寝息と、執務に関する音だけが満ちていた応接室内にノックの音が響き、部屋の主は手を止めて顔を上げた。
「ヒバリ、いるか? オレ――っと、山本と獄寺だけどよ、入っていいか?」
「……んな面倒なことしねーで、さっさと入りゃいいじゃねーか……」
誰何の前に聞こえてきたふたつの声。
雲雀の口から出た溜息は、恐らくふたつめの――獄寺の呟きに対してだろう。
事実、雲雀が出した許可には、それを如実に物語る指示が条件としてつけられた。
「山本武……入るなら、獄寺隼人の口を塞いでからにしなよ」
「は?」
「あ゛ぁ? ヒバリ、てめえ何――むがっ!?」
理由がわからないながらも、いつものように大声で威嚇しかけた獄寺の口を、山本は素直に塞いだ模様。直後に開かれた戸の向こうには、口を塞がれて不満げな獄寺と、両手が塞がっているがために足で戸を開けたらしい姿勢の山本がいた。
そちらへ一瞥をくれることもなく、雲雀はソファーを指差す。
「沢田綱吉ならそこで寝てるよ。連れて帰るなら起こさないように運びなよ」
「ははっ、やっぱここだったのな」
「むがっもががっ!?」
声量を抑えて笑った山本に対し、獄寺は綱吉の姿を見るなり騒がしくなった。山本に口を塞がれてなければ、さぞかしうるさかったことだろう。
承認印を押した書類を決裁済みの山へと積み上げてから、ようやく目を向けた雲雀の口から溜息と共にうんざりした声音の感想がこぼれたのも仕方のないことかと。
「……相変わらず、獄寺隼人は駄犬だな」
「もがっ!?」
「自分の主人の体調不良にも気付けず、ようやく休息を得ている主人のその眠りを覚まそうとするなんて、駄犬以外の何物でもないよ」
「むがもががっ!?」
「理解力の乏しい君のために、もっとわかりやすいたとえで言ってあげよう。君のその態度は、飼い主の都合などお構いなしに自分の欲望をぶつけて遊べ遊べとじゃれついてくる馬鹿な子犬そのものだと言っているんだ。人間の言語が理解できるのなら、まずは黙りなよ」
「ぐ――!」
手酷く扱き下ろされて頭にこないわけがない。けれど、ここで言い返そうと騒いでは雲雀の言い分がまさしく正しいことを体現してしまうことだともわかったのだろう。獄寺はようやく口を噤んだ。――正論過ぎて言い返せなかっただけかもしれないが。
やっと静かになった室内で、雲雀の長く深い溜息がその場の空気の色を表す。
獄寺も雲雀もひとまず落ち着いたのを確認し、山本がここに来た理由を話した。
「やっぱツナ具合悪かったんか? 顔色あんま良くねー気がしたし、上の空なことが多かったから気になってはいたんだけどよ。そしたら急に姿が見えなくなったもんだから、ひょっとしてまたヒバリが見つけてくれてんじゃねーかなーって思ってさ」
「体調不良の原因は睡眠不足だよ。未来から戻ってからまともに眠れていなかったようだね。……起こすなと言った理由が理解できたかい、獄寺隼人?」
バツの悪い顔で目を逸らす獄寺。
ようやく現状を正しく理解した様子に雲雀は山本へと視線を投げる。山本はひとつ頷いて獄寺の口を塞いでいた両手を外し、彼を解放した。
自由になった獄寺は雲雀を睨みつけ、けれど口を開くことなくソファーへと近づく。丸くなって眠っている綱吉をそっと抱き上げ起きないことを確認して小さく息を吐くと、そのまま誰をも見ることなく応接室を静かに出て行った。
開け放たれたままの戸を閉じた山本は、しかし室内に残ったままで。
珍しく真剣な面持ちで雲雀を見つめる。
「ヒバリ。ツナの寝不足の原因は、やっぱ白蘭のことか?」
「……気付いていたのなら、もっと早めに手を打ちなよ。元々向こうに属している赤ん坊や獄寺隼人にはどうにもできない問題だったんだから、あの子の側にいる者の中では適任者は君だけだろう?」
「いやー、そうしたかったのは山々なんだけどよ……」
「けど、何?」
「オレじゃ、多分ムリだったぜ。ツナはさ、オレよりもヒバリの言葉を欲しがってたと思うんだよ」
「……やっぱり、君の洞察力は鋭いね。機微の敏い人間は嫌いじゃないよ」
「ははっ、サンキュー!」
「でも、僕が話すことは何もないよ。知りたいなら直接あの子から聞くことだね」
「ああ、わかってる。んじゃな!」
最後にはいつもの明るさで別れを告げ、山本もまた応接室を去った。
山本の気配が完全に消えて後、机の上をある程度片付けた雲雀は椅子の背もたれに体を預けて、そのまま首を反らせて窓へと目を向ける。
そして、山本と話していた穏やかな雰囲気が一変。不機嫌全開な声で一言。
「で、君はいつまでそこで覗き見する気だい? 赤ん坊」
雲雀の鋭い目は、間違いなく木の枝葉に隠れているはずのリボーンの姿を捉えていた。
リボーンは尾行体勢を解くと、軽々と枝から跳び、開いていた窓から応接室へと入った。
「なんだ、気付いてたのか」
「沢田綱吉の後をずっとついて来ていたくせに何を言ってるのさ。それとも、そのわかりやすい気配も消さずに尾行のつもりでいたのかい? 最強ヒットマンが聞いて呆れるね」
どこぞかの社長の如く黒い革張りの椅子に踏ん反り返る姿勢で、明らかに見下した眼差しで蔑んできた雲雀に、リボーンの顔には青筋が浮かぶ。
頭にきたのは確か。けれど、リボーンの胸中には、怒りと同じくらい驚きに満ちていた。
リボーンは、完全に気配を消していたのだ。殺し屋として生きている以上、その辺の手を抜くつもりは毛頭ないし、伊達や粋狂で最強などと言われているわけでもないのだ。
それなのに、雲雀はリボーンの気配は丸わかりだと言う。それが真実なのかハッタリなのか判断はできないが、殺し屋のプライドとしてそれを悟らせることだけはさせられない。驚きは全て怒りの下に隠しきった。
「そう、オレは殺し屋だからな。情報収集もお手の物だ。『雲雀恭弥』なんて人間は存在しねえ男だってのも、初めから知っていたんだぞ?」
「それが何? そのくらい調べられないようじゃ、殺し屋としては失格じゃないの? 僕は別に情報操作まではしてないんだから」
「……この並盛に古くから根付く名家、雲雀家の一人娘、『』。おまえが存在しない男になりきってる理由だけは調べても出てこなかった。初めは、跡取り問題か何かで男装しているだけかと思ったんだが、そういうわけでもねえ。そんな中、白蘭が言った事実だ。『雲雀恭弥』は存在しねえ男じゃねえ、存在するはずの男だ――と。だとするなら、おまえはいるはずの人間がいない事実を隠すために『恭弥』になりきろうとした可能性が考えられる」
「だから……あの男の言葉が真実である証拠がどこにあるっていうんだい? 君は殺し屋のくせに敵の言葉をあっさり信じすぎていないかい?」
「なら、これの説明はどうする気だ?」
リボーンは雲雀の膝の上に移動すると、小さなその手を雲雀の胸に押し当てた。
特に何の反応も示さない雲雀の胸は、リボーン自身よく知る感触しかない。それは、紛う方なき男の胸板。足で確認した下半身にも、女ではあるはずのない男の証が確かにあった。
「手術で性転換したのなら、戸籍もいじるはずだ。戸籍がそのままってことは、この男の体は物理的な理由で作られたものじゃねえってことだろ。未来の骸ですら本当の姿を見破ることができねえほどの、強力な幻術ってことだな。未来のおまえは確かに霧のリングも使えてたらしいが、それだけじゃ幻術の理由にはならねえ。骸をも凌ぐ幻術の使い手……おまえは一体、何者だ? なんで『恭弥』を名乗り、演じている? おまえの目的はなんなんだ?」
自らの好奇心を満たすため、そして何より自分が綱吉の守護者として選び育ててきた者で知らないことがあってたまるかというプライドから、リボーンは疑問を一気にぶつけた。
スッと目を細めた雲雀は、己の膝にいる赤ん坊を殺気と紛うほどの冷たい気配で刺すように睨み付けてきた。
だが、そんなもので諦めるようでは殺し屋の名が廃る。
「……アルコバレーノ。僕は何度も同じことを言わされるのは嫌いだよ」
「おまえが素直に吐けば済む話だろう」
「君の頭の中は、見た目通りの理解能力しかないようだね。頭の悪い人間も僕は嫌いだ」
「おまえが獄寺を嫌う理由はそれか」
「うるさいところも嫌いだよ。負け犬ほど、よく吠えるからね」
会話を途切れさせないよう、少し回り込んで突っ込むとやっと思い通りに乗ってきた。
思わずリボーンはニヤリと笑う。
「やっと素直に答えたな」
年齢をも偽っているとはいえ、もまだ子供の域だ。そんな相手に、倍は長く生きている自分が負けるわけがない。
勝利を確信したリボーンに、けれど雲雀はうんざりとした溜息をこぼして。
「君って、意外と馬鹿だよね」
「何だと」
「中身は大人のくせに、赤ん坊の体になって駆け引きのやり方も忘れてしまったのかい? 呪われた赤ん坊、アルコバレーノ」
リボーンは、戦慄が走るのを感じた。
何故、雲雀がそれを知っている? 元々マフィアであった骸が知っているのはおかしなことではないが、骸から聞いたとは考えにくい。未来で山本には確かに話したが……山本と雲雀の仲は悪くないとはいえ、そのような話をした素振りもなかったはずだ。
確かに雲雀家は古くから続く名家ではあるが、マフィア界の――それもコアな情報を調べられるほどの力はないはずなのに……っ。
どこから得ているのかわからない『雲雀』の持つ情報源――それが、彼女が『雲雀恭弥』を演じることに繋がっている……?
一瞬戦慄に支配されかけた頭を、リボーンは何とか冷静にしようと回転を早める。
雲雀は、リボーンが駆け引きのやり方を忘れた馬鹿だと言った。こちらの質問に対してはほとんど直接的には答えずに、斜め方向へとかわしていく。そして、何度も同じことは言いたくない、と……
それは、つまり、今までの言葉の中に、リボーンの質問に対する答えが隠されているということではないのか?
頭の悪い人間は嫌いで、機微に敏い者には好感を持つ――それは、暗号にも似た言葉の駆け引きを楽しみたい欲求の表われ、か?
リボーンは、ひとつひとつ雲雀の言葉を思い出してみた。
そして、気付く。ひとつの異変に。
「……オレを、『アルコバレーノ』と呼ぶ時のおまえは、『』として発言してるってことか?」
雲雀がリボーンを『アルコバレーノ』と呼んだのは、未来で『恭弥』の存在に疑いが出たあの時が初めてだ。それまでは『恭弥』として完璧に演じ切っていたとするなら、『赤ん坊』と呼ぶのが『恭弥』のスタイルということになる。
『恭弥』ではない己に気付いた者への、ひとつのサインが『アルコバレーノ』呼びなのではないか――……?
リボーンの確認の色が強い問い掛けに、雲雀は目を細く細くして。
「答え合わせをする気はない、と。何度言わせる気だい?」
否定も、肯定も、しなかった。
どちらかでも答えてしまえば、正解に辿り着くのは容易なこと。それは彼女の望みではない。のらりくらりとかわし続ける多くの言葉の中から、どれだけ正解へと近づけるのか……高見の見物をしたいのだろう。
事実、睨んでいるようではあるが、最初の時のような不機嫌さは今の雲雀からは感じられない。まあ……上機嫌に楽しんでいるのかというと、そこまでの感情も窺い知ることはできないのだが。
だが、これが当たらずとも遠からず、一番近い答えだろう。
その確認も含めて、リボーンはニヤリと笑って鎌を掛けてみることにした。――が。
「言いたくねえなら、言わせねえようにしてみ」
せろ、と。最後まで言い切ることはできなかった。
ふわりと奪われた帽子(ボルサリーノ)。視界いっぱい埋め尽くす雲雀の顔。鋭い視線に射抜かれて動けなくなったのは、一体いつぶりだろう。
ただでさえ体格差がありすぎるというのに、小さな口腔を侵入してきた舌に荒らされて簡単に息が上がってしまう。更に、つぅーっと腰を指で撫でられて。赤ん坊の体になってから初めて感じる、久々の感覚に、体が震えた――刹那。
体を支配したのは、浮遊感。
近すぎた雲雀の顔は急速に遠ざかり、舌を出して不適に笑う姿が『窓の向こう側』にあるのが見えて。
――ザンッ、と。
レオンが変化したネットの上に落ちて、しばし後。リボーンはようやく自分の身に起きたことを理解した。遅れてふわりと落ちてきた帽子を掴み、舌打ちする。
「このオレが、あんなガキに翻弄されるなんて……っ」
こんな事態は、想定していなかった。雲雀の望んでいるであろう言葉の駆け引きが、もう少し続くと踏んでいたのに。
全く反応できなかったのは、油断していたからじゃない。全然動きが見えなかった。――動く兆候さえわからなかったからだ。しかも、何の躊躇もなく唇を奪う行動と、何人もの愛人を持ち彼女たちを満足させてきたリボーンをも翻弄する技術。
あれが、雲雀という女の片鱗――……
リボーンは、投げ落とされた窓を見上げる。応接室の窓はもう全て閉められ、カーテンまで引かれていた。
明らかな拒絶を示すそれらは、まるでリボーンを嘲笑っているようにも思えて――ピキリ、と。青筋がひとつ、もちもちすべすべの肌に浮かび上がる。
「雲雀……いつまでも主導権を握ってられると思うんじゃねーぞ……っ」
リボーンの口から出た、宣戦布告にも似た呟き。
それを紡がせたのは、怒りではない。何故なら、口許は確かに不敵な笑みの形を作っているから。
今、リボーンを満たしつつある、止め処なく沸き起こる感情の、その名前は――