第 16 話
消えない傷跡

 己に向けられた大量の悪意――邪気から、ただ逃げることしかできなかった弱く幼い自分。
 子供の――否。大人といえど、何の力も持たない者には逃れる術などないソレに、捕らえられることなど時間の問題で。
 周囲を取り囲み、自らの内に無理やり入り込んでくる黒霧。
 流れ込む自分のものではない多くの負の感情に、『自分』が掻き消されてしまいそうな……そんな恐怖に襲われた――刹那。
 自分の内……ずっとずっと深いトコロで眠っていた『何か』が目覚めた。
 それまでとは一変して、自分の内から溢れ出す『何か』――力。まるで、今まで流れ込んでいた邪気を喰らい尽くさんばかりにソレは止め処なく溢れ出て。
 視界一面を覆い尽くす紅蓮の炎。そして――
『殺せッ! その鬼を退治しろ!!』
 自分の存在を、完全に否定された言葉……


 眼前の木製の扉を軽くノックし、応答を待ってからマグナは中へと入った。
 昨日、アメルとが休んでいた部屋……大きめのベッドには、今は一人が横たわっているだけ。アメルは、ハサハと共に傍らの椅子に座り、彼女を看ている。
 逆転している立場――アメル自身も辛いだろうに、それでも彼女は自分が看ると言った。
 結界との共鳴、その後の悪魔との戦いでの魔力の放出が原因で倒れたのだろうと、ネスティは言っていた。そして、意識を失う直前の彼女の言葉……トリスが伝えてくれたそれを聞いて、アメルは余計にの側にいたいと。
 その心意はわからないけれど、のことをとても心配しているのだけは確かなので、誰も無理に止めようとはしなかった。
 マグナもその一人。ここへ来たのはアメルに休養を勧めるためではなく――
「アメル、の様子は?」
「まだ、起きてはいません……それに……時々、とても辛そうにしていて……」
 目的を口にして、返ってきた言葉に眉根を寄せる。
 思った以上に状態は芳しくないようだ。こういう時、何もできない自分がもどかしい。けれど……
「癒しの力は……?」
 俯き、力なくかぶりを振るアメル。
 他人の傷を治せる能力を持っていながら、それを役立てられない彼女のほうが、その想いは強いだろう。
 重く息を吐き出し、マグナはベッドに歩み寄る。
 静かに横たわる朱髪の少女。その表情は――確かに、安らかな寝顔とはいえなかった。
 ――早く……早く目覚めてほしい。そしてあの、あたたかな微笑を見せてほしい。
 たった一晩。そんな僅かな時間しか経っていないのに、こんなに不安になるなんて思いもしなかった。
 せめて寝顔が安らかだったなら、こんなに不安にはならなかったのかもしれない。
 そんなことを考えていたマグナの目に映ったのは、眠る少女の額に浮かぶ汗と、サイドテーブルの上のタオル。
 己の内にある抱えきれないほどの不安。それも一緒に拭い去ってしまえたらいい……そんな願いでタオルを手に取り、の額へとのばした――刹那。
 マグナは、何が起きたのか理解できなかった。
 軽い衝撃。反転する視界。そして……
 逆行でもはっきりとわかる、自分を見下ろす冷たい金の瞳。
 起きてくれたという安堵も喜びも、何故自分をそんな冷たい目で見るのかという疑問にかき消されて――そして、頭の中は真っ白になった。


「本当によかったのかなぁ……、待ってなくて」
 ルウ宅唯一の大部屋でトリスは誰に言うともなく呟いた。
 その内容は、先程のことについて。
 昨日、悪魔に追われていた自分たちを助けてくれた上、壊れた結界まで修復してしまった三人の旅人。彼らの素性と旅の目的についての説明を、の覚醒を待たずに聞いてしまったのだ。
 まあ、彼らも急ぐようだったのであまり時間を取れなかった、という要因もあるけれど。
 更には、三人の内の一人、シルターンのエルゴの守護者であるカイナが、ケイナの実妹だという衝撃の事実まで明らかになり、彼女が仲間に加わることが決まったりもした。
 そして現在。とアメルの体調を考慮し、今日一日休養を取ることにした、その時間の呟きだった。
「仕方ないじゃない。あの人たちだって予定があるでしょうし……起きてきたら説明してあげればいいんじゃないの?」
 トリスの呟きを聞いたミニスがあっさりと返してきた。彼女の態度には、を心配しているような素振りは微塵もない。散々心配したのに、翌日ケロリと起きてきたという前例がある故だろうか。
 前例があっても心配なものは心配なのだ。己の兄が然り、アメルが然り。
 納得できなくて唸っていると、ネスティのあからさまな溜息が聞こえて。
「そもそも、彼女には関係のないことだろう」
「ネス! そんな言い方しなくても――」
「違う」
 突き放したような……部外者だというような言葉に反射的に反論しかけたが、短い否定に意味がわからずに疑問符を頭に飾る。
 それは、その場にいた誰もが同じだったようで。大量の疑問符に囲まれて、ネスティは嘆息した。
「そういう意味じゃない。今、目の前にあるものの在りのままを受け入れる強さを持つにとっては、彼らの素性が何であっても些細なことだろう?」
 確かに。そういう意味では『関係ない』と言えるかもしれない――が。
「それは、たしかにそうかもしれないけど……言葉が足りてないわよ、ネス……」
 気が抜けて項垂れた、その時。不意に感じた喉の痛みに頭を上げる。
「……まぐにぃ?」
 視線の先は奥へと続く通路――兄が向かったが眠っている寝室。
 突然の喉の痛みと、軽く咳き込んでも治らない息苦しさは、自分の感覚ではない。それの意味することは、つまり――
「トリス? どうかし――」

「きゃあああっ!?」

 ルウの言葉に重なって家中に響いたアメルの悲鳴に、トリスは反射的に走り出す。然程広くはない家の中、すぐに迫る目的の扉を勢いで開け放ち、見えた光景は――
「まぐにぃ!!」
 ナイフで肩付近を壁に縫いとめられているアメルとハサハの姿。そして、ベッドの上、眠っていたはずのが横たわるマグナの上に馬乗りになり彼の首を絞めている、その信じがたい場面。
!?」
「どけっ!!」
 予想だにしなかった出来事に皆が固まる中、咄嗟に動けたのは流石と言うべきかレナードで。懐から取り出した銃をに――おそらくは、彼女とマグナとの間を狙ってだろうが――向けて、迷いなく引き金を引いた。
 狭い室内に響く銃声。壁にめり込む銃弾。マグナの上から、消えた
「上だっ!」
 誰もが彼女の姿を探そうと視線を巡らせるよりも早く、レナードがその位置を知らせて。一斉に視線が集中するその中、天井すれすれに跳び銃弾をかわした朱髪の少女は奇妙な動きで手に何かを取り出す。
 がそれを使うより前、着地する一瞬の隙を突いてフォルテとリューグが彼女に飛び掛り、なんとか取り押さえることに成功した。
 床に押し倒された衝撃で彼女の手から離れたモノ。それは白い小さな銃だった。
 どこにそんなものを隠し持っていたのか……その答えを知っているのは、以前彼女を着替えさせたことのあるケイナだけだろう。
「一体どうしたってんだ!?」
 押さえつけられても尚暴れようとするに、フォルテが問う。しかし、その解は彼女からは返らず、代わりに返ってきた言葉は。

「貴様らに……貴様らなどに殺されてなるものか!!」

 今まで聞いたこともない強い拒絶と殺意のこもった声で、はそう叫んだ。
 その声は……言葉は、その場にいた全ての者の動きを止めるのに充分な力を持っていて。
 思わず力を抜いてしまったフォルテの隙をついて右手だけを動かし、袖口から取り出したナイフを彼へと振り上げる。それをかわすために、仰け反らされた上体。無防備となった腹部へとは遠慮の欠片もなく拳を入れ、同時に足を押さえていたリューグも蹴り飛ばした。
 リューグの束縛から逃れ完全に自由になった足で、起き上がる反動を利用してフォルテも思い切り蹴り上げる。
「がはっ!」
 一瞬の出来事。二人は壁に背を強(したた)かに打ちつけ、フォルテはそのまま立つ力もなく座り込んでしまう。何とか壁に寄りかかったまま立っているリューグにとどめでも刺そうというのか、はナイフを振りかざした。
 リューグにはもう避けるだけの余力は残っていない。召喚術など間に合うはずもない。
 数人が反射的に目を閉じた刹那、高い金属音が耳に響き目を開ける。
 宙を舞い、床に刺さるナイフ。リューグをかばうように突き出されている槍。その槍を持っているのは、小さな悪魔の少年、バルレル。
 武器を持つ彼に標的を切り替えたのか、はまた新たにナイフを取り出すとすぐさま向かっていく。
 真っ直ぐ己に向かってくる彼女に、何を思ったのかバルレルは槍を手放して。

 ――パァンッ、と。

 の目線まで飛び上がったバルレルは、彼女の目前で強く手を叩き鳴らしたのだ。
「いつまで寝惚けてやがる気だ、てめえは」
 猫だましによってあっさりと動きを止めた彼女に向けて、心底呆れた様子のバルレルの声が届く。
 は二、三度瞬きを繰り返して。
「……バル……レ、ル?」
 目前にいる者の名を、導き出した。
 名を呼ばれたことで彼女がようやく正気に戻ったことがわかったのか、悪魔らしくにやりと笑うバルレル。
「よぉ、目ェ覚めたかよ」
「え……?」
 彼の言葉を合図にして、はゆっくりと周囲を見渡す。
 壁に背を預けて座り込んでいるフォルテ。プラーマに手当てを受けているアメルとハサハ。ベッドの上で喉を押さえて咳き込んでいるマグナ。フォルテと同じように、けれど何とか立っているリューグと、床に転がっている白い銃に、突き刺さっているナイフ。
「あ……あたし……」
 最後に、自分の手の中にあるナイフを見て……大きく目を見開いた後、ガクンとその場に膝をついた。
「ご、ごめんなさい……っ」
 先程まで大暴れしていたのが嘘のように、俯いて力なくそう何度も呟くの姿が、あった。


「ホントごめん。完全に寝惚けてた。昔の夢見たぐらいで自分を制御できなくなるなんて、我ながら情けない」
 再び大部屋へ――流石に狭くなるが、全員が移動して。ようやく落ち着いたらしいの第一声に、レナードは窓の外へ向けていた視線を室内に戻した。
 先刻の暴走の殺意も悲愴に満ちた後悔も、その片鱗すら見せない雰囲気に、やはり読めない娘だという想いを深くする。
 レナードと同じ思いを抱いていたのか、はたまた彼女の言葉にか。感じた疑問をそのままぶつけたのはフォルテだった。
「それで終わらせる気じゃあ、ないだろうな?」
 思い切り痛い思いをした所為か、声音に含まれる感情は、有無を言わせぬモノがある。彼女なら当然それも感じ取っているだろうに、普段通りあっけらかんと答えを返す。
「ないよ。状況説明はそんなモノだけど」
「寝惚けて人襲うのかよテメエは……」
「ま、仕方ないさね。暗殺者に狙われ続けてた身じゃあね」
 呆れたリューグの言葉に、肩をすくめてさらりと言う
 しばし訪れた沈黙は、彼女の言葉を正しく理解するのに要した時間か。
「あ、あんさつしゃ……?」
「……って、あの、黒い服着て、お金次第で誰でも殺す……?」
 信じられないのか理解しきれていないのか。こんな言葉がちらほらと出る始末。
 とはいえ、驚いているのはレナードとて同じこと。度合いは、まあ、軽いほうだろうが。
「おいおい、随分ヘビーな話になったな。というより、いるのかよ?」
「そ、いるのよ。しかもあの平和ボケした国にね」
 刑事という職業柄、暗殺者と呼ばれる存在がいることは知っていた。要人暗殺などの事件は決して珍しいことではない。
 だが、日本という国では、そういった事件はほとんどないと聞く。
 故の確認だったのだが、レナードの心によぎった感想をそのまま軽い口調で返されてしまった。
 裏社会というのは、どこの国でも同じらしい。島国故に、裏社会も闇の中――ということか。
「まったく……五年も追っかけまわしてくれちゃって、しつこいったらありゃしない」
 しかし、何故ここまで軽く言ってのけれるのか。
「そんな……なんで!?」
 明るく話す当人とは対照的に、ようやく事実を受け入れた他の者たちは酷く沈痛な面持ちだ。
 裏社会とは無縁に生きてきた者には当然の反応か、と。レナードは煙草に火をつけた。
「……レナードさんならわかるでしょ? あたしが異端だって」
 名指しの問い。その真意を察して、吸い込んでいた紫煙を全て吐き出す。
「ああ……嬢ちゃんみたいな髪や目をした人間は、世界中探してもいないだろうな。あのファイアバードも加えりゃ、なおさらだ」
「そ。異端であるあたしの存在そのものが邪魔だった人たちがいたの」
「それだけのことで?」
「それだけのことでよ、トリス。人が人を殺せる理由なんて、ね。いくら大義名分掲げようが、法律を盾に取ろうが、結局のところはそんなもの。暗殺者もあたしもルヴァイドたちも大差はないってことよ」
 ルヴァイド、と。自分たちの知る――敵将の名に、あからさまに嫌悪感を露にしたリューグ。
「大差ねえ、だと?」
 疑問と憎悪とが混ざり合ったような複雑な声音に、ようやくは表情を変えた。
 感情を読み取れない笑顔から、自分自身を見下し、嘲る微笑に。
「暗殺者相手に生き残るには、相手を殺す以外に方法はないんだよ。だから言ったでしょ。あたしは強くなんてない。生き残るために人を殺す術を身に付けただけの、弱い人間なんだよ」
 再び、訪れた沈黙。今度のは、かなり重い。
 ようやく見えたという少女の本質。
 彼女は、自分の犯してきた罪の重さを知っている。いかに自分が汚れた存在であるかを、知っている。だからこそ、ここにいる者たちに知られたくないと思うのは当然だろうが、彼女はあえて知らせた。誤魔化すこともなく、真実を打ち明けた上で、それでも彼らが気に病み過ぎることのないように明るく振舞った。
 最後まで振舞いきれなかったのは、それだけこのことが彼女にとって傷深いことだから。
 他人を気遣ってはいるけれど、思った以上に彼女は危うい位置に立っている気がする。
 例えるなら、崖っぷち。谷間に渡された細い丸木の上。
 ――けれど……
「他に質問は?」
 誰も、何も言えない状況に、あえて出された質問。
 当然答えなど返るはずもないと思っていたが……
、ひとついいか?」
 一人、始終眉間にしわ寄せて考え込んでいたネスティが口を開いて、全員が注目する。
「何?」
「結界の魔力と共鳴した時、僕らにはただの耳鳴りのような異音にしか聞こえなかった。だが君はあの時『声』と言っていたな? 君にはどういう風に聞こえていたんだ?」
 今までの話とはまったく違う内容の問いに、誰もが目をぱちくりさせた。それは、問われた当人も同じで。けれどすぐに思案顔になる。
 しばらく記憶を探るように視線を彷徨わせていたが、思い至ったのか唐突に口を開く。
「……目覚めよ、思い出せ、在るべき姿を取り戻せ……そう、聞こえたわ」
「アメル、君は?」
「えっ!? あ、あの……あたしは、おかえりなさいって言われたような気はしましたけど、はきっりこう、とは……」
「そう、か……」
 突然話を振られて驚いたようだが、それでもアメルはきちんと答えて。それを聞いたネスティは、口許に手を当てて考え込むように口を閉ざした。
 その様子に、質問はもうないと悟ったらしいはおもむろに立ち上がる。
「他にはないわね? ……じゃ、以上で」
「……? どこへ……」
「外。風に当たってくるよ。行方くらましたりはしないので、ご心配なく」
 外へと通じる扉に進む彼女に、誰からともなく問いが投げ掛けられて。それに含まれる真意を汲み取ったのか、それとも最初から予想していたのか。は背を向けたままさらりと答えた。
 己の手の内のモノを見てレナードは溜息をこぼす。そして、扉に手をかけた彼女に向けてそれを投げた。
「嬢ちゃん!」
 綺麗な放物線を描いての手におさまったモノ。それは彼女が持っていた白い銃。
「悪いな。一発、試し撃ちさせてもらったぜ」
「それは構いませんけど、コレ、あたしに返してもいいので? レナードさん、刑事でしょ?」
 受け取った己の銃をこちらに見えるように持ちながら返された問い。窓際の壁に寄りかかり、新しい煙草に火をつけ一服してから、改めて彼女へ目を向ける。
「銃刀法違反か? それは嬢ちゃんの国の法律だろ? 俺様たちの国じゃ、護身用に銃持つのは当たり前だぜ?」
 質問の意図に気付いてはいたが、あえて違う答えを返してみる。
 案の定、は手の中の銃を弄びつつ溜息をこぼして。
「アメリカでも、これは明らかに違法改造銃でしょ?」
「それはな。だが、ここは俺様たちの世界じゃ、ねえしな。それに……嬢ちゃんなら間違った使い方はしないだろ」
 危うい位置に立っている。けれど、彼女は命の重さを知っている。奪ってきた数の故に、その重みを知っている。
 それはきっと命綱。
「……ついさっき、間違いを犯しかけたのに?」
「それでもさ」
 彼女の力なら、おそらくは止められる前に全ての者を殺せたはずだ。マグナも、わざわざ首を絞めずともナイフで刺すだけで済んだのだから。
 無意識に……暴走している中でも、殺すことを躊躇っていたこと。それが何よりの証だから。
 あくまで彼女を信じる――と。その意見を撤回しないでいると、諦めたのか銃をいつでも撃てるように持ち替えた上で銃口を向けてきた。
「買い被りですよ、それは。あたしは、強い人と戦うのが好きな、ただの戦闘狂ですから」
 それだけ言うと、今度こそ扉を開けては部屋から出て行った。
 酷く重い事実を置いていった本人を見送った後、比較的衝撃の軽かったらしいフォルテが口を開いた。
「レナードの旦那……いつ、試し撃ちなんてしたんだ?」
「あ~? おまえさんたちがここに集まり始めた頃だな。ここの窓からあっこの木に向けて撃ったから、後で見に行ってみればいいさ」
 気付いていない上に信じられないといった風体だったので、解と共に証拠の在処も提示する。
 それでもまだ信じられないのか、記憶を探っていたミニスが疑問を口にした。
「え? でも音、しなかったよ?」
「だろうな。ありゃ、完全サイレンサー内蔵銃だ」
「さいれんさー?」
「消音装置。銃声を抑える機能のことだ」
 リィンバウムにはない言葉なのか、大量の疑問符に答えを与えたのはレナードではなくネスティだった。
 その、いつもより低い、不機嫌そうな声音に、一時会話が途切れる。
 不機嫌オーラ全開のネスティに、恐る恐る声を掛ける彼の弟弟子。
「な、なあ、ネス……怒ってる、のか?」
「怒る? 僕が? 何故?」
「何故って……」
 その態度自体、怒っている証拠じゃないのか、と。そう思いつつも、自分たちにはとりあえず怒られるようなことをした覚えはない。となれば、流れからいってものことか――と。
のこと――とか?」
 双子が声を揃えて言った。
 その言葉に、ようやくネスティは顔を上げて二人のほうを向いた。
「彼女を怒る必要がどこにあるんだ?」
 問い返されて、言葉に詰まる双子。
 それはそうだ。に悪意があったわけではないし、彼女が仲間を大切に思っているのは確かなのだから。
 ただ、困惑しているだけ。
 だからこそ、ネスティが何に対して怒りを燃やしているのかがわからない。
 そんな皆の思いに気付いたのか、ネスティは再び視線を逸らして。
「そうだな……確かに、僕は怒っているのかもしれない」
 呟き立ち上がると、が歩いた道を辿っていく。辿り着いた部屋の端。彼女と同じように扉に手をかけると、振り返ることなく言い放つ。
「だが、それはに対してじゃない……僕自身にだ……ッ」
 やりきれない思いを全て怒りに変えたような、そんな声音。
 それだけ言い残して、ネスティは扉の向こうへと姿を消す。
 余計にわけがわからなくなっている若者たちの中、レナードは喉を鳴らして笑った。
 急に笑い出したのが理解できないのか、怪訝な瞳がいくつも向けられる。
「何で笑ってんだよ、おっさん」
「いや……若いなぁ、と思ってよ」
「は?」
「レナードさん、ネスが言ったことわかったの?」
 リューグは更に混乱してしまったようだが、代わりにトリスが的確に問いの形にしてきて。
「まぁな。ネスティらしいっちゃー、らしいよな」
 神経質なところがある上に全てを一人で背負おうとする傾向も持つネスティ。
 彼が考えていることはおそらく、是が非でも森行きを止めていれば、の傷をわざわざ開かせることはなかったのに――といったところだろう。若しくは、彼女を支えることすら出来ない己の無力さを嘆いているか。
 恋愛感情の有無までは知らないが、いずれにしろ、その考え方自体が若い。
「なにソレ? さっぱりわかんないわ」
「一人だけ納得してないで教えてよ!」
 家主であるルウはきょとんとしたまま小首を傾げ、わからないことに苛立っているのか、ミニスが明確な答えを求めてきた。
 こちらも、まだまだ若い。――むしろ、幼い。
「おいおい、テスト中に教科書を開くのはカンニングだろうが」
 求めるものを与えなければ、簡単にむくれるあたりが。まあ、ミニスの年齢なら普通の反応だが。
 彼女以外の者は腹を立てることはなく、きちんとこちらの意図を読み取ろうと頭を使っていて。
「……つまり、自分たちで考えろってことかい?」
 モーリンが一番先に辿り着いた。
 ミニスはそれでも納得できないのか、一人睨んできていて――レナードは、また笑う。
「悩め悩め。若者ってのは、悩んだ分だけ……悩んで、自分で出した答えの数だけ、成長するもんだからな」
 ――そう、生きている限り傷付かないなんてことはない。
 傷付かないように、傷つけないように。そう考えるよりも、付いた傷をどう癒していくかということのほうが、ずっと大切なことだ。
 一人で癒せる傷もあれば、そうでないものもある。
 の傷は後者だ。
 本人に癒す意志があって、癒せる者が傍にいるなら、これからいくらでもふさがっていく。
 全ては、これから。
 未だ力不足の彼らが成長するまでの間は、あの二人がその役目を担うだろう。
 レナードは、の後を追って行った二人を想って、窓から見える空を仰いだ。


 一人になりたくて外に出たのであろうは、遠くへ行くことはなく、むしろ思い切り近くにいた。
 盲点といえば盲点。だからこそ、人間には簡単に見つけられはしないだろうが……バルレルにとっては探すまでもないこと。
 物凄くわかりやすい邪気を放っている、その場所へ。共に彼女を追ってきた妖狐の少女も連れて飛び上がる。
 ルウ宅の屋根の上、抱えた膝に顔をうずめた朱髪の人間の姿が見えた。
「えっれェ邪気だな、オイ」
 彼女の前に降り立ち声を掛けると、珍しく気付いていなかったらしくビクリッと肩を震わせた。
「……バルレル?」
「珍しいじゃねェか。何のサービスだよ?」
「食べてもいいよ」
 顔を上げもせずに話す、その態度を見て眉根を寄せる。
 この様子じゃ、ハサハの存在にも気付いていなさそうだ。ハサハ自身、の邪気を恐れてか、降り立った場所から一歩も動いていないし。
「ケッ、やなこった。食えと言われて食ってやるほど、悪魔ってのは優しくねェんだよ」
「……ケチ……」
 一言、そう返して。邪気はまた濃くなって彼女を取り巻く。
 バルレルは乱暴に頭を掻くと、深く息を吐き出した。
「何だよ? 言いたいことがあるなら言やあいいだろォがよ」
 は、答えない。代わりに、更に濃度を増す邪気。
 普通の悪魔なら嬉々として食い物にするような状態だが、生憎バルレルにその気はない。
「……暴くぞ!」
 低めの声で強く言う。
 それでもは動かず……けれど、邪気はゆらゆらと揺らめいて。
「…………った」
 小さな、呟きが。
「まもりたかったの、今度こそ……あたしなんかを受け入れてくれた、優しい人たちを……なのに……ッ」
 かろうじて聞き取れる程度の小さな声が、次第に掠れていく。
「傷付けた、また、あたしが……ッ」
 己を抱く手に力を入れる。耐えるように……己を、戒めるように。
「どうしてあたしは守れないの……どうして、傷付けることしかできないのッ! なんで――あたしなんかが生き残っているのよ……」
 微かに震える肩が、泣いていることを物語っている。
 こんな姿を見たかったわけではない……こんな想いをさせたくて、奪ったのではないのに。
 そう思いながらも後悔は全くしていなくて、がしがしと頭を掻いて嘆息した。――と、視界の隅に動く影。
 今までバルレルの隣でじっとを見つめていたハサハが、ようやく動いた。
 静かに……慎重に歩いての前へ行くと、朱髪の頭の上に小さな手をそっと置いて。拙い手つきで頭を撫でる。
「ハサハは、おねえちゃんのこと、すきだよ?」
 予想外の行動に顔を上げかけたに、ハサハは言った。
 ようやくその存在に気付いたは、涙で濡れた目を大きく見開く。
「ハサ、ハ……?」
おねえちゃんのこころ、すきだよ? 赤いいろ……ほのおみたいに大きくなったり、小さくなったりするの……ゆらゆら、たくさんの赤にかわるの……でも、どの赤も、あったかくてやさしい感じはかわらない……だから、すき」
 拙い故に、幼い故に、純粋な言の葉。
「ハサハ、おねえちゃんにあえてよかったよ? これからも、いっしょにいたいよ?」
 それは鋭く邪気を切り刻み、やわらかくの心に入り込む。
 今までとは違う涙が、彼女の頬を濡らしていく。
「ハサハ、ごめ……ごめんね…………ありがとう……ッ」
 俯き、心を洗い流すかのように泣き続けるの周囲。ハサハによって切れ切れにされた邪気が、それでもまだ消えることなく漂っている。
 その邪気を見つめて、バルレルは溜息をひとつついた。
「オイ……てめえには、何を差し置いてもやり遂げなきゃならねえモンがあるんじゃねェのか?」
 驚きと疑問――何故知っていると言いたげな顔に確信し、再度問う。
「あるんだな」
 問いというよりは、ただの確認。疑問符のない断言に、は小さく頷いて。
「だったら落ち込んでるヒマなんかねェだろ。くだんねえことウダウダ気にしてねェで、てめえのやるべきことをやってりゃいいんだよ」
 吐き捨てるように言って、手を伸ばす。
 驚きながらも、その心を決めた。決意を再び揺るがしかねない周囲の邪気……彼女の古傷にこびりついているそれらを食うために……

「……苦ェ……」

 すっかり邪気も消え、屋根の上で器用にハサハと共に眠る姿を見ながら呟かれた言葉は、木々のざわめきに紛れて消えていった。