微かに耳が拾った旋律に、山本武は足を止めた。
立ち止まって耳を澄ませてみたけれど、もうそれらしきものは聞こえなくて、首を傾げる。
今は、放課後になったばかりの時間。ほとんどの生徒が帰宅や部活に向けて友人たちと談笑しながら移動しているので、別段歌や音楽が聞こえてきたとしても不思議はない。
けれど……先程の旋律は、自分の目の前にある部屋から聞こえてきたように思えた。そこは、そのようなものが似つかわしくない場所として誰もが挙げるだろう部屋だったから。
まあ、聞き間違いかもしれないし、考えてもわかることでもないので、山本はその部屋――応接室の戸をノックした。
「……誰?」
「2-A山本武だけど」
「入りなよ」
誰何に答えると、以外にもあっさり入室が許可された。……そういえば、こんなふうにここに来たことはなかったかもしれない。
どうでもいいことをふと思いつつ、山本は応接室の戸を開け中へと入った。
正面にある、窓を背にして置かれている大きな机に、この部屋の主――雲雀恭弥がいた。麦茶だろうか。グラスに入った琥珀色の液体を口に含んでいるところで、手にしていたそれを置いてから山本を見る。
「何の用?」
「ここにツナがいねーかなと思って来てみたんだけど、当たりだったみてーだな」
雲雀のいる机の前、テーブルを挟んでふたつ向き合って置かれた黒い革張りのソファ。その片方に横たわる綱吉の姿を認めて、山本は笑みを浮かべた。
雲雀は特に表情を変えることもなく、ただ観察でもするような目を向けてきて。
「どうしてここにいると?」
「獄寺が保健室にいないってんで探し回ってたんだけど、見つけられなかったって言ってたからさ。アイツが探さない場所で先生も騒ぎにしないっていったら、ココしかないだろ?」
「ふぅん……」
五限目の体育で、綱吉は体調を崩して倒れた。付き添うという獄寺の申し出を断って一人保健室へと向かったはずの彼の姿は、そのまま忽然と消えてしまったのだ。
五限目が終わるや否や全速力で保健室へと向かった獄寺は、保健医から来ていないと言われたとリボーンに報告した。そして心配いらないというリボーンの言葉も聞かずに六限目をサボって探したらしいのだが、見つけられなかったらしい。
リボーンが心配いらないといい、六限目をサボっても教師が特別何も言わず、獄寺が見つけられなかった。それらを合わせて出した結論が、この学校の支配者として君臨している雲雀のもとにいるだろう、ということだったのだが。
雲雀はふと、ニヤリと表現するに相応しい笑みを浮かべた。
「忠犬ぶってる自分に陶酔しているだけの獄寺隼人よりは、冷静に物事を見る目を持っているようだね」
「そーか?」
思わぬ評価に照れ笑いを返し、持って来た綱吉の荷物を空いてるソファに置く。手ぶらになってからテーブルとソファの間に膝をついて、綱吉の頬に手の甲を当ててみた。……少し、熱い。
「ただの熱中症だよ」
「……ツナは、自分でここに来たのか?」
「見回りの途中で廊下に落ちてるのを見つけたから拾ってきただけ」
「なんで保健室じゃなくここに?」
「これ以上、風紀を乱されたくないからね」
「どういう意味だ?」
「以前のような問題のない保健医がいるなら、保健室に放り込んできたってことだよ」
「あー……」
何となく、言いたいことはわかる気がして、山本は思わず目を泳がせた。
それはさておき、少し意外だった。体操服のまま仰向けに横たわる綱吉の両脇と内腿、そして首筋には中身の入ったペットボトルがあり、額には濡れタオルが乗せられている。そのどれもが冷えており、きちんと看病されていることを物語っていたから。
気に入らない人間は平気で病院送りにしてしまう雲雀が、きちんと綱吉の看病をしていたというのが、意外に思えた。
どういう心境の変化だろうか、と。雲雀へと目を向けてみると、彼は何かの書類に目を通しているようだった。その作業を続けたまま、口を開く。
「君はこれから部活かい?」
「あぁ、まぁ、休んでもいーんだけど……」
「その草食動物なら、そのまま置いといても構わないよ」
「――え?」
「邪魔にもならないし。部活が終わってから回収してくれればそれでいいよ」
綱吉を一人で帰らせるわけにはいかないだろうから、部活は休もうかと思っていた。
その山本へ、雲雀は意外すぎることを言ってきた。……本当に、どうしたというのだろう。
思わず凝視していると、視線に気付いたのだろうか顔を上げた雲雀と目が合った。そして、鋭く睨まれる。……機嫌を損ねさせたらしい。
「……何?」
「あ、いや……」
追及を逃れるため泳がせた視線は、綱吉の顔へと行き着いた。
よく、眠ってる。少し体温は高いものの、表情には苦悶の色はなく穏やかだ。
大事無いことが見て取れて、安堵の息をこぼすと山本は立ち上がる。
「起こすのもかわいそーだし、頼んでいーか?」
「好きにしなよ」
折角の申し出なので受ける旨を伝えると、書類に承認印を押しながら雲雀は素っ気無く返してきた。その様子に、いつものような棘を感じないのは、多分気のせいではないだろう。
山本は、自分のボストンバッグだけを肩にかけて。
「んじゃ、またあとでな」
応接室を後にした。そのまま部活へ向かおうと数歩足を進めた先には、リボーンがちょこんと立っていて。山本は驚くこともなく片手を上げる。
「おっす、小僧。獄寺はどうなってんだ?」
「学校の外まで探しに行ったらしいな」
「ははっ、猪突猛進だなアイツ」
「ツナはヒバリんとこか?」
「おう。よく寝てたし、ヒバリが部活終わるまで看ててくれるって言うから、置いてきたぜ。部活が終わってからオレが送ってくさ」
「そーか。じゃあ、ママンにはオレが遅くなること伝えとくな」
「おう」
やっぱりリボーンも気付いていたらしい。あっさり納得して窓から去っていくその姿を見送り、再び歩き出した。
――その、耳に。あの旋律が、届いた。
他の様々な雑音に紛れてよくは聞き取れないけれど、それは確かに何かの歌のようだった。耳を澄ませてみると、どこか心が落ち着いてくる気がする。
「……そっか、そーゆーことか」
綱吉が穏やかに眠っていた理由は、きっとこの歌のためだろう。恐らく、雲雀が綱吉のために歌っているのだ。
意外すぎる事実。けれど、それは山本にとっては良いことに思えた。
何故なら、綱吉が雲雀を好いていることに気付いていたから。
綱吉が告白したからなのか、それとも雲雀も綱吉を想っていたのか。どちらにしろ、二人の間に何がしかの変化があったのは確かだろう。
素直さとは程遠い性格をしているのが雲雀だ。体調を崩した綱吉のためということだけではなく、起きている時には伝えられない想いを歌に乗せているようにも思えた。
綱吉は、山本にとっては大切な友人だ。できることならあまり泣いてほしくはないし、幸せになってほしいと思う。
だから、この時間が長く続くようにと。せめて夢の中ででも、恋情歌として響いてくれるように――と。
そう願いながら、山本は静かにその場を後にした。