あっちこっちで桜が満開ですね~。
テレホンメッセージより
「幸いを見つける人」は、神のことばを心に留める人です。聖書には『みことばに心を留める人は幸いを見つける。主に拠り頼む人は幸いである。(旧約聖書 箴言16:20)』とあります。
「みことば」とは、「聖書のことば」のこと。「心を留める」とは、「心を固定する」こと。「みことばを心に留める人」とは、「聖書のことばに注目する人」のことです。
あなたが「幸せを見つける人」となるためには、神のことばがどうしても必要であり、神のことばをあなたの心の拠り所、すなわち揺るがない土台とすることです。
人間の身体の3分の2は、水分であると言われます。このことは、私たちは自分の身体に毎日のように水分を補給しなければ生きられない存在なのです。「水分」は、私たちの身体にとって不可欠なものです。
すなわち、聖書の「みことば」は「水」にたとえられています。それは私たちが毎日、水分を補給しなければ生きられないように、神のことばを補給することによって、私たちは人間らしく生きることができるようになるのです。
というのは、人間である私たちは創造主なる神によって、いのちの息を吹き込まれ、造り主なる神との交流ができる存在とされたからです。
『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(旧約聖書 創世記2:7)』
それゆえに、主イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるのである」と言われたのです。
ですから、神のことばを心に留める(大事にする)人は、幸いを見つけるようになり、幸いな人とされるのです。それは、「主に拠り頼む人」になるからです。
『私は 大きな獲物を見つけた者のように あなたのみことばを喜びます。
あなたのみおしえを愛する者には 豊かな平安があり つまずきがありません。(旧約聖書 詩篇119:162、165)』
《今週のみことば》
・・・彼(アブラハム)は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で(多くの国民の)父となったのです。
不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを実行する力がある、と確信していました。
だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも義と認められるのです。
主イエスは、私たちの背きの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(新約聖書 ローマ4:17、20~25)
一気に27℃とかアホな気温になったせいで、桜もたった一日であってまに散ってしまいました。
聖書箇所=新約聖書 マタイ15:21~28
この箇所に出てくるカナン人の女性は、実にパワフルです。弟子たちが困り果ててイエス様に願うほどにつきまとい、なりふり構わず娘の癒しを求める姿は、稀に見るほど愛情深いように思えます。
対するイエス様は一言もお答えにならず、それでも諦めずに目の前でひれ伏した彼女へ「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」と言われたのです。
冷たい態度だと思いますか? いいえ、イエス様の対応こそが、知恵に基づく真実な愛のあるものなのです。
人とは、力で物事を解決しようとして結局すべてを破壊してしまったり、愛という名のもとに奴隷化してしまったりする、思い違いに囚われやすい存在なのです。
イエス様が彼女にお答えにならなかったのも、力で押し通せば願いが叶うという思い違いを指摘し、自分の娘以外はどうでもいいと思っている彼女の状態は愛ではなく自己中心にすぎないということを教えるためだったのです。
イエス様との対話によって自分の問題点を悟る知恵を得た彼女は、正しい立ち位置に立ったことで願いどおり娘の癒しを得ました。
力と愛と慎みは、一人の人格を形作るものです。力と愛は万能ではなく、正しくあるためには慎み(知恵)が必要だということを思えておきましょう。
《今週のみことば》
熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもしの心は主に向かって激しく怒る。(旧約聖書 箴言19:2~3)
主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)
・・・知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。(旧約聖書 伝道者7:12)
主を恐れることは知恵の初め、・・・(箴言 9:10)
強風でサクランボの花が一気に散っていったり、雨上がりの後、水溜まりの渕だったところに花粉が溜まって黄色くなっていたり。
空き地がたんぽぽの群生で見事に黄色いじゅうたんのようになっていたり。
天気は目まぐるしく変わっていってるけど、書き作業的には、ほとんど進行していないという相変わらずな状態ですた。
テレホンメッセージより
私たちはだれでも、不自由であるよりは、自由でありたいと願っているのではないでしょうか。そう願いながら、実は、自分でも気づかないところで自由を妨げているものがあります。
その妨げはどこにあるのでしょうか? 実は、私たちの最も身近にあります。それは外側にではなく、自分自身の心の中にあります。それは「思い込み」です。すなわち「すっかりそうだと信じ込む」ことです。
例えば、「失敗したくない」「悪く思われたくない」「性格だから仕方がない」など。「失敗したくない」ことは、だれもが思っています。しかし、そのことにしがみつく限り、生きることは安らかではありません。
なぜなら、大なり小なり失敗は、生きている限りはだれも避けることができないからです。失敗するたびに、ガッカリしたり、クヨクヨしたりしていては、生きることはつらく耐え難くなるだけです。そして、失敗怖さに、心に壁を作って、その中に閉じこもって何にも手を出さなくなってしまうでしょう。
ではどうしたら「思い込み」を解消して、自由に生きられるのでしょう? そのためには、「失敗は許されない」という思い込みを手放し、天の神さまの大きなあわれみの御手にゆだねることです。
間違いを犯さない、完璧な人はだれもいません。人は多くの点において失敗を繰り返しています。ですから、大切なことは「私(俺)は決して失敗しない」という固い決意よりも、むしろ自分は弱く、失敗の多い者であるということを、神さまの前に謙虚(素直)に認めることです。
そうすることによって、気持ちは楽になり、「失敗は許されない」という張り詰めた緊張感は和らぎ、心にゆとりが生まれます。そのゆとりが、失敗を遠ざけるようになります。「失敗は許されない」という思い込みよりも、効果的ではないでしょうか。
『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(新約聖書 マタイ11:28~29)』
《今週のみことば》
人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。(旧約聖書 箴言5:21)
あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。(箴言 16:3)
主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです。・・・(旧約聖書 Ⅱ歴代誌16:9)
古い、メモしてあっただけのネタをノートに清書するにあたって、セリフのみだったものに地の文を追加して小説らしい形にしてみたりといった感じで、リハビリっぽいことはしてみたりしています。
聖書箇所=新約聖書 ヨハネ21:1~14
イエス様が復活されたあとのことです。数人の弟子たちが一緒にいたある日、ペテロが「私は漁に行く」と言いだしました。荒くれ者と言われる海の男ですから、むしろ「俺は」と訳したほうが実状に合っているでしょう。プロの漁師として半端ではない意気込みのその言葉に感化されたように、ほかの弟子たちも賛同し、彼らはティベリア湖にて漁に出ました。しかし、意気込みや期待に反して、その夜は何も捕れなかったのです。
意気込みや期待が大きいほど、うまくいかなかったときの失望や落胆も大きいもので、近づいていた岸からかかった「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」との問いにも「ありません」と答えるしかできませんでした。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」という指示に反抗する気力すらなく従ってみたところ、思いがけない大漁を経験したのです。
そのとき、ヨハネはペテロに「主だ」と言いました。夜が明け始めたばかりの暗がりで約90メートルも離れていたという物理的な理由だけではなく、主がいるとは考えてもいなかったため、その瞬間まで声のぬしがイエス様であることに気づけなかったからです。
しかし、それをヨハネがペテロに向かって言ったことには、問題提起が含まれていたように思われます。
ヨハネは最後の晩餐の時、主の胸に寄りかかってその思いを受け取ろうとしていた弟子であり、霊的なことと肉的なことの区別に関心を持っていました。「私(俺)は漁に行く」と口火を切ったペテロに影響を受け「私(俺)たちも一緒に行く」とほかの弟子たちが言ったように、どちらかといえば物静かなヨハネもペテロの強い言葉で心がざわざわすることが幾度となくあったのではないでしょうか。
ペテロの「私(俺)は、私(俺)が」に対しての、「主だ」――つまり、彼らの「主」は「俺」という肉的なままだという指摘だったのです。
人生の中では様々な問題が重ります。そうしたトラブルの大半は、「自分の人生の主人は自分だ」という自我から発生します。不完全な人間である自分の限界を認めずに、努力次第でどうにかできると突き進んでも、どうにもならない壁にぶち当たることになります。しかし、無駄な努力だったと思ったそのときに、驚くべき祝福を経験させてくださるのが、真の主人である神さまなのです。
大漁の網を引いて陸地に戻った弟子たちが見たものは、すでに炭火が起こされパンと魚が用意されている光景でした。そう、必要なすべてを与えてくださるのは創造主なる神さまです。しかし、何もしなくても良いということではありません。イエス様は「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。つまり、私たちの労苦として認めてくださるということなのです。
主とともに歩むとき、すべては備えられています。無駄な努力だったと思えるようなことになったとしても、その労苦は決して無駄ではなく、驚くべき祝福への布石なのです。
《今週のみことば》
そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す」
しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある」(旧約聖書 イザヤ49:3~4)
・・・私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(新約聖書 Ⅰコリント15:58)
もう5月の末ですか……何もしてないという印象しかありません。
まあ、サイトに関しては事実何もしてないんですが。
テレホンメッセージより
「個性」とは、他の人にない、その人だけが持っている人格、パーソナリティーです。現代人の多くがコマーシャルに踊らされて「右ならえ」の姿勢を取るようになってきていると言われます。
大勢の人が出かける所に出向き、話し相手を見つけ、同じような品物とスタイルをまねて、そこに安心を見出し、孤立感を癒そうとしています。人に合わせなければ不安を感じ、孤独に耐えられなくなっています。
あなたは、周囲の評判を気にし、周囲の動きを見てはイエスかノーを使い分けてしまいやすい人ですか。実は、このような態度は自分の発言に責任を持たず、同じ発言をある場所では肯定し、別の場所では否定するという不誠実なものです。
このような態度では、だれであっても自分の個性を発揮することはできません。そうなると、現代の風潮に呑み込まれ、長い者に巻かれるという安心感から、社会や人に妥協し、精彩を欠き、悪に染まるようになります。
この世の流れに逆らって生きることは、決して容易なことではありません。ですから、私たち一人一人は自分の良識、すなわち健全な判断力に基づいて、「いいえはいいえ」「ハイはハイ」と、自分の態度をはっきりさせる勇気が必要なのです。
このような姿勢を持つことによって、私たちは自分自身の存在の確かさを実感するようになるのです。だからといって、相手と争うことを奨励しているわけではありません。争うことはできる限り避けるのが賢明です。
そのためには、はじめから相手の立場や主張を否定するのではなく、相手の言い分を聞き、受け止めることが先決です。そして、それが良いものであれば、素直に受け入れ、そうでなけば、その理由を相手に伝えることです。
相手への思いやりと、健全な判断力を持って、「いいえはいいえ」「ハイはハイ」と、自分の生き方をはっきりさせることによって、あなたは天の神さまから与えられている個性を、すなわち自分自身を生かすことができるようになるのです。
『明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上において、入ってきた人たちに光が見えるようにします。(新約聖書 ルカ8:16)』
《今週のみことば》
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。(新約聖書 使徒1:4~5、14)
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(新約聖書 マタイ18:20)