【 く も り ぞ ら 】
閑話〈5〉

「――っ」
「大丈夫か?」

 前を歩いていた雲雀恭弥――否。あの赤ん坊の話からするとというらしい女が急にふらついたことに驚き、アーデルハイトは咄嗟に腕を掴んで支えた。
 は、アーデルハイトの手を振り払うことはなかった。支えられていることにすら気付いていないのか、自由な片手で首筋を押さえて何かに耐えるように固く目を閉ざし息を詰めている。

 アーデルハイトには、信じられなかった。この弱々しい姿を晒す女が、自分を負かした雲雀恭弥と同一人物であるということが。
 D・スペードの幻覚空間に閉じ込められていたという加藤ジュリーたちは、雲雀恭弥の姿が変わる瞬間を目撃したらしいが、それでも尚信じられない面持ちをしていた。ならば、復讐者の牢獄に捕らわれ外界と完全に接触を断たれていたアーデルハイトが信じられないのは当然といえよう。
 確かに目の前にいる女は、男物の学ランを身にまとい、雲雀恭弥という呼び掛けで振り返ったけれど、それでも信じられない気持ちのほうが大きかった。
 それは、D・スペードが加藤ジュリーに乗り移って自分たちを騙していたと知った時以上のものだ。何故かと問われても、理由はわからないけれど。

 ややあって、は詰めていた息を吐き出し、強張っていた体からも力が抜けた。

「……本当に、余計な置き土産だよ……」
「大丈夫なのか?」
「問題ない。すぐにこんなもの、捻り潰してやる……っ」

 顔を上げて真っ直ぐに前を見据える瞳は剣呑な光を宿し、出てきた言葉も勝ち気で不敵そのもの。しかし顔色は悪く、疲弊していることが一目で見て取れた。
 アーデルハイトは小さく息を吐くと、掴んでいるの腕を自分の首に回し、片手を彼女の腰に回して本格的に支える体勢をとった。
 は眉を寄せ、怪訝な顔でアーデルハイトを見る。

「何のつもり?」
「どこへ行く気だ?」
「……泉だよ。涌き水の源」
「それなら、このまま真っ直ぐ行って、左手にあるはずだ。行くぞ」

 苦情を言いたそうなを無視して問えば、諦めたのか素直な答えが返ってきた。そのまま歩き出すと、抵抗することなく支えられたまま彼女も歩き出す。
 今までのことを忘れたわけではない。ただ、目の前で苦しんでいる者を放っておけなくなっただけだ。ましてその苦しみの原因が、自分たちを利用し弄んだD・スペードにあるのなら尚のこと。
 自身も自分の限界がわかってか、今は恭弥としての意地を見せることもなく、大人しくアーデルハイトの肩を借りて歩いていた。

 そうやって進んだ森の中。木々のざわめきに混じって聞こえてくる、水のせせらぎ。鬱蒼と茂る木々に囲まれこんこんと清水が涌き出る泉は、雲雀恭弥と戦ったあの滝へと流れ着く源泉だった。

 は電子辞書ほどの大きさのノートパソコンらしき機械を操作し、何かを確認すると、アーデルハイトから離れて自立した。
 そして、おもむろに服を脱ぎ始める。

「……おい」
「泉から離れて、何があっても水には触れないでよ。巻き込まれても責任は持たないから」
「何を……雲雀恭弥!」

 怪訝にするアーデルハイトに構うことなく、は裸になると泉の中へと入っていった。泉の中心――恐らく水の涌き出ているだろう場所まで行くと、は潜ってしまった。
 アーデルハイトは目を瞠る。
 今、は何をした? 泉に『潜った』? 滝へと通じるくらい水量は多いが、涌き出た水のほとんどは川となって流れていっており、泉自体は大きさも深さもないはずなのに……潜った。
 ただ水に全身を浸しているだけなら、水面からその姿が見えるだろう。少なくとも、あの豊かな黒髪がたゆたう様は確実に見えて当然なのに、何も、見えない。
 ならば、はどこへ行ったのだ?

「おい! 雲雀恭弥!?」

 思わずアーデルハイトは泉に駆け寄った。それでも水面からは何も見えない。ただ水底が見えるだけで、の姿は影も形もなかった。
 焦りに心を奪われたアーデルハイトは、先程のの忠告など完全に忘れて泉へと足を踏み込んでしまった。
 その瞬間――水が、勢いよく吹き上がった。

「な、に……っ、これ、は……っ」

 吹き上がった水が、陽の光を反射して幾重にもきらめく――否。水そのものが光を帯びて輝いている。
 下から上へと動く水は、やがてその動きを緩めてひとつの形を造り出した。
 それは、想像上の生物――龍、といわれるものによく似た形。光を帯びた水により形作られたそれは、まるでクリスタルの彫刻のようだった。

「なんて、美しい……」

 真っ直ぐに自分を見つめるそれに、アーデルハイトの目は釘付けになった。全ての焦りも疑問も消え失せ、ただうっとりと夢心地で目の前にあるものを見つめている。
 ――と、それは鳴き声でも上げるかのように大きく口を開けたかと思うと仰け反り、そのまま体を反転させて泉へと戻った。それが消えた後に代わりとばかりに立っていたのは、『雲雀恭弥』だった。

「……だから、入ってくるなと言ったのに……」

 溜息をこぼした雲雀は岸へと歩き、未だうっとりとしたままのアーデルハイトの顔を両手で包み込むように押さえると、自らの舌先を少し噛み切ってから躊躇うことなく口付けた。
 じんわりと血の味が広がると同時に、恍惚としていたアーデルハイトの瞳に意志の光が戻る。口腔内を動き回る自分のものではない舌の感覚と、目の前にある雲雀の顔――それの意味するものを理解した瞬間、アーデルハイトは雲雀を突き飛ばした。
 口許を拭うその仕草で赤くなっている顔を半分隠し、雲雀を睨みつける。

「何をする!?」
「巻き込まれても責任は持たないと言ったはずだよ」
「それが何故この行為に繋がるというのだ!?」
「何をされても君に文句を言う権利はないってことだよ」
「だから何が――ッ」

 わけのわからないことばかり言われて、頭に血が昇る。
 恥辱と怒りに満ちて睨みつけていたアーデルハイトの苦情は、最後まで紡がれることはなかった。
 静かな黒曜石の瞳を見た瞬間、アーデルハイトの内で荒れていた感情は吸い込まれるように静まってしまったから。そして――

「鈴木アーデルハイト。この場で見たことは全て記憶の奥底に封じるんだ。そうすることが、君の中にある君自身の一番大切なものを守る唯一の手段だからね」

 ――ああ、これは暗示だ、と。
 アーデルハイトは思った。そして同時に納得する。本当の姿であるはずのの存在を信じれず、むしろ違和感に近いものを感じていた理由もそうだったのだと。
 『雲雀恭弥』の姿を幻術で見せると同時に、それに対して疑問を抱くことがないように暗示もかけていたのだ――と。
 思う側からそれらの思考は砂城のように崩れて、先程の記憶と共に深く、深く沈んでいく。

「わかったかい?」
「……ああ……了解、した……」

 雲雀の言葉に対し、何も考えずに素直に頷くアーデルハイトの姿がそこにはあった。
 雲雀はそれを目を細めて見つめ、満足げにひとつ頷いて。


 ――バサッ。
「っ!?」

 突然耳に飛び込んできた音に、アーデルハイトははっとした。
 音の元は雲雀の学ランのようだ。気付けば、いつの間にか『恭弥』の姿に戻った雲雀が脱いだ衣服を身に着け終わるところだった。
 見慣れてしまったその姿に、不思議と安堵が満ちる。

「D・スペードの力は、無事に取り除けたようだな」
「……起きたのかい。立ったまま寝るなんて、器用な真似するね」
「寝ていた、のか……私は?」
「そうなんじゃないの?」

 しれっとした雲雀の言葉に、アーデルハイトは首を傾げるばかり。
 確かにが制服を脱いだところまでは覚えているが、それから何があったのかは全く記憶にない。疲れていることは認めるが、だからといって立ったまま寝たなんて不自然すぎる。
 そうは思うものの、実際に何も覚えていないのでは反論の仕様がなかった。
 何か腑に落ちない妙な感覚に眉を寄せるアーデルハイトに構うことなく、雲雀は携帯電話で迎えを寄越すよう指示して元来た道を戻り始める。動かないアーデルハイトに気付いて、くるりと振り返った。

「君は戻らないのかい? 氷の女王」
「……戻るに決まっている。おまえこそ戻る意味はなんだ?」
「こんな森の中じゃ、ヘリは降りられないだろう」

 確かにその通り。ヘリコプターから降りるなら少しでも開けた場所があるだけで充分だが、ヘリコプターに乗り込むとなると、梯子を使うにしてもある程度の広さが必要になる。
 納得したアーデルハイトは、雲雀の後について歩き出す。
 泉で何があったのか思い出すことも、欠けている記憶に対して疑問を抱くこともなく。
 雲雀とリボーンの会話を聞いてもほんの僅かに違和感を覚える程度で、暗示にかかった事実に気付くことすらなかったのだった。