それは転機。
望む者もいれば望まぬ者もいる。
しかし、必ず等しく訪れる……それは転機。
吉と導くか凶に堕ちるか。
それを決めるのは――他ならぬ本人……
暖かな木造平屋の廊下に軽快な異なるふたつの足音が響く。
ひとつは大人と子供の境界線にいる年頃の少年のもの。そしてその後を追う子供のものがもうひとつの足音。
その足音はある部屋の前で止まり、次いで扉を開け放つ大きめな音と、そして少年の声が響いた。
「~? いる――……って、あれ?」
「……おにいちゃん……ちゃんと、ノック……しなきゃダメだよ?」
「うっ……ゴメン……」
声を響かせた少年、マグナのその行動を叱責したのはもうひとつの足音の主、彼の護衛獣ハサハ。
マグナは素直に謝った後、もう一度室内へと目を向ける。
薄手のカーテンが、開け放たれた窓からの風と陽射しに踊るその部屋。主である朱髪の少女は……ベッドの上で寝息を立てていた。
そろり、と。足音を立てないように室内に踏み込み、マグナはベッドに近付いての様子を窺う。
「? ……寝てるのか?」
小さく声を掛けてみても反応はない。
自分の護衛獣を振り返れば、きょとんと小首を傾げてみせた。
に視線を戻して、マグナは苦笑する。あまりに気持ち良さそうに眠る姿に起こしてしまうのは気が引けて、ハサハの手を取り小声で話し掛けた。
「、寝てるみたいだし俺たちだけで行こっか?」
ハサハはのほうを見て……頷いた。
少し残念そうにしているハサハの頭を撫でて、二人は部屋を出ようと背を向けた。その直後、寝息が途切れて少しくぐもった声が二人の背に掛かる。
「……まぐな……はさは?」
振り返った二人の目に映ったのは、つい先程まで横たわっていたはずの少女が体を起こしている姿。
「ごめん。起こした?」
「ん~……もともと人の気配には敏感だから……誰か近付けば起きる」
まだ少し夢心地といった感じの声で答えを返した後、澄んだ金の瞳が笑いかけてきた。
「で? どうしたの?」
穏やかな笑顔。その笑顔が、マグナは好きだった。
孤児として妹と二人だけで生きてきた自分たちには親の記憶などない。物心ついた時には二人だけだった。周囲の大人は全て『敵』で、親を恋しく思ったこともない。――少なくとも、生きていく上で『必要』だと思ったことは一度もなかった。
けれど……出会ったことで気付いてしまった。本当は誰よりも親を必要とし、愛情に飢えていたということに。
初めて、『敵』ではない大人――ラウルに接して……それに、気付かされた。
だから、今のマグナはきちんと理解している。の笑顔が好きな理由を……
――に『母親』の愛情を求めている、ということを……理解、していた。もちろんそれだけではないことも。
マグナは答えた。
「あのさ、一緒に街、見に行かない?」
「街?」
「うん。……ネスが、もうそろそろ出発しようって言ったんだ。怪我も治って疲れもとれたから……それでモーリンに伝えるのはトリスが任された――っていうか、連れて行かれたっていうか……」
つい数分前の出来事を思い出し、目が泳ぐ。
危うく自分も餌食になりかけたところを間一髪逃れてきたのだ。トリスをエスケープ・ゴートに。
我ながらヒドイ兄だと思うが、が関っていると知ったら許してくれる……か、怒られるか。はたまた両方か。
再び苦笑を浮かべ、言葉を続けた。
「でさ、ずっと家にこもりっぱなしで外出てないだろ? 折角だし見ておいてもいいんじゃないかな~って」
「ふぅん?」
「俺、何回か行ってみたけどゼラムとはまた違ってて結構楽しかったし……イヤ?」
なかなか同意を得られず、実は迷惑だったかと不安になる。
確かに昼寝を妨げてしまったし、ひょっとすると人込みが苦手だったりするかもしれない。のイメージとしては考えられないが、一人になりたい時というのは誰にでもあるものだろう。そう考えると……この提案は迷惑そのものだ。
一度認識してしまえば不安なんていうものは短時間で一気に膨張する上、時間に比例しても肥大していく。
初め、部屋へ突入してきた勢いはどこへやら。段々と弱気になっていく主に気付いたのか、はたまた自分のためか。ハサハがトテトテとに歩み寄り、その袖口を掴んだ。
「……おねえちゃん……いっしょに、いこう?」
小首を傾げて上目使いに。
実はハサハのこの『お願い』には仲間全員が弱かったりする。堅物ネスティすら一発で黙らせた経歴もあって、マグナはかなりの期待を込めて成り行きを見守る。
――と、がふと俯き、肩を震わせた。泣かせたのか、とかなり焦るマグナを余所に、くつくつと喉を鳴らして笑いながらはマグナを手招きした。
「そんな捨てられた仔犬みたいな顔しなくたって、一緒に行くよ?」
「また犬……」
犬呼ばわりされたのはこれで二度目。そんなに犬っぽいのだろうか、と僅かばかり悩んでみるが、呼ばれるまま近付いた頭を優しく撫でられ、ついその心地好さに目を細めてしまう。
くすくすと笑うの姿がすぐ目の前にある。何か、いいようにあしらわれている気がしてならないが、それすら心地好く思っている自分がいることは確かで。
「お昼近いみたいだし? たまには外で食べるのもいいんじゃない?」
の提案に、マグナは笑って言った。
「それなら俺、いい所知ってるよ!」
「それじゃあ、案内よろしく」
差し出した自分の手を取り立ち上がるに、自然と笑みが浮かぶ。
――マグナはといることを選んだ。
それは幼子が母親を求めるのと何ら変わりのない想いから。
それでも今の自分には必要なことであると、そう自覚していたから……
の側にいる――ただそれだけで自然に笑えたから。妹に心配をかけないために、そして自分を守るために作り出す表面だけの仮面ではなく、心からの笑顔になれるから。
だから、選んだ……
遥か昔に捨ててしまった大切なモノを、もう一度手にするために――……
「ああ、行こうか」
片方に母親のような女性(ヒト)を、もう片方に妹のような少女を連れて、マグナは賑やかな港街へと向かっていった。
港街ファナンが漁村から今の街へと発展するきっかけともなった水道橋のある通り。その通りに面した裏路地のひとつに今、一軒の屋台がある。
『あかなべ』とシルターン文字で書かれている赤い暖簾をくぐると、中にはリィンバウムではあまり親しみのないものが数点。全てシルターンで使用されているもので、品書きもシルターン文字。商品である料理もシルターンのもの。これら全ては主人のこだわりでもあり、そして彼自身がシルターン出身であるが故。
趣味が高じて仕事となる――とはよく言ったものだが、この屋台がそうだと気付ける者はそういないだろう。
事実、プロ顔負けの腕に開店して三日も経たない今、既に常連となりつつある客が多数いた。――もっとも、ファナンにあるのは近々ある祭りのために出した二号店で、一号店は既にゼラムにあるのだが。
で。ここ、『蕎麦処・あかなべ』の主人。人当たりの良い笑顔を常備し、実年齢よりも十は若く見える彼、名をシオンという。
客と何気ない会話をしながらも手際よく作業を進めていた彼は、持ち前の鋭さで新たな客が来るのを察知した。
近付く気配は三つ。内ふたつはよく知る、ゼラム店からの常連客のもの。もうひとつは……初めての客だ。おそらく常連二名の知人だろう。
使用済みの食器を片付けながら、さり気ない動作で湯飲み茶碗を三つ用意する。
シオンの自然すぎる動きに疑問も抱かぬまま去る最後の客と入れ違いに、予想通りの人物が顔を出した。
「こんにちは、大将」
「おや。いらっしゃい、マグナさん、ハサハさん。それから……貴女には初めまして、ですね」
常連客二名――マグナとハサハに挨拶し、二人の後ろにいる朱髪の少女へと目を向けた。
「『蕎麦処・あかなべ』の店主、シオンと申します。常連のお客さんにはあかなべの大将と呼ばれていますが」
シオンが自己紹介した後、訪れたのは予想外の沈黙。
通常、初対面の者が顔を合わせ、一方が名乗ったならばもう一方も名乗るものであろうに。朱髪の少女は大きな――猫……というよりは龍神たちが持つような金の瞳にシオンの姿を映したまま動かずにいた。
「……?」
定石とは違う彼女に不安を覚えたのだろうマグナの呼びかけに、我に返ったらしい少女がようやく動きを見せた。
「あっ……です。よろしく」
会釈して名を告げた少女――はマグナの隣へと腰を下ろす。
その様子に疑問を抱かなかったわけではないが、客の事情は詮索しないのがこの手の商売における鉄則。シオンは何事もなかったかのような振る舞いで茶を淹れ始めた。
「ああ、貴女が……マグナさんから色々とお話は伺っていますよ」
「へえ~……一体、何を話したのかしら……」
「うっ……いや、別に……そんな大したことじゃ……ッ」
「返答に困るようなことなんだ?」
片手で頬杖をついて意地悪く笑いながら隣を横目で見るに、しどろもどろに話すマグナ。
本当に大したことではないのだから正直に言ってしまえばいいのに。
そう思いつつもそれを口にする気はないシオンは湯飲み茶碗を三人の前に出し、営業スマイルで言った。
「さて、何にいたしましょう?」
「あ、あたしかしわソバ」
シオンの言葉に即答する。追及から解放されたマグナも安堵の表情で答え、ハサハもそれに続く。
「黄鶏に天ぷらに狐ですね」
注文を確認し作業を始めること数十秒。興味深げにシオンの手つきを見ていた視線がひとつ、不意に途切れた。……その理由は。
「――って、、ソバ知ってたのか!?」
「マグナ、気付くのおっそ――い♪」
心底驚いた様子のマグナと実に楽しそうに笑っている。二人の関係が良くわかる遣り取りだ。要するにボケとツッコミ……というか、遊ばれる者と遊ぶ者。
は明らかに意図してやっているようだが、果たしてマグナに自覚はあるのだろうか。
今度は酷く残念そうにカウンターに突っ伏して言った。
「ひょっとして、トリスから聞いてたのか?」
「ぶっぶ~、ハズレ♪ あたしの住んでた世界にもあったからだよ」
「おや? 貴女もシルターン出身ですか?」
出来上がったソバを出しながらシオンが訊ねた。
三人は律儀にも両手を合わせ「いただきます」と呟いてから食べ始める。その合間、シオンの問いに対する返答があった。
「違いますよ~。『名も無き世界』出身です。こちらで言うトコロの」
「そうなんですか。私はてっきり、ハサハさんと同じようにシルターンから呼ばれたマグナさんの護衛獣なのかと思いました」
ソバをすする音だけが響いていた屋台に、派手に咳き込む音が満ちる。
発生源はマグナ。気管に入ったのか、目尻に涙まで溜めてかなり苦しそうだ。
「おやおや、大丈夫ですか? マグナさん」
「急いで食べるからだよ」
「ちっ……ちがっ……ゲホッ……」
シオンの『護衛獣』発言にむせていることは明確だろうに、は的外れな注意をする。
ひょっとして天然なのだろうか、とも思ったが、彼女に限ってそれはないような気がした。――天然に見せかけることはあったとしても。
むせるマグナはハサハに任せて、は涼しい顔でソバをすする。
「あ~……でも、こんなに美味しいソバ食べたのは初めてだわ」
「気に入っていただけたのなら光栄ですね」
「うん♪ ……ってなワケで、おかわりは月見で!」
「食べるの早ッ!」
どんぶりを空にして言ったに、むせるのから解放されたマグナが突っ込んだ。
互いに相手が遅い早いと言い合う姿は漫才そのもので。ほのぼのしいというか何というか……
シオンは思わず本気で喉を鳴らして笑った。
彼のその様子に二人は顔を見合わせ、つられるように笑い出す。ハサハ一人、皆が笑う理由がわからないようだったが、それでも彼らの楽しそうな雰囲気に感化され微笑を浮かべていた。
そんな和やかな時間は驚きと共に幕を閉じた。
シオンが笑いながらも手を休めずに作った月見ソバをは、マグナたちが食べ終わるとほぼ同時に完食したのであった。
「それじゃあ、大将。ごちそうさまでした」
勘定を済ませ、至極御満悦にマグナが言った。
そのまま暖簾をくぐる彼らをシオンはいつもの笑顔で見送っていたが、ふとその笑顔に怪訝な色が混ざる。
「……さん?」
マグナもハサハも暖簾をくぐり、当然その後に続くと思っていたが、何故か立ち止まってシオンを見ていたのだ。
ただ、じっと。小一時間程前のように……
彼女が残っていることに気付いていないのか、マグナたちの気配は大分遠ざかっていた。
「どうかしましたか?」
不意には笑みを浮かべて。
「ありがとうございました」
そう、言った。
真っ直ぐにシオンを見据えて。けれど瞳に宿るのは暖かな色で。
「それは一体何のお礼でしょうか?」
当然の疑問。
彼女とは初対面で、客と営業者の間柄。礼を言うのは代金を払ってもらったシオンのほうであって、客である彼女が言う必要はどこにもない。
では、何に対する礼なのか――……
「さあ? 何のことでしょう」
返ってきたのは意味ありげな謎かけだけ。
そのままは「ごちそうさま」と言い残して、暖簾の先へと姿を消した。
彼女の気配が裏路地から完全に消えたことを確認して、シオンは大きく息を吐き出す。
「やれやれ、侮れませんね」
呟いた言葉には、今までの客に対するやわらかさなど含まれてはいない。完全な独り言。そしてその顔にも、笑みは――なかった。
笑顔という仮面を取り払い、鋭い眼光で全てを射抜く……それが彼本来の姿。蕎麦処の店主はあくまで仮の姿……本来の目的を誰にも気付かれることなく遂行するための隠れ蓑なのだ。
それがまさか、出会った途端に見破られるとは。
シオンは無駄のない動きで使用済みの食器を片付けながら、本来持つ回転の速さで思いを巡らせる。
が去り際に言った礼には、心当たりがあった。
三日前の夜、ゼラムを発ったマグナたちは黒の旅団に襲われた。絶体絶命にまで追い込まれた彼らを助け出したのは、マグナたちの先輩と――不思議な霧。
その霧を発生させたのが、シオンだった。
「まさか……とは、思いましたが……」
マグナたちを先に行かせ、最後まで残っていた。ギブソンたちに促されて去る間際、彼女は何もない空間に向けて笑いかけた。
――そう……が目を向けたそこに、シオンは確かにいたのだ。
完全に気配を絶ち、霧で姿を隠していたのに。見えては、いないはずなのに。
はシオンを見つけていた。
「……それも、仕方のないことなのかもしれませんね……」
彼女はおそらくシオンと同じ……『あちら側』の人間だ。
似たような環境で同じような経験を積んできた者。だからこそ、自分と同じにおいを放つ者はすぐにわかる。
けれど……どこか、違う。
「参りましたね」
ギブソンの言葉を思い出し、苦笑した。
――確かな輝きを持ってそこに在るはずなのに、酷く儚い印象が残る――
「私情を持ち込むのは御法度なんですが……」
に、酷く惹かれる……
自分と同じ側の人間とは思えない輝きと、その輝きすら偽りかと思わせるほどの儚さ。
彼女が持つアンバランスさの、その理由を――知りたい、と。強く……思ってしまった。
「さて……どうしましょうか……?」
疑問形でありながら何も迷ってなどいない瞳で呟いた。その顔は……笑って、いた。人によって受ける印象の変わる、素の笑顔。
ふと近付く気配を感じてシオンはその笑みを消した。そして仮面をつける。彼自身の役目を果たすために仮の姿に戻る。――それは、無駄ではないと、確信があるから。
がシオンの正体を彼らに露見することがないのはわかっていること。
もし、その気であったならば、マグナたちがいる前で言っただろう。しかし、彼女はそれをしなかった。
――同じ世界に生きる者の暗黙の了解。
もっとも、自分たちに害がないから、というのが大前提になっているだろうが。
だからこそ正体露見の心配はなく、任務を遂行できる。
暖簾が揺れ、新たな客が顔を覗かせた。
「こんにちは、大将」
シオンは仮面をつける。それは自らの役目を果たすため。
そして……自分の望みを叶えるために――……
「いらっしゃい」
「何してんの?」
丁度裏路地を抜けて水道橋通りに出たところで、額を押さえて蹲るマグナにの呆れた声が降り注ぐ。マグナはおそらく赤くなっているであろう額から手をどけてを涙目で見上げた。
「気付いたらいないから戻ってきてみたんじゃないか」
「そして、丁度裏路地から出てきたあたしとの衝突を避けようとしてバランスを崩し、そこの壁とお友達になった、と?」
つい数秒前の出来事の推察を聞き、寸分の間違いもないことに肩を落とす。
わかっているなら聞かないで欲しかった。改めて言われると、かなり情けなく思えてしまうから。
未だズキズキと痛みを訴えてくる額を宥めようと伸ばした手は、ひんやりしたものに包まれてその動きを止められた。見れば白い手に包まれている。そして――
額に痛み以外の感覚が。
それは、優しくてやわらかく少し湿り気のあるものが痛みの上をなぞるような……そんな感触。その後、手と同様に冷たいものが当てられて。
「これは冷やしたほうが良さそうね」
間近で、声がした。
目を上げてみて見えたのは、至近距離にあったの顔が離れゆくところ。彼女の手はマグナの額と手を包んでいる。
意外に冷たいその手を心地好く思うような余裕は、消えた。思考がぐるぐるしてまとまらない。
「、、……?」
「ん~?」
「いいい今、な、何したの?」
上手く言葉を紡げないマグナに向けて、はにやりと笑った。
「少し血が滲んでたから消毒を、ね?」
言ってから舌を軽く出して見せる。――それは、つまり……
混乱する頭で、それでもひとつの結論を導き出して固まったマグナから手をどけたが、「まだ出てるね」と呟いた。それを聞き、ハサハがの袖をくいくいと引く。
「……今度は、ハサハが……しょうどく、するよ?」
その純真無垢な申し出に凍りついたのはマグナで。はマグナには悪魔の笑みを、ハサハには天使の微笑を見せて言った。
「じゃあ、お願いしようか」
の言葉を受け、ハサハは微笑んだ。そして、てけてけとマグナに近付いてきて――……
「わ――――!! いいから! もう大丈夫だから! 消毒しなくていいからぁ!!!」
マグナは座った姿勢のまま自分の額を押さえて、ものすごい速さで後退ったのだった。
――その直後。
「あ」
「……え?」
少し驚いた様子のとハサハの小さな呟きが重なり、マグナが疑問を表したその刹那。男女の悲鳴が重なったのであった。ついでに派手に物がぶつかった音も。
男の悲鳴はマグナのもの。
かなりの勢いで後退った彼は当然のように周りなど見えてはおらず、背後を通りかかった女性に激突したのだ。
「いたたた……」
「おーい、マグナ~? 生きてる~?」
ハサハと共にやって来たが大して心配した風もなく聞いてくる。
マグナは怒る気にもなれずに大丈夫と返し、背後を顧みて……再び固まった。今度はすぐに解凍したが。
驚いた表情は変わらぬまま、自分がぶつかった相手の名を――呼んだ。
「メ……っ、メイメイさん!?」
胸元の大きく開いた赤い服に長く尖った耳を持つその女性は、確かにマグナの良く知る人物で。マグナは倒れたままの彼女の肩を軽く揺さぶる。
「メイメイさん!? 大丈夫ですか!?」
「……はぅえ~……」
いくら声を掛けても揺さぶってみても彼女からまともな応答はなく、完全にのびてしまっている知人を前にマグナは途方に暮れたのだった。
「あ~……ヒドイ目にあったわ~……」
場所は変わって、市場通り近くにあるシルターン風のとある店にて。
店の主である先程マグナと激突してのびていた女性、メイメイはそう愚痴った。それを聞いたマグナは赤くなった頬を両手で押さえたまま縮こまる。
「ご、ごめんなさい……」
「大体ねえ、マグナ? 女性に向かって『重い』はないんじゃないの~? ねえ?」
「ねえ?」
メイメイに同意を求められ、は素直に頷く。
あの後、そのまま放置するわけにもいかないのでとりあえず彼女の店まで運ぶことにしたのだが、男の子兼加害者という理由でマグナが一人で担ぐことに暗黙の内に決定した。はじめは横抱きにしようとしたのだが……持ち上げられなかったのだ。服装的に背負うという選択肢も却下され、結局肩を貸す形になったのだった。
それでもやはりは手を貸そうとはせず傍観を決め込んでいて、一人でよたよたしながらメイメイを運んでいたマグナはつい「重い~」と洩らしてしまった。
その言葉にしっかりばっちり覚醒したメイメイによって、マグナの頬はつねり上げられ赤く染まってしまったのである。
「と、ところで、メイメイさんはなんであそこに!?」
責めるような、からかうような二人の女性の視線から逃れるべく、マグナは話題を変えた。
明らかにわざとだとわかるそれにメイメイとは目をすがめつつ、それでもそれに乗った。
「あっら~? メイメイさんだって散歩ぐらいするわよ~?」
「…………美味しいお酒を求めて?」
「そうそう、その通りなのよ♪ ――普段はね」
急に真顔になったメイメイに、マグナは首を傾げる。
笑みは絶やさぬまま、けれどふざけた様子など微塵も含まずに。
「な~んかね、面白そうな運勢の持ち主があの辺りに居そうだったから、見てみたくて歩いてたのよ。――会えてよかったわ♪」
を見て、そう告げた。
「あたし……ですか?」
「そうそう♪ 占わせて占わせて♪」
「占ってもらえば? メイメイさん、腕は確かみたいだし。っていうか、俺も初めて会ったとき同じこと言われたから」
深い意味はないと思うよ、と。そう言ったマグナを信じてなのかはわからないが、はメイメイの申し出を受けた。
小さな円形のテーブルを挟んで向かい合う二人を、マグナとハサハは少し離れた位置から見守る。
「まずは名前、教えてもらえるかしら?」
「」
「……、ね……綺麗ないい名前ね」
占いと関係あるのか、と思うようなことを口にするメイメイ。それでもその言葉に悪い気はしないらしく、は笑みを浮かべた。
「それは、どうも」
「ん~……でも」
少し考え込むようにして呟かれた言葉に、怪訝な色を示したのはだけではなく全員で。
メイメイはを真っ直ぐ見据えて、言った。
「――今の貴女には合っていない名前、ね」
告げられた言葉には目を細めてメイメイを見返す。
それは睨む、というには少し語弊があるが、一番近い表現でもあるような感じのもの。睨むとはっきり断言するために足りないものがあるとすれば、それは感情だ。
大概『睨む』という行為には相手、もしくは自分に対して憎しみ、怒り、嫉妬などといった強い想いが含まれるものであるが、の瞳には――何も……映ってはいなかった。
無意識なのか故意なのかはわからないし、胸中が同じだとも限らないが、少なくともその表情に感情は一切見つけられない。
このの変化を目の当たりにできたのはメイメイだけで、の背後の椅子に座るマグナたちは気付いてすらいない。
「え~? そうかなあ……綺麗な響きでぴったりだと思うけど……なあ、ハサハ?」
呑気に自分の膝の上に座っている護衛獣に問い掛けている。
ハサハはきょとんと小首を傾げた後、にっこり笑って頷く。
実にほのぼのした雰囲気を背後に、メイメイとはしばらく無言で見つめ合っていたが、不意にメイメイが笑ったことでその何とも形容し難い空気は終わりを告げた。
「それじゃ、お手を拝借」
メイメイの言葉には素直に手を差し出す。
その手を難しい顔でうなりつつ見ていたメイメイは不意に立ち上がり、部屋の棚から細い棒の沢山入った筒やカードの束、水晶球などありとあらゆる占い道具を持ち出し、それらをひとつひとつ使っていった。
最後の占いに使った水晶球を見る顔もはじめと変わらぬままで。
「ど……どうなんですか?」
メイメイの様子に不安を覚えて問い掛けたのは、占ってもらっているではなく傍観していたマグナのほうで……メイメイはうっすらと笑みをはいて彼を見る。
「ねえ、マグナぁ。貴方には何て言ったか覚えてる~?」
「『めちゃくちゃね~』って。悪い意味じゃなく未来が不安定だって言いましたよね?」
「そうなのよ~。貴方たちみたいに兄妹で同じ結果だったり、いつ確定するかわからないっていうのも珍しいんだけどぉ……彼女はその逆ね」
「……逆?」
「ここまではっきり見える未来にはお目に掛かったことはないわ」
意味深長な笑顔で水晶球に指を滑らせて、メイメイは言う。
「全部の占い試してみたんだけど、全部がまったく同じ結果なのよね」
「わ、悪いの……?」
「ん~……悪いかどうかは本人にしかわからないわね~」
相変わらず訊ねてくるのはマグナで、は一言も発せずにただメイメイを見つめている。
メイメイはに真摯な眼差しを向けて、結果を告げた。
「ちゃん……だったわね。貴女は今まで望み続けてきたものを叶えることができるわ」
「え……それって、良いことじゃないのか?」
マグナの問いに答えず、「……ただ……」と続ける。
「その代わりに、今ある大切なものをいくつか失くすことになる」
マグナが息を呑む。ハサハも自分にとってとても大切なものである水晶球を、きゅっと強く抱え込んだ。
それでもは、何の反応も示さない。
三者三様の反応を眺めて、メイメイはまだ終わっていない続きを口にする。
「今あるものを失くしたくないなら守り続けなさい。そうすれば失わずにすむわ。その場合、望みは一生叶わないけれど」
一度、視線を落とすと、テーブルの上に鎮座する水晶球を軽くつついた。そこには未だメイメイにだけ見える未来が映し出されている。
ゆらゆらと揺れるその光景を見つめ、再びへと視線を戻して。
「要約すると、犠牲を顧みずに自分の望みを叶えるか、望みを捨てて今あるもので満足するか。貴女の未来はこのふたつの内のどちらかよ」
締めくくられた言葉と共に訪れた静寂。
誰も何も言わず、動かず。ただ呼吸だけがやけに大きく聞こえて。
皆、この静寂に終止符が打たれるのを待っている。それができるのは……結果を告げられたのみ。
一同が待ち望んでいた終止符は――たった一言。
「あ、そう」
今までの沈黙は何だったんだと問いたくなるほどあっさりと。まるっきり普段の調子では言った。
「あら、淡白ねえ……ひょっとして、占いなんて信じませんってタイプ?」
「さあ? どうでしょうね」
「ま、信じるかどうかは貴女の自由だけど?」
席を立ったに、メイメイは最後の忠告を促す。
「モチロンどちらの未来を取るかも貴女の自由よ。でも……気をつけなさいね。選択の時はすぐそこまで迫っているから……」
「……ご忠告をどうも……」
それだけ言うとは店を後にした。その後をマグナとハサハが追って。
メイメイはそんな彼らを、手をひらひら振りつつ至極御満悦に見送った。
「な、なあ、……」
「何?」
「……ひょっとして……さっきの占い、気にしてる?」
「別に?」
「……してるじゃないかぁ……」
いつもはゆったりと他の者の歩調に合わせて歩くが、今はかなり足早に歩いていて。返ってくる答えも、その声音も不機嫌絶好調にぶっきらぼうで。
彼女の全てが『気にしてます』と主張していて、マグナは溜息をついた。
そのままの後について歩いていたのだが、丁度下町飲食店街に差し掛かったときに大きな音がして足を止めた。
見れば人垣が出来始めていて……どうやら海賊たちが悪さをしているようだった。
「アレ……ほっとくわけにもいかないよな…………って、どうした? ハサハ」
くいくいと袖を引かれてハサハに目を落とせば、小さな手を真っ直ぐに海賊たちのほうに向けていた。
「……あれ……」
「……『あれ』?」
オウム返しに呟いて視線を追った先には見慣れた朱髪が。
「!?」
人垣――むしろ海賊に向かって歩いていくの姿にマグナとハサハは慌てて後を追う。
マグナたちが追いつくよりも先に、は一人の海賊の肩を叩いて。
「そこなお兄さん? 人様の迷惑になるようなコトはしちゃいけないって、誰かから教わらなかった?」
にっこりと、一見無邪気な笑顔で……その実かなりの不機嫌オーラを放って、そう言ったのだ。
「何だこのアマ」
「俺たちゃ海賊だぞ!」
の笑顔の奥に含まれた邪気に気付かない海賊連中は、よくわからない理屈を唱えてに向けて抜き放った剣を振り下ろした。
「……反省のイロはなし、ね……」
目を細めて呟き、は持ち前の素早さで簡単に海賊の攻撃をかわし、軽く腹部に蹴りをくれてやったのである。
すっ飛ばされた仲間に、他の海賊の目の色が変わる。
「な……何しやがんだ、このアマ!!」
「教育的指導」
律儀に答えを笑顔と共に返して、は次々と向かってくる海賊を素手で沈めていった。
その彼女の戦いぶりに野次馬たちが大いに盛り上がる中、呆然とする者が三名、豪快に笑う者が一名いた。
「あれ……だよね?」
「あたいの出番取られちまったね!」
その場に居合わせたらしいトリスとモーリン。
そして当然、マグナとハサハだ。
「……おにいちゃん……おねえちゃん、こわい……」
自分の手にしがみついてくる護衛獣にマグナは呆然としたまま、全ての海賊をものの数分でのして輝かんばかりにすっきりした顔で汗を拭う仕草をしているを見て……言った。
「うん……俺も怖いよ……」
必要以上にボコられた海賊がの八つ当たりの的にされたことは言うまでもなく、自業自得とはいえマグナは彼らに同情してしまったのだった。