綱吉は、置物のようにその場に立ち尽くした。頭の中も真っ白になり、何も考えられなくなる。
綱吉がこのような状態に陥る原因は、ただひとつ。
雲雀恭弥――もとい、の存在……
その日、綱吉は思いっきり遅刻した。何とか風紀委員に見つからずに校内に入れはしたものの、時間は一時限目の真っ最中。途中参加で悪目立ちする気は毛頭なかったので、人目につかない場所で授業終了まで待つことに決めた。
そうして足を向けたのは、獄寺や山本とよく昼食をとっている屋上。誰もいないと踏んで気軽に扉を開けた――のに……
何故、よりにもよって風紀委員長様が朝から寝ていらっしゃるのでしょうか!?
そして冒頭の状態になったのである。
状況と相手の存在を考えれば、誰でもそうなるだろう。けれど、綱吉の場合は、その後の混乱振りが半端なかった。
雲雀がよく屋上で昼寝をしているのは知っていたけれど、それは応接室がある隣の棟の屋上のはず。どうして今日に限ってこっちに、しかも朝からいるのか。いや、会いたくないということではないけれど、むしろ会えて嬉しいんだけど、でも予想外の遭遇は心臓に悪い――等々。
動くことを思い出した思考回路は、ぐるぐると取り留めのないことばかりを考えて、しばらく体を動かすことができなかったのである。
どれくらいそうしていたのだろう。
ややあって、綱吉は静かに屋上の扉を閉め、そろりと歩き出した。できるだけ足音を立てないようにして、雲雀に近づく。
頭の後ろで組んだ手を枕にし、足まで組んで横になっている。本当に眠っているのかかなり怪しい姿勢だけれど、とりあえず目が開くことはない。
あの鋭い眼差しを向けられると、どうしても畏縮してしまう。身長差も然る事ながらその圧倒的な存在感の故に、普段は綱吉が見下ろされる側だ。
その、雲雀が、今、自分の足元に寝転がっている。
単なる物理的な問題ではあるけれど、滅多に見ない見下ろす側の視点は、ひどく新鮮に思えた。……入院していた時は、それどころではなかったし。
折角の機会だ。もっと見ていたい気持ちになって、綱吉は雲雀の横に膝を抱えて座った。
陶磁器のような白い肌に、濡れ羽色の髪がかかっている。少年の姿でも充分に整った綺麗な顔をしている、けれど誰もが恐れる並盛の王様、雲雀恭弥。この人が、本当は雲雀という名前の女性であることを、綱吉だけが知っている。
そういえば、あのサラサラの髪も長いんだっけ……
「見たい、な……さんの姿……」
声は何度か聞いたことがあるけれど、その姿を見たことは一度もない。ただ、手で触れたことがあるだけ。幻術のようなもので姿を変えているのか、目に映るのは少年の姿でも、本来の体に触れることはできたから。
その不思議な現象の理由も知りたいと思う。でも、そのためには戦って雲雀を楽しませることが出来なければ駄目だという。どれだけ王様なのだろう。
それでも、諦める気にはなれない。のことを知りたいと思うし、少しでも彼女の興味を引き寄せたいから……彼女の心の中に、自分の居場所を作りたいから……
だから、今は強くなろうと思う。それが最低ラインだ。それをクリアして、のことを知っていって――その先は?
片想いのままで終わりたくはない。けれど……手合わせをするだけで、いいんだろうか? それで本当に居場所を得ることはできるのだろうか……?
「どうすれば、オレのことを好きになってもらえるんだろう……」
「馬鹿な子だね」
「――へ……?」
はっきりとした声と同時に、閉ざされていた瞼がぱっちりと開いた。――次の瞬間、天地が逆転して、綱吉は青空を背景にした雲雀を見上げていた。
何が起きたのかわからず、目を瞬かせる。背中に痛みと、固いコンクリートの感触があるから自分が寝転がっているのはわかるけど……眠っていたはずの雲雀はいつもの不敵な笑みで見下ろしてきていて、距離は近くて、だから、つまり――押し倒された?
「へっ、えっ!?」
「本当に学習しない子だね、君は」
「えぇっ!? な、何がっ!?」
「これで三度目だよ。それとも、いじめてほしくてワザとやってるの?」
三度目という言葉と、現状を合わせて導き出せる答えは、と。混乱する頭を必死に働かせて記憶を探る。
眠っていた雲雀が、目を覚ます条件は――小さな物音。でも今、自分は全く動いてはいなかったはず……と、いうことは……
「えっ、オレ、声に出してました……?」
「僕の眠りを妨げるには充分な声量で呟いてたね」
「おお、覚えていませんっ!!」
「ふぅん、そう……?」
考え事は、確かにしていた。けれど、まさかそれを声に出していたなんて、全く自覚がない。と、いうか……何を言ったのだろう。まさか、全部じゃないだろうけど……むしろ、そう思いたい。
じっと心を見透かすように見つめてくる雲雀の視線も相俟って、冷や汗が流れ口許が引きつる。……やっぱり、この目には弱い。蛇に見込まれた蛙とはこのことか。
不意に雲雀が笑った。ニヤリ、と表現するに相応しいその笑みは、確実に当たる嫌な予感を起こさせる。本能が瞬時に逃げ道を探し、普段なら有り得ない速さで状況を把握して答えを導き出した。――結果、まないたの鯉。
「でも、人の寝顔をガン見するような趣味の悪いことをする子には、お仕置きが必要だよね」
「ちょっ待っ――んッ」
恐ろしい宣言と共に、唇を奪われた。予感的中な状況に抵抗しようにも、手首をがっちり掴まれていては動くこともできない。馬乗りされているわけではないので足は自由なのだけど……この人を下手に蹴ったりしたら後が怖いし、何より死ぬ気モードでない今の自分ではどうすることもできなかった。
唯一できる抵抗といえば、歯を食いしばって雲雀の侵入を防ぐことだけ。
体中に力を入れていると、戯れに歯列を舌で撫で下唇を甘噛みしてから雲雀は綱吉の口を解放した。そして、不思議そうに言う。
「なに? 嫌なの? 嬉しくないの?」
「嬉しいわけないですよ! なんでオレが押し倒されてるんですか!?」
「それは君が弱いからだよ」
男なのは綱吉のほうなのに。そんな非難も雲雀はあっさり一蹴し、再び唇を落としてきた。今度は口ではなく瞼に軽く口付けられ、喉を舐められる。
「僕のことが好きなのに? 本当に嬉しくないの?」
「……っ」
くすくすと笑いながら問う雲雀の声が、綱吉の心をえぐった。
……確かに綱吉は雲雀が――が好きだ。だから触れ合うことは嫌ではない。けれど嬉しいと思えないのは、遊ばれているだけなのがわかっているから。
体がいくら近くにあったって、心が遠く離れたままでは、これほど虚しいことはない。
だから。
「オレが欲しいのは、あなたの心ですっ!!」
偽りの触れ合いなど欲しくはない。望むのは、ただ、彼女の心――自分への好意。
叫びに込められたその想いは届いたのだろうか。雲雀はピタリと動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「――ッ」
そうして、自分を見下ろしてきた雲雀の目に、綱吉は息を呑んだ。
いつもなら、闇よりも深く、静かな湖面のようにどこまでも澄み切っていて、太陽を思わせる強い光を宿している黒曜石の瞳。
それが今は、不規則に揺れていた。例えるなら、雨粒で乱れる水面のよう。
涙で潤んでいるわけではないのに、ゆらゆらと揺れる瞳。何かの感情で曇るそれには、光すら見えない。
至近距離にあるので、黒い瞳に映る自分の姿が綱吉には見えている。けれど、雲雀は綱吉を見ていないように思えた。
……一体、今、誰を見ているの?
「――っ、ヒバリさん!!」
すがりついて、その肩を揺さぶりたい衝動に駆られたけれど、両手は未だ拘束されたまま。自分を見て欲しくて名前を呼ぶしかなかった声は、涙声になってしまった。
それでも目的は達せたようで、最後にひとつの波紋を描くように揺らいだあと、いつもの静かな瞳が綱吉の姿を確かに捉えた。
安堵を覚えた刹那。きゅっと目が細められたのは、笑みを作るためではなかった。つらそうであり、悲しそうであり、淋しそうであり、けれどどれでもないような……そんな、見たこともない表情を浮かべた雲雀は、それを隠すように頭を落としてきた。
肩に、重みを感じた。サラサラの髪が頬や首を流れていき、くすぐったさに身をよじる。
その体を押さえ、雲雀は顔を上げることなく囁いた。
「だからそれは、私を本気にさせられるかどうか、君の努力次第だって言ったでしょう」
「つ……ッ」
今まで聞いたのとは違ってどこか艶っぽく感じたの声と、首筋に走った小さな痛み。それらは、まるで甘い毒のように綱吉の体を巡っていく。
ぞくり、と。体に走ったその感覚の正体を知る前に、雲雀が顔を上げた。そこにはもう、いつも通りの不敵な笑みがあって。
「さっさと強くなりなよ。僕の気が変わる前に、ね」
そう言って、ちゅっ、と。音を立てて額に口付けてから、雲雀は綱吉から離れて体を起こした。そして、大きく伸びをして、首をほぐし――目を上げる。
「で、何の用、草壁」
「――へ?」
さらりと言った雲雀の言葉に、綱吉は素っ頓狂な声を出す。そして寝転んだまま雲雀の視線の先を追って――ビキッ、と固まった。
階下へと通じる扉の所には、見事なリーゼントと咥え葉っぱの風紀委員が一人、微妙な表情をして立っていたから。
その風紀委員、草壁は表情を引き締め姿勢を正して用件を告げる。
「はい、報告書、及び総会資料が上がってきましたので、お目通しを願いたく」
「うん、今行く」
「ヒヒヒヒヒ、ヒバ、ヒバリさんっ!」
がばっと勢いよく身を起こすと、綱吉は立ち上がりかけていた雲雀の手を思い切り掴んだ。バランスを崩して膝をつく羽目になった雲雀が軽く睨んできたけれど、今はそれを気にする余裕はない。
「あああの、いいいいいつからっ!?」
「君が、僕の心が欲しいとか叫んだあたりに扉を開けていたね」
やはり雲雀はさらりとのたまってくれた。
つまり、聞かれていたし、見られていたということで。雲雀が女だと知っているのは綱吉だけなので、つまり思いっきり同性愛者に見られてしまったということ。
ただでさえ、誰かを好きだという気持ちを人に知られるのは恥ずかしいというのに、あらぬ誤解をされた上に弁解もできないなんて……相手が相手なだけに、妙な噂を立てられることがなさそうなことだけが救いといえば救いだけど、でも――
ぐるぐると回っていた思考は、一限目の授業終了を告げるチャイムによって止められた。
綱吉の手から逃れた雲雀は今度こそ立ち上がり、呆然としている綱吉の頭をぽすぽすと叩くように撫でて。
「それ以上馬鹿になりたくないなら、授業ぐらいちゃんと受けなよ」
そう言って、草壁を伴い扉の向こうへと姿を消してしまった。
飄々とした雲雀の姿に、ふと怒りが湧く。そもそも押し倒してきたのは雲雀であり、気付いた時点で止めてくれればよかったのに――と。
理不尽な怒りに頭の中は占められて。
「ヒバリさんのバカあぁ――――――――――っ!!!」
声の限り、叫んだ。