「ヒバリさんのバカあぁ――――――――――っ!!!」
扉が閉まりきる直前、屋上から聞こえてきた叫びに草壁は思わず背後を振り仰いだ。
この並盛の支配者である雲雀に対して、あのような暴言を吐く愚者はそういない。そんなことをすれば、すぐさまトンファーが飛んできて病院送りになることは目に見えているからだ。
だから、今し方下りてきたばかりの階段を再び駆け上がる雲雀を予測し、草壁は道を譲るように端へを身を寄せたのだけれど……その気配は一向になく、くつくつと喉を鳴らして笑う声が反対にどんどんと遠ざかっていって。
草壁は慌てて雲雀の後を追って階段を下りた。
「あの、委員長……?」
「言わせておきなよ。困るのはあの子のほうなんだから」
控えめに疑問を表した呼びかけに、雲雀は実に楽しげな声音で返してきた。意外なその反応に、草壁は軽く目を瞠る。
草壁の知る楽しげな雲雀の姿といえば、誰かを咬み殺している時の、ある種の狂気すら含んでいるものだけだ。
だが、今の雲雀からは、そのような狂気は何も感じない。本当に、ただ純粋に楽しんでいるような……年相応、といえるものに思えたから。
「……本当に、馬鹿な子……」
ぽつり、と。小さく呟かれた声に、今度こそ草壁は大きく目を瞠った。
あまりに小さくて、うっかり聞き逃してしまいそうだったそれ。けれど、周囲の雑音にかき消されることなく、耳に響いた呟き。
楽しげであり、呆れているようでもあり、そしてどこか淋しげで悲しげな色を含ませた――愛しい者を呼ぶようなその声が、艶を含む女の声に聞こえたのは、果たして気のせいだろうか。
「い、委員長……?」
「何?」
信じられない思いがそのまま表れてしまった呼びかけ。振り返った雲雀は、怪訝と不機嫌を合わせたいつもの顔で、声も聞き慣れたものに違いはなかった。
けれど……気のせいだと思うには、あまりにも衝撃が大きすぎて。
何も言えずにいると、雲雀は再び前を向いて歩き出した。『風紀』の文字を抱く緋色の腕章のついた黒い学ランを羽織る細い背。自然と道を開けていく人々の間を堂々と歩いていくいつもの姿に、小さな違和感を覚えた。
それは、雰囲気。常に人を畏怖させてきた雲雀の持つ独特の気配から、ほんの僅かに刺々しさが消えているのだ。
他の者は気付かないほどの、僅かな変化。それを与えたのは、屋上にいたあの少年――ということになるのだろう。
誰もが恐れる雲雀の心が欲しいと叫んでいた少年。泣きそうな声で切なげに雲雀の名を呼んでいたその姿が、眼差しが、彼の抱える想いが本物であることを示している。
その曇りのない行為が雲雀を変えたのか……しかし、あの時の雲雀は――
「委員長」
「だから何?」
「その……委員長は彼を、どうなされたいのですか?」
応接室にある階の廊下に人影はない。それを見計らって草壁は問い掛けた。
屋上での雲雀は、群れるのを嫌ういつもの彼らしくないほど、少年に触れていた。それは一見すると少年の想いに応えているかにも見えるのだが、草壁がいることに気付いていたことを考えると別の可能性が高くなる。
だからこそ、この形の問い掛けになってしまったのだが――果たして。
「ああ、あれは当面の僕のオモチャだよ」
「オモチャ、ですか?」
「そう。草食動物のくせに鋭い牙を隠していることがわかったからね、その牙を剥かさせてみたいんだよ」
「はあ……」
「聞いてた通りの奇特な物好きらしいから、あれは。だから、それを利用して牙を剥かさせるために遊んであげてるってことだよ。ま、いじめてるだけでも、なかなか面白い反応をするから楽しいけどね」
ニヤリと笑いあっさりと言った姿には、いつもの狂気が戻っている。案の定なその返答に、草壁は内心溜息をついた。
雲雀自身にその『気』はない。ただいつも通りの目的を持って接していた。それは獰猛な肉食獣が捕らえた獲物を殺さず、わざと逃がしてはまた捕まえる戯れに似ている。
だが、その戯れに興ずる内に己に起きた変化に、雲雀は気付いていないのだ。
それを指摘したところで、雲雀は認めはしないだろう。ただ機嫌を損ねさせてしまうだけだ。そもそも、指摘するメリットが草壁にはない。
雲雀の嗜好がどうであれ、それが彼の強さに響かない限りは並盛の支配者としての立場を揺るがすものにはならないだろう。雲雀自身がへまをするとも思えないし。
雲雀が今の立場と威厳を失う危険がないのなら、草壁にとやかく言う気はない。雲雀の機嫌が良いことは、むしろ喜ばしいことであり、延いては並盛の平和にもつながる。
雲雀自身の幸福のため、またこの並盛の平和のために。何も見なかった、聞かなかったことにしようと決め、草壁はこれから業務に入る雲雀にお茶を入れるために給湯室へと向かった。