圧倒的な存在感は、いつも綱吉の心を捕らえて動けなくする。
少し冷静になれば色々疑問も出てくるのに、折角動き出した思考回路は再び止まって真っ白になり、何の動きもできなくなってしまった。
そんな綱吉に気付いたのか、雲雀は溜息をついて後ろを振り向き……ほんの僅かに綱吉の視界から外れる。少し後に再び覗き込んできたと思ったら、唇を重ねられた。
「う……んっ」
目を見開いたまま硬直した綱吉の歯列を、雲雀の舌が割り開いて侵入してきた。その舌を通り道にして、口腔内に冷たい液体が流れ込む。逃れることを許されずに飲み下すことを催促するように舌を弄ばれ、綱吉は流し込まれた液体を飲んだ。
ちゃんと飲み込んだとわかると口は解放され、飲み切れずに端からこぼれた分を雲雀のひんやりとした手が拭った。その感触にいつの間にか閉じていた目を開けると、澄み切った黒曜石と間近で視線がかち合い、恥ずかしさで目を逸らす。そして、止まったままの頭を何とか動かそうと試みた。
「あ、の……っ、さっきの、何ですか……?」
「スポーツドリンク。熱中症なんでしょ?」
「ひゃっ」
とにかくまずは現状把握、と。
綱吉が口にした疑問に、雲雀はあっさりと答えて、綱吉の首筋に冷えたペットボトルをくっつけてきた。
その冷たさに思わず身を竦ませた時、ようやく脇の下と内腿にも同じように冷たいペットボトルが挟められているのに気付いた。ついでに額には濡れタオルがある。
ようやく少し現状がわかってきて、綱吉はそうなった経緯を思い出そうとする。
雲雀は熱中症と言ったけれど……熱中症?
「えーっとぉ……ここって、応接室、ですか?」
「そうだよ。見回りに出たら君が廊下に落ちてたから拾ってきたの」
「……物みたいに言わないでください……」
雲雀の表現に非常に情けない気持ちに落とされながらも、思考回路を過去へと回す。
雲雀が見回りに出るのは、主にサボる生徒が多くなる五限目。今日の五限目の授業は――体育だ。……そうだ、残暑の中、外での授業を受けていて具合が悪くなり、一人保健室へ行こうと校舎に入ったのだ。
そこから、記憶が途切れている。状況から察するに、力尽きて意識を失ったのだろうけれど……思わず深い溜息がこぼれ出た。
目を閉じて体から力を抜いた綱吉の頬に、雲雀は手の甲を滑らせてきて。
「……君、全然強くならないね」
今、まさに綱吉が落ち込んだ理由を、ずばり言い放ってくれた。
自分でわかっているだけに、他人に言われると余計に落ち込むというもの。けれど素直に認めるには抵抗があって、せめてもの反論を言ってみる。
「まだ、あれから二週間しか経ってませんよ」
「僕はもう治ったよ」
黒曜センターでの戦いのあと、入院していたあの時から。綱吉が雲雀に告白し、雲雀から強くなれと言われてから、まだたったの二週間。
綱吉的にはようやく傷も癒えダメージも回復してきたかなというところなのに、あの戦いで肋骨まで折れて一番重傷だった雲雀が既に治ってるとかおかしすぎる。
「なんで、そんなに回復が早いんですか……」
「君たちとは、生物としての性能が違うのさ」
「何なんですかそれ……はぐらかしてません?」
「言ったはずだよ。知りたければ強くなりなって」
つまり、やはりはぐらかしている――ということ、か。
何故名前を、姿を、性別を偽っているのか。どうやって男の姿を維持しているのか。
聞きたいことがどんどん増えていくのに、答えを得るためには強くなって雲雀と戦わなければならない、なんて……
諦めたくはないけれど、過去と現状を見る限り、それは夢のまた夢に思えてならない。
情けなさと悔しさで、手をきつく握り締めた。――と、その手を雲雀がつつく。
「ねえ、そろそろこの手を放してくれない?」
「――え?」
「痛いんだけど」
雲雀がつついて示したのは、確か目覚めた時に見えた黒い何かを掴むために伸ばした右手。
あれからずっと握りっぱなしだったようで固く強張ってしまっているそれを持ち上げ、見える位置まで動かしてみた――けれど、何も、握ってはいなかった。
「え……」
目に映る自分の手は、ただの握り拳。そこには何も――雲雀が「痛い」というような物はない。
でも……感触は、ある。
強張っている指を少しだけ開いて、その感触を確かめるように手を引いてみる。すると指の間を細い細い何かが、するするとくすぐっていった。
「……これって……髪の毛、ですか?」
ソファに寝かされている綱吉のすぐ傍らの床に雲雀が膝をついたままどこにも行かなかったのは、綱吉が彼女の髪を掴んでいたから?
前回同様、目には少年としての姿しか映らない。けれど、手にはさらさらと流れるような、しっとりと芯の強い髪の感触があるという不思議な状態。
「さん、髪長いんですね」
思いがけず知ることができたの秘密の欠片。それが本当に嬉しくて、右手にある髪の感触を堪能する。
きっと濡れ羽色の長くてサラサラの綺麗な髪なんだろう。
見えない本当の姿を思い描いて目を細めた綱吉の鼻先に、幸福感を打ち砕く無粋な鈍色(にびいろ)のトンファーがつきつけられて。
「いい加減にしないと咬み殺すよ」
「ひいぃぃぃぃっ!? すみませんすみませんっ!!」
低い宣言に、綱吉は条件反射で手を開いて逃げようと身をよじった。その動きで額に乗っていたタオルが落ち、陽射しが顔にかかる。
窓硝子越しでも、尚強い陽射しは、今の綱吉に苦痛を与える。強い光に目を焼かれ眩暈に襲われて、息を呑み再びソファへと体を沈めた。
雲雀は再び溜息をつくと、ようやく自由になった体を起こして、カーテンを閉めてからソファへと戻って来た。
「放課後までは大人しく寝てなよ」
「……はい……っ」
タオルをもう一度濡らしてから額に乗せられ、綱吉は素直に姿勢を楽にして力を抜く。
視界がぐるぐると回る不快感に目を開けていられない。やり過ごすしかないそれに耐えていると、自然と寄っていた眉間の皺を雲雀が悪戯のように指でぐりぐりと押し伸ばしてきて。
「さ」
「呼んでいいと許した覚えはないよ。口開けて」
「なに――んッ」
何をするのか、と。名前を呼んだ声は冷たい言葉で遮られ、その上反論する間も与えられずに端的な命令が来る始末。不満と怪訝を表そうとした口は、三度(みたび)、塞がれた。そうして口腔に流し込まれたほのかに甘い液体を、今度は間を置かずに飲み下す。
水分摂取が必要であり、起き上がるのもつらい状態である自覚もあるけれど、この方法はものっすごく恥ずかしくてならない。
却って体温が上がっている気がしながら、こぼれて濡れた口許を自分で拭うついでに、そのまま赤くなっているだろう顔を半分隠した。
そして、全ての不満を目に込めて、涼しい顔をしている雲雀を睨みつける。
雲雀は、何故睨まれているのかまるでわかっていないようで、ただ無表情に綱吉を見下ろすだけ。その澄んだ黒曜石の瞳には、明らかに疑問だけが映し出されていて。
「じゃあ……なんで教えてくれたんですか」
言葉にしなければ伝わらないと悟り、数ある不満の中でも今一番聞きたいことをぶつけてみた。
呼ばせてくれないのなら、何故本当の名前など教えたりしたのか。綱吉の告白に対して、多少なりとも応える思いがあったからこそ教えてくれたのではなかったのか。
そんな疑問を含む簡潔な問いかけに、なんだそんなことかとでも言いたげに溜息をついた雲雀は、ソファに浅く腰を下ろして綱吉を見ることもなく言った。
「同じことを何度も言わされるのは嫌いだよ」
「……思い当たることがありません」
「馬鹿な子だね」
横目で一瞥し、あからさまに呆れた様子で再び溜息。雲雀のその反応は、綱吉に苛立ちや不快よりも、不安を呼び起こした。
思い当たることは、実はある。先程の「知りたければ強くなりな」だ。でも、そうであってほしくなかったからないと言ったのだけれど……
不安と落胆から伏せられていた瞼に、ふと影が落ちる。目を開けてみれば、綱吉の顔のすぐ横に手をついて見下ろしている雲雀の意地の悪い笑みがあって。
ものすごく、嫌な予感がする。先程までのとは、また違った不安が胸中に満ちた。
多分、顔に出ているのだろう。片手では隠しきれないその反応を楽しむように、雲雀は目を細めて笑みを深くし、言った。
「君のことは、嫌いじゃないって言ったよね。見ていて飽きないからって」
「……はい、それは……聞きました、けど……」
「だから、面白そうだと思ったんだよ」
「オレで遊んでるだけですか!?」
……やっぱり、案の定。
告白はしたけれど、綱吉とは付き合ってはいない。は綱吉の思いを拒絶しなかったが、特別受け入れもしてはいない。二度も唇を奪われたりしたけれど、あれは単なる文字通りの口封じであって、そういう気持ちが一切含まれていなかった。
まだまだ綱吉の片想いであるのはわかっていたけれど、いくらなんでもこれはあんまりではないだろうか。
なかなか強くもなれず、好きな人からは玩具か愛玩動物扱いしかされないなんて、どれだけ『ダメツナ』なんだろう……
自分の情けなさに雲雀の顔を見るのもつらくなり、口許を隠していた腕で目を覆った。するとその手首を掴まれて、そのまま顔の横へと押さえつけられる。……これ、は……
組み敷かれたようなこの体勢は、一体何?
「残念ながら、『』はそう簡単に手に入れられるような安い女じゃないんでね。遊ばれてるだけで終わるかどうかは君次第ってことだよ」
普通こんな状況に追い込まれるのって女性じゃないの!? なんで男の自分がこんなことになってんの!? ――と。一度は治まったはずの眩暈が再発したように、目も思考もぐるぐると回っていた綱吉の上に、雲雀の楽しげな声が降り注いだ。
言葉の意味もまともに考えられず、ただ雲雀を見上げる。眩暈の所為で揺れ動く視界でも、雲雀が悪戯を思いついた子供のような顔をしているのはわかって。
不意に迫ってきた雲雀の顔。これ以上遊ばれたくないという気持ちが体を駆け抜け、咄嗟に顔を背けてぎゅっと目を瞑る。
顔を背けたために上向いた綱吉の耳に、雲雀は唇を寄せて。
「私を、本気にさせてみなさい。――綱吉」
の声で、言葉で囁かれた。鼓膜を震わせたアルトの響きが自分の名前だというだけで、どうしようもなく顔が、体が熱くなるのを感じた。
くすくすと『』の小さな笑い声を残して、雲雀はソファから離れていく。その声が、遊ばれているという事実を表しているのはわかっていたけれど、綱吉にはどうすることもできなかった。
情けなさも、悔しさも、不満も、全部が見事に吹き飛んだ。
今、綱吉の胸中を満たすのは、途方もない嬉しさと恥ずかしさだけ。
何も考えられなくなった綱吉は、ソファの背もたれのほうを向いて頭を抱え、ただ体を縮込ませることしかできなかったのである。