【 く も り ぞ ら 】
霧明

「アサダヨ! アサダヨ!」

 目覚まし時計の無機質な電子音ではない、天然のやわらかさを持つ高い音に、眠りの中にあった綱吉の意識は徐々に現実へと浮上していった。
 ぼんやりとした頭で、ただ聞こえてくる音のことを考える。そしてそれがただの音ではなくて、どこか片言感のある声なのだと時間をかけて理解した。しかも、それは、いつかどこかで聞いた覚えのある声だった。

「アサダヨ! アサダヨ! ヒバリ! ヒバリ! アサダヨ!」
「……ヒバ……? あ……ヒバード、の……こえ、だ……」

 声が発したひとつの単語によって記憶が引き出され、ようやく声の主を思い出せた。それは同時に疑問をも呼び覚ます。

「あれ……? でも、なんで……?」

 疑問はその回答を求める欲求を生み出し、頭の回転速度を上げさせ、目覚めを加速させていく。
 何故ヒバードの声が聞こえるのか。これは本当にヒバードの声で合っているのか。
 次々に浮かんでくる疑問の答えを求め、綱吉はやっと目を開けた。――そして、目を見開いて跳ね起きることとなる。

「ヒッ、ヒバリさんっ!?!?」

 目が覚めたら、目の前に好きなヒトの寝顔が至近距離にあったという、この状況は一体何事!?
 茹蛸(ゆでだこ)よろしく真っ赤になって勢いよくから離れた綱吉は、壁に思い切り頭と背中を打ち付けてしまった。けれど、悶絶する余裕すら今はない。上手く言葉さえ出ずに口をぱくつかせ、のそりと起き上がるをただ見ているだけだ。
 上体を起こしたは大きな欠伸をひとつこぼし、寝るために寛げていたのだろうYシャツの釦を留め直しながら、チラリと綱吉へと視線を投げてきて。
 綱吉の心臓が、思い切り跳ねた。

「どうやら、完全にいつもの調子に戻ったようだね」
「――へ? なななな、何がっ!?」
「ヒバリ、オハヨウ! ヒバリ、オハヨウ!」
「うん、おはよう」
「ヒバリ、ヒバリ! オナカスイタ! オナカスイタ!」
「それは家に帰ってからだね。先に戻っておいで」
「ヒバリ! ハヤク、ハヤク!」

 綱吉の声に重なるように、ヒバードが可愛らしい声で挨拶しながら旋回し、は小鳥のために片手を伸ばした。細く長い指にちょこんと止まった小鳥へ微笑む
 の姿を見ること自体が少ないのに、やわらかなその微笑を目の当たりにした綱吉の心臓は更に高鳴る。そして同時に、その笑みを向けられているヒバードをうらやましく思ってしまった。
 ヒバードが窓から飛び去ってしまったあと、部屋に新たな声が現れる。

「変わった鳥だね」
「ハハッ、ヒバリってすんげーキレーに笑うのな!」
「ケッ」
「ふぇっ!? 山本!? 獄寺君!? エンマも!? なんでいるの!?」

 が自分の部屋にいるだけでも驚きなのに、更に三人もいるなんて……一体どういうことなのか。というか、群れを嫌うはずのがよく切れることなく同じ空間にいるものだ。
 もう何に驚いていいのかもわからず混乱中の綱吉へ、三人からは怪訝な――というか心配そうな視線が向けられる。

「十代目、何も覚えていらっしゃらないのですか?」
「え、な、何が? っていうか、ホントになんでみんないるの!? ヒバリさんもなんでその姿なの!?」

 素直に疑問を投げ返せば、皆一様に口を噤んでへと目を向けた。リボーンも、ハンモックからベッド上のの隣へと降りてきて、睨んでいる――ように思う。
 全員の視線を受けたは、盛大な溜息をひとつ。

「……おい、ヒバリ」
「多少記憶が混乱するのは仕方ないよ。少なくとも古里炎真を認識できてはいるんだから、そう派手に退行してなさそうだし、すぐに思い出せるんじゃない?」
「オレ無視ですか!?」
「僕は二度手間は嫌いだよ」
「う……っ」

 キロリと一睨みされるだけで、何も言えなくなってしまう自分が情けない。しかも知っているはずのことを自分だけ忘れてしまっている感じも、物凄く不安になるし。
 思い切ってもう一度訊いてみようと思った直後――ぽん、と。頭にの手が乗せられ驚きに固まってしまって、決意は呆気なく露と消える。
 そのまま何度か叩くように頭を撫でられ、思わずぽかんとを見上げると、の口からはくすりと笑い声がこぼれた。

「間抜け面」
「うぅ……っ」
「まずは支度を整えて、ゆっくり食事を摂ることだよ」
「へ?」
「三日もまともに食べてないんじゃ、脳に糖分が不足していて働きが鈍ってるのは当然だからね。食事をして落ち着いたら、古里炎真に関することから思い出していきなよ。そうすれば、全部思い出せるはずだよ」
「……は、はい……」
「それでも思い出せないようなら、ここにいる四人に聞けばいい」

 室内を示したはそのままベッドから下りて、戸のほうへと向かう。戸口付近にちゃんとハンガーにかけてあった学ランを肩に羽織ると、もう一度だけ綱吉を見て――ニヤリ、と。意地の悪い笑みを見せた。

「丁度、今日は日曜日だしね。思う存分、悶絶してるといいよ」
「っ!? 最後に不吉な言葉を残していかないでください――っ!!!」

 思わず叫んだ綱吉は、ぐらりと視界が回ってベッドに倒れこんでしまった。確かにが言ったように、食事を摂っていない所為で貧血状態らしい。嫌というほどそれを実感し、ただ眩暈が治まるのを待つ。

「だ、大丈夫ですか、十代目!?」
「だいじょーぶ、じゃないかも……」
「僕、お水もらってくるよ」
「ツナ。起きれるようになったら下りて来い。ママンにおかゆを作ってもらっておくからな。山本、獄寺、任せるぞ」
「おう」
「はい!」

 残った仲間たちが忙しく動き出す中、バイクのエンジン音が轟き、そして遠ざかっていったのがしかりと聞こえた。本当には帰ったようだけど……まさか『』のまま帰ったのだろうか? いや、あの彼女がそんなミスを犯すはずがないな。
 ぼんやりと関係のないことを考えている内に、炎真が部屋に戻って来た。

「ツナ君、お水」
「あ、ありがとう、エンマ」
「起きれっか?」
「う……ごめん、手貸して」
「は、はい!」

 山本と獄寺に支えられて上体を起こし、炎真が持って来てくれたコップの水を少しずつ飲んでいく。時間をかけて飲みきる頃には、眩暈も大分治まってきていた。
 小さく息をつくと、遠慮がちに山本の声が掛かる。

「ツナ、どうする? 何があったか聞くか? それとも自力で思い出すか?」
「うーん……まずは、自分で思い出してみるよ……ヒバリさんが不吉なこと言い残していったし」
「あ、ははっ。うん、それがいいと思うな、僕も」

 渇いた笑いで同意する炎真に余計に不安になりながらも、とりあえず一階へ下りることにした。階段はまだ不安があったので山本の手を借りたけれど、下りた後は三人には先に行っててもらい、綱吉は洗面所に向かった。
 に言われた通り、顔を洗って軽く身支度を整える。歯を磨きながら、ぼんやりと最近のことを考えてみた。でも、頭の中に霧でもかかっているかのように、はっきりとは思い出せなかった。
 仕方なく食堂へ向かうと、山本たちは先に食べ始めていた。ランボやビアンキたちはとっくに食べ終えて客間のほうで寛いでいるのが見え、綱吉も食堂へと混ざる。綱吉の席にはリボーンが言った通り、野菜のたっぷり入ったおかゆが置かれていた。
 小鉢に取り分けて冷まし、一口食べてみる。ほんわか広がるほのかな甘みとしょっぱさが丁度よく、胃に染み渡っていく感じが本当にしばらく食事を摂っていなかったんだと実感させた。
 いつもよりよく噛んで、ゆっくりと食事を進めていると、母、奈々が安心したように息をついたのが目についた。

「よかった、ツッ君が元に戻ってくれて」
「う?」
「あんなツッ君、初めて見たから何があったのか心配しちゃったけど、あのすごく綺麗な子見て納得しちゃったわ~。あんなに綺麗な子に嫌われたかもなんて思ったら、それは抜け殻みたいになっちゃうわよね~」
「ぶっ!?」

 母の突拍子もない言葉で、散り蓮華に乗せて息を吹きかけて冷ましていたおかゆを思い切り吹き飛ばしてしまった。
 茹蛸再びで母を見る。母は一人納得顔で楽しげに笑っている。

「ちょ、な、え……っ!?」
「女一人の事情で抜け殻になるなんざ情けねーがな」
「あら、リボーン君。本気の恋ってそういうものよ~。その人以外なぁ~んにも見えなくなっちゃって、なぁ~んにもいらなくなっちゃうのよ」
「そうよ、リボーン。私だって、あなた以外何もいらないもの!」
「ビアンキちゃんも恋する乙女なのね! 恋はいいわよねぇ~。ツッ君ももうそんな恋しちゃったのね~」
「ちょちょちょ、かーさんっ!?」
「あんなに綺麗な子がツッ君のお嫁さんになってくれるなんて、母さん嬉しいわぁ~」
「かーさんっ!! 飛躍しすぎ!! 勘違いしまくり!! オレ誰とも付き合ってないよ!!」

 ビアンキまで話に加わり、母の妄想がエスカレートしていくのに耐え切れず、綱吉は思わず席を立ち声の限りに叫んだ。食事の効果か眩暈が起こることはなかったが、別の意味で倒れてしまいたかった。
 炎真たちの視線が痛いし……本当に穴があったら入りたい気分だ。
 そんな息子の気持ちなど我関せず、母はけろっとして。

「あら、そうなの?」
「そーなの!」
「でも、あの子のこと好きなんでしょ?」
「~~っ!?」
「一目瞭然よ、ツナ」
「ツナ。女は色事に関しての勘は特に鋭いぞ。誤魔化すのは無理だと思っとけ」

 畳み掛ける母に、ビアンキとリボーンまで参戦し、綱吉にはもうどうすることもできなくなって。頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。せめてもの抵抗としてテーブルの陰に隠れてみる。
 まあ、無駄なことはわかっていたけれど、その通り母もしゃがんで覗き込んできて。

「ツーっ君?」
「あー、もう! そうだよ! ヒバリさんのこと好きだよ! でも付き合ってなんかいない! オレの一方通行、片想いだよ!!」
「あらあら、そうなの?」
「そうだよ! 名前を呼ぶことすら許してもらってないよ!」

 自分で言ってて虚しくなってきた。どれだけ情けないのか。
 落ち込みかけた綱吉に、けれど母は尚問い掛ける。

「ねーえ、それって名前を呼んでもいい条件っていうのがあるってこと?」
「うん。強くなることだよ……何度か手合わせしてもらったけど、全然ダメなんだ」
「あらあら、まあ! 良かったじゃないの!」
「は? 何が?」
「それって、ツッ君が自分好みのいい男になるように育ててくれてるってことでしょ? 見込みアリってことよ!!」
「――へっ!? そーなの!? ――だっ!?」

 思いがけない母の言葉に反射的に顔を上げて、思い切り頭をテーブルにぶつけてしまった。今日はよくぶつけてばかりいる気がする。
 母は綱吉の様子に頓着することなく、また一人妄想を膨らまし始め、楽しげに独り言を呟きながら洗濯物を干しに行ってしまう。
 残された綱吉はぶつけた頭をさすりながら椅子に座りなおした。けれど、恥ずかしくて山本たちのほうを見れなくて視線を泳がせる。そのまま食事を再開して、少し落ち着いた時にぽつりと呟いていた。

「ヒバリさんの性格から考えたら……単に自分が楽しみたいだけだと思うけど……」

 育ててくれてるなんて、そうはとても思えない。だってあれは、と綱吉の間のゲームも同然なのだ。綱吉が彼女を本気にさせられれば、綱吉の勝ち。できなければ、それまでという、ゲーム。
 そう思っていたのに。

「そう? 私は充分ありえると思うわ」
「え……? ビアンキ?」
「男性が好みの女性を自分色に染めるというのは、よくあることだもの。逆があっても別におかしなことはないと思うわよ」
「そーだな。ヒバリはオレに、ツナを育ててきたのは自分も同じだって言い放ったぞ」
「えっ!? ウソっ!?」
「ホントだ」
「い、いつ!? どこで!?」
「昨日だ。おまえの部屋でな」

 エスプレッソを飲みながらリボーンはあっさりと言った。その内容が信じられない。どことなく不機嫌さを漂わせているリボーンの様子を見る限り、いつもの嘘や冗談ではなさそうだけど……けれど、本当に?
 本当だとしたら嬉しいし、もっともっと頑張りたいと思えるけど……信じられないのは、心のどこかに不安があるから――だろうか。
 この不安は……そうだ。がいなくなってしまう不安だ。誰にも見つけられなくなってしまう不安が、誰もを知らない並盛の姿という形の悪夢となったのだった。
 綱吉は、目を瞠る。ひとつのきっかけが頭にかかっていた霧を晴らすように、次々と忘れていた出来事を思い出させたから。
 が言ったことも、自分が言ったことも、思い出した。を追いかけるという約束も――

「じゅ、十代目!? 大丈夫ですか!?」
「ツナ、ひょっとして思い出したんか?」
「……うん……っ」
「よかった……もう大丈夫だね、ツナ君」

 無意識に溢れた涙を拭い、心配してくれた三人の友人に笑顔を向けた。
 山本たちも安堵の笑みをそれぞれに浮かべ、やっと大団円を迎えれたかと思われた、その時。
 エスプレッソを飲み終えたリボーンがカップをテーブルに置いて、爆弾発言を投下してくれた。

「まあ、あれだけ濃厚なディープキスをして見せたぐれーだ。何とも思ってねーってことはねえだろ」

 カッキン、と。綱吉は一瞬で凍りついた。リボーンが言ったことには覚えがある。それを彼が知っている、と、いうことは……

「も、もしかして、山本たちも、あの時、いた、の?」

 だからは、思い出せなければ彼らに聞けと言ったのか? だから炎真も自力で思い出すほうがいいと言ったのか?
 恐る恐る聞いてみれば、山本はいつも通りに笑っていたけれど、その頬はほんのり染まっていて。獄寺と炎真に至っては誤魔化しようもないほど真っ赤な顔で、それぞれあらぬ方向を向き綱吉と目を合わせようともしない。その態度が何よりも雄弁に事実を語っていて。

「~~~~っ!!!」

 茹蛸、三度(みたび)。
 綱吉は一目散に自室へと駆け込み、頭からがっちり布団をかぶって籠城態勢に入った。そうする以外に、何も考えつけなかった。

 そしての言葉通り、その日一日綱吉は恥ずかしさで一人悶絶していたのだった。