聖王都ゼラムの本日の天気は快晴。ただし、一部荒れ模様。
召喚術とは異世界の住人を喚び出す術。故に、言葉は自動的に通じるような仕組みになっているらしい。だが、文字までは読み書きできるようにはならないようで。
も御多分に洩れず。リィンバウムの文字は読むことができなかった。……できなかったのだが……
薄暗い室内。手元を照らすカンテラの光に浮かび上がるもの。白い紙の上の黒いインク。
幾重にもあるその紙を一枚めくるのはの白い指。
間をおいて繰り返されるその動作。
今、がしていることは『読書』だった。
軽い音を立てて頁をめくり、文字らしきものを目で追う。記号にしか見えないそれを瞳に映すことで頭に流れてくる、覚えのない情報。
ギブソンから聞いたリィンバウムを取り巻く四つの異界。その時説明されなかったはずの詳細と異界の役割――魂の輪廻について。
本から目を離すと、頭の中に情報は流れてこない。よって、この現象は『読書』である、と。そう結論付けたものの、やはり違和感は拭えない。
『読める』はずはないのに『理解』できてしまう言葉たち。
そんな摩訶不思議体験中のが居る場所。ギブソン・ミモザ邸の二階の書庫。
……そこが、局地的荒れ模様の、まさに中心地だった。
「……これでもない……」
「…………」
「これも違う……」
ぱらぱらと本をめくる音に混じって耳に入ってくるふたつの呟き。軽やかなはずの紙擦れの音も重く沈んで聞こえてしまうその声に、溜息をつきは目を上げた。
少し離れた場所に三つの人影。それぞれの手元を照らすカンテラの頼りない明かりでもわかる程、疲労感に満ちて尚、本とにらめっこ中の彼ら。
蒼の派閥の召喚師三名。声を発していたのがマグナとトリス。終始無言で、二人よりかなり速いペースで本をめくっているのがネスティだ。
別にそんなに大きな声ではないし、耳障りというわけでもない。……まあ、多少気分は滅入るが、気にするほどのことでもなかった。――読書したまま彼らに目を向けなければ、だが。
一度目を向けてしまっては、否応無く目に映ってくれるモノ。
彼らを結構気に入り始めている今のには、ソレは決して見過ごせるものではなくて。
大きな溜息をついて、三人に声を掛けた。
「……一度、休憩入れたら?」
「さぁ~ん!」
天の助けとばかりに勢いよく顔を上げたマグナとトリスの瞳を輝かせたその言葉だったが、
「駄目だ。今はわずかでも、あの黒騎士たちの情報が欲しい」
ネスティに一蹴される。
「これから先のことを決めようにも、相手のことを何も知らないままでは考えようがないんだ!」
追い討ちのように紡がれる正論は、彼らの状態を考える限り手放しで賛成できるものではなくて。
「……確かにね。彼らがどこぞの軍隊であるのは間違いないだろうから、文献漁ろうってのは正しいとは思うけどさ。でも、手がかり見つける前に倒れちゃったら本末転倒じゃない」
「その通りよ! ネスティ!!」
バターンッ! と大きな音を立てて入り口の扉が開かれる。現れたのは強気な女性。幻獣界の女王こと、ミモザ・ロランジュ。
「休憩を甘く見ちゃ駄目よ。休憩入れるのと入れないのとじゃ、集中力が全然違うんだから。と、言うわけで、行くわよ!」
言うだけ言って、ミモザはネスティを引っ張っていく。
強制連行されるネスティと、嬉々としてその後に続く兄妹を見送り、は再び本に視線を戻した。
聞かれて困るような内容じゃなかったとはいえ、立ち聞きはいただけないよなァ……とか呟きつつ。
ついでに、何となくこの先の出来事を予想しながら。
それから、然して時間も経たぬうちに聞こえた扉の開閉音と、一人分の人の気配に予想が当たったことを確信しては嘆息した。
「自己管理ぐらい、ちゃんとしなさいよね。ネスティ」
「しているつもりだが?」
休憩など無いに等しく、未だ疲労感が見て取れるような状態で、この返事。……自覚症状ゼロ。
本棚から文献を引き出し、目を通し始めたネスティに、またひとつ……今度は諦めの含まれた溜息を洩らして。
「……ネスティ」
「邪魔しないでくれないか?」
「休憩しろなんてもう言わないよ。その代わり、言いたいこと全部吐き出しちゃいなさい」
「……何だって?」
ようやくこちらへ目を向けたネスティへ、は手にしていた本を閉じ、真っ直ぐに……真摯な眼差しを返す。
「愚痴でも何でも。重荷に感じていること……少しは手放さないと、あなたが壊れる」
数日間しか共には過ごしていないが、気付いていた。彼が他人との間に壁を作っていることに。決して他人に気を許していないということに……マグナとトリス以外には……
でも、それでも今、一時(ひととき)でいい。
確信はあったけれど……それでも。その壁を越えてくれるようにと、祈りを込めて。
「あたしが聞いてあげるよ。……何も知らないからこそ、聞き流せる……あたしが」
交錯する金と鋼の視線。降りる沈黙。
どのくらいそうしていたのか、不意にネスティはから視線をそらし、また手元の文献を見た。だがそれだけで、頁がめくられることはなかった。
はそんな彼をじっと見つめる。そして、
「……行かなければ……良かったんだ……」
ぽつりと、ネスティは言葉を洩らした。
「レルムの村になんか行かなければ良かったんだ」
視線を落としたまま、独白のように。
「彼らに関わらなければ、こんなことにはならなかったはずだ……」
一度こぼれた水が止まらないように、言葉が自然に流れ出て……
「行く先も見えない……何の保証もない道を歩く……こんなことは……僕には、耐えられない……ッ」
吐き捨てるように言い放って。
ネスティは、大きく息を吐いた。
「……すまない……君には関係のないことだったな……」
「……まあ……ね」
苦笑して見せて、は本を棚に戻した。
そして、もう一度。ネスティへ目を向ける。
先程よりは幾分かマシになったようだが……まだ……足りない。
座っていた脚立から降り、ネスティのもとへ歩み寄る。
「……でも、あたしは全てのことには意味があるって思っているよ」
「……意味?」
「そう……例えば、あたしがこの世界へ喚ばれたこと。この世界のどこでもない、あの夜、あの場所へ落ちたこと。あなたたちに出逢ったことも、黒騎士たちと戦ったことも。全部、ね」
目を上げたネスティへ微笑みを向けて。
「まだその意味はわからないけどね。きっとまだ誰も知らないこと。でも探してる。求めている」
悟らせるように。自分に言い聞かせるように。
静かに紡がれる言葉たち。
「起きてしまったことは取り消すことはできない。だから人は未来を見るんじゃないの?」
柔らかく、包み込むような笑みを見せ、ネスティの髪に触れる。
一瞬、びくりと肩を震わせたが手が払われることはなくて。
は笑みを深くする。
「大切なのはね、先へ進もうとする意志と諦めない心。色々考えるのはあなたの役割で性分なんだろうけど……考えなくちゃいけないときもあるけど、それでも非生産的な考えに囚われないでよね」
サラサラと流れるような黒髪を梳くように幾度か撫でる。
「たまには肩の力を抜くことも必要だよ。……あなたは一人じゃないんだから……」
髪を梳いていた手で彼の顔を引き寄せ、軽く額を合わせて。
驚いているようなネスティに、最後に極上の笑みを向けて、は書庫を後にした。
ティータイム満喫中の居間にて。
蒼の派閥の兄妹召喚師は揃って溜息をついた。
原因は先程先輩たちに指摘されたこと。兄弟子の苛々の原因。すっかり忘れていた自分たちの本来の目的――任務。
……とはいえ、何もあそこまで不機嫌にならなくてもいいじゃないか。と、思ってのことだった。
兄妹は顔を見合わせ、もう一度溜息をついた。その時、
「何、二人して溜息ついてんの?」
背後から降ってきた声にマグナは持っていたカップを落としそうになった。その横にいたトリスはフォークを見事落としていた。皿の上に、だが。
そんな二人を楽しそうに眺めながら、ミモザは現れた人物に声を掛けた。
「やっほー。ちゃん。あなたもどお?」
「いただきます」
席につき、ギブソンからケーキと紅茶を受け取ったが一息つく頃、マグナたちの動悸も収まって、ようやく彼女へ目を向けることができた。
「……さん……ネスの様子、どうだった?」
問われて、は諦めのような呆れのような何とも複雑な顔になる。それでも説明はしてくれたが。
その答えに、今度は聞いたほうが苦い顔をした。
「随分深刻みたいね~、それは」
予想以上に問題は深刻だったようで。
「……ネス……そんなに思いつめてたなんて……」
「何で一言相談してくれなかったんだろう……」
こんな言葉が兄妹の口から洩れた。
兄弟子を心配する気持ちの他に、彼の状態に気付けなかったことと、彼に信用されていないような気がしたことに対する悔しさの含まれた、そんな言葉。
しかし、それをミモザの意外な言葉が打ち消した。
「それは無理ね。あの子、人見知り激しいもの」
「え? ……ウソッ!?」
同じように自分の耳を疑った二人は、見事声をハモらせて。
その声に、残りの三名のほうも驚きを見せる。
「ネスティと一番長く一緒にいたのってあなたたち二人なんでしょ? 知らなかったの?」
目を細め、そう言ったのはこの中である意味部外者とも言える。
「君は……気付いていたのかい?」
「そりゃあ、あれだけ警戒アンテナばりばり張られてればね」
ギブソンの問いには肩をすくめてみせた。
まだ数日しか過ごしていない彼女ですら気付けていたということに、兄妹が敗北感を持ったかは謎。
とりあえずミモザに確認を取ってみる。
「本当ですか? 先輩」
「本当本当。あの子、派閥内での人付き合い皆無に近いもの」
「で、でも、あたしたちにはかなり容赦がない気がするんですケド……」
「特別……なんだろうね。君たちは」
「キミたち二人は、あの子が心許せる数少ない相手なのよ。きっと」
返された先輩二人の言葉に兄妹は複雑な想いで顔を見合わせた。
ふと、あることに気付き、マグナがを見る。
「……じゃあ、さんも『特別』なんですか?」
出逢って間もない、ほとんど他人の関係であるはずの彼女に、自分たちにすら言ったことのない弱音を吐いたネスティ。
それはつまり、ネスティはに心を許しているのか、と。
何やら、言いようのない悔しさや寂しさ、不安感がマグナとトリスの胸中に広がって。
けれどそれらを一蹴するように告げられた、意味不明な言葉。
「あ。あたしのはただの体質だから。気にするな、二人共」
「……た、体質……?」
「そ。体質。だから嫉妬不要」
「し、嫉妬って、俺は別に……!」
顔を赤くしてわたわたするマグナに、笑い声が洩れる。
トリスは兄から目を逸らし、素知らぬ顔で紅茶を飲んでいたが、やはりその顔はマグナ同様赤く染まっていて。
更に笑いを呼んだ。
「……本当に……君は不思議な子だね」
「そう?」
「そうそう。かなり面白いわ~、キミ」
色々言われてもは全く気にした様子もなく、ケーキを口に運んでいた。
「まあ、あたしのことはいいとして、ネスティは何とかしたほうがいいですよ」
「そーねえ」
「え?」
「人間誰しも緊張状態を長く続ければ、どこかで必ず歪みが出るものだよ」
ギブソンの言葉にマグナもトリスも表情を曇らせる。
それを見たミモザが大げさな程、明るく言った。
「こらこら、キミたちがそんな顔しててどーするのよ。ここはおねーさんに任せなさい♪」
実に楽しそうに宣言するミモザにマグナとトリスは怯えた様子を見せ、ギブソンは疲れきった顔で項垂れ、は一人涼しい顔で傍観していた。
「……なんだかな~……」
ヒュッ、と軽く空気を切って弧を描く物体を見ながらトリスが呟いた。
今日はこのまま息抜きに転じなさい。
このお言葉と共に釣り道具一式を渡されたトリスとマグナは、只今ハルシェ湖畔にて釣りの真っ最中。
何となくついてきたは、釣りをする気はないらしく、少し離れた土手に座って二人の様子を眺め、
「へぇ~……結構釣れるもんなんだね~」
とか洩らしている。
マグナは、既に釣りに没頭していて、先程のことは頭から除外されているようだった。
トリスは逡巡した後、に声を掛けた。
「あの……さん……」
「呼び捨てでいいよ。何?」
「さっき言ってた『体質』って……どういうこと?」
先程はその場の雰囲気で流れてしまったが、こうしてゆっくり考える時間ができてしまうと、やはり気になる。
――嫉妬……かもしれない。
長く共にいた自分よりも兄弟子のことを知っているようなに対して。未だ形ははっきりしていないが……小さなしこりができ始めているような気がする。
しばしの沈黙に自分の考えにふけっていたトリスは、返答がないことに気付いて振り返った。
そこには呆れたようながいて。
「なーに? トリス、まだあたしがネスティを取るとでも思ってるの?」
「なっ!? ちがっ!」
「はいはい。ちゃんと前見てないとマグナの釣り糸と絡まるよ」
考えていたことをずばり言い当てられ、思わず否定したがさらりと流されて。更に言われた言葉に慌てて前を見る。
以前にも釣り糸が絡まってかなり苦労した思い出があったので尚のことだった。
一度、針を上げてみて餌だけ食われているのに気付き、餌を付け直して再び竿を振った。
またはぐらかされたまま終わるのかな、とか考えて。
釈然としないのも気持ちが悪いと思い、再度口を開いて、
「……ねぇ……」
「聞かないでくれる?」
先手を打たれた。
「『体質』って言ってもあたしが自分で体験するものじゃなくて、他人が体験することだから。あたしはただ状況判断の結果、そう思っているだけ。でも事実だし……あたしの側にいれば否が応でも体験することになるよ」
こう言われてしまっては、これ以上聞くわけにはいかなくて。
釈然としない自分を無理矢理納得させようと試みて……ふと気付く。
「えっと…………は、このままあたしたちと一緒で……いいの?」
先程の説明は、そう解釈できて。
ギブソンから一通りの説明はしたと聞いてはいるが、どちらかといえば無関係に近くて。
本当に……このまま巻き込んでしまっていいのだろうか、と。
思ったのだが、当の本人は……
「あたしがいないほうがいいの?」
「そ、そーじゃなくて! いてくれれば、そりゃ頼もしいけど! じゃなくて!! 何でいっつもこっちが聞いてるのに逆に聞き返すのよぅ!」
「人の揚げ足取りはあたしの趣味です」
「……趣味って……」
「人からかうのって楽しくてね~」
「って、性格悪い?」
「よく小悪魔だと言われたよ」
やっぱり、あっさりきっぱり返されて、トリスは項垂れるしかなかった。
「リューグとか……あ、ひょっとしてイオスに言ったことも?」
「うん。男だって知ってたよ」
敵に回したくないなァ……と思い始めて、味方にいるほうがまずいのかという考えに至る。
でも、ネスティは普段がああなだけにからかい甲斐はあるかもと予想して。
結論。見てみたい、と。
「いくらあたしでも時と場合は考えるけどね」
告げられた言葉が先程のネスティのことを指していることは明白で、一瞬自分の考えを見透かされたような気がした。
振り返って見たは、全く別のところを見ていて、自分の思い過ごしだとわかる。
ふと視線に気付いたのか、がトリスを見、指差した。
「竿、引いてるよ」
「……え? うそ~!?」
急いで竿を引いてみるが、魚は既に逃亡済みなようで、空の針だけが上がってきた。
そんなトリスの横では、マグナがまた一匹大物を釣り上げて歓声をあげていて。
トリスはむぅ、と頬を膨らませた。
餌を付け直すトリスの耳に、くすくす笑う声が届いた。
湖面に落ちる針を見ながら、トリスは小さく訊いてみる。
「……楽しい?」
「楽しいけど?」
「……帰りたい……とか、思わないの?」
「帰れないんでしょ?」
相変わらず聞き返してくるに、トリスは少し考えて。
「可能性が……ないわけじゃないと思うけど……」
答えたその言葉だったが。
「……でも、あたしは帰る気はない」
やっと得られた明確な返答。でも疑問は残る。
「……どうして? あたしだったら……帰りたいよ」
異世界から喚ばれたわけではないけれど、無理矢理ここに連れて来られた身としては似たような思いがあった。
自分たちが自由に生きていられた、あの街に帰りたいと思う。
例えあそこを壊してしまったのが自分たちでも……兄がどう思っているかはわからないけれど。
でも、それでも、トリスにとってはあの街が『故郷』だから。
今はまだ勇気が持てないし、状況が状況だけど……いつか、帰りたいと思っていた。
――けれど、は……
「はっきり言って清々してるよ。向こうにいたって良いことなんてひとつもなかったからね。あたしは……この世界が好きだよ…………この世界に生きる人たちなら……きっと好きになれる……」
トリスは目を瞠った。
湖面を見たままで。けれど瞳に映るのは派閥の人間と、そして今の仲間。
「あ……あたし……も、この世界……好き。嫌なことも沢山……沢山あったけど、でもみんなと逢えたから」
意識せずに、口をついて出る言葉。
「派閥の中は冷たくて……嫌で嫌で仕方なかったけど……」
ラウルは優しかったが、それだけであそこを『家』と呼ぶにはあまりにも冷たすぎて。
今はもうあそこに居場所などありはしないけど。
「あんな所、大っ嫌いだったから! 追放された時不安もあったけど、やっぱり清々してたってところもあった。やっと自由になれたんだって思えて……みんなにも出逢えて……あたし……やっと自分を好きになれた……人を……好きになれたよ……」
自分の想いを言葉にして……ゆっくりとへと向き直る。
はすぐ側まで来ていて、優しく微笑んでいた。
「……も、同じ気持ち……?」
「あたしはまだ現在進行形だけどね。でも、あなたたちのことは結構気に入ってるよ」
そう言って、頭を撫でてくれる。
深く、暖かい笑顔に何故か安心感が心を満たしていって。
トリスの頬を、一筋の涙が伝った。
それをは指で拭って、言った。
「ネスティの気持ち、わかった?」
「え?」
「あたしの『体質』、体験できたでしょ? 今」
「……あ……」
言われて気付く。
先程自分が口にした言葉は、まだ兄にすら言ったことのなかった想い。多分、まだ誰にも言うつもりのなかったもの。
それが、自然に口をついて出た。何の抵抗もなく、ほとんど無意識に。
そうさせた『何か』が、きっとの『体質』。
言った後、心がかなり軽くなったのも。
「……すごいね、」
抱きつきながら呟いた。
も抱き返してくれて、優しく髪を梳いている。
「あたしはね、ズルイだけだよ」
「?」
降ってきた言葉にきょとんと顔を上げる。
けれどは笑顔でそれに答えるだけで、ポンポンと頭を叩かれた。その時、
「あ――――――!! トリス、するいぞ!!」
釣りに没頭していたはずのマグナが大声を上げて寄ってきていた。
何がずるいのだろうと思うトリスに、マグナが言ったのは意表をつく言葉。
「トリスだけ頭撫でられてずるい!!」
撫でられたいのか?
トリスの疑問を肯定するように、マグナは「俺も、俺も」との隣に座った。
「マグナって、犬だねぇ……」
「何で!?」
自分になついてくるマグナにが洩らした感想。それに心底意外そうに問うマグナには答えず彼の頭を撫でてやる。
すると、瞬時に嬉しそうな顔になった。
そんな兄の姿を見てトリスは。
「うわぁ~、まぐにぃホントに犬だぁ……」
「ね?」
「トリスまで!?」
トリスの呟きに満足げに微笑む。
わけがわからず苦悩する兄を二人で笑って眺めていて、ふと聞いてみたくなった。
「ね、。まぐにぃが犬なら、あたしは?」
「ん~? 猫かな。じゃあ、トリスはあたしが何に似てると思う?」
「え~……は……」
動物に例えようとして……当てはまるものがないことに気付いた。
暖かくて優しくて……安心できるもの。それは……
「は『お母さん』みたいだよ、なっ!?」
思い浮かんだ単語はマグナに先に言われて。
マグナは、トリスが言うのを躊躇ったまさにその理由で頭を思い切り叩かれていた。
「ちょっとマグナ~? 然して年の違わない女の子相手に『お母さん』はないんじゃないの~?」
「ひゃっへ、ひゃっへ~」
そして両手で頬を挟まれ、顔つぶしの刑に処されていた。
(うわぁ~。なんかとってもミモザ先輩を思い出すんだけど~)
憐れに思いながらもただ見守っていたトリスは、一瞬頭の中が真っ白になった。
――が、目の前から消えた。
突然放り出されたマグナも驚きを隠せず目を瞠っていて。
探そうとする間もなく声が降ってきた。
「ちょっとちょっと~。何なんですかぁ~」
妙に明るく間延びした、聞き覚えのあるその声。
見れば案の定、体の線を強調するオレンジを基調とした服を着た無敵のアルバイター、パッフェルの姿があった。
そして何故か彼女の喉元に槍の切っ先を当てているがいて。
「パッフェルさん!?」
「ちょっと、どうしたの!?」
兄妹の言葉に姿勢を解かぬまま、鋭く問う。
「……知り合い?」
「知り合い知り合い!!」
「先輩の家にいつもケーキ届けてくれるバイトのお姉さん!!」
「そうそう、私はただのしがないアルバイター。ですからこれ、どけてくださいよぉ~」
三人の弁明にようやくは槍を下ろした。
「もぅ~、何だったんですか一体……」
「ただの条件反射」
胸を撫で下ろすパッフェルに、謝る気配も反省した色もなく言い放って。むしろ挑発するような笑顔で。
「今後、気配やら足音やらを消して人に近寄らないことをお勧めするよ。今みたいのが嫌ならね」
そう言ったは、先程までの母親を思わせていた雰囲気は完全に消えて、獣と呼ぶに等しい気配をまとっていた。
それはまるで別人みたいで。そう思ったことを振り払うように明るい声を出す。
「で、パッフェルさんはどうしてここに?」
「そうそう、そうでした。実は今日はまた一段と忙しくってぇ~、ここを通りかかったら丁度トリスさんたちが見えたのでまたお手伝い願えないかと思いまして~」
の挑発もさらりと流してパッフェルは言った。
「お時間は余ってますよね~。サクサクっと手伝ってくださいよ~」
問答無用でトリスの手を取り、更にの手も掴んでパッフェルは歩き出す。
「さんも来てくださいよ。先程のお詫びも兼ねて。あなたならこの制服、よ~く似合うと思いますし」
仕返しのつもりなのか、こんなことを言って。
そしてやっぱり相手の返事も聞かずに引っ張っていくパッフェルに、二人の少女はただついていくだけだった。
湖畔には、置いていかれ呆然としているマグナと、二人分の釣り道具が残されていた。
「まぐにぃ一人で大丈夫かな~」
「一応男の子なんだし、平気でしょ」
「でも、結構釣れてたよ?」
とりあえず引っ張るのから解放された二人の会話。
残してきた連れを心配して……のはずだが。
「アレって今夜の夕食になるんだよ。ちゃんと持って帰ってくれるかな~」
「あはは。なら尚のこと、意地で持って帰るでしょ」
心配してるのは魚のほうらしい。
「トリスはバイト、したことあるの?」
「うん。結構いいお金になるから。でもあの制服は苦手かなァ……」
前を歩くパッフェルを見て、自分の体を見て。溜息をつく。
「は似合いそうだよね、ホント」
「メイド服は着たことないなァ~」
「似合いますよぅ~絶対。さん、いい体形してますし」
前を歩いていたはずのパッフェルが突然会話に加わってきて、そしての胸に笑顔で手を置く。
ぎょっとするトリスの横で、はにっこり微笑んで。
「パッフェルさん、同性セクハラ禁止!」
飛び出したのは足。
パッフェルもすっとそれを避けて「危ないですね~」とか呑気に呟いている。
それを見ては、にこにこしたまま、
「パッフェルさん。あたしお金いいですから、手合わせしてくださいよ」
そうのたまった。
「またまた~。さんも冗談が上手いんですから~」
「いつかでいいですから、お願いしますね~」
にこにこしたまま噛み合わない会話をする二人。
何故か二人の後ろに黒いオーラが見えて。火花まで散っているようで。
トリスは二、三歩後退っていた。
ドキドキはらはらしながら二人を見守るトリスが、ほんの少し前まで感じていた小さなしこりが、完全になくなっていることに気付くのは……まだもう少し先のこと。
そうして、の言葉通り釣った魚を家に運んだマグナが、ケーキ配達に来たの姿を見て悩殺されたというのは、また別の話。