仮 面 舞 踏 【 月 影 の ジ ル バ 】
第 3 曲
1・思うところの向かう先

 ナツミたちがこの世界に呼ばれるきっかけとなった、召喚術の儀式の関係者だというキールたち四兄妹がフラットに来た翌日。彼らはナツミたちにあの光――魔力について説明した。
 といっても、召喚術の一種『だと思う』という程度のことで、結局は謎のままだったのだが。
 それに関連し、暴発防止にと初歩の召喚術の手順も説明してくれた。けれどそれは、本当に手順――方法だけで、マグナのように知識や常識に関しては一切触れなかった。
 そのことについて、ハヤトたちがどう思ったのかは、ナツミは知らない。ただ、誰もマグナから既に教わったとは彼らに告げず、また、一般の人も召喚術が使えるということについてフラットのメンバーに話すこともしなかった。
 昨日のマグナが起こした暴走召喚と、その後の彼の有様を見れば、言えるはずもない。
 ナツミ自身も、なるべく召喚術には頼らないようにしようと、そう改めて思ったほどなのだから。
 元の世界へ帰る気のないナツミにとって、キールたちの存在は然程重要ではない。だから、彼らが知識について触れなかったのが、こちらを信用していないためでも、他の理由があってのことでも、どうでもよかった。
 単に教えることになれていなくて気が回らなかったということもあるだろうが、まあ、そうだとしても特に問題はないのである。
 だからナツミは、自分の目的を果たすために、彼らの部屋の扉をノックした。


「さて……どうするかな……」
 ハヤトは広間で、手持ち無沙汰に呟いた。
 帰る方法を探してくれると言った四人の話を聞いた後、トウヤたちは皆、やることがあるのかどこかへと早々に行ってしまい、ハヤトは一人やることを思いつけずにいるのだ。
 やることも、やったほうがいいことも、やるべきことも、きっとちゃんとあるのだろうけど……何故か上手く頭が回転してくれなかったから。
 考えるともなしにぼんやりしつつ、何の気なしに視線を泳がせて――目が留まった、ひとつの扉。それは自分たちにあてがわれている部屋だ。
 ひとつのきっかけが、それに関わる情報を引き出してくれる。
 ハヤトは、マグナの様子を見てこようと思い立ち、扉をそっと開けた――と。
「――っ!?」
 目に飛び込んできた光景に、息を呑んだ。
 丁度、扉の正面に、マグナの眠るシングルベッドがある。その手前に、見知らぬ人影があったから。――否。それが、ただの人影ならばこんな驚き方はしない。
 そう……普通ではなかったのだ。
 不自然に広がった長い白髪の下には、着物の袖と裾が伸びていて、こちらから見えるその後ろ姿は淡く輝く紅い光に包まれている。
 人――であることはわかるけれど、何というか……幻想的とも神秘的ともいえるそれに、ハヤトは呼吸すら忘れて立ち尽くしてしまっていた。
 その時――ギィ、と。扉が音を立て、ハヤトは思わず自分の手――音の出所へと目を向けた。ドアノブにかけたままだった手で、扉を押してしまったようだ。
 決して広くはない室内だ、中にいた人物にも確実に聞こえているだろう音。
 別にこちらは何も悪いことはしていないのだが、何故か悪戯が見つかってしまったような心境で再び室内へと目を向けた。……けれど。
「あれ、何してるの、ハヤト?」
「――へ?」
 聞こえてきたのは、きょとんとした聞き馴染んだ声。そしてそこにいたのも――いつも通り、ハヤトの知る普通の少女・だった。
 先程見た、あの不思議な人影は、どこにもない。
「え……あれ?」
「……どしたの、ハヤト。何か変だよ?」
「いや、あの、さ……さっきからずっと、ここにいた?」
「当たり前じゃない。何よ、あたしが降って湧いたとでも言いたいの?」
「そ、そうじゃないけど……」
 訝しげに睨(ね)めつけられ、たじろぎながら否定を返す。
 そういう意味でないのは確かだが、そうとも言えるのかもしれない。でないとするなら……見間違い――だったのだろうか?
 けれど、あんなにはっきりとしたものを、彼女と間違うだろうか。
 自信はないが、でもあれを完全に否定してしまうのも、何か……どう表現していいのかもわからないが、何となく嫌で。
 とりあえず、本人に確認してみることにした。
「別人が立ってるように見えたからさ……」
「別人? 別人ってどんな?」
「なんか、こう……横に広がった長い白髪と着物が見えて……紅く光ってたんだ」
 身振り手振りを交えて、見えたものを説明した。
 こうして言葉にしてみると、彼女の姿とはまるで違いすぎている。夢でも見たのでは、と。笑われる気がしてきた――が。
「そう、見えたの……?」
 ハヤトの予想に反しては、大きく目を瞠って信じられないといった表情で聞いてきた。
 意外なその反応に、ハヤトのほうが驚いてしまったが、何とか頷きを返す。
「あ、ああ、見えたぜ。……やっぱり、あれは君だったのか? また、おれたちの知らない不思議な力とかで、何かをしてたのか?」
 彼女の反応が、己の見間違いなどではないと告げているように思えて、そう言ってみたのだが……先程の驚き一変、はにぱっと笑顔を浮かべて。
「残念、なんにもしてないし、そんな力は持ってません♪ 強いて言うなら、マグナの容体は診てたけど、そんなことで姿なんか変わるわけないし♪」
 いつもの調子で軽くあしらわれてしまった。――だが、言っていることは、多分正しいと思うけれど。
 それでも何だか腑に落ちなくてもう少し聞いてみようとしたが、ハヤトが口を開くより先にはぽん、と肩に手を置いてきて。
「結論。君は白昼夢を見たのデス♪」
「――そういうオチなのか?」
 案の定とでもいうのだろうか。予想通りの言葉を返され、がっくりと肩を落とす。もう、反論する気力もない。
 そんなハヤトの様子を楽しげに眺め、はその横を通り過ぎていく。
「じゃあね~♪」
「あ――待ってくれ! マグナの様子は!?」
「順調に回復してるから、今夜か明日の朝には起きると思うよ」
 部屋を後にしようとするその背にかけた問い。彼女は振り返ることもせずに告げて、そのまま行ってしまった。
 確かに見た、あの不思議な光景……はあれについて、確実に何かを知っている。けれど、あからさまにはぐらかしたということは、きっと触れてほしくないこと――だと思う。
 だから、聞かないほうがいい。そう、結論付けた――けれど……何かが、引っかかっている気がした。
 それが何かはわからないけれど、何となく嫌な感じのするモノ……
 考える内にそれは大きくなって、心を満たそうとし始めて――パンッ、と。両手で自分の頬を思い切り叩いた。
「い、て……」
 ジンジンと痛む頬が、先程までの考えを吹き飛ばしてくれた。
 ナツミにもよく注意される、悪い癖。
 気をつけなければいけない……特に今は。魔力などという爆弾をこの身に抱えているようなものなのだから。
 その恐ろしさを誰よりもよく知るが故に、制御方法を教えてくれたマグナ。
 彼の無事を聞いた安堵感を支えにして心を強く保ち、ハヤトもまた、その場を後にした。


「はっ……あは……あはは……っ」
 森の中。近くの木に寄りかかって、は笑い声をこぼしていた。
 ひどく力のないそれは、走ってきたためではない。
「抜剣、覚醒……状態の……姿が、見えたって……? そんな、バカなこと……」
 ハヤトが急におかしなことを言い出すから、仮面を維持することができなくなってしまったではないか。
 そんな風に悪態づいたとしても、今の状態から戻れるわけではない。
 それくらいに……あのことは、今でもの心を縛り続けている。
「あるわけないよ……ありえない……だって、『紅の暴君(キルスレス)』は、あたしの内にはないんだから……」
 あれは、たった一度だけの奇跡だから。
 彼の魔剣を継承したのは、己ではないから。
 そんなこと、望んでさえいなかったのだから……
「……バカ……っ」
 望んだのは……もっと別のことだったのに。
「イスラの、バカ……っ」
 だから、あれは奇跡。もう二度と起きることのない、奇跡なのだから……
 ハヤトが見たものは、ただの幻だ。今のに、そんな力はない。
 それが――現実だ。
「……っ」
 溢れてきた涙を拭った――その時。
 茂みの鳴る音に、反射的に振り返った。
「あ、。よかった、探していたんだよ」
「トウヤ……と、誰?」
 現われたのは、トウヤと見たことのない少年。服装から見て恐らく狩人であるとは思うので、近くに住んでいるのかもしれない。
 の予想は当たったようで、少年は名乗ることでそれを告げた。
「僕はスウォン。この近くで狩人をして暮らしています」
「なんでも、最近この森に人を襲う獣が出るらしくてね。出口まで送ってくれるって」
「そう……」
 二人の説明を、普通を装って聞いた。
 涙を拭った後だったのが幸いしたのか、特に初対面のスウォンは何も気付かずにいてくれたようで。
「あなたも、早く森を出たほうがいいですよ。ここまで来れば、あとは真っ直ぐ進むとすぐに抜けますから」
「ああ、ありがとう」
「いえ。それでは」
 最短で森を抜けられる方向を指し示した後、スウォンは再び森へと戻っていった。
 彼を見送ってから、とりあえず忠告に従い森を抜ける。サイジェントの城壁が見えたところで、二人揃って足を止めた。
「あたしを探してたって言ってたけど、何か用なの?」
 そうして、のほうから話を切り出した。
 トウヤもまた、何も気付くことはなかったのか、普通に口を開いて。
「ああ、実戦用の型を教えてもらえないかと思ってね」
「あ――……そうね。今日はマグナの分がなくていいから、みっちり教えられるわね♪」
 にやり、と。鬼教官の仮面で返すと、トウヤの顔には苦笑が浮かぶ。
「できれば、お手柔らかに頼みたいけれど……」
「それは、トウヤの覚え方次第ね♪」
「は、ははは……」
 トウヤの口からは乾いた笑い。鬼教官の仮面が、ちゃんと着けれたことに内心安堵しつつ、彼の背を押した。
「ここじゃ足場が悪いから、アルク川のほうに移動しましょ」
「ああ」
 方角を示し、トウヤを先に歩かせ、はその後ろでこっそりと溜息をついた。
 本当はそんな気分ではないのだが、そんなこと知られたくはないし、武術訓練も早めに進めたほうがいいのも事実。
 断るわけにはいかない、から……仮面がちゃんと維持できるくらいには持ち直している、と。自分に改めて言い聞かせて、は己の本心にふたをしたのだった。


 ――その来訪者は、入ってくるなり驚きをその顔に刻んだ。
 本日二度目のノックが来訪者の存在を告げ、中にいる弟妹たちの意思を確認してからキールが返事をしたのだが、やってきたハヤトは何故か酷く驚いた顔で固まってしまった。
 その理由はというと……
「ナツミ!? 何してるんだよ、ここで……」
 彼より前に来ていたナツミの存在のようだ。
 この部屋に彼女がいることが、そこまで驚くことなのか。キールたちにはハヤトの意図がわからず、邪推しかけたのだが……割とすぐにそれがいらぬ心配だったと知った。
「……勉強よ、べんきょー」
 振り返りもせずに答えたナツミの目の前には、数枚の紙とペン。キールが用意した一枚に書き記されているものを、ナツミが別の紙に写しているのだ。
「勉強!? あのナツミが!?」
「何よ、その反応は。あたしが勉強してちゃ、おかしいワケ?」
「あ、いや……その……」
 素っ頓狂な声をあげられ、ようやく振り返ったナツミは一睨み。途端にハヤトは勢いをなくしてたじろいだ。……二人の関係が垣間見える遣り取りだ。
「だってさ、ナツミ……おれと同じで、机に向かってるより体動かすほうが好きだろ?」
「そりゃそーだけど……あたしだって必要に迫られれば勉強くらいするわよ」
「必要って、何の勉強してるんだ?」
「文字の読み書き。生活する上では必須でしょ。じゃないと買い物もまともにできないもん」
 そう……召喚術について一応の説明をした後、こう言って彼女はキールたちに教えを請うてきたのだった。人選に対する理由としては、フラットの面々は各々生活に忙しかったり教師役として不向きだったりするからとのこと。
 文字の読み書きが可能になるということは、自力での情報収集の範囲が広がってしまうということを意味している。
 自分たちの立場からするとそれは好ましい状態ではないので、初めは断った。けれど、その口実を帰るための方法を調べるからとしたのがいけなかったのか、四人もいるのだから一人くらい欠けたって調べ物には然程差し支えないだろうと食い下がられてしまった。
 結果、あまり断り続けても変に怪しまれてしまうだろう、と。現在に至るのである。
「買い物くらい、に付き合ってもらえばいいじゃないか」
に頼りっぱなしになりたくないから、勉強してるんでしょ!」
「で、でもさ、ほら? 元の世界に帰れれば、もう意味なんてなくなるモノだし、無理しなくても……」
「ハヤトが勉強したくないってのはわかってるわよ! でも、あたしはリィンバウムの文字を覚えたいの! 苦手な勉強をなけなしの集中力使ってやってんだから邪魔しないでよ!!」
 ――バンッ、と。ナツミが机を思い切り叩く。衝撃で跳ねたインク瓶を、キールは咄嗟に押さえた。何とか中身はこぼれずに済んだようだ。
 胸を撫で下ろしたものの、先程まで静かだったナツミのいきなりの怒声には驚きを隠せない。
 けれどそれはキールたちだけのようで、怒らせたとしか思えないハヤトは。
「やっぱり機嫌悪い……だから勉強中のナツミに遭遇したくないんだよぉ……」
 扉にへばりついて愚痴をこぼしている。これが驚きの本当の理由だったらしい。
 というか、わかっていたのなら、怒らせるようなことを言わなければいいだろうに――とは、恐らく弟妹たちも思ったことだろう。
 まあ、過ぎたことを言っても仕方がないので、キールは本題を訊くことにした。
「それで、僕たちに用があったのでは?」
「あ、そうだったよ。四人共さ、ここに来てからずっと、部屋に閉じこもってるだろ? おれ、今から散歩に行こうと思ってるんだけど、良かったら一緒にどうかと思ってさ」
 何を言い出すかと思えば……キールは溜息をついた。
「目的なしに歩き回るのは、あまり好きじゃないんだ。悪いが、遠慮するよ」
「同じく」
 キールの後を、同じようにナツミの勉強を見ているソルが短く同意で繋げ、妹たちも異口同音に断った。
 取り付く島もなく断られれば諦めるだろうと、そう考えたキールの予想は裏切られた。
「で、でもさ……やっぱり、部屋の中に閉じこもりっきりっていうのは、よくないと思うんだよ……」
「別に身体を壊すような無茶はしていないぞ」
「そ、そういうことじゃなくて……だから、その……何ていうか……」
 妙に食い下がってくるが、ハヤトが何を言いたいのかキールにはわからない。そしてハヤトはハヤトで言い淀んでいるし。
 言いたいことを言えないハヤト。そのため彼の意図を察することができないキールたち。
 全く動けなくなった両者の間に、第三者であるナツミの溜息が割り込んできて――助け舟を出した。
「散歩って、考え事をする時には効率がいいって、前にが言ってたよ」
「……何故だ?」
「体動かすと血の流れがよくなって、頭の回転も速くなるんだって。それに、いつもと違う景色を見ることで脳が刺激されて、色々ひらめいたりもするとか。気分転換にもなるし、全くの無意味ってことはないんじゃない?」
 机に向かったまま言われた内容は、確かに納得できる部分があった。
 けれど、意外でもある。
 ハヤトに対して邪魔するなと怒っていたのだから、さっさと出て行けと言いそうなものなのに、逆に彼を援護するとは……一体何を考えているのか。
「あたしのことなら気にしなくてもいいよ。散歩行ってる間にコレ覚えちゃうから、帰ってきてからテストしてくれればいいし」
「……それは、一人のほうが集中できるってことか? それとも、おまえが気分転換したいだけか?」
「違うよ~。気分転換は集中力がなくなったらするもん」
 彼女の意図を探ろうとソルが投げかけた問いは、あっさりと否定された。
 一人のほうがいいなら部屋に戻ればいいだけだ。ここからキールたちを追い出す理由にはならない。むしろ、その間にこちらの素性か何かを探ろうとしている――と。そう考えるのが自然だが……
 単に、ハヤトを追い出すためには彼の望みを叶えてやるのが手っ取り早いと思った可能性のほうが高いか。
 何にせよ、それはキールとソルにはできない相談で。
「やはり僕は遠慮するよ」
「どして?」
「こことそこ、間違えている」
「え!?」
「これ、線が一本足りない。これでは、全く意味の違う言葉になる」
「こっちは、隣の文字と混ざってないか? これじゃ、文字にすらなってないぞ」
「ウソぉ!?」
「本当だ。よく見てみろ」
 トンッ、と。教科書代わりの紙を指でつついたキールに従い、己の書いた文字と見比べるナツミ。「う~……」と唸りながら見ていたが、ややあってがっくりと肩を落とした。
「うわぁ……本当だぁ……なんでぇ……」
 何でも何も、原因は彼女自身の注視力不足だろうに。
 自覚があるのかないのかわからないが、こんな状態のナツミを一人になどしておけるはずがない。
 勉強が苦手だと自己申告していたことが事実だと知り、キールはソルと顔を見合わせ溜息をつく。
「君を一人にしておいたら、間違ったものを覚えられそうだからな」
「それをもう一度教え直すったら、二度手間どころの話じゃないって」
「うう……っ、申し訳ゴザイマセン……」
 ハヤトに対する助け舟は、これで撃沈。流石にもう、諦めてくれるだろうと思った時――
「あの……私、行ってみようかと思います……」
 控え目に、クラレットがそう言い出した。
「……クラレット?」
「無意味ではない、と……そうおっしゃるのならば」
「うんうん、絶対無意味じゃないって♪ ってか、あたし的には大助かり♪」

「――は?」

 クラレットの申し出に、何故か喜色満面に諸手を挙げたのはナツミだった。しかも、後に続いた言葉の意味がわからずに、男三人は見事に声を揃えて彼女を見た。
 ナツミはクラレットの側へ行くと、何事かを耳打ちして――クラレットはきょとんとする。
「お願いね♪」
「はあ……わかりました……」
 よくわからないような風体でそれでも頷いた彼女に満足したのか、ナツミはくるっと方向転換。今度はカシスを見て。
「カシスはどうするの?」
「残るよ。必然的に調べ物係じゃない、あたし」
 特に気にした様子もなくクラレットから本を受け取り、カシスは答えた。それから姉へと笑顔を向けると、「いってらっしゃい」と言って二人を見送った。
 そうして、来訪者が現われる前とは一人減った室内にて。再び机に向き直ったナツミへと、キールは疑問を投げかける。
「さっきはクラレットに何を頼んだんだい?」
「ハヤトのお守り」
「――は?」
「お守りって、おまえ……子供じゃないだろ、あいつ……」
「あたしにとっては充分子供よ」
 呆れたソルの呟きにも、至極当然といった体でナツミは答え――
「まったく……ほっぺにうっすら紅葉なんか作って、気付くなってほうが無理じゃん……本っ当ぉに世話の焼ける……」
 ぶつぶつと呟き始めてしまった。
 呟きながらも動く手に、これ以上は聞いても無駄だと悟って……キールは再び、ソルと顔を見合わせて溜息をついたのだった。


 物事の難しさや大変さは、実際にやってみないとわからない――とは、よく言われることである。
 それは確かに真理だと、トウヤは今、改めて思い知ったところだった。
 スポーツである剣道と、実戦の型との違いが、身に染みる。
 剣道は幼い頃からやっていた。高校生になった今も部活動に選び、いくつかの大会で優勝したこともある。基本は既に出来ているとに言われたこともあり、知らず高を括っていたのかもしれない。
 その基本が……一度身についた型を崩し、新たに覚え直すということが、ここまで困難だとは思っていなかったのだ。
「ほら、トウヤ! そこ、また忘れてる! 余計なこと考えてる暇はないよ。体に覚えこませるまでは、意識しておかないと変わっていかないんだからね」
「あ、ああ……」
 飛んできた叱責に従い、意識を体の動きに集中させる。教えられた通りに動くように、何度も繰り返して動きを体に覚えこませる。
 ひとつ、ひとつ。慎重に……丁寧に。
 トウヤの覚える速度に従って、は教えてくれる。ひとつの動きを覚えたなら、次の動きへ。覚えたらまた次へ。それが重なると、前のものも通して復習と、簡単な応用を。
 大変だけれど、確実に変わっていけているという実感を得ることができている。そしてその実感こそが、次への意欲となる――のだけれど……
「はい、今日はここまで! お疲れ、トウヤ」
 ――パンッ、と。手を打ち鳴らし、終了が告げられた。
 気分的には、まだ続けていたいのに。もっと覚えたいという想いが湧きあがってきているのに。肩透かしを食らった気持ちになって……何故、と。
「もう少し、先に進めても構わないんだけど……」
「一度にやっても半端になるだけよ。それに……」
「それに?」
「自分の状態は、ちゃんと把握してよね」
 溜息と共に言われた言葉は、トウヤには理解できなかった。
 教えられたことを確実に身に着けていけていることが、嬉しくて、楽しい。まだ覚えられる、と。そう思っていたから。
 近付いてきたに、額を指で突かれるまでわからなかったのだ。
「――ッ、た……?」
 力なんて入っているとは思えなかったそれに、けれどトウヤは己の身体が傾ぐのを感じて――その場に尻餅をついてしまった。
 そうして、やっと気付いた。自分の息が、かなり上がっていることに。全身、汗だくになっていることに。
「向上心があるのも集中力があるのもいいことだけどね、体力の限界ってのもあるんだから。今はゆっくり休んだほうがいいよ」
「あ……ああ……わかったよ……」
 一度自覚してしまえば、もう動くことはできなかった。……何とも情けない。気持ちだけが先行してしまい、追いついていない体力に気付けずにいたとは。
 けれど、それも無理はない気もした。は、本当に教えるのが上手いから。
 剣道を習った時には、体力の限界に気付けないほど集中したことはなかったし、こんなに覚えるのが楽しく感じたこともなかった。
 それら全て、彼女の教師としての腕の良さだと。そう思えたから。
 そこまで考えて、ふと思い浮かんだのはマグナの顔。
 確かは、一ヶ月以上やってもまだ基礎指導が終っていないと言っていた。レイドとの会話では、マグナを『覚えの悪い生徒』とも称していたし。
 とすると、これだけ丁寧に教えられても尚彼女の手を煩わせるマグナは、正真正銘の劣等生――ということ、なのだろうか……
「とりあえず、現時点での課題は腕の引きだってこと、覚えておいてね。……大丈夫?」
 思考を遮るように降ってきたの言葉で、トウヤは現実へと意識を戻した。
 一応立ち上がろうとしたけれど……できなかったので、笑顔だけを返して。
「ああ、大丈夫だよ」
「ごめん。もう少し早くやめるべきだったね」
「いや、僕の自業自得だよ、これは。気にしないでくれ」
 平気だと伝えようとしたが、現実として動けないということがわかりきっているので、それは失敗に終った。
 それでも、気持ち的にはかなり充実しているのだ。
 それだけは、変えようのない事実だから。
「ありがとう、。久し振りに楽しく体を動かせたよ」
 ちゃんと伝わってほしい、と。偽りのない言葉と笑顔を向けると、は一瞬、軽く目を瞠って――それから、相好を崩した。
「今度は、あまり負担がかからない程度に楽しもっか」
「ああ、そうだね」
 ふふっ、と。笑い声をこぼす二人。
 正しく伝わった気持ちに安堵を覚えた、刹那。
「あれ、トウヤ?」
 第三者の呼び掛けに目を向ければ、そこにはクラレットを伴ったハヤトが歩いてきていて。
「何してるんだ?」
に実戦用の型を教えてもらったところだよ」
「……しごかれたのか?」
「違うよ」
「優秀すぎて、ちょーっと困っちゃってるだけよねえ?」
 誰かさんとは違って。
 そう続いた言葉が、先程思い浮かんだ疑問に答えを告げた。
 疑問が消え、すっきりした気分になり、トウヤはハヤトを見上げる。
「ハヤトはデートかい?」
「違うって! 何でそうなるんだよ!?」
 ちょっとからかってみただけなのだが、意外にもハヤトの頬は赤く染まった。言葉は否定しているが……この手の話に慣れていないだけか、でなければ……
「部屋にこもってばかりいるのはよくないからと、散歩に誘われただけですが……」
 ハヤトとは対照的に、冷静なクラレットの言葉が事実を説明した。
 首肯で同意を示したハヤトだが……こっそり溜息をこぼしたのを、トウヤは見逃さなかった。
 やはり、何かしら多少の期待はしていたらしい。
 湧き出てきた笑いを隠すことなくこぼすと、クラレットに怪訝な目で見られ、慌てて片手を振る。
「何でもないよ。それより、他の三人はどうしたんだい?」
「カシスは貴方たちを帰すための方法を調べています。キール兄様とソルは、ナツミにリィンバウムの文字を教えています」
「ナツミに文字を?」
「はい。教えてほしいと彼女が言ってきましたので」
 意外な言葉だった。トウヤの知るナツミは大体友人たちと元気に動き回っていて、大人しく読書などをしている姿を見たことがなかったから。
 ふと顔を上げた先には、眉根を寄せたがいて……彼女にとっても意外なのだろうか、と。そう思ったけれど。
「勉強中……ってことは、今ナツミの機嫌は悪い――ってことよね……」
「ああ、かなりな」
 の呟きにハヤトがうんざりした様子で答えて――二人は顔を見合わせると、揃って溜息をついた。
 触らぬ神に崇りなし――と。二人の姿は、そう物語っているように見える。親友と従姉弟故に知る姿……ということだろうか。
「まあ、それはいいとして。休憩にしろデートにしろ、ここなら風通しも景観もいいから、ゆっくりしたら?」
「だから違うって言ってるのに!」
「ああ、そうするよ」
「じゃあね」
 否定と、肯定と。正反対の答えも聞いたのかどうか。
 ひらっと片手を振って去っていくを見送って、トウヤはその場に身体を投げ出した。
 ハヤトとクラレットの存在に構う余裕もなく、吹き過ぎるそよ風の心地良さに目を閉じて――そのまま、睡魔に身を委ねた。


 ――パタン、と。
 後ろ手に扉を閉め、は部屋の奥――シングルベッドへと歩く。ベッドの上には、先程と変わることなく眠り続けるマグナがいる。
 静かな寝息。動くことのない表情。
 死に顔のようにも見える寝顔を見ていたくなくて、ベッドの横に座って顔を布団に埋めた。
 生きているとわかっていても、湧き上がってくる不安に耐えられずに、マグナの手を握る。
 手に伝わるぬくもり。マグナは確かに生きている。
 けれど、不安は――恐怖は消えてくれない。
 こんなに弱くなっているのは、ハヤトの所為だ。おかしなことを言って、思い出したくないことを思い出させるから……
 一人では、この気持ちに押し潰されてしまう。けれど、素顔を晒せる相手はナツミとマグナしかいない。
 ナツミはキールたちの部屋。オルドレイクの手の者である彼らに、弱みに直結する情報を与える気は毛頭ない。
 とするなら、残りはマグナしかいないのだが……彼もまた、深い眠りの中なのだ。
 その寝顔が、余計に恐怖を煽る――けれど、他に行く場所がなかった。
「《……いなくならないで……》」
 怖いのは、手の届かぬこと。届かぬまま、いなくなられること。
 怪我を癒せる能力を持っているのに、力が足りずに死んでいく誰かの存在。
 能力があってもそれを役立てられないなら、それは存在を否定されるのと同義だ。
 それが、つらい……苦しい……
 そして、何よりも――
「《イスラみたいに、いなくならないで……っ》」
 大切な存在を救えない事実が痛くて――己を責めずにはいられない……それが……
「《……苦しいよぉ……っ》」
 きゅっ、と。マグナの手を握る手に、力を加えた――その時。
「……っ」
 僅かに、マグナが握り返してきた。
 反射的に顔を上げると、眠っていたはずのマグナの顔がこちらを向いていて。
「……? どうして泣いてるんだ……?」
 まだ少し眠たげに、ぼんやりとした声で問い掛けてくる。それから指先が目尻に触れ、涙を拭ってくれた。
 何かを言おうと開いた口からは言葉が出てこなくて、涙だけがまた溢れ出す。
……泣かないでくれよ、なあ?」
 理由がわからずただ困惑して、どうしていいのかもわからないといった体で涙だけを拭ってくるマグナ。
 は……止まらない涙の理由が、マグナが起きたためだと自覚して――拳をマグナへと繰り出した。
「わっ!? 何!?」
「《何じゃないよ、バカ!!》」
「ってか、! どこの言葉喋ってるんだよ!?」
 拳を受け止め言われた言葉で、己が異界の言語を使っていることに気付かされた。
 完全に無自覚。というか、自覚なく出てくるものでもない気がするが……それだけ、頭の中がごっちゃになっていたということなのだろう。
 深呼吸をひとつして、言葉を戻す。
「サプレスの……天使たちが使う言葉だよ……」
……そんなことまでできるんだ……」
「コレだけだよ……『狭間の領域』にいる人たちと話したくて、フレイズに教えてもらったの」
「そうなんだ……で、泣いてた理由は?」
 ケロッ、と。言いにくい内容だとわかっていて聞いてくるのが、癪に障る。しかも、心なしかこちらの反応を楽しんでいるようにも見えて――ぷいっ、と。はそっぽを向く。
「……教えない」
「えーっ? 気になるじゃないか」
「気にしなきゃいいじゃない」
「気になるって。だって、初めて見たし――って、うわあ!?」
 受け止められたままの拳とは逆の手を小太刀付きで払えば、流石に飛び退いた。
「危ないじゃないか!?」
「あたしをからかってタダで済むと思ってるの?」
「ごご、ごめんなさいッ!!」
 非難の声もすぐに謝罪に変わる。
 壁にべったりとくっついて、へたれ全開のマグナを見て――嘆息した。
「《……バカみたい》」
「え?」
 あんなに怖くて、不安でたまらなかったのに……仮面は着けれても、トウヤの体力にまで気を配れる余裕だってなかったほどなのに……
 目覚めたマグナを見て、声を聞いて、全て消し飛んでしまった。
 たったそれだけのことで、こんなに安堵できるなんて……簡単に安堵できることで、泣いたりして……
「《ホント、バカみたいじゃないのよ、もぉ……》」
 癪だから、絶対に言ってはやらないけれど。
 もう一度……今度は深く息を吐き出して――笑ってみせた。
「おはよう、マグナ」
 そうして伝えた言葉。
 マグナは一瞬きょとんとしたけれど、次の瞬間には同じように笑顔を咲かせて。
「おはよう、
 今、一番聞きたい言葉を、返してくれた。